3月10日(月)アンドラーシュ・シフ(Pf)
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
1. シューマン/蝶々op.2
2.ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番ニ短調op.31-2「テンペスト」
3.シューマン/幻想曲ハ長調op.17
4.ベートーヴェン/ピアノソナタ第21番ハ長調op.53「ワルトシュタイン」
【アンコール】
1.バッハ/フランス組曲第5番 BWV816
2. シューベルト/ハンガリーのメロディ ロ短調D.817
3.バッハ/イタリア協奏曲 BWV971
4. シューマン/アラベスク
シフの来日は9年振りということで、記録を見たら前回僕がシフを聴いたのは1997年11月、随分たったものだ…
あの時のシューベルトは、シューベルトの奥深い世界へと連れて行かれたことを覚えているが、今夜はベートーヴェンとシューマンというプログラム。個人的にはとても毛色の異なるこの二人の作曲家の作品をシフがどう弾き分けるかというのも興味深い。
まずはシューマン。第一声を聴いて、これはベーゼンドルファーのピアノの特色もあるのだろうか、シフはウィーンのピアニストというわけではないが、ウィーンのホイリゲ(ちょっと郊外の居酒屋)を思わせる音が響いてきた。ちょっと訛りがあるようなノスタルジックな音色と節回し。
けれど聴き進むうちにシフの弾くシューマンは、こぼれるような情感に溢れ、少々病んだところのあるいわゆる「シューマンらしい」演奏ではなく、また、哀愁を誘うタイプでもなく、どちらかといえば骨太で、声部やコントラストを明快に弾き分ける演奏だということに気づいた。しかし、ただ明快な演奏ではなく、熟練した職人の味というか、心に刻むような訴えかけがある。
これは続くベートーヴェンの後に置かれたやはりシューマンの幻想曲でも同じ印象を強く持った。例えば第3楽章、あのロマンチックな旋律やハーモニーをセンチメンタルに描くのではなく、ひとつひとつのメロディー、そしてそれを構成するひとつひとつの音のモザイク模様が見えてくるような、リアルな演奏と言ったらいいのだろうか。こうした演奏は、シューマンらしくないと言えばらしくないのだが、そのリアルさに不思議と引き込まれ、聴衆を呑み込むほどの静かなパワーをもたらす。曲が終わった後のあの長い静寂はそんなパワーの証である気がした。
そんな2曲のシューマンの間に置かれたベートーヴェンの2つの傑作ソナタへのシフのアプローチは、基本的にはシューマンと多くの点で共通しているように感じた。そして、それがベートーヴェンではより効果的だった。
シフは気持ちの向くままに音楽を流れに委ねることはせず、1つ1つの音を突き詰める。1つの音が他の音にどんな機能を果たしているか、1つの声部が他とどのように関わりあっているか、ということは一流の音楽家なら誰しもしっかりと認識して演奏するだろうが、そのこだわり方がハンパじゃない。1つ1つの音を丹念に磨き上げ、それを綿密に組み上げていく匠の技を見ているようで、そうした作業で出来上がったものは、命を吹き込まれた芸術品、というより生き物のようだ。
例えばテンペストの第3楽章。風を切って駆け抜ける駿馬をイメージするような演奏もあるだろうが、シフの演奏は、騎士が熟達した巧みな手綱さばきで馬を操る乗馬競技を見ているよう。筋肉の動きが伝わってくるのと同時に、馬の一歩一歩がしっかりと地面に足跡を残す。
シフの表現するベートーヴェンは、自然な呼吸や流れよりも「この音はこう鳴らなければならない!」という強烈な何かの意思に導かれているようで、その意思の発信者はベートーヴェン自身であるかのような核心に迫ったすごい演奏で、身震いするほど深く心に刻まれた。
そしてこの日の更なるビッグイベントは、予定されていたプログラムが終わったあとにもう一つの「リサイタル」があったこと。アンコールでバッハのフランス組曲やイタリア協奏曲をなんと全曲弾いてしまうという事実だけでなく、そこでベートーヴェンやシューマンとはまた違った世界へ導いてくれたこと。
フランス組曲ではそれぞれの曲のリピートも行い、右手で施す実に雅びやかな装飾や、生気溢れる「踊り」に心酔。チェンバロの響きを想わせるようなデリケートな音色や手触り、優美な節回しはベートーヴェンとはまた違った魅力に溢れ、この至福の時間がいつまでも続いて欲しいと思わずにはいられない。それにシューベルトで聴かせてくれた胸が苦しくなるほどの孤独と哀愁の世界… シフに真の芸術家の姿を見て、最後は会場のスタンディングオベーションに加わった。
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
1. シューマン/蝶々op.2
2.ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番ニ短調op.31-2「テンペスト」
3.シューマン/幻想曲ハ長調op.17
4.ベートーヴェン/ピアノソナタ第21番ハ長調op.53「ワルトシュタイン」
【アンコール】
1.バッハ/フランス組曲第5番 BWV816
2. シューベルト/ハンガリーのメロディ ロ短調D.817
3.バッハ/イタリア協奏曲 BWV971
4. シューマン/アラベスク
シフの来日は9年振りということで、記録を見たら前回僕がシフを聴いたのは1997年11月、随分たったものだ…
あの時のシューベルトは、シューベルトの奥深い世界へと連れて行かれたことを覚えているが、今夜はベートーヴェンとシューマンというプログラム。個人的にはとても毛色の異なるこの二人の作曲家の作品をシフがどう弾き分けるかというのも興味深い。
まずはシューマン。第一声を聴いて、これはベーゼンドルファーのピアノの特色もあるのだろうか、シフはウィーンのピアニストというわけではないが、ウィーンのホイリゲ(ちょっと郊外の居酒屋)を思わせる音が響いてきた。ちょっと訛りがあるようなノスタルジックな音色と節回し。
けれど聴き進むうちにシフの弾くシューマンは、こぼれるような情感に溢れ、少々病んだところのあるいわゆる「シューマンらしい」演奏ではなく、また、哀愁を誘うタイプでもなく、どちらかといえば骨太で、声部やコントラストを明快に弾き分ける演奏だということに気づいた。しかし、ただ明快な演奏ではなく、熟練した職人の味というか、心に刻むような訴えかけがある。
これは続くベートーヴェンの後に置かれたやはりシューマンの幻想曲でも同じ印象を強く持った。例えば第3楽章、あのロマンチックな旋律やハーモニーをセンチメンタルに描くのではなく、ひとつひとつのメロディー、そしてそれを構成するひとつひとつの音のモザイク模様が見えてくるような、リアルな演奏と言ったらいいのだろうか。こうした演奏は、シューマンらしくないと言えばらしくないのだが、そのリアルさに不思議と引き込まれ、聴衆を呑み込むほどの静かなパワーをもたらす。曲が終わった後のあの長い静寂はそんなパワーの証である気がした。
そんな2曲のシューマンの間に置かれたベートーヴェンの2つの傑作ソナタへのシフのアプローチは、基本的にはシューマンと多くの点で共通しているように感じた。そして、それがベートーヴェンではより効果的だった。
シフは気持ちの向くままに音楽を流れに委ねることはせず、1つ1つの音を突き詰める。1つの音が他の音にどんな機能を果たしているか、1つの声部が他とどのように関わりあっているか、ということは一流の音楽家なら誰しもしっかりと認識して演奏するだろうが、そのこだわり方がハンパじゃない。1つ1つの音を丹念に磨き上げ、それを綿密に組み上げていく匠の技を見ているようで、そうした作業で出来上がったものは、命を吹き込まれた芸術品、というより生き物のようだ。
例えばテンペストの第3楽章。風を切って駆け抜ける駿馬をイメージするような演奏もあるだろうが、シフの演奏は、騎士が熟達した巧みな手綱さばきで馬を操る乗馬競技を見ているよう。筋肉の動きが伝わってくるのと同時に、馬の一歩一歩がしっかりと地面に足跡を残す。
シフの表現するベートーヴェンは、自然な呼吸や流れよりも「この音はこう鳴らなければならない!」という強烈な何かの意思に導かれているようで、その意思の発信者はベートーヴェン自身であるかのような核心に迫ったすごい演奏で、身震いするほど深く心に刻まれた。
そしてこの日の更なるビッグイベントは、予定されていたプログラムが終わったあとにもう一つの「リサイタル」があったこと。アンコールでバッハのフランス組曲やイタリア協奏曲をなんと全曲弾いてしまうという事実だけでなく、そこでベートーヴェンやシューマンとはまた違った世界へ導いてくれたこと。
フランス組曲ではそれぞれの曲のリピートも行い、右手で施す実に雅びやかな装飾や、生気溢れる「踊り」に心酔。チェンバロの響きを想わせるようなデリケートな音色や手触り、優美な節回しはベートーヴェンとはまた違った魅力に溢れ、この至福の時間がいつまでも続いて欲しいと思わずにはいられない。それにシューベルトで聴かせてくれた胸が苦しくなるほどの孤独と哀愁の世界… シフに真の芸術家の姿を見て、最後は会場のスタンディングオベーションに加わった。