「自殺を奪わないでくれ」
というと、多くの人から叱られるだろう。
生きたいのに生きられない人もいる。命は大切。十二分に分かっている。
脱ニートから一年。ニート後遺症と付き合ってきた。ニート時代にはなかった体の変化・精神の変化、その不調。本当にニート時代は驚くほど健康で健全だった。一度たりと自殺願望など抱いたことがなかった。
自殺願望。
自殺を、したいと思う。楽になれるんだろうなあと思ってやまない。現実からの究極逃避。
「現実との直面をやめて時間を止めること」がニートであるなら、脱ニートは「現実と再直面し時間を動かすこと」なのだが、再直面した現実は、過去、ニートになった時点よりも強烈に厳しく、動き出した時間はいやおうなく絶望だけを突きつける。
ニートは、その期間が長ければ長いだけ、生きるのが困難になる。困難になるだけならともかく、先細りしかない。先細りならまだしも、何もない。この先に。
未来がない。どうがんばっても。どんなキレイな言葉で前向きに調整しても、現実はこれ。その上で俺は、家族をも巻き込み、やんわりと殺し続けている。栄養バランスの悪い、安い食材だけの食事、体調不振でも医者にも行かせてやれない、薬も買えない。部屋の空調も環境も良好とはいえないし日々劣化していく。
そんな中、俺が一縷の望みとしてすがっているのが「自殺」。
死にさえすれば、楽になれる。だから耐えようと。まだそこまでいかずにがんばろうと。後ろ向きな考え方だろうと、その一点で精神を保っている。
分かってはもらえないかもしれない。
でも、「自殺」すらダメだとされたら、本当に救いがないんだ。
気が変になる。老人が一人、崩れかけの家屋で、ぼんやりと息を潜めて暮らしている。年金もほとんどもらえない。生活保護を受けてなんとか飯だけは食えるけれど、手元には何もない。笑うこともない。話す相手もない。夏にはノミに刺されて全身をかきむしり、冬は冷たい毛布にくるまり褥瘡に悩む。そこへ行けと。そうならないために今をがんばるんだろう!と叱られる。がんばらないわけじゃない。でも冷静に精神論ではなく現実的に条件を揃えて考えると、どう考えても無理。
なんとか回避しようともがけばもがくほど、現実の重さに潰されるだけの日々を送っている。それでも回避したいから必死にはなっている。
その必死が、ことごとく潰された時に思う老いた未来は、辛すぎる。
精神的におかしくなった人などが事件を起こす。起こさないまでも、そういう人がいる。自分もそうなるんだろうと思う。そうなりたくない。
だから、自殺くらい許してくれよ。せめてそれくらいの救いがあると思わせてくれよと。
そう思うことで、今日を必死になれる。いざとなったら、という後ろ向きな保険が今日の全力を後押ししてくれる。これだけ必死になっても所詮、あの老後しかないと思うよりマシ。マシなんてもんじゃない。がんばろうとさえ思う。
自分で死を設定するという意識が、生を活性化させる。
死を見るから、生も見れる。
自殺なんかしないよ。自殺なんか最低だと思うよ。しちゃいけないと思うよ。
でも、自殺したいと思うことさえ「悪」だというなよ。
そういわれた瞬間こそ、真剣に死にたくなってしまう。
そういう奴もいるんだ。情けない奴だなと思うだろうが。
読売新聞「自殺防止計画 命を守る地域作り進めたい」。
命は守っても、守られた人の精神は壊れるかもしれないよ。
壊れたら、どうするの?そこは自己責任だよね。自己責任だから、「自殺願望」で精神を守っているんだ。
というと、多くの人から叱られるだろう。
生きたいのに生きられない人もいる。命は大切。十二分に分かっている。
脱ニートから一年。ニート後遺症と付き合ってきた。ニート時代にはなかった体の変化・精神の変化、その不調。本当にニート時代は驚くほど健康で健全だった。一度たりと自殺願望など抱いたことがなかった。
自殺願望。
自殺を、したいと思う。楽になれるんだろうなあと思ってやまない。現実からの究極逃避。
「現実との直面をやめて時間を止めること」がニートであるなら、脱ニートは「現実と再直面し時間を動かすこと」なのだが、再直面した現実は、過去、ニートになった時点よりも強烈に厳しく、動き出した時間はいやおうなく絶望だけを突きつける。
ニートは、その期間が長ければ長いだけ、生きるのが困難になる。困難になるだけならともかく、先細りしかない。先細りならまだしも、何もない。この先に。
未来がない。どうがんばっても。どんなキレイな言葉で前向きに調整しても、現実はこれ。その上で俺は、家族をも巻き込み、やんわりと殺し続けている。栄養バランスの悪い、安い食材だけの食事、体調不振でも医者にも行かせてやれない、薬も買えない。部屋の空調も環境も良好とはいえないし日々劣化していく。
そんな中、俺が一縷の望みとしてすがっているのが「自殺」。
死にさえすれば、楽になれる。だから耐えようと。まだそこまでいかずにがんばろうと。後ろ向きな考え方だろうと、その一点で精神を保っている。
分かってはもらえないかもしれない。
でも、「自殺」すらダメだとされたら、本当に救いがないんだ。
気が変になる。老人が一人、崩れかけの家屋で、ぼんやりと息を潜めて暮らしている。年金もほとんどもらえない。生活保護を受けてなんとか飯だけは食えるけれど、手元には何もない。笑うこともない。話す相手もない。夏にはノミに刺されて全身をかきむしり、冬は冷たい毛布にくるまり褥瘡に悩む。そこへ行けと。そうならないために今をがんばるんだろう!と叱られる。がんばらないわけじゃない。でも冷静に精神論ではなく現実的に条件を揃えて考えると、どう考えても無理。
なんとか回避しようともがけばもがくほど、現実の重さに潰されるだけの日々を送っている。それでも回避したいから必死にはなっている。
その必死が、ことごとく潰された時に思う老いた未来は、辛すぎる。
精神的におかしくなった人などが事件を起こす。起こさないまでも、そういう人がいる。自分もそうなるんだろうと思う。そうなりたくない。
だから、自殺くらい許してくれよ。せめてそれくらいの救いがあると思わせてくれよと。
そう思うことで、今日を必死になれる。いざとなったら、という後ろ向きな保険が今日の全力を後押ししてくれる。これだけ必死になっても所詮、あの老後しかないと思うよりマシ。マシなんてもんじゃない。がんばろうとさえ思う。
自分で死を設定するという意識が、生を活性化させる。
死を見るから、生も見れる。
自殺なんかしないよ。自殺なんか最低だと思うよ。しちゃいけないと思うよ。
でも、自殺したいと思うことさえ「悪」だというなよ。
そういわれた瞬間こそ、真剣に死にたくなってしまう。
そういう奴もいるんだ。情けない奴だなと思うだろうが。
読売新聞「自殺防止計画 命を守る地域作り進めたい」。
命は守っても、守られた人の精神は壊れるかもしれないよ。
壊れたら、どうするの?そこは自己責任だよね。自己責任だから、「自殺願望」で精神を守っているんだ。
私は、死にたくなるときあります。
それは誰が許すか許さないかではなく、ほとんどが
「私のことわかってよ」
「死にたくて死ぬんじゃない」
「しぬのは、あなたがそうさせたんじゃない」
「あなたは自分が死ぬまで、人を殺してしまった自責の念をもちなさいよ」
これが自殺したいときの私の叫びです
ま、ほとんど
「私をわかってほしい」
「私を愛してほしい」
の裏返しです
でも、相手を愛しているのか?と振り返ると
「そんなことないな~」
と反省して
「できることは、やってあげよう」と思うようになりました。
そしたら、自殺したい気持ちが引っ込んでいます。
あ~やれやれ