人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

死への願望がもたげる【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】3

2015年12月31日 | 闘病記
死への願望がもたげる。【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】3


死への願望がもたげる。
楽になりたい一心。日々が楽しくないとか辛いとかは構わない。自業自得だから。ただこれがいつまで経っても改善する、好転する気配がなく、その先細りしかみえない人生に母を巻きこんでいるのが苦しい。泥の中を頭まで浸かって歩くような閉塞感のまま、いつまでがんばればいいのか。いつかは好転するのか。そう考えると絶望的。単純で俗な話、モノが壊れる。そうするともう、買えない。電子レンジが壊れて半年になる。けれども買えない。そうやって少しずつ先細っていく。金銭的にも体力的にも年齢的にもそう。目減りしていくだけで増えることがない。
楽しかったはずの娯楽はすべて、逆にトラウマ化した。「楽しかったニート時代」の象徴だからだ。はっきりと「あの頃は楽しかった」「あの頃に戻りたい」とてらいなく思う。それは絶対に叶うことのない自分の脆弱さゆえの願望だと分かっているけれども、それとは別に実感として、だから触れたくなくなっている。気付くと娯楽は全てトラウマ化し、触れるとまず嘔吐感、そしてめまい。体が重くなる。妙な熱感が生じる。なのにじっとしていられず徘徊したくなる。閉塞感に何度も深呼吸をする。

身体
久しぶりに会う人のみならず、よく顔を合わせているはずのご近所にも心配されるほど痩せ細る。

職 【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】②

2015年12月30日 | 闘病記
【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】②

職。社会復帰への道が遠い。単純労働の半日アルバイトなら見つかる。フルタイムの正社員にはなれない。収入が少ないので生活が苦しい。自分は自業自得だからまだしもその生活に巻きこんでしまった母には申し訳が立たない。どれだけ働いてもその職をしたというキャリアにはならない。なんの技術も知識も得られない。体を壊して辞めてしまったら無収入となり死活問題。見栄を張っても仕方ないのでぶちまければ、現在のスーパー品出し四時間でさえ、体力の限界。帰宅すると倒れ込んでしまう。動けない。フルタイムで工場ワークをすればいいと思うものの体力・体の耐久力が保つのだろうかとおびえる。やってみなくては分からないとも思うのだけど、やってみてダメだったらまた無職。体を壊したら無職の上、出費。次の職まで何を喰って生きればいいのか。そして、早く他の職を探さなくてはという焦りだけがある。貯金はない。保険にもほぼ入っていない。
なのに、アルバイトが終わると帰宅したくなくなる。帰宅すると一日が終わってしまう。だから、体力も限界なのに少しだけ、街を徘徊する。徘徊するといっても金がないのでスーパーを巡って試食でもしながら気を紛らわせる。本屋にいくとニート時代を思い出してしまい吐きそうになる。

死への願望がもたげる。

【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】①

2015年12月30日 | 闘病記
【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】①

十数年の時間との直面。その重みに潰される。ニート時代への後悔、罪悪感、現実として捉えるようになった将来・老後への恐怖。その中心となる現在が決して将来に繋がらない状況であることの認識。十数年の無駄・無為を認識しては虚脱感に襲われる。
数字への恐怖。時間を正面から認識したことにより日時に対して過敏になる。これまで無駄にした時間、同時に切迫した残り時間を認識・意識させられる。日時のみならず、数字を見ると喉を突く嘔吐感を感じるようになる。
失うことへの恐怖。現在はそれでも母がおり猫もおり、週一回ボランティアで他者との交流もある。それによって精神の安定が保たれていることは間違いない。これがなくなったらという恐怖。
ニート時代の産物へのアレルギー。たとえばニート時代に夢中で読んでいた漫画、見ていた映画、聞いていた音楽を聞く、たとえばよく通っていた店にいく。途端に体が重くなり嘔吐感を催す。若干のめまい、手足のむくみを感じる。

部屋。なぜ部屋を片付けなくなったか。衣替えもしないのか。「時間」にしがみつきたいんだろう。「ニート」時代の楽しかった日々にしがみつきたい。そのおかしな「憧憬」が部屋を「脱ニート」後仕様に変えてしまうことを拒んでいる。

職。社会復帰への道が遠い。

【ニート後遺症】

2015年12月30日 | 闘病記
【ニート後遺症】

ニート後遺症。
俺がそう呼ぶ脱ニート後の精神面・肉体面の変調と苦痛を書き連ねる。

○数字への拒絶反応。カレンダー等の日付・時計の時刻みならずそこかしこの数字を観ても引き起こされる精神不安、嘔吐感、倦怠感。
○明日の予定を考えることへの忌避感。
○一日が終わることへの焦燥感。アルバイトが終わると家に帰りたくなくなる。部屋に戻るとその日が終わってしまう。疲れ果てて足も筋肉痛に苛まされながらも、散歩と称して近所のスーパーをうろつく。家に戻るとすぐにどこか行きたくなる。
○眠りたくない。
○何も楽しめない。漫画を読む・音楽を聞く・映画を観るとその時間がもったいなく思えて吐きそうになる。かといって何かをするわけではなくできるわけでもなく、部屋で蹲るだけとなる。
○どういうわけか、部屋を片付けなくなった。衣替えもしない。恐ろしく、汚く雑然。
○人間関係の蒸発。軽いところでいえば愚痴を聞いてくれる人がいない、重いところでいえば人生を救ってくれる人がいない。救ってくれるというのは物資的な援助をいうのではなくて本気で心配したり助言してくれたり叱咤してくれたりしてくれる、ということ。のみならず、過去の学生時代の人間関係も消えてしまう。断絶というのではなくそれらの関係があったかどうかさえ思い出せなくなる。多少はあっただろう人生全ての人間関係が蒸発し一人ぽつんとここにいる感覚に陥る。

ここまでの症状をまとめると、つまり「時間」。長い間無視を決め込んでいた「時間」と直面したことにより、ことの重大さに気付いた。そして焦り始めた。けれども既に手の打ちようがない。手の打ちようはないのに何かをしなければどうにもならないという強迫観念に苛まされ娯楽や睡眠を受け入れられない。
これらはメンタル的な後遺症。このメンタル部分の後遺症はそのままめまいを惹き起こし嘔吐を惹き起こす。

その、「時間」との直面が別側面からも蝕んでくる。
それが「現実」との直面。

○現実との直面に圧し潰される。現実とは「将来」。各種保険未加入。年金未納。収入は各種支払いだけで消え貯金もできない。仕事がない。体力低下。家庭がない。一人になることへの恐怖。
○経済の困窮こそが「時間」との直面をないがしろにしたことで生じたもっとも重い「現実」。働く意思があっても働くことができない。場所がない。体力がない。無理をして工場等の体力仕事に就いたとして、体を壊してしまったらその先がない。正社員雇用されていれば多少の保証もあるのだけど、基本、契約社員でしか入れない。契約社員で雇用してもらったとしても期間終了でまた白紙。契約更新されてもいつまで続くか分からない不安。
○食事の内容が、割引食パン50円と157円マーガリン二食。白米ともやし炒め+野菜少々のみとなる。200円で野菜詰め放題の店で購入できる時は野菜で食卓がにぎわうこともあるけれど、なんらかの都合等で購入できない週・月はもやし炒めのみ。魚の摂取が一切なくなる。
○税金各種が納められず「差置」通知が届く。納めると食事ができなくなる。
○光熱費・ガス・水道料金・車検が滞る。
○生活の一切が立ちいかなくなってくる。なんとか継続できているのが四時間だけのスーパーの品出し。職を探すものの上手くいかない。まず履歴書代が捻出できない。なので求人フリーペーパー付録の履歴書を利用する。写真は、まだ多少経済が回っていた時代にプリンタで印刷したもの数点を使いまわす。履歴書を郵送してくれという職場もある。そこで躓く。80円の切手代が出ない。主食の割引食パンを買わずに切手を買う。また、交通費が出せないのでどんなに良い条件の職があっても地元付近から外には行けない。活動範囲が限定され、更に職探しが難しくなる。これもまた、後遺症。

どれほど偉そうなセリフを吐いても、俺の価値はスーパーの品出し・時給800円。それもまた現実。あと半日、が働けない。

考えることは、父母・家族への謝罪とあり得ない奇跡への妄想、死にたいというフレーズ。

仕事を始めれば、楽になると思っていた。経済的にも精神的にも。母親への罪悪感に苛まされ、芯熱が止まない。天井がぐるぐる回り始める。常に喉元には、出てもいない胃液が逆流する感覚。

【動き出した時間或いはニート後遺症の詳細】

【ニート後遺症とは何か】

2015年12月29日 | 闘病記
【ニート後遺症とは何か】

そもそも「ニート」とは何か。
無職無業を指す。ということではなくて。
「ニート」とは、現実との直面から逃げた者をいう。社会へ出ること、若い頃からの壮大な夢をあきらめること、思春期特有の万能感を捨てること。それらができなかった者。また同時に、生きていく上で必要な生活の現実、生活費・税金・年金・貯金。結婚。家庭。それらと直面しようとしない者をいう。その結果が、無職無業。いやまだここで無職無業をいうのは早い。もうひと段落、ある。
そういう現実との直面から逃げるだけではなく、自分の心地よいポイントで時間を止めてしまったのが「ニート」だ。たとえば俺の場合、大学時代。そのポイントで時間を止めてしまった。本を読みあさり好きなようにレポートを書きなぐり。時間を見つけては絵を描いたりギターをいじったり。漫画や映画に没頭したり。人によってはそれが高校であったり中学であったりするのだろう。そうやって時間を止めてしまい、動かなくなる。自分はいつまでも23歳のまま。「大学を出れば無限の人生が広がっている・何でもできる」のだから今はその日までの「モラトリアム」。その意識のまま、十数年を過ごした。大学を出た後の数年はアルバイトをして海外にも出かけた。それは社会と足並みをそろえたのではなく大学時代にやり残した事を埋めたにすぎなかった。
そうやって、多くの同期が時間を進めている中、一人で時間を止めその中に埋もれていく。
通常ならここで、人と足並みをそろえなくてはと恐れおののく。けれども「自分は、やればできる」という幼い万能感に取りつかれ「自分は人とは違う人生を送る」と曖昧な目標を掲げて、働かないまま誰かにすがって生活するメンタルを作り上げてしまう。
精神面での成長がうまくいかなかった、ということでもある。小学校、中学校、高校、大学。人により多少は変わるけれど日本では多くこういう流れで人間を形成していく。「変わり者」扱いされるのが少し嬉しい時期がある。「人とは違う」が誇らしい時期がある。修学旅行につばを吐いたり文化祭や体育祭をバカにしたり。その時期は本来一過性で、多くの人がすっと団体の中に戻り、そこで「みんなで楽しむ」経験を積む。それができないまま、「変わり者」という段ボールに書きなぐった勲章を誇らしげに胸につけたまま、年齢だけ重ねてしまったのが「ニート予備軍」。自分は特別だという根拠ない意識は、自己愛ばかりを増大化させ、その自己愛・万能感が打ち砕かれそうな「現実」との直面から逃げてしまう。
そして、無職無業へ。

だから、信じられないかもしれないけれど、たとえば俺などは、現時点でさえ意外と人とのコミュニケーションは取れる方だったりする。

検体が俺だけなので、これを「論」とするわけにはいかない。「ニート」になった人にはそれぞれの理由がある。
ゆえにこれは俺を検体としたレポートでありただの闘病記。そう捉えて欲しい。