人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

【ニート後遺症とは何か】

2015年12月29日 | 闘病記
【ニート後遺症とは何か】

そもそも「ニート」とは何か。
無職無業を指す。ということではなくて。
「ニート」とは、現実との直面から逃げた者をいう。社会へ出ること、若い頃からの壮大な夢をあきらめること、思春期特有の万能感を捨てること。それらができなかった者。また同時に、生きていく上で必要な生活の現実、生活費・税金・年金・貯金。結婚。家庭。それらと直面しようとしない者をいう。その結果が、無職無業。いやまだここで無職無業をいうのは早い。もうひと段落、ある。
そういう現実との直面から逃げるだけではなく、自分の心地よいポイントで時間を止めてしまったのが「ニート」だ。たとえば俺の場合、大学時代。そのポイントで時間を止めてしまった。本を読みあさり好きなようにレポートを書きなぐり。時間を見つけては絵を描いたりギターをいじったり。漫画や映画に没頭したり。人によってはそれが高校であったり中学であったりするのだろう。そうやって時間を止めてしまい、動かなくなる。自分はいつまでも23歳のまま。「大学を出れば無限の人生が広がっている・何でもできる」のだから今はその日までの「モラトリアム」。その意識のまま、十数年を過ごした。大学を出た後の数年はアルバイトをして海外にも出かけた。それは社会と足並みをそろえたのではなく大学時代にやり残した事を埋めたにすぎなかった。
そうやって、多くの同期が時間を進めている中、一人で時間を止めその中に埋もれていく。
通常ならここで、人と足並みをそろえなくてはと恐れおののく。けれども「自分は、やればできる」という幼い万能感に取りつかれ「自分は人とは違う人生を送る」と曖昧な目標を掲げて、働かないまま誰かにすがって生活するメンタルを作り上げてしまう。
精神面での成長がうまくいかなかった、ということでもある。小学校、中学校、高校、大学。人により多少は変わるけれど日本では多くこういう流れで人間を形成していく。「変わり者」扱いされるのが少し嬉しい時期がある。「人とは違う」が誇らしい時期がある。修学旅行につばを吐いたり文化祭や体育祭をバカにしたり。その時期は本来一過性で、多くの人がすっと団体の中に戻り、そこで「みんなで楽しむ」経験を積む。それができないまま、「変わり者」という段ボールに書きなぐった勲章を誇らしげに胸につけたまま、年齢だけ重ねてしまったのが「ニート予備軍」。自分は特別だという根拠ない意識は、自己愛ばかりを増大化させ、その自己愛・万能感が打ち砕かれそうな「現実」との直面から逃げてしまう。
そして、無職無業へ。

だから、信じられないかもしれないけれど、たとえば俺などは、現時点でさえ意外と人とのコミュニケーションは取れる方だったりする。

検体が俺だけなので、これを「論」とするわけにはいかない。「ニート」になった人にはそれぞれの理由がある。
ゆえにこれは俺を検体としたレポートでありただの闘病記。そう捉えて欲しい。

父が亡くなった。

2015年12月29日 | 闘病記
父が亡くなった。


母と二人と猫二匹、家で暮らした。母の稼ぎと自分の貯金でそれなりに自由な暮らしをした。当然、貯金は簡単に消し飛ぶ。母が退職した後は年金生活に入る。それにも寄生した。母は、この子はいつか何かをするだろうと見守ってくれた。それに甘えた。
弟が結婚し子どもを二人作る。孫たちへの想いから母の財布が大きく緩み、後に気付けば貯蓄が二桁になっていたと聞かされた。2013年から遠い土地に住む縁者、また身近な縁者が立て続けに亡くなり大きな出費が連続した。ガス給湯器が壊れ洗濯機が壊れ自動車が壊れプリンタが壊れ電子レンジが壊れ、ついに母のカードが使用停止となった。その月から税金と光熱費・通信費に追われることになる。新聞代の請求がくる。ガス代が引き落とされないのでガスを止めるという電話がくる。水道管も破裂した。応急処置はしてもらったけれど支払うことができないまま工事は中断。放置してしまっている。電子レンジも買わずに、買えずに、冷たいご飯を喰うようになった。

2015年、繰り返すが、母のカードが臨界を越えることを知りようやく職を探し始めた。それ以前も探してはいたのだけど危機感がなかった。
危機感がなかったのではなく、現実感がなかった。

とりとめもなく、現状への道筋をメモした。
更に少し、続く。

二社ほどの面接に落ち、いよいよの困窮を目前にして、母と話し合っていた方向とは違う形で、とにかく収入を!との思いで四時間の品出しアルバイトに応募し、雇用してもらう。母と話し合っていた方向とは、「収入が少ない・何年働いても技術的に得るものがなく、経歴的にも次に繋がらないアルバイトはやめよう。もし何かの都合で離職し、再び職を探すことになった時、履歴書に書いて多少でもプラスになる職場を探そう」というもの。例えば、スーパーに品出しがそれに該当するよねと話し合っていた。けれども、困窮と目の前で求人の張り紙をみた勢いで、応募し採用された。
ここでとりあえず、ニート生活が終了することになる。

この時点ではまだ現実感がなく、頭が悪いことに「新しいデジカメ買えるかも」と冗談をいいながら電気屋をぶらぶらしたりもした。ところが。

働き始めた初日。帰り路。足が震えた。翌日。職場に向かう道。泣いてしまった。
ニートではなくなった。けれどもそこから、ニートの後遺症に悩まされることになった。

整理もつかない、長い前置きはこれでお終い。

【ニート後遺症とは何か】

【十数年、ニートだった】

2015年12月29日 | 闘病記
【十数年、ニートだった】

これは、闘病記だけれど、未完。いつ闘病生活が終わるのか、分からない。恢復はないのかもしれない。そう思うこと自体が病なのかもしれない。これ自体、もしかしたら病ではないのかもしれない。

俺は、十数年、ニートだった。無職無業。今年、2015年、アルバイトではあるけれど職に就いた。ずっと思っていた。やる気になれば社会復帰できると。震えが止まらないほど甘い考えだと気付かされた。現実と直面した。意気揚々と社会復帰するつもりだった俺は、嘔吐とめまいと腹痛を抱え、生まれてから四十年一度足りと持ち得なかった自殺願望を持った。現実は重く分厚く押し寄せてくる。俺はかろうじてニートではなくなった。ニートではなくなり高齢低所得者となった。そしてニート後遺症に悩まされるようになった。

いつの間にかニートになっていた。自覚はなかった。この日から「よしニートになろう」と決断してそうなるニートは、多分少数。
大学を出てビデオレンタル屋でアルバイトをした。辞めてからホテルスタッフをした。ホテル閉館と共に無職となった。気付くと毎週愛読していた求人情報誌を読まなくなった。
実家住まいだったから生活は両親に寄生した。
少々問題のある家庭で、若い頃から事あるごとにすぐに荒れる。父がビール瓶を投げたり弟が暴れたり。それをいさめるのが仕事と、自分を納得させていた。ニート化してからもそれを仕事として、だから食べさせてもらってもいいと納得した。インターネット上では、ニートを揶揄し又は自虐的に自称して「自宅警備員」と称する。全くもってその通りだった。
母に頼まれて地域ボランティアに参加した。事の他楽しくて、夢中になった。実は、20代最後の年、必死に就職活動をした時期があった。結果は全滅。それでもがんばらないととは思いつつ、ボランティア参加を理由に一時就職活動中断をしてしまった。その後に就いた職は二~三年程度のホテルスタッフだけとなる。
弟が家を出た。遠い地で真面目に生活を立て直した。立派だと思いながらそれをわが身に振り替えて考えることはなかった。

父が亡くなった。

【申し訳ありません】

2015年12月29日 | 闘病記
「ニート後遺症」闘病記。

【申し訳ありません】

最初に謝りたい。これ以降の文章は、多分、言い訳。泣きごと。甘え。ために読んでくれた人をおおいに不快にさせてしまう可能性がある。それでも書き連ねることが、俺には必要だった。どこかに何かを出すことが必要だった。