6月12日(金)ジャンルカ・カシオーリ(Pf)
紀尾井ホール
【曲目】
1. モーツァルト/ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
2.コッラ/夜想曲 第7番 《MOSARC》(日本初演)
3.リゲティ/練習曲 第1集~第2番「開放弦」第4番「ファンファーレ」
4.モッソ/ピアノ・フォルテのための《Secondo Quaderno》
5.ドビュッシー/12の練習曲~第1、6番
6.ショパン/練習曲 変ト長調「黒鍵」Op.10-5、変ホ短調Op.10-6、変イ長調「エオリアン・ハープ」Op.25-1、へ短調Op.25-2、ハ短調Op.25-12
7.リスト/巡礼の年 第2年「イタリア」~ペトラルカのソネット 第104番
8.ショパン/スケルツォ 第2番 変ロ短調Op.31
【アンコール】
1. ドビュッシー/前奏曲第1巻~雪の上の足跡
2. ドビュッシー/前奏曲第1巻~アナカプリの丘
先月、庄司紗矢香とのデュオで聴いたカシオーリの、今夜はソロリサイタル。現代曲をちりばめた多彩なプログラムを引っ提げ、カシオーリの個性がどんな風に全開するか楽しみだったが、想像していたのとは大きく違う方向に個性が発揮されて少々面食らってしまった。
サプライズが最も大きかったのは冒頭のモーツァルト。ゆっくりしたテンポにペダルを多用し、たっぷりと情感を注ぎ込む演奏は、ロマン派の作品よりも更にロマンチック。ホテルのラウンジでカクテルのグラスを傾けながら聴くムードミュージックの様相を呈していたなんて言ったら言い過ぎだろうか。「いやいや、弾いてるのはカシオーリ、このままじゃあ済まない。何かやってくれるはず」と聴いていたが、音楽の流れとは関係ないように思えるテンポの変化や、意外な音を強調して聞かせるといった変則技はあったものの、結局最後までロマンチックなスタイルで通してしまった。庄司とのデュオで何度も聴いたカシオーリの演奏からは、緻密でストイックなものさえ感じていただけに、こういうロマンチックなモーツァルトはとても意外だった。
カシオーリが実はロマンチックな表現を追求するピアニストだと確信したのはショパン。エチュードもスケルツォも聴き馴れた演奏とは全く異なる、という意味では型破りなのかも知れない。高音域をきらびやかに動き回る右手のパッセージはあくまでも装飾としての扱いで、その奥でゆっくりと歌う根幹のパッセージを切々と聴かせてくる。聴き慣れている演奏では、鋭いアクセントや強音を響かせるパッセージも控え目でデリケート。スタインウェイを使用していたが、ショパンが愛用したピアノということで最近注目度が上がっているプレイエルなんかで弾いたほうがいいのでは、と思うくらいにデリケートな表情に重きを置いた演奏なのかも知れないが、それにしても不自然さが気になってしまった。
その点、ドビュッシーや現代の作品は、カシオーリの鋭く多彩な感性が生きたクオリティーの高さを感じた。とりわけリゲティのエチュードでは、短い音楽のなかに大きな摂理で司られた宇宙を見た思いがした。そして細部の表情には淡く柔らかな色付けが施され、ここでもカシオーリのロマンティシズムが顔をのぞかせていた。コッラとモッソの曲はリゲティよりも更に新しい時代に書かれているが、むしろリゲティよりもロマンチックで、カシオーリの嗜好が反映された選曲になっていたように思う。
帰宅してから、カシオーリ15歳のときのデビューアルバムを久々に聴いてみた。今夜演奏されたリゲティの2つのエチュードが入っていて、今夜の演奏と変わらぬ緻密さとデリケートさを具えて光沢を放っていたが、同じアルバムに入っているベートーヴェンの演奏には、今夜聴いたモーツァルトの演奏との共通点を見出すのは難しい。カシオーリの演奏の幅が広がり、多彩さを増した証拠でもあるが、この変化はまだ発展途上にあるのでは、という気もした。
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紀尾井ホール
【曲目】
1. モーツァルト/ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
2.コッラ/夜想曲 第7番 《MOSARC》(日本初演)
3.リゲティ/練習曲 第1集~第2番「開放弦」第4番「ファンファーレ」
4.モッソ/ピアノ・フォルテのための《Secondo Quaderno》
5.ドビュッシー/12の練習曲~第1、6番
6.ショパン/練習曲 変ト長調「黒鍵」Op.10-5、変ホ短調Op.10-6、変イ長調「エオリアン・ハープ」Op.25-1、へ短調Op.25-2、ハ短調Op.25-12
7.リスト/巡礼の年 第2年「イタリア」~ペトラルカのソネット 第104番
8.ショパン/スケルツォ 第2番 変ロ短調Op.31
【アンコール】
1. ドビュッシー/前奏曲第1巻~雪の上の足跡
2. ドビュッシー/前奏曲第1巻~アナカプリの丘
先月、庄司紗矢香とのデュオで聴いたカシオーリの、今夜はソロリサイタル。現代曲をちりばめた多彩なプログラムを引っ提げ、カシオーリの個性がどんな風に全開するか楽しみだったが、想像していたのとは大きく違う方向に個性が発揮されて少々面食らってしまった。
サプライズが最も大きかったのは冒頭のモーツァルト。ゆっくりしたテンポにペダルを多用し、たっぷりと情感を注ぎ込む演奏は、ロマン派の作品よりも更にロマンチック。ホテルのラウンジでカクテルのグラスを傾けながら聴くムードミュージックの様相を呈していたなんて言ったら言い過ぎだろうか。「いやいや、弾いてるのはカシオーリ、このままじゃあ済まない。何かやってくれるはず」と聴いていたが、音楽の流れとは関係ないように思えるテンポの変化や、意外な音を強調して聞かせるといった変則技はあったものの、結局最後までロマンチックなスタイルで通してしまった。庄司とのデュオで何度も聴いたカシオーリの演奏からは、緻密でストイックなものさえ感じていただけに、こういうロマンチックなモーツァルトはとても意外だった。
カシオーリが実はロマンチックな表現を追求するピアニストだと確信したのはショパン。エチュードもスケルツォも聴き馴れた演奏とは全く異なる、という意味では型破りなのかも知れない。高音域をきらびやかに動き回る右手のパッセージはあくまでも装飾としての扱いで、その奥でゆっくりと歌う根幹のパッセージを切々と聴かせてくる。聴き慣れている演奏では、鋭いアクセントや強音を響かせるパッセージも控え目でデリケート。スタインウェイを使用していたが、ショパンが愛用したピアノということで最近注目度が上がっているプレイエルなんかで弾いたほうがいいのでは、と思うくらいにデリケートな表情に重きを置いた演奏なのかも知れないが、それにしても不自然さが気になってしまった。
その点、ドビュッシーや現代の作品は、カシオーリの鋭く多彩な感性が生きたクオリティーの高さを感じた。とりわけリゲティのエチュードでは、短い音楽のなかに大きな摂理で司られた宇宙を見た思いがした。そして細部の表情には淡く柔らかな色付けが施され、ここでもカシオーリのロマンティシズムが顔をのぞかせていた。コッラとモッソの曲はリゲティよりも更に新しい時代に書かれているが、むしろリゲティよりもロマンチックで、カシオーリの嗜好が反映された選曲になっていたように思う。
帰宅してから、カシオーリ15歳のときのデビューアルバムを久々に聴いてみた。今夜演奏されたリゲティの2つのエチュードが入っていて、今夜の演奏と変わらぬ緻密さとデリケートさを具えて光沢を放っていたが、同じアルバムに入っているベートーヴェンの演奏には、今夜聴いたモーツァルトの演奏との共通点を見出すのは難しい。カシオーリの演奏の幅が広がり、多彩さを増した証拠でもあるが、この変化はまだ発展途上にあるのでは、という気もした。
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