「古建築秘話」に見る日本史の裏側 法隆寺を造ったのは誰なのか
寺大工と宮大工の違い お宮と神社の違い
出雲王朝高天原論考


昭和三十七年に鳳書房から刊行された「古建築秘話」は日本書紀に合せているものの、まことに日本通史を裏返している点では、貴重な、希有な建築学上からの伊東平左衛門の後世に残したい研究書であるが、 刊行書房は廃絶になっている。遺族は著作権法を楯にとって覆刻を許可しないそうである。こうなると研究者には、実に残念で堪えられないことである。
伊東家は慶長年間から三百余年続いた宮大工で、伊東氏は大正十一年、十一代目を継いだ。全国の寺社の設計、建築二百四十件を手がけた。代表作に出雲大社の拝殿下谷神社(東京)などがある。 二十八年にはニューヨーク近代美術館庭内に展示する日本の古典住宅の建築を担当。四十五年勲五等瑞宝章。長男要太郎氏は中部工大教授で、文化財の保存技術の研究者、 二男延男氏は文化庁建造物課長という立派な御一家のせいからであろう。
さて、伊東平左衛門氏他界の節の中部日本新聞の当時の死亡記事をみれば、頑なに遺族が、研究者には渇望の幻の本が陽の目をみないのも、こうした立場の遺族をもっていればやむを得ない。 せっかく故伊東老は心血を注ぎ一冊でも読んでもらいたいと出版したが、あわれ黙殺されたままで、再版もできなくては故人は死んでも浮かばれまい。こうなれば、著作権法は有難迷惑である。 昭和三十七年といえば四六版並製の本の定価は百円から百二十円。上製でも二百円であった。
七百円の定価は三千部ぐらいでも高くて売れず鳳書房は倒産したが、今のように神田の書店が第二流通機構を独占支配していなくて、特価書籍とか特別定価といったゾッキの本屋のあった頃ゆえ、 三千部のうちで二百部は知人に贈り取次経由で書店で売れたのが刊行部数の一割。残りの二千五百部が定価の一割でゾッキ本で卸され、倍の売値でも消化できず一冊二十銭でつぶされ、 この貴重な本は残されたのは四、五百部で、後はトイレットペーパーの製紙原料にされてしまったらしい。良貨は悪貨を駆逐するというが、こうした良書は復刻されない限りは、まったく消滅してゆくのである。 さて何故こうなったかの理由を改めて尊敬しつつ、ここで書く。
伊勢皇大神宮は昔から「宮」がつくから誰も何も考えず、明治神宮ができてから「宮」は、初めて畏れ多い存在と一変した。しかし元来が、社と宮とはまったく違うのである。 かしこくも御所におかせられても皇位継承の御方には「宮号」はおつけにならない。 もっとも拝む方にしても「社」はカラ神つまり韓国系のカラ神さまであって「宮」とつくのは、反韓国系つまり海洋渡来の黒潮による日本原住民のものとされ、それゆえ、一般の原住民の末孫は、 それゆえ「お宮詣り」とはいっても、決して「お社詣り」とは今でも言わないのである。 明治大帝の神宮ができてから、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」の法制化みたいに今では、かつての区別がもはや、すっかり混同されてしまって「宮大工」が、さも「寺大工」 よりもはるか上位のごとくにも誤解を与えているけれど、これは違うのである。
山に自生の樹木を切り、炭焼き羽柴木売り、そのまま植える造園業。その樹木や草からの昔の染色業は、日本原住民の限定職として幕末まではっきりと区別されていたが、宮大工は日本原住民系である。 織田信長だけは解放のために、岡部の又左とよぶ宮大工に、バテレンの設計図で安土城を造営させて築城をさせはしたものの、信長の死後になると、またもとの侭の被差別の対象にされてしまったのである。 一説では岡部の又左は、もとの徒弟だった加藤清正に引き取られ、肥後にゆき晩年は死ぬまで土木工事や建築の監督をしたとも伝わる。
しかし寺大工というのは、当初は日本海を渡ってきた高麗人の高麗尺によって建築や後にいう「さし物」つまり今のハヤミズのような家具や戸襖を作った舶来職人で、宮大工の上だったようである。 後に江戸時代になって、貞享二十年代以降になって、 五街道目付が赤の道(堂)の者のハイウェイパトロールになった。同宗の赤の「八つ」の者は伝達をつけてもらい都市へ流入した際に、金をだして町人別を購入したり、永代供養料を納めて寺人別に入った者の他は、 当時はもはや人べらしの行革で、人別には入れなかったのは、無宿者として、公儀は佃島と千葉へ強制収容し、今でいえば職業指導をした。が原住民は限定職なのに公儀の方針として指物師やふつうの大工の徒弟の訓練。つまり仏を信じさせ舶来業につくように寄せ場でしたので、江戸後期にな ると、まったく区別が混同してしまった憾みがある。
しかし、地方では宮大工というのは獄門台や張付柱といった被差別課役だけを強制的に押しつけられていたのである。つまり「宮」は大工でも地方では仏教側の被差別語だったのは紛れもない事実である。 それが明治神宮の御名から、大正時代より誤られて由緒正しいもののごとく誤伝されだしているのを、その家柄の者はよく知っているので、宮大工とよばれるのを、日本原住民史が解明されていなかったので誤って、 みな誰もが極端に忌み嫌ったものらしい。 つまり時代の変遷で北条政子や織田信長の時代は、解放で宮大工がすべての工匠の頭梁で輸入宗教の仏教の寺院などは蔑んで建立しなかったが、五代将軍の神仏混合令の発布からは、 社有地や社領のある社や宮も坊主の被占領物となり、明治になっても大阪の四天王寺などは凱旋門のように鳥居を、わざわざ持ってきて建てたのを残していた。 廃仏毀釈で荒らされ寺の像が毀されるのを防ぐ為もあったという。
伊東平左衛門の「古建築秘話」では、法隆寺の各寸法をカネ尺の9寸8分に1.2を掛けた曲尺1尺1寸7分6厘の高麗尺で割ってゆくとぴったり割りきれるゆえ、この建物は、 「大化の改新」以降の諸建築物は唐尺で作られているゆえ、騎馬民族の高麗尺が使われたのは、日本海をば渡ってきた日本原住民の制作したものであって、当時は奈良が都ではなかったから、 日本海の出雲に建てられていたものを、攻め滅ぼし戦利品とし権力で移したのだと主張する。
裏日本を流れる寒流は、沿海州や高麗の羅津から日本海を渡って、新潟や能登半島に突き当り、そこで二つに分かれて右へ行けば青森、左へ向かえば出雲だから、あながち仮説とはいえまい。 だから原文をその侭に紹介すれば、 「奈良の法隆寺が昔ながらそのままで現代まで残ってきたものだと思っている人が多いようである。一万円紙幣には、聖徳太子と、夢殿の絵が印刷されているので、あたかも聖徳太子が、 現今見られるような夢殿の内に起居されたようにも想像されているようである。かように簡単に考えて、それが間違いでないとして、済ましてしまえば甚だ安易なことであるが、 しかし、それは真実でないことを銘記しなければならない。
法隆寺については、今を去る七十数年の前から、既に疑問が起きていて、次に再建説と非再建説の両論に分かれ、以来その論争が、激しくしのぎを削り合ってきている。 再建論というのは、天智天皇九年に全焼し、その後において再建されたとして、法隆寺建築のみならず、同寺所蔵の芸術品までも、推古天皇の時の作品とはいわれない、とまで発展させてゆく。
非再建論は、焼けないものが残っているのだ。法隆寺は焼けたことはあったとしても、それは若草伽藍と称せられる堂と塔とであったのであろう。 現今残っている堂塔は、創建そのままの法隆寺の伽藍の一部であって、決して焼けたことのないものである。正に推古天皇の時の作品だ」と主張する。
ここに一言したいことは、非再建論の内に、建築物の尺度を測り、それで年代の限界を調べようと試みたことがあった。これは建築史内に、数理による科学的要素を加えようとした画期的な方法であった。 即ち、高麗尺を算定し、法隆寺建築のみならず、各古建築の各部寸法を測り、高麗尺を当てはめ、各長さに完数を求めて、建築当初の設計を推測することである。 そこで高麗尺を、曲尺の九寸八分に、1.2を掛けた曲尺の一尺一寸七分六厘と定めて、法隆寺建築の各寸法を測定して、これを高麗尺の尺度で割ることによって完数を求め、これにより、 おおよその一尺一寸七分六厘を尺度とする物差を用いて作ったものと認め、そして高麗尺は騎馬民族時代に用いられ、大化改新以後は唐制にならい、唐の大尺を採用し常用したのだから、 高麗尺を用いた法隆寺建築は、推古朝の頃に日本海に面し建造されたものに相違ないと結論した。これは非再建論に決定的優位を与えたようにみえたが、こぞって実際は反対された。
反対論の大要を述べれば、法隆寺等の古建築が高麗尺により設計されたと信ずべきとしても、大化を以て、高麗尺と唐大尺との使用の限界となるとは、それは単なる反仮説である。 故に高麗尺で作られたとしても、大化以前のものとする根拠とはならないというのだそうである。 この尺度論につき、いささか私見を述べれば、寺の建築物は、物差を用いて作らなければ建てられないと称してもよいのであるから、古建築に尺度を当てはめてみることは良策といわなければならない。 しかし近世建築ならば可能性も多いが、法隆寺建築のような工作法上頗る粗な建造物に、尺度を求めることは困難である。解体したとき、引き墨を検討すれば、比較的正確さを期することができるが、 建っているその侭のものから、建物の寸尺を測って、正確な寸法を求めることは非常にむつかしい。
また、高麗尺は、文献によれば、大宝令前の尺であっても、推古朝に用いられたものだということは断言できない。ただ想像により、後魏の尺が用いられそうなものだと思うだけである。 高麗尺は東後魏尺(東魏尺)から出たものだと称せられる。高麗は東後魏に近かったからでもある。東魏尺は後魏大和尺と同じであることは、文献通考によって解る。 そして後魏尺は、曲尺の八寸程ということも判る。故に東魏尺を小尺とした大尺の長さは、約曲尺の九寸六分とみてよいのである。そして令集解に記された、慶雲三年九月十日格により、 高麗尺は唐大尺より僅かに短いことが推理される。 唐大尺はおよそ九寸八分位と思われるので、高麗尺は曲尺の九寸八分よりも、少し短い尺度であることが判っている。故に曲尺の九寸六分程でよいのであるから、ここさえ理解すれば一目瞭然。 東魏尺につき数字的説明以下に左に記すこととする。
『文献通考』に記された東魏尺は、実比晋前尺一尺五分八毫(もう)である。文献通考の書物の中でも、誤植のものがあり、それには実比晋前尺一尺五寸八毫としている。 この誤字の文献を盲信し、その上、晋前尺を八寸と仮定して次の如く計算した。0.8尺×1.5008=1.20064尺 これを以て、高麗尺を曲尺の一尺二寸だと推定の誤説が信じられている。だが、これは研究不足というものである。特に文献は選択に心掛けねばならないもので、徒らに盲信することは大禁物である。 東魏尺は実比晋尺前尺一尺五分八毫であり、そして晋前尺は、曲尺七寸六分と推定をなしているから、東魏尺は、0.76尺×1.0508尺=0.798608尺と、江戸期の狩谷掖斎の計算によってみても、 東魏尺は約曲尺の八寸程であるのが正しい」と、専門的な立場から、つまり1メートルが曲尺の三尺三寸から推して法隆寺なる建物は、仏像をおいたから奈良へ移送され寺に化けたが、 もともとは出雲で建てられた王宮で、制圧され勝利品として奈良へ解体して運ばれてきて、韓国人か中国人の工匠の指示で、改めて建て直されたものとみられる。
つまり法隆寺は出雲より運ばれてきたものであることが、はっきりする。 そして木村鷹太郎は、厩戸で生まれたといわれる聖徳太子の存在は、イエスがやはり厩で生まれたという降誕とあまり相似しているから、これは日本の聖徳太子伝説はキリスト教を巧く利用したものではないかと、 俗にイエスさまと崇められるのは吾が聖徳太子ではあるまいかと、「海洋渡来日本史」には書いてあるが、伊東平左衛門は、いわゆる日本書紀にでてくる聖徳太子は、 寺の仏教信奉者によって創作された架立の存在であって、本当は建築寸法から割り出しても出雲で法陵宮にあらせられた聖徳王を殺してから、その名をとったというのである。 科学的な理づめの尺貫法で、いまの法隆寺や夢殿建築のものは天孫系と称するトウ製ではなく、寒流で羅津から日本にはいてきて、滅ぼされた日本原住系らの出雲での建築物と立証されてしまうと、 壱万円札の聖徳太子の有難味も虚像となってしまい、むなしくなってしまう。