親戚のオジに一人、どうしても相性が悪い人がおりまして。
昨年の今頃も彼の独善に振り回された結果、必死に管理してきた庭をメチャクチャにされたのですが今年もまた、やられました。この時期になると俺に何かダメージを与えるようになっているんでしょうか。
内容がちょっと複雑で色々とあるので、ことが収まったら報告がてらぶちまけたいです。
言っていることは正論なんです。
現在、父から相続した家に住んでいるのですが、そこに住み切れないなら売って他の場所でがんばりなさい、なんてことをいうわけです。もう古い家で修繕もままならない状態。その上、金銭的なものが必要な生活を送っているので、それをみればそう言いたいのもわかります。
けれど、母も俺も、なんとかその家を維持しようと頑張ってきたわけです。その家には父や弟、犬や猫たちとの思い出があります。立地的にも静かな良いところなので安楽に生活できます。部屋も数部屋。雨漏りもしてますし外壁もボロくなってきましたが、まだまだ暮らせます。というか、ここを売った場合ですね、当然ながらもう戸建の家に住むなんてことは一生できません。彼は全部うれば五千万以上は固いと言ったのですが、一千万強程度です。
彼の主張は、市営住宅に入りなさい。安いから。
市営住宅を馬鹿にするつもりはないです。ないですが、もう80になろうとする母と二人でそこに移った先に何があるの?という話なんです。
母ともその話、しないこともなかったんです。家を売る話。でもやっぱりね、そこをどうにか維持しようという気持ちで頑張っているので、ヨソに移ったら精神的に参ってしまうという結論になりました。今以上の場所に移れることは絶対にないじゃないですか。どんなに頑張っても安アパート暮らししかできないですもん。母の老後、余生をそういうところに押しこんで暮らせと言うんですよ、彼は。それを主張しても分かってくれない。
古い家から新築のいい家に移り住んだ途端、認知症になったという人の話を多く聞きます。思い出の品を眺めたりいじったりする回想法という認知症防止対策まであります。認知症発症の条件がそろってしまいます。
本当に何か重大なことが起こった時に、最後の資産として持っておきたいという意向もあります。重大なことっていうのは大病ですね、まず。
現在、後がない状況です。
でも、まだ持つことのできるものがあります。売ったら何もなくなる。少しお金に余裕ができるじゃないか。その家を維持する為に頑張らなくてよくなるじゃないか。そう言いますが、そういう環境が俺たちにもたらす今以下の精神的な状態を一切考えてくれない。多分ね、家を売り払ってどこかの安アパートに入ったら、母、おかしくなります。だってもう、何もないですもん。少々の蓄えとただ生きているのみ。それになんの意味があります?そこからもう、二度と今レベルの場所には住めないし、今以上の生活には戻れないんですよ。安アパートの一室で、ボーっと死ぬのを待つ二人になります。先細りしかない生活の終点を、突きつけられることになるんです。
それも現実ではあります。
維持できないなら住めない。それは正解です。正論です。でもだからこそ維持するために頑張ろうと言う気持ちで精神を保っている。それを取りあげられたら、しまいもしまい。
以前、生活保護の話がありましたが、受けたくない大きな理由、一番の理由もこれです。資産処分。これはもうそのまま俺たちに、特に母に死ねと言っているようなものです。この年齢になってきて分かったことがあります。老いてアクティブに行動することが難しくなってくると、思い出こそがアクティブな行動の代替活動なんですね。写真をみたりモノをみたり。それはきっと、命そのものなんですよ。ある意味、ですが。そこにある自分の連続性を確認することで、アイデンティティを確立する。そういうことです。
それが取りあげられたら、どうなるか。
見たこともない、思い入れもない場所で、思い出すのはもうどこにも存在しなくなった思い出の場所。観に行くこともできない。まして、「売らざるを得なくなった」が根底にあれば、思い出したくもなくなる。でも、これから思い出を作ればいい、だってままならない。今と同じ生活が続くだけ。
母と俺二人で安アパートで、周囲の物音に身を潜めながら死ぬのを待つ。
そして、その状況からは二度と脱出できない。
おかしくなります。
こんなこと書いている時点で、耳鳴りが一層大きくなり、立てないくらい頭が左右に揺れ、喉元に突き上がる嘔吐感が連続します。
下がってはいけないラインってのがあるんです。なにがあっても。
そのオジがなぜそんなことを執拗に言ってくるのか。
なぜ今、からまないといけないのか。
付き合わないといけないのか。
いつかここで吐き出せたら、吐き出します。言ってしまえれば楽になれますが、まだ色々と早いので。解決してから。
どんなにそういうことを主張しても「でも売りなさい」の一点張り。市営住宅にしなさいと。安いからと。ウチが五千万以上になると思いこんで、別の土地で家を買えばいい…みたいなことから切り出したのですがね、そういう思い込みと独善だけで突っ走って、一度言い始めると融通がきかない。正論だけをふりかざす。その思い込みだって前述したように、視野が狭く情報量が少なく独自にどこかで調べたことを勝手にこちらに当てはめて、それ以外の正解はないという。
たとえばもう一つ、悪口ついでに昨年の庭の件でもこんな事実誤認がありました。庭の木を切れとしつこく毎日のように電話、訪問してきていたのですが、やんわり「業者に見積もり取ってから考えます」というとですね、笑って「いやこの程度の庭木で見積もりとる業者なんていないよ、そんなこといったら業者に笑われるよ」と。結局少しだけ切らされるハメになりまして業者と話し合うじゃないですか。当然、見積もり、取りますよね。無料で。取らないわけない。でもどう主張しても、その時も俺を常識ナシのように笑ったわけです。「見積もりなんて取る業者いない。何百万の仕事ならともかく」。それを言い続けました。見積もり取ったことを告げると「最近はそうなんだ」の一言で後はもう、触れない。この件についてはまだまだいろいろあって笑い話にならないオチが待っていたのですが、それは別件。
今、ひとつ解決しなくてはいけないことがその人との間にあって、うまく解決すれば非常に助かるんですよ、俺も母も。なのでどうしても「もうええわ!」とキレることもできない。やんわりやんわり自分の望む結末に誘導するしかない。ってね、俺、そんなことに必死になっている余裕ないんですよね。いい職に移らないと。
それにしても絡まざるを得ないたびに思います。
あの人に、人間の感情ってあるのだろうか。
想像力ってあるのだろうか。
二度と脱出できない安アパート生活に、年老いた母と高齢の息子一人が突入する。その救いのない状況を想像することできないんだろうか。
自分の生活や職の問題だけでも体調も心調もグズグズなのに、まだもう一つ盛ってくる。盛らないでくださいよ、もう。いい加減、抱えきれない。
という、悪口をいいました。
今は、母と笑って生活できています。昨日、バイトから帰ると母が庭先でつくしを摘んでいました。「小学生のころ、つくしのおひたし作ったねえ」といいながら摘んでいました。「よし、もやし分くらいは稼いだ」と笑いながら摘んでいました。
昨年の今頃も彼の独善に振り回された結果、必死に管理してきた庭をメチャクチャにされたのですが今年もまた、やられました。この時期になると俺に何かダメージを与えるようになっているんでしょうか。
内容がちょっと複雑で色々とあるので、ことが収まったら報告がてらぶちまけたいです。
言っていることは正論なんです。
現在、父から相続した家に住んでいるのですが、そこに住み切れないなら売って他の場所でがんばりなさい、なんてことをいうわけです。もう古い家で修繕もままならない状態。その上、金銭的なものが必要な生活を送っているので、それをみればそう言いたいのもわかります。
けれど、母も俺も、なんとかその家を維持しようと頑張ってきたわけです。その家には父や弟、犬や猫たちとの思い出があります。立地的にも静かな良いところなので安楽に生活できます。部屋も数部屋。雨漏りもしてますし外壁もボロくなってきましたが、まだまだ暮らせます。というか、ここを売った場合ですね、当然ながらもう戸建の家に住むなんてことは一生できません。彼は全部うれば五千万以上は固いと言ったのですが、一千万強程度です。
彼の主張は、市営住宅に入りなさい。安いから。
市営住宅を馬鹿にするつもりはないです。ないですが、もう80になろうとする母と二人でそこに移った先に何があるの?という話なんです。
母ともその話、しないこともなかったんです。家を売る話。でもやっぱりね、そこをどうにか維持しようという気持ちで頑張っているので、ヨソに移ったら精神的に参ってしまうという結論になりました。今以上の場所に移れることは絶対にないじゃないですか。どんなに頑張っても安アパート暮らししかできないですもん。母の老後、余生をそういうところに押しこんで暮らせと言うんですよ、彼は。それを主張しても分かってくれない。
古い家から新築のいい家に移り住んだ途端、認知症になったという人の話を多く聞きます。思い出の品を眺めたりいじったりする回想法という認知症防止対策まであります。認知症発症の条件がそろってしまいます。
本当に何か重大なことが起こった時に、最後の資産として持っておきたいという意向もあります。重大なことっていうのは大病ですね、まず。
現在、後がない状況です。
でも、まだ持つことのできるものがあります。売ったら何もなくなる。少しお金に余裕ができるじゃないか。その家を維持する為に頑張らなくてよくなるじゃないか。そう言いますが、そういう環境が俺たちにもたらす今以下の精神的な状態を一切考えてくれない。多分ね、家を売り払ってどこかの安アパートに入ったら、母、おかしくなります。だってもう、何もないですもん。少々の蓄えとただ生きているのみ。それになんの意味があります?そこからもう、二度と今レベルの場所には住めないし、今以上の生活には戻れないんですよ。安アパートの一室で、ボーっと死ぬのを待つ二人になります。先細りしかない生活の終点を、突きつけられることになるんです。
それも現実ではあります。
維持できないなら住めない。それは正解です。正論です。でもだからこそ維持するために頑張ろうと言う気持ちで精神を保っている。それを取りあげられたら、しまいもしまい。
以前、生活保護の話がありましたが、受けたくない大きな理由、一番の理由もこれです。資産処分。これはもうそのまま俺たちに、特に母に死ねと言っているようなものです。この年齢になってきて分かったことがあります。老いてアクティブに行動することが難しくなってくると、思い出こそがアクティブな行動の代替活動なんですね。写真をみたりモノをみたり。それはきっと、命そのものなんですよ。ある意味、ですが。そこにある自分の連続性を確認することで、アイデンティティを確立する。そういうことです。
それが取りあげられたら、どうなるか。
見たこともない、思い入れもない場所で、思い出すのはもうどこにも存在しなくなった思い出の場所。観に行くこともできない。まして、「売らざるを得なくなった」が根底にあれば、思い出したくもなくなる。でも、これから思い出を作ればいい、だってままならない。今と同じ生活が続くだけ。
母と俺二人で安アパートで、周囲の物音に身を潜めながら死ぬのを待つ。
そして、その状況からは二度と脱出できない。
おかしくなります。
こんなこと書いている時点で、耳鳴りが一層大きくなり、立てないくらい頭が左右に揺れ、喉元に突き上がる嘔吐感が連続します。
下がってはいけないラインってのがあるんです。なにがあっても。
そのオジがなぜそんなことを執拗に言ってくるのか。
なぜ今、からまないといけないのか。
付き合わないといけないのか。
いつかここで吐き出せたら、吐き出します。言ってしまえれば楽になれますが、まだ色々と早いので。解決してから。
どんなにそういうことを主張しても「でも売りなさい」の一点張り。市営住宅にしなさいと。安いからと。ウチが五千万以上になると思いこんで、別の土地で家を買えばいい…みたいなことから切り出したのですがね、そういう思い込みと独善だけで突っ走って、一度言い始めると融通がきかない。正論だけをふりかざす。その思い込みだって前述したように、視野が狭く情報量が少なく独自にどこかで調べたことを勝手にこちらに当てはめて、それ以外の正解はないという。
たとえばもう一つ、悪口ついでに昨年の庭の件でもこんな事実誤認がありました。庭の木を切れとしつこく毎日のように電話、訪問してきていたのですが、やんわり「業者に見積もり取ってから考えます」というとですね、笑って「いやこの程度の庭木で見積もりとる業者なんていないよ、そんなこといったら業者に笑われるよ」と。結局少しだけ切らされるハメになりまして業者と話し合うじゃないですか。当然、見積もり、取りますよね。無料で。取らないわけない。でもどう主張しても、その時も俺を常識ナシのように笑ったわけです。「見積もりなんて取る業者いない。何百万の仕事ならともかく」。それを言い続けました。見積もり取ったことを告げると「最近はそうなんだ」の一言で後はもう、触れない。この件についてはまだまだいろいろあって笑い話にならないオチが待っていたのですが、それは別件。
今、ひとつ解決しなくてはいけないことがその人との間にあって、うまく解決すれば非常に助かるんですよ、俺も母も。なのでどうしても「もうええわ!」とキレることもできない。やんわりやんわり自分の望む結末に誘導するしかない。ってね、俺、そんなことに必死になっている余裕ないんですよね。いい職に移らないと。
それにしても絡まざるを得ないたびに思います。
あの人に、人間の感情ってあるのだろうか。
想像力ってあるのだろうか。
二度と脱出できない安アパート生活に、年老いた母と高齢の息子一人が突入する。その救いのない状況を想像することできないんだろうか。
自分の生活や職の問題だけでも体調も心調もグズグズなのに、まだもう一つ盛ってくる。盛らないでくださいよ、もう。いい加減、抱えきれない。
という、悪口をいいました。
今は、母と笑って生活できています。昨日、バイトから帰ると母が庭先でつくしを摘んでいました。「小学生のころ、つくしのおひたし作ったねえ」といいながら摘んでいました。「よし、もやし分くらいは稼いだ」と笑いながら摘んでいました。