9月6日(日)ズービン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・フィルハーモニーホール
【曲目】
1.シェーンベルク/室内交響曲第1番 Op.9 ~15人のソリストのための~
2.マーラー/交響曲第9番ニ長調
登場したメータと15人の団員による室内交響曲は、シェーンベルクが12音を確立する前の無調への道の途中にある、きっちりとした構成感のある音楽だが、メータはここから豊かで温かみのある抒情を引き出していた。この音楽は鋭角的でアグレッシブなアプローチもありだと思うが、そうではない柔らかな演奏。各ソリストが生き生きと、伸び伸びと演奏を楽しみ、良好なコミュニケーションを行っていた。そして、クライマックスへと向かうテンションの高まりと共に華やかな幕切れとなった。
さあそして9番!
訥々と語り始める冒頭で、まず第2ヴァイオリンの包み込むような温かな音色と歌に、もうジーンと来てしまった。メータの棒からは、シェーンベルクでもそうだったが、温かく親密なハートが伝わってくる。 弦楽器の深くて湿感のある温かな肌触り、定評のあるイスラエル・フィルの弦の特別な音と表情が、心の奥底まで染み渡ってきた。
演奏が進み、巨大な音楽が頭をもたげてくると、トゥッティがひとつの生き物のように大きく滑らかに呼吸して、大きな腕で包み込んでくるよう。ここでも弦楽器の存在感が大きく、奥行きと深い表情の起伏を与える。音がいくつもの渦巻きを作りながら、それらが大きな海流となって進んで行く様子は、攻撃的ではなく、あくまで柔らかくて大きく、聴き手の魂を引き込んで行く。第1楽章が終わったとき、それはもう別次元の高みに達していた。
この演奏について、各楽章をこんな風に細かく言葉にしてもやぼというもの。第2楽章は「中に空気を内包したような柔らかさと軽やかさ」、第3楽章は「終盤に向かって堰を切ったような畳み掛けのド迫力」とごく簡単に紹介するに留め、終楽章について、言葉では表せない感動を言葉にする努力をしてみたい。
この楽章は、今まで聴いたことがないほどの奇跡のような演奏だった。その推進役はやはり弦。穏やかな大海原で、水の層が幾重にも重なり、そこに光が当たることで生まれる世にも美しい深くて透明な色彩。これが場面によって波の重なり具合や光の当たり具合が変わり、豊かで多彩な音色が生まれる。管楽器が入っていないはずなのに、ホルンとかトロンボーンの音が聞こえてくることがあった。
これに本物の管楽器が加わって音楽が高まって行くと、演奏は神々しい光で溢れた。メータの指揮棒がまるで魔法使いのバトンのように、オケは変幻自在に滑らかに表情を変えて行く。強音から突然最弱音に納まるところなど、大きな波の頂点から、波の一番低いところに一気に落ち込んで行って優しく受け止められるような感覚を味わった。この波がいつしか波打ち際まで運ばれ、それまで旅してきた人生が、それぞれの形で砂浜に吸い込まれるように消えて行く。
バーンスタイン/イスラエル・フィルでこの曲を聴いたとき、終楽章からは人が死に行く厳粛な姿を感じて深い感動を味わったが、このメータ指揮の演奏でも、人の死を感じずにはいられなかった。バーンスタインのときのような深刻で厳粛な死というより、メータの演奏からは幸せな人生を送ってきた老人が、心の底まで満たされて人生の終わりを迎え、幸福感に満たされ、穏やかで幸せな笑みを浮かべつつ空の彼方へ去っていくよう。まるで魂が、細い細い線香の煙の一筋となって、全く揺れることなく天まで静かに昇って行く様子を思わせる。あり得ないほどの最弱音の「呼吸」がわずかに続いているのを聴いていたら、そんなシーンが心に浮かび、涙がこぼれてしまった。これ以上書くことは何もない。メータとイスラエル・フィルに心から感謝したい。
バーンスタインの演奏会の感想を振り返るため、過去の記録を遡っていたら、実は1994年にメータ指揮イスラエル・フィルの演奏会を聴いていたことがわかった。マーラーの「巨人」をやったが全然覚えていなかった。けれど、今回のメータ/イスラエル・フィルの演奏は、バーンスタインの記憶と並んで一生深く記憶に刻まれるに違いない。またこの組み合わせを聴く機会があれば是非出かけたい。
ネルソンス指揮ボストン交響楽団(2015.9.5 ベルリン・フィルハーモニー)
ベルリン・フィルハーモニーホール
【曲目】
1.シェーンベルク/室内交響曲第1番 Op.9 ~15人のソリストのための~
2.マーラー/交響曲第9番ニ長調
過去にイスラエル・フィルを聴いたのは今からちょうど30年前、1985年のバーンスタインとの来日公演の1度だけのはず。これはいまだに忘れ得ぬ名演だったが、その時と同じ演目のマーラーの9番を、このオーケストラと長く親密な関係を築いてきたズービン・メータの指揮で聴く機会に恵まれた。 メータと言えば、東日本大震災の直後に来日してN響を指揮したベートーヴェンの第9の感動的な特別演奏会が記憶に新しいが、今回はマーラーの9番で言葉にできないほどの感銘を受けた。まずはその前に演奏されたシェーンベルクについても触れておきたい。 メータと団員が登場する直前に、ステージ上で「メータ氏は膝の手術を行ったため、座って指揮をとりますこと、ご了承ください。この方が良い演奏にもなるでしょう。」とのアナウンスが入った。 |
さあそして9番!
訥々と語り始める冒頭で、まず第2ヴァイオリンの包み込むような温かな音色と歌に、もうジーンと来てしまった。メータの棒からは、シェーンベルクでもそうだったが、温かく親密なハートが伝わってくる。 弦楽器の深くて湿感のある温かな肌触り、定評のあるイスラエル・フィルの弦の特別な音と表情が、心の奥底まで染み渡ってきた。
演奏が進み、巨大な音楽が頭をもたげてくると、トゥッティがひとつの生き物のように大きく滑らかに呼吸して、大きな腕で包み込んでくるよう。ここでも弦楽器の存在感が大きく、奥行きと深い表情の起伏を与える。音がいくつもの渦巻きを作りながら、それらが大きな海流となって進んで行く様子は、攻撃的ではなく、あくまで柔らかくて大きく、聴き手の魂を引き込んで行く。第1楽章が終わったとき、それはもう別次元の高みに達していた。
この演奏について、各楽章をこんな風に細かく言葉にしてもやぼというもの。第2楽章は「中に空気を内包したような柔らかさと軽やかさ」、第3楽章は「終盤に向かって堰を切ったような畳み掛けのド迫力」とごく簡単に紹介するに留め、終楽章について、言葉では表せない感動を言葉にする努力をしてみたい。
この楽章は、今まで聴いたことがないほどの奇跡のような演奏だった。その推進役はやはり弦。穏やかな大海原で、水の層が幾重にも重なり、そこに光が当たることで生まれる世にも美しい深くて透明な色彩。これが場面によって波の重なり具合や光の当たり具合が変わり、豊かで多彩な音色が生まれる。管楽器が入っていないはずなのに、ホルンとかトロンボーンの音が聞こえてくることがあった。
これに本物の管楽器が加わって音楽が高まって行くと、演奏は神々しい光で溢れた。メータの指揮棒がまるで魔法使いのバトンのように、オケは変幻自在に滑らかに表情を変えて行く。強音から突然最弱音に納まるところなど、大きな波の頂点から、波の一番低いところに一気に落ち込んで行って優しく受け止められるような感覚を味わった。この波がいつしか波打ち際まで運ばれ、それまで旅してきた人生が、それぞれの形で砂浜に吸い込まれるように消えて行く。
バーンスタイン/イスラエル・フィルでこの曲を聴いたとき、終楽章からは人が死に行く厳粛な姿を感じて深い感動を味わったが、このメータ指揮の演奏でも、人の死を感じずにはいられなかった。バーンスタインのときのような深刻で厳粛な死というより、メータの演奏からは幸せな人生を送ってきた老人が、心の底まで満たされて人生の終わりを迎え、幸福感に満たされ、穏やかで幸せな笑みを浮かべつつ空の彼方へ去っていくよう。まるで魂が、細い細い線香の煙の一筋となって、全く揺れることなく天まで静かに昇って行く様子を思わせる。あり得ないほどの最弱音の「呼吸」がわずかに続いているのを聴いていたら、そんなシーンが心に浮かび、涙がこぼれてしまった。これ以上書くことは何もない。メータとイスラエル・フィルに心から感謝したい。
バーンスタインの演奏会の感想を振り返るため、過去の記録を遡っていたら、実は1994年にメータ指揮イスラエル・フィルの演奏会を聴いていたことがわかった。マーラーの「巨人」をやったが全然覚えていなかった。けれど、今回のメータ/イスラエル・フィルの演奏は、バーンスタインの記憶と並んで一生深く記憶に刻まれるに違いない。またこの組み合わせを聴く機会があれば是非出かけたい。
ネルソンス指揮ボストン交響楽団(2015.9.5 ベルリン・フィルハーモニー)