「ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年」@国立新美術館
ハンガリーとの外交関係開設150周年ということで、ブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーのコレクション130点を展示している。これらが来日するのは25年ぶりだとか。
見に行こうと思ったきっかけは、緑色の草原に紫色のドレスが映える、シニェイ・メルシェ・パール作《紫のドレスの婦人》を見たかったから。この絵を見るのは2度目で、最初は25年前だったかどうだか覚えてないが、手元にある絵葉書によれば「ハンガリー国立美術館展」の時である。この時のキャプションでは、パール・シニェイ=メルシェ作《紫衣の女》と記載されていた。作家名も作品名も微妙に変わっちゃうジャァパニーーーィズ!
緑色の葉、黄色の花、白い雲、青い空、紫色のドレス、どう見ても美人としか言えない女性がバランスよく描かれている。結婚したばかりの妻がモデルらしい。そりゃ美人に描くわなぁ。描いている時は楽しかっただろうなっていうのは景観の清々しさからも想像できる。シニェイ・メルシェ・パールの作品はこの他に《気球》と《ヒバリ》の計3点が来ている。
画像は無いけれどこの《ヒバリ》は、これまた清々しく花咲く緑の草原に横たわり背中を見せる裸婦が描かれている。どうせこれも結婚したばかりの妻がモデルなのだろう。妻は頬杖をついて空を見上げている。うろこ雲がポッポっと浮かぶ青空には小さく小さくハエが、いや、ヒバリらしきモノが飛んでいるようだ。ヒバリは小さすぎてハエかと思っちゃう。ホントは裸の妻を描きたかっただけなのに、申し訳程度にヒバリを描き加えて「主題はヒバリです!」と言い張った作家の心中お察しします。バレバレですけど。
景観の清々しさを感じた作品はもうひとつ、アデルスティーン・ノーマン作《ノルウェーのフィヨルド》がある。岸辺から描いたのか船上から描いたのかわからないけれど、青い空と巨大な固まり感のある山、煙を吐く船、赤い屋根の家、それらの全てを映し取って反射させている静かな水面が、手加減なく丁寧に描かれている。とてもカラフルで、その場に居たい気分にさせてくれる。
画像は無いけれど、アルノルト・ベックリン作《村の鍛冶屋を訪れるケンタウロス》という作品があった。上半身が人間で下半身が馬であるケンタウロス。神話の中に出て来る妙なヤツというイメージのケンタ君が、村の粗末な鍛冶屋に寄って片足を上げて店主と話している。
「あのな、おらの蹄鉄があんだか具合よくねだがよ、ちょっくら見てくりょや」と言っている。
かどうか知らないけれど、そんな場面が描かれている。
「見てやんのはええけんどもよ、おみゃぁぜぜこ持ってんのきゃ?」と店主もいぶかし気な顔をしている。
かどうか知らないけれど、そんな場面が描かれている。
神話の中の登場人物あるいは登場馬物が田舎の日常の中に出現している違和感がちょっとツボだった。日本で例えるなら、「びしょびしょのからかさ妖怪が電車の戸口の手すりに置き忘れられている図」とか「お地蔵さんが増毛1000本お試しキャンペーンで施術されている図」とか「千手観音が洋品店で毛糸の手袋を買い占めようとして店主ともめている図」とか、そんな感じ。
ハンガリーとの外交関係開設150周年ということで、ブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーのコレクション130点を展示している。これらが来日するのは25年ぶりだとか。
見に行こうと思ったきっかけは、緑色の草原に紫色のドレスが映える、シニェイ・メルシェ・パール作《紫のドレスの婦人》を見たかったから。この絵を見るのは2度目で、最初は25年前だったかどうだか覚えてないが、手元にある絵葉書によれば「ハンガリー国立美術館展」の時である。この時のキャプションでは、パール・シニェイ=メルシェ作《紫衣の女》と記載されていた。作家名も作品名も微妙に変わっちゃうジャァパニーーーィズ!
緑色の葉、黄色の花、白い雲、青い空、紫色のドレス、どう見ても美人としか言えない女性がバランスよく描かれている。結婚したばかりの妻がモデルらしい。そりゃ美人に描くわなぁ。描いている時は楽しかっただろうなっていうのは景観の清々しさからも想像できる。シニェイ・メルシェ・パールの作品はこの他に《気球》と《ヒバリ》の計3点が来ている。
画像は無いけれどこの《ヒバリ》は、これまた清々しく花咲く緑の草原に横たわり背中を見せる裸婦が描かれている。どうせこれも結婚したばかりの妻がモデルなのだろう。妻は頬杖をついて空を見上げている。うろこ雲がポッポっと浮かぶ青空には小さく小さくハエが、いや、ヒバリらしきモノが飛んでいるようだ。ヒバリは小さすぎてハエかと思っちゃう。ホントは裸の妻を描きたかっただけなのに、申し訳程度にヒバリを描き加えて「主題はヒバリです!」と言い張った作家の心中お察しします。バレバレですけど。
景観の清々しさを感じた作品はもうひとつ、アデルスティーン・ノーマン作《ノルウェーのフィヨルド》がある。岸辺から描いたのか船上から描いたのかわからないけれど、青い空と巨大な固まり感のある山、煙を吐く船、赤い屋根の家、それらの全てを映し取って反射させている静かな水面が、手加減なく丁寧に描かれている。とてもカラフルで、その場に居たい気分にさせてくれる。
画像は無いけれど、アルノルト・ベックリン作《村の鍛冶屋を訪れるケンタウロス》という作品があった。上半身が人間で下半身が馬であるケンタウロス。神話の中に出て来る妙なヤツというイメージのケンタ君が、村の粗末な鍛冶屋に寄って片足を上げて店主と話している。
「あのな、おらの蹄鉄があんだか具合よくねだがよ、ちょっくら見てくりょや」と言っている。
かどうか知らないけれど、そんな場面が描かれている。
「見てやんのはええけんどもよ、おみゃぁぜぜこ持ってんのきゃ?」と店主もいぶかし気な顔をしている。
かどうか知らないけれど、そんな場面が描かれている。
神話の中の登場人物あるいは登場馬物が田舎の日常の中に出現している違和感がちょっとツボだった。日本で例えるなら、「びしょびしょのからかさ妖怪が電車の戸口の手すりに置き忘れられている図」とか「お地蔵さんが増毛1000本お試しキャンペーンで施術されている図」とか「千手観音が洋品店で毛糸の手袋を買い占めようとして店主ともめている図」とか、そんな感じ。
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