去年の夏 突然にソニー・ピクチャーズエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
本日12チャンネル(テレビ東京)の「午後のロードショー」で放送されたのを観ました。
テネシー・ウィリアムズの原作戯曲は読んだことがありますが、映画の方を観るのは初めてでした。
以下、感想はネタバレを含みますのでご注意下さい。
ストーリイ:若き脳外科医クロックビッツ(モンゴメリー・クリフト)は、資産家のビネブル夫人(キャサリン・ヘップバーン)から、資金援助を条件に姪キャサリン(エリザベス・テイラー)へのロボトミー手術を依頼される。
女子修道院に監禁状態のキャサリンと面談した彼は、彼女とビネブル夫人、そしてその息子でありキャサリンの従兄だったセバスチャンとの間に、また表向き心臓麻痺と発表されたセバスチャンの死に、隠された忌まわしい秘密があることを感じとる。
感想:1959年の作品で、モノクロなのに見終わった後、強烈な「色」を感じます。元が戯曲ですから、台詞に喚起されるイメージということなのでしょうが、舞台がニューオールリンズであることも関係しているかも知れません。
同じ作者の『欲望という名の電車』もそうですが、その舞台背景や、その土地ならではのむせ返るような熱気のイメージが、生と死、正気と狂気の交錯、そして人間の持つむき出しの暴力性を際立たせています。
映画はどこかサイコサスペンスの趣きもありますが、構成としては謎解きミステリに近いと思います。確かに精神科医や脳外科医は、患者の心の秘密を解き明かす探偵役に相応しいと言えるでしょう。
主な登場人物が一堂に会して「謎解き」が行われる場面などは、まさに本格ミステリです。また、セバスチャンの死の「秘密」への伏線が、最初のクロックビッツとビネブル夫人の会話の中にあるなど、ミステリ的仕掛けは随所に見られます。
ロボトミー手術が「有効な方法」として普通に行われていたらしい時代の作品ですが、患者にすべてを吐き出させることが治療になるという、現代では一般的な方法が用いられていることも注目すべき点かも知れません。
ここでネタバレ。最大の謎はセバスチャンの死の真相ですが、そのための重要な手がかり(或る意味「動機」)も、クライマックスに到るまでは隠され、暗示されるにとどまっています。
このことに触れないと、この後話が進められないので書いてしまいますが、それはセバスチャンがゲイであったということです。
実際には作中一度も姿を現すことのない「語られる存在」であるセバスチャンの人物像には、何とも言えない魅力があり、ビネブル夫人とキャサリンの「女同士の争い」と見えたものも、実は同じ秘密を共有するがゆえだというのが皮肉です。
次第に明らかになってくる、夫人とセバスチャンの母子癒着ぶりや、彼女が息子や姪、またその親族、さらには医師たちにまで及ぼそうとする抑圧性のおぞましさには背筋が寒くなりますが、それは息子の秘密を守ろうとするためだったのか、母親がそんなだったから、息子がそういう方向に行ったのかは判りません。
または彼女自身も息子に利用されていたことを認めるのは、プライドが許さなかったのかも知れません。
ご存知の方も多いと思いますが、原作者テネシー・ウィリアムズ自身もゲイでした。
自伝を読むと、彼の戯曲の登場人物は、繊細であるがゆえに追いつめられ、セックスによって破滅していく『欲望~』のブランチはじめ、彼自身の自画像であるかも知れないと感じます。
この作品だと、己の性癖ゆえに悲惨な最期を遂げるセバスチャンもそうですが、心に深い傷や苦しみを抱えながら、真実を語ることを封印され、嘘つきだ異常だと言われ、色情狂呼ばわりまでされるキャサリンにもまた、原作者自身が投影されているかも知れません。
更に映画版のキャスティングにも注目したいところです。
ビネブル夫人役キャサリン・ヘップバーンは、さすが名女優と言うか、この嫌~な役に気品と独特の色気を添え、風格を感じさせます。
しかし、主役二人にモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーという配役には、「いいのか?」と言う気持ちにさえなりました。
『陽の当たる場所』で共演して以来、名コンビと呼ばれ、私生活上でも親しく、いつ結婚するんだろうと噂されつつ、終生「親友」のままだった二人…
実は、クリフトもゲイだったというのは、今や定説となっています。
古い映画雑誌を見ると「兄妹のように仲のいい二人」などと書いてあったりして、まあ当時としては、知っていても表現に苦慮したんだろうなあ…というのが伺えますね。
リズ(通称)は、『ジャイアンツ』で共演し、のちにエイズで亡くなったロック・ハドソンとも生涯の「親友」で(この映画のもう一人の主役ジェイムス・ディーンにもゲイ説あり)、ハドソンの自伝によれば、彼女にとって「親友」たり得るのはゲイの男しかいなかったとのことです。
ですから映画『去年の夏突然に』は、主役男女二人にとっても自己投影の対象だったのではないか?と思うことは、下世話ながらなかなかスリリングです。