浮舟は宇治川に身を投げ、ある尼君に助けられます。
「あさき」では、そうなっている。
でも原作では、尼が拾ったのは、
本当に浮舟なのか?が、
いささかのクエスチョンになっています。
おそらくは浮舟なんだろうが、
でもあるいは、まったくの別人かもしれない。
過去に東国で暮らしたことがあるのだけが共通している、
他の女かもしれない。
このあたりの幻想風味が、
なんともいえません。
だいたいが「源氏物語」は、
人称をはっきり書かないことで有名です。
古文のセンセは「使われている敬語で判断しろ」と言いました。
でもどうしてそもそも紫式部は省略したのか。
紙と墨の節約?
怠慢?
では、ない。
物語を女房(侍女)たちが聞いている。
ある女房は「姫君が昔語りをして、それに同情した公達がよよと泣いている」話だと思う。
他のある女房は「公達が昔の話をして、それを聞いた姫君が同情して泣いている」話だと思っている。
主語を曖昧にすることで、
一巻の絵巻物から、
いくつものストーリーがうまれる。
今みたいに近所の本屋に行けば、
雪崩をうつほどの書籍が積まれている時代じゃない。
紫式部はこうやって、
自分の書いた「源氏物語」に、
何倍もの価値を与えたのではないでしょうか。
(このあたりのテクは、「ぼくの地球を守って」と似てますね)
ちらとメインサイトの話をすると、
私の小説のキャラの半分以上は一人称が「俺」なので、
誰がしゃべっているのかわかりにくいことがあります。
ラノベなら、編集のチェックが入るところだ。
実を言えば、書いている作者でさえ、
誰の発言なのか決めかねることがあるのですよ。
いや、ホントに。
でも、ま、
それはそれでいいのですわ。