新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川家康が作った「鎖 国」の真実

2019-08-18 19:27:49 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

 徳川家康が作った「鎖 国」の真実

 

 元和元年五月八日に、かねて懸案の大坂城を、どうにか仕末して豊臣家を滅亡させた徳川家康は、当時江戸中納言から征夷大将軍になっていた伜の秀忠をよびよせると、  「長年の宿願をとげ、やっと握った天下の権ぞ。孫やその末に到るも、これを手放すではない……それに、もはや合戦というものは槍や弓の時代ではのうなって、 一にも二にも鉄砲や大砲の世の中になってしまった」と洩した。

「……仰せのとおり」と秀忠が畏まると、「うん」と家康も白毛のとび出した眉毛を揺さぶり、ひとつ軽く咳ばらいをしてから、 「さて云わでもの事ではあるが、いくら良うできた大筒や小筒にしたところが、こりゃア玉薬がなくては弾丸も砲丸も飛びはせぬ。 ところが、木灰一割、硫黄一割五分、煙硝七割五分の調合の内、灰は問題ない。硫黄も薩摩から入る。だが煙硝だけは当国では、ひとかけらも産出せぬ。 よって信長の頃は泉州堺の商人どもが一手に輸入して儲けおった。次に秀吉は呂宋(フイリピン)からの船に頼って火薬を入れた。 そして信長殺しに本能寺へ投げこんだ火薬が、天川(マカオ)のポルトガル人よりの到来物とは、世間に知られたくないゆえ、表むきは天主教禁圧ということにしてポルトガル人を追った」  「……存じ居りまする」合点して秀忠が、又それにうなずくと、

 「うん、考えてみれば、元亀天正の世でも大名共も良き硝石を入手したさに、訳けも分がらずに伴天連坊主を大切にし、勝手に布教など許したものである。よって南蛮坊主共は己れの都合で、 洗礼した大名には良き火薬をあてがい、信心せぬ大名や布教を許さぬ領主には、これをぶっ潰してしまえと細工を致した。 つまり戦国の世というは、表むきでは吾らが血みどろになって戦ったようにもみえるが、 裏へ廻れば南蛮坊主の火薬補給という糸にあやつられ、吾らは傀儡だったのだ。つまり操り人形にすぎなんだのじや……分かり居ろうのう」

 かんで含めるような云い方をして見せた。「よく存じ居りまする」秀忠は顎をひいて大きく点頭してみせた。  「世の中を落ちつけ、天下泰平を保つためには鎖国しかない」かねての腹案らしく、家康は年よりらしいせっかちな云い方で結論をもう出していた。  「……さ、鎖国とは」言葉が難しかったか、秀忠は聞き返し。「とざす国と、唐の文字ではかくのだ」  指で掌になぞって見せてから家康は、   「……いくら南蛮坊主共が、やれ天国だの地獄だのいうて天帝の教えなど弘めにきよっても、そないなものは格別どないな事もない。それより難儀するのは、 やつらが信者になった者を手足のごとく使い、この国では一かけらも産出せぬ硝石を輸入し、それを自分らの都合で諸大名に売り渡すことじゃ。  ……火薬がゆきわたれば西国大名の謀叛は目に見えとるというもの。よって秀吉時代と同前に、まず南蛮坊主の伴天連どもを追払ってしまえ……やつらさえ入ってこねば、 まさか、足のない硝石の樽がひとりで転ってきもしまい」と自分が先にひとりで頷いてから、

「表むき硝石を勝手に入れることを停止したからといって、抜け荷買い(密貿易)をされ秘かに輸入されては、こりゃ手の施しようもない……よって抜本根源策に『伴天連門徒停止』の名目で、 眼の玉の変った者や、それとくっついた女、その子供らは、これ悉く追放となし、門戸をしめるようにも、国を鎖してしまうのじゃぞ」と、いってきかせた。  「……恐れながら」秀忠は当惑げに顔をつきだし、  「そないに国を鎖してしまいますると、わが徳川の家にも、硝石が入らず、もしもの時には難儀を致しまするが……」と口を挾んだ。  「何をかいう。心許ないことを申すな……何処ぞに一ヶ所だけ、わが徳川家専用の港をもうけ、そこから徳川家だけが硝石を輸入し、他の大名には一粒もゆかぬよう致すのじゃ。 つまり独占輸入法というやつよ」カラカラ乾いた声で家康は笑ってみせた。

「……ならば駿府や江戸に近い今切(現在の弁天島)あたりに定めましょうや」と秀忠が云えば家康は首をふり、 「そちゃ若いのう。苦労がたらんぞ……」綻ばせかけた頬を、また固くひきしめ、 「もしも硝石を輸入している港を誰かに押えられてみい。あと木灰と硫黄さえもってくれば、すぐにも火薬ができる……よって、そこから駿府や江戸へ攻めこまれたら何とするぞ。 だから近くは危ない、遠国かよい。もしもの用心じゃ。九州の平戸あたりとなし、それでも念のため出島など築いて、南蛮人どもの往来は固く禁ずることよ……そんで、 そこ以外は国の戸締りを固くなし、鎖国をもって徳川の家の安泰を計るのじゃぞ」と厳しくいいつけた。

 秀忠「長崎出島」に火薬輸入拠点を造る

 そこで、徳川秀忠は命ぜられた通り九州の平戸に、出島を築くよう埋立て工事を命じたが、その内に年改った元和二年四月十七日。 家康は駿府城で他界。その葬儀や何かで延引していたものの、平戸出島ができると八月八日。

 「きっと申し入れ候。伴天連門徒の儀は、相国(家康)さまが仰せ出されし御遺言にて、これを堅く停止。下々の百姓に到るまで右の宗門に入りその手引きをせぬよう、 入念に取調べをなしオランダやイギリス船は、もし自分の領分へ入ってきた時には、決して直接取引はなさず、必ず長崎表の平戸へ廻るよう命じなされたく、 この旨を(将軍家)上意により、かくのごとく通達申し侯」といった老中連署の命令を各大名の江戸屋敷へ配った。これは「徳川家令条巻十八」に記載されている。  さて元和九年(一六二三)七月に家光が三代将軍に即位し、一年おいて寛永二年になると、

「天川(マカオ)人一斉にお払いだてのお布令」  つまりポルトガル人に限っては、特に芳しからぬ事が前にあったからという名目で、先の将軍秀忠が、一斉に国外追放を命じ、長崎の出島といえど居住することは厳禁した。 (これは、その四十年前の本能寺の信長殺しに使用された強力爆薬が、マカオから渡来のポルトガルの伴天連によって、提供されたものだという秘密が、一般に広まりだしたので、 徳川家の為にポルトガル人だけを永住禁止にしたらしい)  もちろんこの後になっては、  (硝石を持ちこんでくるのは、何もポルトガル人だけではなく、南蛮人はみな危険なり)  という結論も出たらしい。しかしこれは治安維持のためで、米国では何処でも一挺三十ドル位で手軽に入手できる拳銃を、日本だけは、 持ちこんだり蔵ったりしていると「不法所持」として体刑処分にまでされるのと同様だが、  寛永十年 二月二十八日付、  寛永十一年五月二十八日付、  寛永十二年五月二十八日付、  寛永十三年 五月十九日付、  毎年のように、徳川家安泰のため、火薬を輸入する恐れのある南蛮人やその系類を追払うために根気よく各大名に通告をだした。  しかし何時の時代でも頭の良い人より悪い方がともすると多いとみえて、

「鎖国とは切支丹弾圧」だという早呑みこみというのか、感違いをしてしまった大名も多いらしい。家康や秀忠の真意が硝石独占輸入であるという裏肚までが呑みこめず、 もっぱら領内の切支丹狩りをしては、これを片っ端から惨酷な処刑で処分した。

 もちろん、こういう恐怖政治をしていた方が領民を弾圧できて、年貢米の取立を厳しくして苛斂誅求するのに、きわめて好都合のせいもあったろう。 が、この寛永に入ってからは例年のごとく出された布告のしめくくりみたいな、寛永十三年五月のものでも、  「南蛮人はもとよりなれど、その子孫や系類の者も領内に残して置かぬよう堅く申しつけること。もし命令に違反し残して置くようなのがいたら死罪となし、一類の者も厳罰」 「南蛮人が作った子は、片親がこちらといえど養子などにして引取ってはならない。そのようなことをすると自然と成人してから、向うと行ききをするか文通などを生ずるからである。 もちろん当人には死罪を申しつけるが、それに関連のあったと思われる者は一人残らず取り押えて重刑に処するものである」

 といった内容で、宗教問題より、硝石をもちこむ危険のある南蛮人や、その系類の追放にだけ重点かおかれている。つまり、  「切支丹を追放するための鎖国」と、今の歴史家も、そのままの受け売りだが、林羅山以前の布令を良く調べてみれば、 当初は火薬の輸入を徳川だけが握って独占するため、老獪な家康が掲げた表看にすぎない。

 だからこそ幕末になって長州や薩州が、英国から直接に火薬を輸入するまでは、徳川三百年の泰平が悠々と続くのである。 (幕府が輸入していた硝石は、江戸は西の丸に、大阪は天満与力が管理していた。)  さて、国外追放にされた南蛮人の身よりの他に、大坂冬と夏の陣で逆徒として追捕され、もはや日本にいては陽の目も望めぬ豊臣家の残党も、 やはり逃亡奴隷の恰好で次々と当時は海外へ流れ出ていた事実が在る。  しかしジーゼル機関の発明される前で、貿易風と季節風か交互にふくのを利用して、「船は帆まかせ、帆は風まかせ」の時代だったから、近くの天川あたりへ行くつもりで、 現今のベトナムの安南へ行ってしまったり、南支那海へそのまま風にもってゆかれて、「シンガポール」が尖端にあるので知られているマライ半島へ辿りっき、 ここに住みついていた日本人も、かなり当時は多かった。

 現在では一九六三年九月に、マラヤ連邦が旧英領のボルネオとシンガポールを一つにして、「マレーシア」とよばれている。  だが、この頃はモジョポヒトの一族が戦火で追われて、ここへきて魔羅津加王国をたてていた。そして日本では北条早雲が、関東で覇をとなえた永正八年に当たる一五一一年に、 ポルトガル人の火器によって、この、「マラッカ王国」は一世紀で滅ぼされ、占領者のダルブケルクが、 ポルトガル王セバスチャン家の命令によって統治。「総督」としてダルブケルクの孫が、マラッ力海峡に面したマラッ力のベンハーの丘に宮殿をたて、 ここでマレー半島に君臨したが、国名は魔羅津加から「バハン」に変えられた。