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先ほど、南養寺の由緒書きに千丑(ちうし)という地名が出てきましたが、次は千丑へ向かいます。
畑が広がる中を歩いていると、右手に「谷保の城山」が見えてきました。
谷保の城山は中世城郭跡で、城主は三田氏と伝えられ、現在でもその子孫が城の主郭跡にお住まいです。
三田氏というと青梅の三田氏を思い浮かべますが、それとの関連については突っ込んで調べたことが無いため今は話せません。
国立一小の前から甲州街道へ出ます。
うわー、なんか今日は異様に車が少ない。
歩道橋を渡りますよ。
西側、立川方面。
右の方にはいつもの大岳山が見えています。
東側、谷保天満宮方面。
ああ、そういえば現在の国道20号線は谷保天満宮のちょっと先の「国立インター入口」交差点で日野バイパスへ向かうのがそのルートとなっており、今現在、「甲州街道」といった場合はそのルートを指します。
ということは、ここよりすぐ西側の「日野橋」交差点から先は奥多摩街道と新奥多摩街道に分岐しており名称が明確ですが、いま私がいる「国立インター入口」から「日野橋」までの約3.4㎞に渡る部分って、何て通称すればよいのだろうか?
この道は仕事で毎週のように走っていましたが、実はこんなことを考えながら運転していたのです。
さて、昔は千丑といわれた辺りを歩きます。
おや、何やら神社と説明板が見えますよ。
道路から少し奥まっているので、今まで気づきませんでしたが行って見ましょう。
普通に一般のお宅の敷地の中です。
説明板は呪力ズームで撮影。
あんまりジロジロ覗いているのは良くないので退散します。
さて、次は石塚と通称されている古墳へ向かいますが、いまいち場所が分からないですね。
困った時はスマホ!
普段はガラケーで十分なんですが、スマホはこういうときに活躍します。
一応、スマホには毎月980円払っているのですよ。
Google先生の指示に従い向かうと、前方に墳丘が現れました。
たまたま隣接しているお宅がきれいなお花を植えているだけかもしれませんが、パッと見の雰囲気では、この古墳は近所の方々に大事にされているんだなあという印象を受けました。
これは現代風の道祖神でしょうか。
墳丘裾には葺石や石室に使えそうな河原石が散見できます。
墳頂の祠。
墳頂からの眺望。
私はこの画面右手側からやってきたのですが、甲州街道からこちらへ歩いてくると登り坂になっているのです。
登ったところを振り返るとこんな感じ。
つまり、段丘を青柳面から立川面に一面上がったわけです。
こういうのを私は「一面クリア!」と呼んでいますが、小さな地形の変化は歩いてみないと分かりませんね。
道路側から墳丘を見ると一部分だけ多くの河原石が集中している箇所があります。
あの辺に石室があるんじゃないかなあ?
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)では、形状を円墳とし、「周囲を削られているが、東西約10m、南北約15m、高さ約1.8㎞で残存」とあります。
また、1993年に国立市がレーダー探査を行い、石室と周溝の存在の可能性が高いとされ、翌年には多摩地区所在古墳確認調査団が墳丘の測量調査をしています。
ちなみに、この古墳は「石塚」と通称されていますが、「いし」は「うし」がなまった可能性があり、「うし」というのは「大人」という字があてられ、古代の地域での有力者の尊称です。
列島各地には「うしづか」と呼ばれる古墳があり、現代では「牛塚」や「大人塚」という字があてられますが、本来は「大人塚」でしょう。
ですから、この近辺の「千丑」という地名も「大人」から来ているのではないかなあと想像します。
地元の方でご存じの方がいらっしゃったら教えてくださいね。
⇒この続きはこちら
先ほど、南養寺の由緒書きに千丑(ちうし)という地名が出てきましたが、次は千丑へ向かいます。
畑が広がる中を歩いていると、右手に「谷保の城山」が見えてきました。
谷保の城山は中世城郭跡で、城主は三田氏と伝えられ、現在でもその子孫が城の主郭跡にお住まいです。
三田氏というと青梅の三田氏を思い浮かべますが、それとの関連については突っ込んで調べたことが無いため今は話せません。
国立一小の前から甲州街道へ出ます。
うわー、なんか今日は異様に車が少ない。
歩道橋を渡りますよ。
西側、立川方面。
右の方にはいつもの大岳山が見えています。
東側、谷保天満宮方面。
ああ、そういえば現在の国道20号線は谷保天満宮のちょっと先の「国立インター入口」交差点で日野バイパスへ向かうのがそのルートとなっており、今現在、「甲州街道」といった場合はそのルートを指します。
ということは、ここよりすぐ西側の「日野橋」交差点から先は奥多摩街道と新奥多摩街道に分岐しており名称が明確ですが、いま私がいる「国立インター入口」から「日野橋」までの約3.4㎞に渡る部分って、何て通称すればよいのだろうか?
この道は仕事で毎週のように走っていましたが、実はこんなことを考えながら運転していたのです。
さて、昔は千丑といわれた辺りを歩きます。
おや、何やら神社と説明板が見えますよ。
道路から少し奥まっているので、今まで気づきませんでしたが行って見ましょう。
普通に一般のお宅の敷地の中です。
説明板は呪力ズームで撮影。
あんまりジロジロ覗いているのは良くないので退散します。
さて、次は石塚と通称されている古墳へ向かいますが、いまいち場所が分からないですね。
困った時はスマホ!
普段はガラケーで十分なんですが、スマホはこういうときに活躍します。
一応、スマホには毎月980円払っているのですよ。
Google先生の指示に従い向かうと、前方に墳丘が現れました。
たまたま隣接しているお宅がきれいなお花を植えているだけかもしれませんが、パッと見の雰囲気では、この古墳は近所の方々に大事にされているんだなあという印象を受けました。
これは現代風の道祖神でしょうか。
墳丘裾には葺石や石室に使えそうな河原石が散見できます。
墳頂の祠。
墳頂からの眺望。
私はこの画面右手側からやってきたのですが、甲州街道からこちらへ歩いてくると登り坂になっているのです。
登ったところを振り返るとこんな感じ。
つまり、段丘を青柳面から立川面に一面上がったわけです。
こういうのを私は「一面クリア!」と呼んでいますが、小さな地形の変化は歩いてみないと分かりませんね。
道路側から墳丘を見ると一部分だけ多くの河原石が集中している箇所があります。
あの辺に石室があるんじゃないかなあ?
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)では、形状を円墳とし、「周囲を削られているが、東西約10m、南北約15m、高さ約1.8㎞で残存」とあります。
また、1993年に国立市がレーダー探査を行い、石室と周溝の存在の可能性が高いとされ、翌年には多摩地区所在古墳確認調査団が墳丘の測量調査をしています。
ちなみに、この古墳は「石塚」と通称されていますが、「いし」は「うし」がなまった可能性があり、「うし」というのは「大人」という字があてられ、古代の地域での有力者の尊称です。
列島各地には「うしづか」と呼ばれる古墳があり、現代では「牛塚」や「大人塚」という字があてられますが、本来は「大人塚」でしょう。
ですから、この近辺の「千丑」という地名も「大人」から来ているのではないかなあと想像します。
地元の方でご存じの方がいらっしゃったら教えてくださいね。
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