ハワイでシスコで大活躍の日本やくざ
ハワイは日本領土だった
女王を助けた国定一家の残党
桑港万華鏡(サンフランシスコ・カレイドスコープ)
アメリカ西海岸にあるサンフランシスコは、歴史的にも、古くから日本とは非常に密接な関係にあり、馴染みの深い都市である。
さて、一枚の紙にも両面があるように、全ての事柄には表と裏がある。片面だけを見てとやかく言うのはおかしい。これは常識である。
ところが歴史だけは近頃直ぐに「史実によれば」と軽々しく片側からものを言う。 かって、故吉川英治が朝日新聞に連載小説を書いていた頃、吉川の足を引っぱらねば自分が浮かばれないと「文字建設」に資金を出して、海音寺潮五郎が村雨退次郎らに、 「史実に拠れば」と執拗に繰り返させたのが始まりなのである。
自分では嘘八百を書き飛ばしていた彼が、史実、史伝と尤もらしく安売りしたのが広まって、定着して今に到っているのが真相なのであるが、現在流布している史実など、へそで茶を沸かしたい類のものである。
実際に、「史実」と言い切れるのは<大日本古文書><大日本史料><山科日記><看門御記>と五指位のものである。
ここでは<<幕末確定史料>><<カリフォルニア史>><<明治古老談>><<野史辞典>>等によって、幕末、動乱の日本からあまり知られていないが、多くの日本人がハワイや米国本土に渡り、 波瀾万丈の人生を送り、その土地の骨になった、その埋もれた歴史をシスコという土地から掘り起こしてみたい。
サンフランシスコの起こり シスコの黄金時代が始まる
そもそもここの土地というのは、スペイン人の宣教師が、フランシスコ派のカトリックの信者を引き連れて、初めて入植して来た時から、太陽の燦々とふりそそぐ非常に暑い土地であった。
そこで伴ってきた信者達に労働奉仕を求め(何はともあれ教会を)と、工事にかかったところが、真っ先に神の使いである牧師さんが暑さのためノビてしまったから、 天にまします我らが神(ゴット)より太陽(サン)の方がここでは強いからとそれを頭につけ「サン・フランシスコ聖堂」と命名したぐらいで、地名もそこから付けられた土地柄である。
さて、その教会の建てられた1776年というのは、日本では安永5年に当たり、老中田沼意次が賄賂(まいない)という賽銭をどんどん集め、教会の代わりに、 自分の田沼御殿を造らせたりしていた時代である。ところがそれから73年たって、日本の嘉永元年に当たる徳川第十二代家慶の頃になると・・・・・・。
サンフランシスコに流れ込むサクラメントの河を利用して、水車小屋を作っていたスイス人サッター大尉の下僕マーシャルが「ギッコン・ギッコン」音させて回る水車の羽からある日、 ピカピカする物を発見した。 それを分析所へ持ち込んでみると、そこの所員が怪訝な顔をして「何処にあったか」とマーシャルに聞いた。 マーシャルもその顔色を見て(ははあん、こりゃ何だな)と、そこは直感して、何食わぬ顔で大急ぎで水車小屋に戻ると、もうこれまでの仕事は放り出して、 ザルを持って川中へ入り、金捜しに躍起となった。 マーシャルが川さらいばかりしているのを怪しんだ大尉も一緒になって川さらいをしてみれば、黄金がザクザクだった訳である。
あまりのことに欣喜雀躍、マーシャルには「誰にも口外するな」と釘を差し、それからはかっての上官である大尉とマーシャルは砂金採りに精を出した。 ところがである。マーシャルは袋へ入れて持っていったのを、そのまま持ち帰ったつもりだったが、分析所の番頭達は、分析用に茶サジ一杯を取っておいた。 後でそれを試験してみたら「純度85%」という大変な鉱質と判明して大騒ぎとなり、未だ人口がいくらもいなかった頃なので、この噂は直ぐに広まってしまった。
最終的には「サクラメント渓谷には二十億ドルを超す金がある」という噂は全米に伝わることになった。 かっては丘の上に牧師さんを、日射病で倒して建てられた教会堂とそれを取りまく一握りの小さな村だったサンフランシスコが、この噂でたちまち人口が六千になり、一万になった。 やがてこのサクラメントの黄金時代(ゴールドラッシュ)の呼び声で一攫千金を夢見る人々がここへ集中、人口は一万から五万、それから二十万の大都会に変貌してしまうのである。
さて、シスコがゴールドラッシュの波に乗って殷賑を極めると、諸式全てが派手になってくるのも当然である。 それに、アメリカ自体に女が僅かしか居なかった時代なので(ヨーロッパの魔女狩りで数百万の女を焼き殺してしまった後遺症らしい)シスコも例外でなく、女性はほんの一握りであった。
だから男共は、サクラメント渓谷から掘り出した黄金で、女性の歓心を買うべく、色々な贈り物を求めた。
しかし、まだバラの花を捧げるようなキザな時代ではない。質実的な衣服、つまり布地が大いに要求されたことはうなづける。 この時代のチャイナシルクは、阿片戦争で清国を降伏させた英国が一手に販売権を握り、アメリカへはカナダ経由で入っていた。
そこでもっと安価にシルクを入手しようというので、ペルリが日本へ派遣されて(これが日本の明治維新の一つの口火になるのだが)下田に領事館を設置し、 日本産の絹布の輸入を図ったのである。
しかし、幕末までの日本女性というのは一般に地味だったから、日本絹は黒っぽい柄か、さもなくば友禅染のような、突飛な大柄しかなかった。
いくらゴールドラッシュに沸き返るシスコの女達が「シルク」「シルク」と叫んでもこうした柄物では彼女たちに向かない。また、 染色が日本絹布は昔ながらの草木染ときているから、脱色して染め直しもきかない。
つまり、シスコに昔から居るスペイン女たちでさえ「マンティラ」と呼ぶ頭掛けにさえ用いたがらぬ絹布では、これは致し方もなかったろう。 そこで現地シスコで自家生産しようという案がここにもちあがり、日本からまだ染色されていない生糸の束がどんどん出荷されだした。
しかしそれだけでは、とても需要に追いつかないから「蚕卵紙」と呼ばれる蚕の卵を付けた紙と、桑の木の苗が、日本の産地である野州や上州から集められ、これがどんどんシスコへ送られた。 「桑港」(サンフランシスコ)という当て字が今も残っているのはこの時の名残なのである。
さて、生糸の束の方はよいが、蚕卵紙というのは蚕の子が一枚の紙に縦横に張られている生き物である。現代のように空輸できる時代ではない。 太平洋を1ヶ月近くかけて蒸気船で送る時代だから、どうしても蚕に付き添っていくエスコートが必要である。勿論付き添いは、蚕を飼っている女なら申し分ないが、 当時の女性は今日のように海外旅行は好きではなかった。 それに上州などは(カカア天下に空っ風)と言われる土地柄で、亭主や子供に ガミガミやるだけのことで、メリケンくんだりまで添乗員として行こうなどという 勇気のある女が居るはずもない。 しからば男はどうかとなると、これまたメリケン行きとなるとロケットで他の惑星へ行くのと同じだろう。 だから、何処の商家の番頭、手代も皆青ざめて尻込みをしてしまう。 しかし蚕卵紙には、誰かここから人間を付けてやらないことには、悪徳商人が向こうにはいて「折角送荷してきたがみんな死んでいたから海へ放り込んだ」と、 一銭も送ってこないような手合いもアメリカには多い。 だからうっかり出荷もできない。といって、みすみす儲かる輸出を指をくわえて見逃す手もない。
そこで野州栃木陣屋の「出頭元締」である根岸多十郎は栃木上町、中町、下町の各総代共に強く談じ込まれて、国定忠治の子分で忠治の死後、 ろくすっぽ名前も戒名も貰えそうもない半可打ちの子分が土地にいられず、江戸へ流れ込んだが、そこへも住めず、またぞろ戻ってきてまだうようよ残っていた。
国定忠治の子分太平洋を渡る
一時は数千の子分を擁していた国定忠次である。ロクに親分の顔を拝んだことのない下っぱも何百となくいただろう。 そしてこれらは見つけ次第、牢にぶちこまれていて(どうせ奴らは無宿者で、寺の人別帳にも入って居らぬ者ゆえ、公儀御船方に見つかったとて、こちらは知らぬ存ぜぬで通せよう)と、 当時は国外へ出るのは御法度だったが、彼らに目を付けた。ちなみに海外渡航禁止、即ち”鎖国”の本当の意味は、珊瑚やギヤマンの密輸取り締まりや、キリスト教の問題ではなく、 これらはあくまでも、表向きの政治的なもので、真相は火薬の原料である硝石を密輸して各大名が反乱しては困るからである。 だから、入牢中の彼らを蚕卵紙添乗員としてメリケン船へ乗り込ませ、シスコまで送ったらしい。そして、船がシスコへ着いた途端、さっさと髄徳寺を決め込んで、逃げてしまった者も居た。
アメリカで刊行されている邦字新聞は十指に余るが、その中の羅府日報のK氏の説では、この時二人が日本からやってきて、シスコで逃げたのはカイチとサスケだということである。 カスケとサイチだとの説もある。
さて、スペイン語や英語の氾濫するシスコの町に放り出されたような二人は、随分と酷い苦労をしたことであろう。 しかし、元々が博打うちである。 日本男子のバイタリティーを十分に発揮して、同じ有色人のよしみで、当家と呼ばれていた清国人や、キューバやジャマイカの肌の黒い連中も従えて、 国定一家のアメリカ分家のようなものを作り、サイコロ賭博を行っていたらしい。 このままでいってくれたら、まあ国定一家はおおいに日本の任侠道を広めてくれたかもしれない。しかし、月にむら雲の喩えもあり、そうは順調にいかなかった。 なにしろ、当時のシスコは、ゴールドラッシュで人口は鰻登りに増えたものの、南部と北部の対立に明け暮れしていたアメリカ合衆国は、準州にも加えず、放りっぱなしの状態だった。 だから、引き続きスペイン人の治安判事の統率下にあって、赤服のカーニー軍の兵隊が警察権を握り、シスコの巡邏をしていて、これが一にも賄賂、二にも賄賂である。 (ここから便宜上、加助と佐市と漢字で書くことにする)
加助や佐市の国定一家の盆にも、鉄砲を持った兵隊が来て冥加金を取っていく。日本ではこんな時は、さしずめ殴り込みだろうが、異国の地では何せ武器もなければ頭数も少ない。 スペインとカリフォルニアの摩擦は、ゴールドラッシュが始まってからは、土地の人気が荒くなっていたせいもあり、記録では1849年夏に、モンテレーに集まった住人がスペイン軍に反抗して、 自治警察制度を叫ぶ大会を持って騒動になった。さて、こうした反目の続いているとき、アメリカ合衆国大統領ポークが、スペインに対してキューバ島の買収を申し込んだものだから、 「我々はキューバを他へ分割するよりは、むしろ大洋の海底へ沈んでいくのを見る方が望ましい」と拒否されてしまい、 「それでは実力行使で」と、キューバへ渡ったロペスやその一党はスペイン軍に捕らえられ、銃殺されてしまった。 そこでアメリカはスペインの首都マドリッドにソーレ大使を抗議に送った。このため現地スペイン軍は「おのれアメリカ野郎め」と、時来たらばカリフォルニアを奪還しようと秘かに兵力を増強していたのである。
ところが、これに対してロッキー山脈を探検したり、カリフォルニア征服にも功のあったアメリカ人のジョン・G・フレモントはこの形勢を憂い「危機である」と叫び、新聞にも所説を発表した。 だが彼は、共和党に所属し大統領候補に立ったが民主党のブカナンに負けたから「選挙に利用せんが為の放言だ」と軽視された。 為にカリフォルニアの危機は放って置かれたので、シスコの人達は「このままではスペイン側に何をされるかも知れん」と、戦々恐々として自衛策を講じだした。 しかし先立つものは武器弾薬である。すると当時ブラウンという過激派が居て、これがバージニア州ハーバスにある合衆国海軍兵器庫を襲うという情報が入った。
「シスコ防衛のためである」と血気にはやったカリフォルニアの連中は、それに合流し、ロバート・E・リー海軍少佐の海兵隊と戦って分捕った武器弾薬を持ち帰った。 一方、シスコの反対側、大西洋岸では、サウスカロライナ州のチャールストンに、ブカナン大統領の命によって、サムター要塞に届ける軍隊と食料を積んだ汽船が入港してきた時のこと。
南部同盟政府の軍隊がこれに砲撃したため、スペインとシスコの戦いより、アメリカ国内の衝突が先に始まってしまった。サムター要塞の北軍も、 汽船を擁護するため南部に応射した。ここに三月四日、ブカナンに代わってリンカンがワシントンに入って大統領に就任し、要塞のアンダーソン少佐に対して 先ず籠城に必要な食料を陸路から送ることにした。
南北戦争始まる
加助と佐市スペインと戦う
四月十二日、南軍は総攻撃に出て、アンダーソン少佐は猛火に包まれた要塞を丸二日間にわたって持ちこたえたが、ついに死傷者続出で開城のやむなきに到る。 これまでの合衆国政府の「星条旗」(スターズ・アンド・ストライブス)は下ろされ代わって新しい「星と横木旗」(スターズ・アンド・パーズ)南部同盟旗が、くすぶる要塞にひらめいた。
ここにおいて、合衆国大統領リンカンは「七万五千の民兵に三ヶ月の兵役」を布告しこれが有名な南北戦争の始まりである。さて、 戦火はこうして大西洋岸で始まったが、二十日には太平洋岸のシスコにも、この国内戦の情報は入ってきた。リンカンでさえ、初めは長引くとは思わず、三ヶ月の予定と見た南北戦争だが、 シスコではなおさら形勢がはっきり判らないから、住民達の騒ぎは大変なものだった。
するとこの混乱を好機と見て「アメリカが国内戦を始めだした。最早こっちまで手を出してくる気遣いはあるまい」と高をくくったスペインの判事は、直ぐさま 軍隊に軍鼓を叩かせシスコの町に進駐してきた。 後、明治三十一年にアメリカとスペインの戦争が起き、スペインが敗北してフィリピンまでアメリカが占領する頃になると、誰も赤服のスペイン兵を見ても恐れなくなったがこの頃は、 「エスパニョール」といえば、赤鬼ほどの響きがあって、女子供達は馬車に荷物を積んでリッチモンドの丘へ逃げ出した。
この時、日頃寺銭はさらっていく、客の張っていた場銭までも持って行かれ、やりたい放題をされ、腹に据えかねていた加助や佐市たちも子分共を引き連れ、シスコ側に立って長ドスに縄襷といういでたちで、
「上州長脇差の晴れ舞台だ。流れ流れてメリケン三界、死んでこまそ」とばかり、突進し、勇敢に戦い死んでしまったらしい。 南軍が降伏し、慶応元年には南北戦争も終わり、カリフォルニアもやっと合衆国の一州になり、シスコは西部第一の大都会に変貌した。
シスコで戦勝祝賀パーテイがリッチモンドの丘で開かれた時、戦争中、赤服と戦った人々の武勇談義の花が咲いたが、誰一人として、加助や佐市の壮烈な死を覚えている者はいなかったということである。
洋の東西を問わず、ヤクザの末路は何処でも皆同じで、所詮、虚しく儚いもののようである。ちなみに、今アメリカの博打場のカード切りやルーレットの玉回しのことを、 ベガス当たりでも「テーラー」と呼ぶのはこの時、加助と佐市が勝った方から一割を「寺銭」にというので、日本語で「てら」「てーらー」と言ったのが、言葉の語源だと、マフィアのトロピカァナのボス、 H・ジェンズが言っている。真偽は定かでないが、在りそうな話である。
各人種の集合体であるアメリカゆえ、幕末に日本から渡ったのは、何も国定一家ばかりではなく、埋もれた歴史を丹念に掘り返していけば、意外と多いようである。
紙数がないので簡単に記すが、明治十四年には、ハワイ王・カラカウワは、その後継者のリリオカラニ姫の婿として、日本人をと希望した事実がある。 しかも時の皇族である、山階宮様を求めてきたのである。 この宮様はこのお陰ですぐ「小松宮」と名乗りを変えられ、後に「東伏見宮」になられたお方である。 勿論、この時の日本の宮様がハワイの王家も継いで居れば、その半世紀後に、真珠湾の奇襲作戦を強行することもなく、大東亜共栄圏が明治時代に出来上がっていたかも知れないが、 当時そこまで先見の明のある、具眼の士はいなかったらしい。
なにしろ、ご当人の宮様でさえ「そんな毛色の違った女は嫌だ。遠いハワイなど恐ろしい」と仰せられる一点ばりで、翌年正式に明治政府は親書をもって、これを謝絶してしまっている。 なにしろ西南戦争の終わったばかりの日本では、太平洋の真ん中のハワイ等どうでもよく、それより国内戦で疲弊した経済と、インフレ対策に手を焼いていた時代なので、
ハワイ国王が、アメリカの侵略から自国を守るために、同じ太平洋に面している日本と、何とかして同盟したがっている。 と、察する余裕が全然なかったのだろう。又この時、 何故ハワイ王が日本人に次の王位を譲りたがっているのか? まさか日本人を全然知らずに、そんな重要な申し込みをする筈もないから、王の側近にれっきとした日本人が混じり込んでいるのではないか? という疑問を起こす者がいたとして。
その日本人が、王を説得するほどに有力な存在なのか? またその日本人が、ハワイ王に感じ入られる程の、素晴らしさを持っている者であるのか?ではその日本人ははたして誰なのか。 と、探りを入れて調査でもしていれば、一切の事情は今日とは全く違ったものになっていただろう。本当に惜しみてあまりある話である。
日本からすげなく断られたハワイ王は、ハワイの安全保障を念じ、赤道の向こうにあるサモアと提携しようとして、王自ら船に乗り込んで直接交渉に臨んだのである。 だが、サモアを独立国のつもりで訪れたのだが、ここはすでにドイツのカイゼルの手がのびていて、ハワイ王と会見したばかりに、サモア王のマリエトはドイツ軍艦のアドラー号に乗せられ、 遠くアフリカのドイツ領植民地、カメルーンへと流されてしまう。 ちなみに、この当時ハワイ王の側近におり、親衛隊長か侍従武官のような役目をしていた日本人は、維新のドサクサでハワイへ渡った、祐天仙之助(本名・山本仙之助)の子分達三人だったらしい。
明治六年、正式に日本移民がハワイへ渡ってからの百年祭に、常陸宮様御夫妻が訪問されたのを機会に、負けはしたがハワイ独立運動に、 リリオカラニ姫を守って勇敢に戦い、死んでいった彼らのために、山梨県人会の人達の手で、「甲州男児熱血碑」がホノルルの北の丘にある、 パンチボウルというハワイの二世の四四二部隊一○○部隊の勇士の墓と一緒に建てられている。