宮迫博之と吉本興業のドタバタから聞こえる 日本衰退の序曲


連日ニュースや情報番組で、これでもかというほどテレビは取り上げている。 識者やコメンテーター連中はここぞとばかり、尤もらしい大衆受けのする解説をしている。 こうしたテレビ業界に蔓延っている口舌の徒は信じられないし、庶民の浮ついた熱狂を煽っているに過ぎない。
私にとっては、タレントや漫才屋がヤクをやろうが、不倫をしようが、全く興味のない分野だが、 テレビのコメンテーターや学者、識者と云われるしゃべり屋の分析があまりにもお粗末で、事件の本質を突いていないのでここで一言苦言を呈してみたい。 そもそも、宮迫が「反社会的勢力」という、私に言わせれば、訳の分からぬ言葉だが、要は犯罪者共に呼ばれて「芸」をして、 金を貰ったのがけしからんという事だろう。貰った貰って無いでの食い違いも見苦しいが、しかしこれは間違っている。
そもそも「金」に色なんかついていないし、どこから、誰から貰おうが全く問題はない。 知っていてやったのなら確信的だし、知らなかったのならそれだけの話なのである。 詐欺集団から金を貰ったと大騒ぎで「被害者の側の気持ちになれ」との大合唱である。しかし、 現代程情報が豊富な時代、それを咀嚼も出来ず、次々と詐欺に引っ掛かる方が甘いのである。同情の余地は全くない。
昭和五十年代までの日本の芸能界は、ヤクザが仕切っていたのである。美空ひばり、鶴田浩二、勝新太郎、菅原文太など、 名前を挙げればきりがないほどヤクザとの交際は当たり前だった。飲ませてもらい、客を呼んで貰い、代わりに彼らはやくざのステータスとしての一面に協力してきた。 だからヤクザと義兄弟、舎弟杯の芸人や俳優はごまんと居たし、東映撮影所などはやくざだらけの時期もあったのである。 警察が怖いからといって、おもねり、従順になる必要は微塵もない。
「芸を見せて金を貰って何が悪いのですか」と開き直ればいい。それこそが芸人の心意気というものである。
近頃「フリージャーナリスト」と、御大層な肩書でテレビでは「大御所」として君臨している北野武が面白い解説をしていた。 吉本興業を「女衒(ぜげん)」と表現していて、これは当たらずとも遠からずと言える。少し解説すると、
この商売をやっていた者は江戸時代から、売春禁止法が施工された昭和三十二年まで全国に居た。各地から女郎(売春婦)になる女を買い集め、売春宿に売る。 売る前に、商品としての価値を調べるため、自分が必ず抱いて、顔の美醜や肌ツヤ、女そのものの具合を確認する。 「この娘は肌が白く餅肌で、あそこも良く締まり具合がいいので優良」「顔も可愛く具合もいいが、反応が鈍いので訓練次第で売れっ子になるから良」 等とランク付けし、それによって店に売る値段も変わるのである。 私はこの女衒というより、吉本興業や芸能プロダクションを「猿回し一座」と名付けている。
東京にもジャニーズを始め多くの「芸能プロダクション」があり、田舎のあんちゃんや娘っこを集め、 学芸会の延長のような拙い唄や踊りで売り出し稼いでいる。こんなのに熱狂している男女もどうかしている。
この宮迫問題の本質は、六千人とも謂われる、ろくな芸もない、馬鹿騒ぎや裸になって笑いを取るような、社会の半端者を集め、ピンハネで儲けている吉本の悪しき企業体質なのである。 今や吉本芸人(漫才屋)なくしてテレビは成り立たない異常事態である。 そして吉本は行政(権力)にも食い込んで大きな利権も獲得している。「笑いで地方を元気にする」とのお題目だが、おへそで茶を沸かしたいぐらいのものである。 笑いで雇用がいくら増やせるのか具体的数字を出してみろといいたい。そんな事で地方が元気になるはずなどない。 だから猿回しの親方的体質を捨て、古い二十世紀の「人いれ稼業」的体質から脱皮し、戦略的思考に基づいた企業戦略を立てなければならない。 猿回しの親方とか人入れ家業の親分と呼ばれたくなければ、当然の帰結だろう。
話は飛ぶが、近頃のテレビのMCと言われる、知ったかぶりでドングリまなこの宮根、子役崩れの坂上や、漫才上がりの恵らの、言葉使いには呆れる。 敬語の使い方が全くなってない。そして薄っぺらな正義感をかざし、どれもこれも傲慢な態度に呆れる。 スタジオにイエスマンの芸人やタレントを集め、MCとして己の意見に従わせ君臨しているさまは空恐ろしい。 吉本さん、タレントさん、芸人さんと「さん」付けを乱発し、自分も広義では芸人の端くれなのを忘れたのか、何にでも「さん」を付ければいいと思っている。 謙虚が過ぎれば卑屈が見える、というが、裏読みすればテレビ業界の「驕り」の裏返しだろう。 さて、このように物事の本質を見極め、分析すれば厳しい言葉にもにもならざるを得ない。
日本史ではこのについて、誤解が多いのでここに真相を書いておきます。 先ず、古い浄瑠璃の<愛護の若〉では四条河原にたむろする「細工の者」といったとでている。 さらに源頼朝の出したと云われる、頼朝御判28種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。だから間違いではない。 平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった。
しかし、本当は公家とよばれる藤原氏は捕虜として奴隷百姓にして働かせている者らは従順だったが藤原体制にまつろはない彼らは、 強制的に囲地に入れられた。
かれら原住民は藤原体制の奴隷になることを徹底して拒んだからなのである。 だから藤原体制は、奴隷になるのを拒む連中の許へ、毎年五月五日に限って石打ちに押しかけるのを許した。 何故なら、奴隷百姓は汗水たらして過酷な労働に追い立てられているのに、彼らは労働に従事せず、税も払わぬ部族だった。 だから百姓は羨ましがり、彼らを憎んでいたから日頃のうっぷん晴らしに年に一度に限り襲うことを官許したのである。
これを京では「院(因)地打ち」とよんだ、つまり人の上に人をではなく、その反対に人の下にわざとを作って、石つぶてで打ち殺しても構わぬものとしたのである。 官許というか公家後援があるため、白川とか山科、桂、大原といった収容所へ当日は群れをなして竹槍まで持って押しかけ、放飼いの鯉を戦利品として持ち帰って、 これ見よがしに竹の先に剌したのを、家奴隷も百姓奴隷も軒ごとにたてた。
これが後には「尚武の節句(本来は勝負の意味)」となり、現在の鯉のぼりになるのである。 しかし襲われる者達も黙って待っておられぬ。石合戦ゆえ小石の多い河原を確保するために、四条河原から加茂川一帯に住みつきだした。 が小石を押えるため石の沢山ある河原に小屋掛けしていても、石では食せぬし銭にならぬ。 そこで細工物をしたり、芸をみせてやむなく生きてゆくために銭稼ぎをした。後に役者のことをそう呼んだり、 河原埼権十郎といった名が生まれてくるのも、圧迫され通しの日本原住民系としては、石合戦への応戦の必要があったからであって、やはりそれなりの訳があるのである。 だから芸人(漫才、落語、講談師、歌手、役者、タレント、)という人間たちは、差別と弾圧、迫害され続け、風雪に耐えた歴史の中から、その抵抗の精神を芸に昇華させるから 素晴らしいのである。だが、近頃の芸人と自称する者たちにはこれが全く見られない。 「芸」と呼べる代物でなく、全くの五月蠅い馬鹿真似を芸と勘違いしている。
吉本に六千人と言われる「マンザイ予備軍」が居て、そのほか東京や地方にも「芸能」を志す若者を加算すると、何万人の労働しない半端者が居るのか見当もつかない。 さらに、オリンピックに煽られて「将来はスポーツ選手になりたい」という若者も多い。この日本開催五輪は大失策である。 世界的な投機家の、ジョージ・ソロス氏もオリンピック後の日本国衰退を予言している。 競技場や関連施設の経費を入れると五兆とも六兆円ともいわれる無駄な金を、有意義な事業に振り向ければよかったのである。
オリンピックも今や世界的な金儲けのビジネスになり下がった。こうした、人間生活にとって必ずしも必要としない、非生産性遊民が増えるとどうなるか。 人間は遊び好きな動物である。これから日本は高齢化、少子化、人口減少が進み国力は下がる一方なのに、労働しない人口が増大すると考えるとゾッとする。 こうした中、日本は人口増加のための、移民政策も、出産奨励策も全くとっていない。
また、中小企業の事業継続者不足も深刻で、若者が継続しなければ六百五十万人もの雇用喪失が懸念されている。 さらに、十五歳から六十歳までの引きこもりが六十万人も居るというら、この国の将来は真っ暗である。
そして、防衛省喫緊の課題である「自衛官候補生」も五年連続で計画割れで、国防の危機でもある。 古代ローマやギリシャも、奴隷に労働を任せ、市民はスポーツや娯楽に沈溺し滅亡の道を辿った歴史が在る。 テレビの食い物番組や、お笑い低級番組にうつつを抜かし、スポーツに熱狂し、国内外の情勢に怜悧な目を向けぬ腑抜けのような国民は、いずれ中国の属国に成り下がるだろう。