人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

家売って安アパートに入ったらそこがお墓になりますが、それは嫌です【ニート後遺症、闘病中】

2016年03月31日 | 脱ニート者の日常
親戚のオジに一人、どうしても相性が悪い人がおりまして。

昨年の今頃も彼の独善に振り回された結果、必死に管理してきた庭をメチャクチャにされたのですが今年もまた、やられました。この時期になると俺に何かダメージを与えるようになっているんでしょうか。

内容がちょっと複雑で色々とあるので、ことが収まったら報告がてらぶちまけたいです。

言っていることは正論なんです。
現在、父から相続した家に住んでいるのですが、そこに住み切れないなら売って他の場所でがんばりなさい、なんてことをいうわけです。もう古い家で修繕もままならない状態。その上、金銭的なものが必要な生活を送っているので、それをみればそう言いたいのもわかります。
けれど、母も俺も、なんとかその家を維持しようと頑張ってきたわけです。その家には父や弟、犬や猫たちとの思い出があります。立地的にも静かな良いところなので安楽に生活できます。部屋も数部屋。雨漏りもしてますし外壁もボロくなってきましたが、まだまだ暮らせます。というか、ここを売った場合ですね、当然ながらもう戸建の家に住むなんてことは一生できません。彼は全部うれば五千万以上は固いと言ったのですが、一千万強程度です。
彼の主張は、市営住宅に入りなさい。安いから。
市営住宅を馬鹿にするつもりはないです。ないですが、もう80になろうとする母と二人でそこに移った先に何があるの?という話なんです。

母ともその話、しないこともなかったんです。家を売る話。でもやっぱりね、そこをどうにか維持しようという気持ちで頑張っているので、ヨソに移ったら精神的に参ってしまうという結論になりました。今以上の場所に移れることは絶対にないじゃないですか。どんなに頑張っても安アパート暮らししかできないですもん。母の老後、余生をそういうところに押しこんで暮らせと言うんですよ、彼は。それを主張しても分かってくれない。
古い家から新築のいい家に移り住んだ途端、認知症になったという人の話を多く聞きます。思い出の品を眺めたりいじったりする回想法という認知症防止対策まであります。認知症発症の条件がそろってしまいます。
本当に何か重大なことが起こった時に、最後の資産として持っておきたいという意向もあります。重大なことっていうのは大病ですね、まず。

現在、後がない状況です。
でも、まだ持つことのできるものがあります。売ったら何もなくなる。少しお金に余裕ができるじゃないか。その家を維持する為に頑張らなくてよくなるじゃないか。そう言いますが、そういう環境が俺たちにもたらす今以下の精神的な状態を一切考えてくれない。多分ね、家を売り払ってどこかの安アパートに入ったら、母、おかしくなります。だってもう、何もないですもん。少々の蓄えとただ生きているのみ。それになんの意味があります?そこからもう、二度と今レベルの場所には住めないし、今以上の生活には戻れないんですよ。安アパートの一室で、ボーっと死ぬのを待つ二人になります。先細りしかない生活の終点を、突きつけられることになるんです。

それも現実ではあります。
維持できないなら住めない。それは正解です。正論です。でもだからこそ維持するために頑張ろうと言う気持ちで精神を保っている。それを取りあげられたら、しまいもしまい。

以前、生活保護の話がありましたが、受けたくない大きな理由、一番の理由もこれです。資産処分。これはもうそのまま俺たちに、特に母に死ねと言っているようなものです。この年齢になってきて分かったことがあります。老いてアクティブに行動することが難しくなってくると、思い出こそがアクティブな行動の代替活動なんですね。写真をみたりモノをみたり。それはきっと、命そのものなんですよ。ある意味、ですが。そこにある自分の連続性を確認することで、アイデンティティを確立する。そういうことです。
それが取りあげられたら、どうなるか。
見たこともない、思い入れもない場所で、思い出すのはもうどこにも存在しなくなった思い出の場所。観に行くこともできない。まして、「売らざるを得なくなった」が根底にあれば、思い出したくもなくなる。でも、これから思い出を作ればいい、だってままならない。今と同じ生活が続くだけ。

母と俺二人で安アパートで、周囲の物音に身を潜めながら死ぬのを待つ。
そして、その状況からは二度と脱出できない。
おかしくなります。
こんなこと書いている時点で、耳鳴りが一層大きくなり、立てないくらい頭が左右に揺れ、喉元に突き上がる嘔吐感が連続します。

下がってはいけないラインってのがあるんです。なにがあっても。

そのオジがなぜそんなことを執拗に言ってくるのか。
なぜ今、からまないといけないのか。
付き合わないといけないのか。
いつかここで吐き出せたら、吐き出します。言ってしまえれば楽になれますが、まだ色々と早いので。解決してから。

どんなにそういうことを主張しても「でも売りなさい」の一点張り。市営住宅にしなさいと。安いからと。ウチが五千万以上になると思いこんで、別の土地で家を買えばいい…みたいなことから切り出したのですがね、そういう思い込みと独善だけで突っ走って、一度言い始めると融通がきかない。正論だけをふりかざす。その思い込みだって前述したように、視野が狭く情報量が少なく独自にどこかで調べたことを勝手にこちらに当てはめて、それ以外の正解はないという。
たとえばもう一つ、悪口ついでに昨年の庭の件でもこんな事実誤認がありました。庭の木を切れとしつこく毎日のように電話、訪問してきていたのですが、やんわり「業者に見積もり取ってから考えます」というとですね、笑って「いやこの程度の庭木で見積もりとる業者なんていないよ、そんなこといったら業者に笑われるよ」と。結局少しだけ切らされるハメになりまして業者と話し合うじゃないですか。当然、見積もり、取りますよね。無料で。取らないわけない。でもどう主張しても、その時も俺を常識ナシのように笑ったわけです。「見積もりなんて取る業者いない。何百万の仕事ならともかく」。それを言い続けました。見積もり取ったことを告げると「最近はそうなんだ」の一言で後はもう、触れない。この件についてはまだまだいろいろあって笑い話にならないオチが待っていたのですが、それは別件。

今、ひとつ解決しなくてはいけないことがその人との間にあって、うまく解決すれば非常に助かるんですよ、俺も母も。なのでどうしても「もうええわ!」とキレることもできない。やんわりやんわり自分の望む結末に誘導するしかない。ってね、俺、そんなことに必死になっている余裕ないんですよね。いい職に移らないと。

それにしても絡まざるを得ないたびに思います。
あの人に、人間の感情ってあるのだろうか。
想像力ってあるのだろうか。
二度と脱出できない安アパート生活に、年老いた母と高齢の息子一人が突入する。その救いのない状況を想像することできないんだろうか。

自分の生活や職の問題だけでも体調も心調もグズグズなのに、まだもう一つ盛ってくる。盛らないでくださいよ、もう。いい加減、抱えきれない。

という、悪口をいいました。

今は、母と笑って生活できています。昨日、バイトから帰ると母が庭先でつくしを摘んでいました。「小学生のころ、つくしのおひたし作ったねえ」といいながら摘んでいました。「よし、もやし分くらいは稼いだ」と笑いながら摘んでいました。

期日が怖くて期限が欲しい【ニート後遺症、闘病中】

2016年03月30日 | 脱ニート者の日常
ニート後遺症の代表症例「数字が怖い」

ニートとは時間を止めてしまったもの、ニート後遺症とは、ニートをやめた途端にその時間の流れに押し潰されて発症するさまざまな身体的・精神的症状。なので脱ニート者は、数字をみると心拍数が上がります。発汗もします。吐き気を催します。窒息しそうになります。耳鳴りもすればめまいもします。簡単にいうと、倒れそうになります。実際、倒れます。

数字をみると「時間」を思い出してしまうためです。

数字だけでもコレなのだから、カレンダーなんて見たらもう。それでもその直面から逃げたらまたニート。必死に直面しているわけです。

なんで数字がそんなに嫌かの詳細をもう少しだけ述べますと、「時間の進行」と直面してしまうからですね。これまで何もしてこなかった時間と。ちょっと先の期日をみても、そこまで行った時のことを考えてしまいます。1年後、どうなっているのか。考えたくない。ひと月後は、現状は少しでも動いているのか…このままだと先細りしていくだけだ、1週間後は…予定をいれなきゃ、面接とかの予定を、1日後は…求人募集みなきゃ、一つでも一つでも。たとえばこんな調子です。

期日を考えるのが非常につらく怖くしんどいです。

その一方で、期限がないことにも苦しみます。いつまでのこのバイトを続ければいいのか。この人生を続ければいいのか。学校なら卒業がありますが、バイトにも人生にも卒業はないです。このノリがまだ学生気分なんでしょう。その辺りを猛省しつつ、考えます。

多くの方にブチキレられそうですが、余命がわかるなら、と思うんですね。自殺願望に通じるものがあります。あと10年とかね、時間を切られたらちょっと安堵します。あなたの命はあと10年ですよと。10年耐えればいいんだと思ってしまいます。結局、死にたい!という、逃げたいという願望ですね。死にたいというのは少し違っていて、この物語を終わらせたい、という意識です。命を軽く考えるな!と怒られます。自分でもそう思います。ただ一つの実例として、元ニートはそういうラインにちょこんと立っているんです。

期限のない苦しい旅は、ただ、しんどいですよ。自分で期限を設定すればいいんでしょうけどね、何かしらの。じゃあなんの期限を?と考えると、これが難しい。生活自体が、バイトと求人探しだけですもん。バイトをあとひと月でやめる!と期限を切ったところで、1年近く探していてどうにもなっていないのに…で、宣言通りバイトやめたら比喩ではなく首括るしかなくなるしなあと。他に何も興味ないし、もし多少でも貯金でもできれば少しは気分も変わるんでしょうが、税金でさえ滞納滞納で全てを取りあげられそうなのに、ねぇ。

言いながら、死ぬ気はないです。
「数字」について考えた時、そういうメンタルがベースにありますよ、という話です。

高齢元ニートにバイトの後輩ができました【ニート後遺症、闘病中】

2016年03月29日 | 脱ニート者の日常
早くやめなきゃなあと思いながら数か月お世話になっている品出し業務。
ついに先日、後輩ができてしまいまして。

俺自身、トロ臭くて自分の業務だけで時間が不足するくらいの毎日で、店内のアレコレについてもその10%も把握していなかったりします。
が、後輩ができてしまったということは、店内に俺の業務をやっているのが俺だけということは俺が何とかしないといけないわけで。

ということで、元ニートの分際で仕事を教えてきました。

これがしっくりくるというか、楽しいというか、元々そういうことが好きだったんですよね。教育実習行った時も授業計画作ったり教壇に立ったりすることが苦にはならなかったですし。むしろ楽しかったです。他の実習生がふぅふぅ言っているのが不思議なくらいでした。諸先生方との付き合い等の方がしんどかったことも思い出されます。というかそれが一番つらかった…先生たちとわいわいするセンスが俺にはなくて。学生たちについては、俺的にはストレスはなかったですかね。こちらも他のみなさんとは違って、仲良くなるとかはなかったですけど。

偉そうにバイト先でレクチャーなどしているとふと思います。
学生時代にこういう経験を多くすることで自分の属性が明らかになっていくものなのだなあと。もし学生時代にこういう感覚を多く得ていたら、教員であったりそうでなくともそういう立場の道への選択肢を持つことができていたかもしれません。

学生時代に就職を考えた時、その職がどういう職なのかという文字面ばかりを追いかけていた気がします。自分が何をすると気持ちいいのか、相性がいいのかの選択肢が少なくて、その職に就いた時のイメージがまるで沸かない。ダメですね、それじゃ。学業が疎かにならない程度のバイトなら、ガツガツとやるべきでした。

今更、教える立場の職なんて就けるわけないですしね。教える、じゃなくても喋る、でもいいんですが、どっちにしてもどうにもならない分野です。何かしらキャリアがあればともかく、キレイに真っ白な履歴書じゃあ、ねぇ。

ともあれ。
数か月のバイト作業の中で「楽しい」を感じたのはこれが最初。バイト作業そのものではないですが、ホントに些少ながら初めてメンタル的に得るものがありました。

せめてこのバイト、昇給なり昇進なりあればいいんですけどね。

ニートは本人たちだけの問題ではない。高齢ニートの社会復帰を考えてくれ1

2016年03月29日 | 高齢ニートの社会復帰を考えてくれ
ニート・元ニートは本人たちだけの問題ではない。
なんてことはいよいよもって世間で指摘されるところです。本人たちの人生の問題ではあるのですが、社会からみれば労働力減少、やがて社会復帰に失敗すれば生活保護の対象となり市財政に負担をかける、それ以前に市県民税・年金未納で財政を圧迫する、精神的におかしなことになって凶行に及ぶことも考えられる。一分の隙もないくらい、まあ良い部分などない。
それらに対して色々な支援政策がありますが、そのほとんどが相談窓口設置。そして多くが四十歳以下のニート・ひきこもり支援。社会的に四十以上のモノを支援したところで体力的能力的に伸び代も少なく、あっという間に老いて使える期間も短いから、余り意味がないと踏んでいるのでしょうか。もう大人なのだから自己責任でちゃんと社会復帰しなさいよ、ということなのでしょうか。

そうであったとしたら、そこに大きな齟齬があります。

ニートとは、現実から離れて自分のお気に入りの時間で止まってしまった人です。止める時間は、多くが子どものころの楽しい時期、でしょう。高校時代かもしれないし大学時代、かもしれない。小学校の夏休みまで戻る人もいるかもしれない。働かなくてもいい、好きなことだけやっていられた最高の時期を永遠に繰り返そうとするのがニートなんですね。
勿論、そこに至るまでには、たとえば会社での人間関係や家庭環境の急変等で精神が疲弊するなど個々人に差はあるでしょうけど、根本的にはこれです。
だから、四十過ぎたニートはもう大人だから自己責任で、は正解でもありつつ実はかるくナンセンスな話で…中身はその、時間を止めた時のままですからね。
社会的なプロフィールとしては四十何歳。でもなんの経験もない。ただの子ども。俺をみてわかるように、なのに口ばかり達者。体力激減。就ける仕事も激減。収入皆無。それが高齢ニート。
これを自己責任と切り捨てるとどうなるのか。
社会復帰して人並みの生活に戻れる…レアケース。もし本人が両親の老後を負うこともなく家族を養う義務もなければ、もしかしたら成功するかもしれません。この場合の社会復帰は正社員として雇用されて定年まで働ける環境をいいます。バイトにはなんの保証もないですから。

それ以外だと何とかバイトにありついて自分一人だけ喰っていけるだけの収入を得て、収入取って出しの生活の中、一人で年老いていき、やがてバイトが続けられなくなったら生活保護。年金はまず未納でしょうからもらえませんしね。老後のための貯金もできないです。基本的にそれだけの収入が得られるバイトには就けません。四十越えたニートは。(続く)

究極の怠け癖が「自殺願望」に繋がるんですよね。元ニートの自殺願望分析7

2016年03月27日 | 元ニートの自殺願望分析
自業自得から始まった自分の不徳をここまで恥ずかしげもなくよくもまあと自分で笑ってしまいます。偉そうになんだかんだ分析しても、ただもう怠けたいだけなんだから。究極の怠け癖が「自殺願望」に繋がるんですよね。

なんとかね、「自殺願望」だけはしのぎ切りたいんですよ。嘔吐感、熱感、はぐきの痛み、耳鳴り、めまい。倦怠感。色・音・味への感覚の鈍磨。表情の変化。娯楽への無関心。ニート後に出てきた体・こころの変調、たくさんありますけど、死んだらしまいですからね。

そんな風に考えながらおびえながら、日々を過ごしています。(続く)