ぼやいていくことの始まりは、私の中にある大量の思念がそう願ったからではなく、いたって消極的にやっていくことの流れでございます。正直、今できることといえばこれくらいなものにしか思えず、源氏物語もシェイクスピアも、私の脳裏にうまく焼き付いてくれるものではありません。せっかく本を買ったのに、あえなく断念してしまうのは悔しい限りですが、どうも最近は読書にも身が入らない。これは昨日の飲み過ぎたことによる二日酔いが完全に影響しているのでしょうが。
連続でブログを書くのはちょっとした計算外で、やることもない寝ぼけた頭でとりあえず書こうとふらふら考えて、さあ何を書けばいいのやらと思うわけですが、この難読な文章に託けて自分語りでもしようかと思っています。
この私、関西で生まれ、流れ流れて20代も後半を終えようとしている、危ういような、令和の時代がまだまだいけると安心させてくれるような、そんな年齢の人間です。最近大阪に引っ越して、日頃梅田や天王寺に赴いて、何をするでもなくふらついているのが性に合っている、それは私が中学生くらいの頃から身につけた暇つぶしに過ぎないのですが、その習性が大人になった今でも抜けきらないのでございます。こんな感じで、一人でいることがとにかく安心であり、同時に孤独の不安もある。孤独と安心は常に同居しているのが摂理のようでして、そうなればこの二つの感情は相反するものではなく、互いに打ち消しあうこともない許し合えるもの同士のようです。でもぼっちの方ならなんとなくでもわかってくれやしないかと願っています。それで私は誰と仲良くしている時でも一人を願う時があり、そして一人になれば孤独を憂い、そして誰かと時間をともにすれば心は満たされていくとともに一人の開放感をどこかしら求めていたりするのでした。
いってしまえばないものねだりの極限地、それも理解してか最近ではそんなに一人を求めることはくなってきました。高校から大学生の頃なんかは顕著にひどかったです。教師も親も大嫌い、大人という生き物が半端なく醜くうざったらしい、ずる賢い類人猿にしか見ていなかったのです。ほんのわずかな一部の大人だけを、なんとなく無意識に大人として見ているくらいでした。流石に成人全てを嫌いと見ることは難しいので、その分別は自分なりにしていたようです。というのも、人を憎しむには相当のエネルギーが必要ではありますから、いくら反抗期でも愛情くらいは感じていたい、それを許せる人には与えておかないと自分が潰されてしまうわけです。愛情もまたエネルギーを要するものですが、それは自分を擦り切れさせるような、戦いのエネルギー消費とは違います。しかしまあ、私がそんな意識を顕在させていたわけもなく、とりあえず気を許せる相手にはそうしていたというわけなのですが、さあ一体、私が無意識にも気を許していた相手はどんな人だったのでしょうか。それは高校の頃の現代文の先生だったり、親戚の叔父夫婦だったり、その時その時でなんかあの人とかいたなーってぼんやり浮かんでくるわけです。
優しい人たち、私にとっては惨めで暗いことの塊だった青年時代を後押ししてくれたことが、優しさを感じさせてくれたのでございます。エピソードトークの苦手な私ですので、いまいち説明のならないのは少し勘弁してほしいかもしれません。面倒臭いとかそういうのではなく、ただ単純にこんな具合でし書けない睡眠不足の続く日々なのです。
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