新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

明治維新秘話 薩摩のしゃぐまは何故赤、白、黒なのか

2019-08-02 10:42:32 | 新日本意外史 古代から現代まで

明治維新秘話 薩摩のしゃぐまは何故赤、白、黒なのか

日本ではいまだに「大和民族一つで構成されている」というのが通説になっている。 これは、古代や封建時代では誰もそんなことは思ってもいなかったし、言ってもいなかった。 維新後に天下を握った薩長勢力の明治軍部の宣伝なのである。明治政府は欧米に追い付け追い越せと「富国強兵、殖産興業」政策を推し進めた。 しかし、列強植民地政策と衝突し、日清、日露戦争と立て続けに戦うことになる。だが日本は江戸時代を通じて数百年間も外国と戦ったことなぞ無かった。 そこで明治軍部は平和ボケした国民を一致団結させて外国と戦わせるため、戦意高揚のため、国民精神作興に御奉公させるためのスローガンとして大いに喧伝したのである。 このお上の政策にいち早く迎合したのが日本の歴史学会で、歴史屋共が筆を揃えてそれを学説にし定説化してしまった。

しかし、それまでは源平藤橘という如く、騎馬民族系の源氏、海洋渡来系の平氏、唐を藤の字に当てた大陸系の藤原氏、契丹系で橘と変えた橘一族と、大別すれば最低でもこの日本列島には 四っ以上の民族が混在しあって棲み分けていたのである。だからいにしえより「名のり」つまり藤原の何某とか平の誰それといったように、日本列島における四大種族の区別をは、各自が昔は明白にしていたものなのである。
さて、この民族の部族の名乗りは、徳川期になるまで厳しく掟とされていた。 戦国時代の合戦絵図などを見ると、各陣営ごとに本陣には、その大将の旗や幟が立てられているその脇に、「馬印」と呼ばれる金色のひょうたんや、黒の大きな傘、白い羽毛の飾り物や赤い吹き流しが、 堂々とひるがえって立っている。
 
 もちろん徳川期になってからも大名行列の先頭には、合戦の際の旗や幟は禁止されていたが、馬印だけは立てていたもので、「武鑑」の類にも、先頭のそれさえ見れば、 何系の何処の殿様かは一目瞭然に判るように絵入りで記載されている。つまり大和民族は単一民族なりなどと大真面目に言い出したのは、明治二十二年の長州が招聘したドイツ人のお抱え教師の リースの制定からで、彼はゲルマン民族だから、それを日本史もろくに判らぬため強引に日本に当てはめたのである。 しかしそれまでは、 「赤布をひるがえしているのは真田幸村で、あれは平家の流れ」とか 「白扇大団扇は、白色なれば後藤又兵衛じゃ。ならば別所出身の源氏なり」 「千成瓢箪が金色なるは、やはり豊臣家は古平氏であったか」 といったように、寄せ手の徳川方も、同族同士討ちはしないようにと、やたらに戦は仕掛けずに、突き込む敵は選んだものなのである。 明治維新の際でも、様式武装で大砲までも引っ張っていても、この慣習は薩長側でも棄てず、「しゃぐま」とよぶ、てんの毛皮を、赤、白、黒に染めさせて、 馬印代わりに部隊ごとの先頭に立つ士官の頭に被らせていた。
それゆえ伏見街道を三万の軍勢を連れ、徳川慶喜は討薩表をかざして、先手には大目付の滝川土佐守が大阪から攻め上ってくると伝わると、 「滝川は拝火教徒のの流れじゃ、ならば彼らの民族色は赤だから、先頭には赤しゃぐまを被った部隊で突きこめ。すりぁ相手は此方の十倍の人数でも、ためらい迷い逡巡するは目に見えとる。 そこを一斉射撃で突き崩してしまうのだ。よいかぬかるな」 と、薩長側ではずらりと赤毛で攻め立てた。
一方、日野に住んでいた近藤勇や土方歳三らの新選組だけは、総崩れの幕府軍の中で唯一人最後まで頑張ったというのも、赤毛に対して同じ拝火教の多かった江戸の旗本どもは、 祖先からの言い伝えで、同族は討たずの戒律で、赤毛しゃぐまの士官のかぶり物を見て退却したが、新選組は宗旨違いだから、あくまで抵抗できたのである。
 
 
ちなみに、新選組は日野や百草の生まれで、ここは弾左衛門地で、婚礼縁組の一切の届け出をして許可を受けている土 地柄であり、宗教は白山信仰なのである。 それゆえ、鳥羽伏見で敗れて戻ってきた新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう時弾佐衛門は黄金二万両の他にヘーゲル銃二百挺に弾薬をつけ、人夫百名も出している権勢ぶりなのである。 四民平等の明治になるまでの日本は、四民はそれぞれ対立しあっていた真実をよく理解しなければ、日本史の真実はつかめないのである。 つまり四民といっても藤は京の体制側の公家でこれは別格。 庶民とされている民族色赤の平家は拝火教徒、白の蘇民将来信仰は源氏、墨染めの衣を着る坊主からきている黒の仏教徒らが三つ巴になって対立させられていたのがこの日本で、 これを相克歴史という。 現在適当に書き写され、時代によって書き直されてきて残っている古文書まがいの解明は、労多く功少ない行為で、色分けで確かめた方が判りやすいのである。
 
 
 


 


世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察

2019-08-02 08:41:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察
 
何しろ彼は安倍政権の当初から、 内閣府特命担当大臣、原子力経済被害担当大臣、産業競争力担当大臣、ロシア経済分野協力担当大臣、 国際博覧会担当大臣。 自民党政務調査会長代理、自民党参議院政策審議会長、内閣官房副長官等を歴任と、 眩しいばかりの経歴で学校法人近畿大学第4代理事長も兼務している。 安倍政権の外交から内政を総括すれば、様々な問題はある。その批判はここでは他のブログやマスコミに任せて、世耕大臣の 「エケセテネヘメエレ」横列の人間について考察してみましょう。
エ姓列の人は五千人に一人の希少価値
エ姓の先祖は山の民である
「影供」と書いて平安時代は「えぐ」と呼んでいた。今では、 「人間が歩くと、その影が後をついてゆく状態」または、「影かたちのごとくつき従う忠実な召使い」といった具合になっているが、本来の意味はそうではないらしい。これは、 「用心棒として、影を供にしてつれ歩く」のことらしい。つまり平安時代末期というのは、 <鉢屋由来記>にもあるごとく、山の民の彼らが京洛まででてきて荒し廻っていたので、身分のある公卿さんなどは、礼を払ったり給与をはらって、同じ影の者を護衛につれ歩いていたのをいうらしい。 「影」を「え」と発音するのは、今では、「えい」となっているからおかしいみたいだが、これは、いわゆる「陰陽説」からでたものらしく、ウクス系やイキシ系を、  「陽の民」とみて、日蔭の被征服民族、即ち日本原住民たちの彼らを、「影の民」とみなし、彼らの祖先の神話が、(エオトコとエオトメが天の浮橋によって、結ばれて)の建国話であるからして、 「エの民」として扱い、これを<日本書紀>の《景行紀》ににあるところの、「景行帝二十五年武内宿禰は風土巡察二十七年帰り奏す。 土地沃壌広し、これ蝦夷の地なり、撃ちて奪るべし」といった報告の時でも、「蝦夷」は初めのうち、その意味合いは、「之を見し」といった具合だったのだろう。
 だから、蝦夷をエゾと呼ぶ以前のものは、「エミシ」が呼称になっている。そこで、「影」が「え」とよばれ、これが白土三平の、『忍者武芸帖』の影丸にもなるのだろうが、 このため陽の民が持ちこんだ両刃の、「剣」に対して、蔭の民である影族がもたされた片刃の、「刀」を扱う刀術も、 「柳生新蔭流」「疋田陰流」「諸羽影流」とみな影とか蔭をつけ、正流とか陽流といった呼称はないのである。  しかしそれは後世のことで、山へ追われた初めはいくら山岳民族でも路頭に迷うどころか、山中で生活に窮しきったものと思われる。  草や木の実をもいで食用に当てたろうが、それだけではたらず女達は、「あれを捕えてこませ」と山野を駈け廻る野兎や鹿や山犬たちを男にとらせ、その肉を焙って食し、皮を剥いで衣服にしたらしい。  さて、船舶系の者たちが今の河内あたりにかたまって、そこの交野郡に住まっていたのは、「中宮」「片鉾」といった村名が残っているのでも判るが、長岡京のできる前後は、ここの行在所に延暦二年、六年、十年と桓武帝が行幸されたのでも判るし、 <公卿補任>や<本朝皇胤紹運録>によれば八三九年の承和六年に、河内国高安郡に、「百済宿禰」がその一族とともに栄えていたこともでている。さてその後、ここへは、 特にシャム方面からきた人間が住みつくようになったのか、彼らが軍用の食料として持ちこんだ南方鶏が飼われ、これを、「軍鶏」つまりシャモとよんだり、 鳥を捕えるための猛禽の鷹がもちこまれ、狩猟用に珍重された。  さて鷹は肉食なので、影の民である山岳民族がその飼育をいいつけられたのか、<揚氏漢語鈔>にあるごとく、  「餌取り」、つまり、エを上へつける呼び方で、里近くに居住を許された者は称された。これは<今昔物語>の一節にも、 「やがて草ぶかき茅屋をたずねあて、そこに一夜を求めしところ、やがて夜食に持ち来りしは牛馬の肉。僧はこれをみて、妖しき所へ来にけるかな、これ餌取りの住みかなるべしとおののき」  などとでている。この鷹の餌取りのため山野を駆け廻っているうちに、次第に逞しくなった連中が、やがて足腰が強くなって武士という階級になるのだから、彼らの成人式ともいうべき元服には、 「烏帽子」とよばれる加冠の式を行なうのも、「鳥」の宇を「え」と発音するのも、後年の、「鳥打ち帽」と同じことで、鳥の餌取りからの由来であろう。
<エケセネ>姓は少ない訳
 さて、ビニールや擬革のない時代にあっては、皮は貴重品であった。鎧や馬具の鞍にはどうにも欠かせぬ軍用品で、これを自己補給できる原住民系は、源氏没落後なりをひそめていたが、 応仁の乱の時代になると勢をもり返し、戦国大名の殆どは彼ら出身の者らで占められたのである。  そして徳川期に入って平和になっても、袋物や革羽織といった需要がきわめて多く、製革業者の原住民系は、非武士階級でもみな富裕になり、各地の神社が栄え、 したがって仏教の寺の勢力を上廻った。  このときに当たって、朝鮮系の生母をもつと伝わる甲府宰相綱吉が、徳川五代将軍についた。  将軍生母桂昌院を通じて勢力を得た隆光とよぶ大陸系の僧が、貞享四年正月には、将軍をそそのかし、ついに、「生類憐みの令」を天下に公布した。  これはなにも動物愛護精神によるものではなく、(動物を殺すな)ということは、皮をはぐなという、製革業者である原住系への弾圧の法令であった。ついで、 「厭離穢土」という三河松平家に伝わる大樹寺勢誉上人揮毫の旗の文字からとって、「エ」をことごとく「穢」に換えさせもした。  だから、江間、江原、遠田、枝島といった鎌倉時代には、花形だったエ姓が否応なしに改姓をしいられてしまった。つまりエの字は、 「夷無名(いむな)」=「忌名(いみな)」となってしまった。よく、
「ちゃきちゃきの江戸ツ子」とか「三代つづいた江戸ッ子」などと書く人もいるが、とんでもない出鱈目で、江戸に住む者は明治になるまでは「エ」を憚って、 自分の口からは決して「江戸」などとはいっていなかったようである。ではなんと称していたかとなると、  「ご朱引うち」とか「ご府内」といったもので、二号さんが、「おめかけ」と自称しないのと同じことであって、幕末の勝海舟が、 「おいら江戸人はねえ」という時は、自己卑下し、相手に油断させる時か、または皮肉のようである。  このエ姓が明治になっても忌まれた例としては、  「前司法喞参議の官をすて西郷南州と廟堂を去り、佐賀にて挙兵、君は敗れ鹿児島に身を匿さんと欲す。されど薩人頑迷にも、君の姓により拒む。 止むなく君は四国へ赴き捕えられるや、明治七年四月十三日に断罪にあう。されど嗚呼前司法喞江藤新平君、君の首級のみは梟首にかけらる。まこと悲しき哉」  と<南白遺稿文集佐賀乱記>にあるくらいで、まだ明治初年にはそうしたエ姓を嫌う因習が残っていたらしく、これは立派な証拠になる。 いかにこうした徳川史観の偏見がひどかったかという一例であろう。
 OMANの語源は政子
 さて普通は「一つの民族は一宗教……」ということに地球上どこの国でも決まっている。ところがである。不思議なことに日本だけは違う。 まず神信心(甲)と仏信仰(乙)とあり、その他に、蘇(素)民将来(丙)というのがある。日本列島へ移住してきた順序は、丙が一番古い。俗に、 「えびす、大黒、弁天」等といった七福神をもって守護神となし「素民」として太古は栄えていた民族である。  今日でも愛知県の渥美半島などは、全地域がいまだに、七福神の神域となっているし、牛にビール飲ませて育てるという、「和田金」の伊勢の本店の前の自宅の門には、 「蘇民将来開運之守」という御札がはってある。この部族は、弁天さまで名高いエノシマ、エダジマでも判るように、  「エ衆」とよばれていたので、エ横列(エケセテネ)の発音を上につけ、この方則ではエ姓であるが、 次々の弾圧によって今は僅かしか、その姓を名のっていない。その代り、現代でも、この横列姓を上につけている人は、風雪千五百年以上たたかれてきているだけあって、芯が強いのが特徴である。 反逆児的な要素は遺伝であって、明治時代は、「王将」で名高い坂田三吉をやっつけた「関根金次郎名人」のように、独立独行型が多い。  今日でいえば「自由職業型」か、サラリーマンでも教育屋か演劇屋、学校屋に多い筈である。
 もちろん維新まで、この部族は決して百姓なんかはしていない。殆ど山中にあって動物を友としたり、鉱山を掘っていたようである。  もちろん里へでてきた連中は、拝み屋や医者や鍛冶屋、いかけやなどもしていた。  さて、この素(蘇)民系の人々の祖先は徹底的に、イ列、ウ列姓に、苛め抜かれ通しできたものであって、 <日本後紀>などには「衣多」という文字を当てられ、こわもてしているがなにしろ捕虜である。 「われこそはミナモトの氏の何某なり」と全国二千有余の捕虜収容所から蜂起してきた原住民を名のる白旗武者が、馬の尻を叩いて天下を奪ったのが「文治革命」のとき。  今では、当て字を棒よみして「源氏」というが、この連中に与騎したり郎党になった者で今日、戦記ものに名が残っている蘇民系は、 <源平盛衰記>に「江田の基弘」 <吾妻鏡>には「江田の小次郎」 <平家物語>では「江田の源三」 <太平記>のは「江田源八」  とあるけれど、このほかに、女人の政子、ちなみにまさこと読むのは後年の読み違いで、秀吉の頃まで、政所とかいて「まんどころ」といっている。 つまりMANKOが正しい。それが証拠には関東地方では、ア姓エ姓オ姓の男性どもは、令和の今日でも謹んでオの敬語をつけて、これを女性名詞として呼んでいるほどで、 如何に政子は勢力があったか、この言葉一つでも、しみじみ口ずさむと、よく判るというものであり、男の側からすると政子を良妻賢母にするのは誤りでしかない。
 さて、その政子が頼朝の死後、鎌倉幕府を里方の北条氏にわたしてしまった時、源の未亡人なのに「平政子」として死んでゆくような彼女だけに、 「梶原景季」以下の主だった源の実力者をみな殺しにしただけでなく、江田姓を名のる土着系にも徹底的な弾圧を加えたらしい。 つまりこれまでの歴史では、源氏と北条氏を一つの血の流れの同族のように思いこんでいるから間違われるが、 大化の改新で追われた蘇我の民である蘇民と騎馬民族系の源民とはまったく相反するもので、このため、 <北条五代記>から、<南北朝争乱記>には、もはや、このエ姓は現われてこないのである。
 次の足利時代となると、これは明国と安保条約みたいなものを結んで、向うの銭を貰って日本で通用させていたような世相だから、表むきの治政上、足利将軍は源姓を使っていたが、実際は、「白旗党」として原住系を圧迫していた。  エケセの蘇民系もだからしてやはり<今昔物語>にでてくるような「餌取り」という代名詞のもとに虐待されていた。やがて、彼らが息を吹き返すのは戦国期から徳川初期の間である。  当時の有名人は、千の利休、仙石権兵衛、関一政、江村専斎、美濃の遠藤一族、江戸城主の江戸通政といったところであろう。  しかし、この部族は苛められるのだから次々と殺されたり処分され、その後も元禄期の徹底的な弾圧をうける。そこで改姓したり深山へ逃げたり、 または神仏混合になったから宗教家になって世を忍ぶことになる。
  エ列の女性に要注意    ところが不思議な事に終戦を境に、もはや絶滅されたかと見られた、この部族が百花繚乱と突如としてマスコミに現われてくる。  もちろん宗教家としては、海老名弾正、江部鴨村。風俗作家としての『山の民』の江馬修、プロ作家の江口渙は早くから知られていたが、 とかつては侮称されたジャンルにも、喜劇王と謂われた榎本健一のような人材も顔をだす。  社会党の江田三郎もいるが、作家としては、山にこもるかわりにパリで過ごしてきた芹沢光治良。 カトリックの作家遠藤周作や評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)。財界では江戸英雄。賑やかなところでは、「オレはテレビのだ」と自称する永六韜や、 「せむし芝居の次は、ゲイボーイの芝居を」という寺山修司。
 そうかと思うと「マンガ」の手塚治虫。「これこそ華道だ」の勅使河原蒼風。  「おれの原稿を三十代の編集者が判るのだろうか」と憤まんを書いた故徳山秋声の女婿にあたるワセダ反主流派の寺崎佶。  女流では、小田仁二郎をして泣かせしめた女豪の、瀬戸内晴美女史(若い頃多くの男と浮き化を流し、今や97歳で尚元気な尼さんになっている瀬戸内寂聴)。 そして、 「文学界」の九月号に「秘密」と題して、堂々と「ちょうすけ」の軍部に徴兵忌避の主人公を書き、 「武士は死んだらいけんよ。銭をたんともってないかんよ」と「武者とは、なるべく死なずに、現金か証文で、首の落し前に話をつけて助かるのが常識である……」 を昭和二十年代の時点において見事に描写し「反逆精神の大作家」と認められている「丸谷才一」こと本姓根付先生。二年間「貝殻一平」として才筆をふるった評論も巧い国学院大学の教授。  それにお料理のテレビの江上トミ女史と昭和になって多士済々の様相を呈したものである。   日本の総人口の内で、このエケセテネの横エ姓は、わずか0.02パーセントもいない筈なのに、よくも、まあ反骨揃いの連中がパレードみたいに現われてきたものであると感ぜざるをえない。  まるで西暦三世紀から四世紀の時点に逆流したような活発な趣きである。  この人たちは前述したように、宗教的アトモスフィアが濃厚で、その上、十数世紀の生活環境からして、人間よりは動物と仲が良い。  男は、きわめて反逆精神にもえ、喧嘩っ早いが、自嘲的なオトボケ要素もある。しかし長年の圧迫生活に堪えてきた伝統で、根性はもっている。 つまり家庭的な夫としては、最高の存在であろう。しかし日本全国で恐らく未婚の男性は、残念ながら算えるほどもいまい。 希少価値をもつ国宝的記念男性であろう。「マンハントするなら、こういうのを見つけなさいよ、これぞ女にとってはダイヤ以上であろう」と、太鼓判を押し推薦する由縁である。  が、その反面「エケセテのイニシアルのつく女の人?」となると、これは、また問題が違ってくるのである。
「貴男がマゾヒズムなら別だが、そうでなかったら……千何百年も苛め抜かれてきた民族の女性が如何に強いか……体験者を探して聞いてください」としか、それは、書けない。  つまり女の立場からすれば、このエ姓の男性は、願ってもない夫の素質をもっているけれど、男の立場としては、この姓をもつ女性を妻にすることは、  「山の神のいけにえ」になるようなものだ、ということを敢えて忠告しておくしか、この場合、他にないようだ。
 さて、この希少部族は昔から人口がすくないので、エケセテネの同姓列では相手が見つがらぬ関係上、その一字下のオ姓、 つまり、「オ、コ、ソ、卜、ノ、ホ、モ、ヨ」を上につけている異性が、おおむねやられている。  だから前述の有名人の生母は恐らく、  小川、岡田、追山、小山田、尾崎。後藤、小島、近藤、小林。曾根、左右田。戸田、殿山、遠山、 富剛。野村、能田。星野、堀田、細川、穗瑞。望月、森出、持山、茂木。吉田、吉崎、横田、横川、の中の旧姓を、もっている筈である。 ということは、上記の男性は、「エケセの女性に引っかけられやすい」  という警戒警報でもある。立派すぎる妻をもつことが、如何に夫としては堪えられぬところかということが判る人は、 なるべくならば好んで火中の栗を拾うようなことはしないに限ると思うが如何であろうか。
このエ姓の国会議員は、衆参合わせて713人の国会議員の内、野党も含めて17人の少なさである。
 世耕弘成 江崎鐵磨 江田憲司 江田康幸  枝野幸男  江渡聡徳  衛藤征士郎  江藤拓  遠藤敬  遠藤利明  玄葉光一郎 関健一郎  関芳弘 手塚仁雄  寺田学君  寺田稔君    照屋寛徳    さて、世耕大臣を例に「エケセテネ」姓の考察をしたが、韓国への輸出制限問題では、理と正義は日本に在るのだから、反骨と頑固精神を十分発揮し、 所管大臣として安倍総理が途中で「政治的判断」をしても、首を賭けてでも日本国の為一歩も引かぬ交渉をしていただきたい。 そして、これらの議員は、純粋日本原住民の反骨と抵抗の精神を発揮し、与野党の垣根を越えて「日本を良い国」にして戴きたいと切に願うのである。