⇒前回の記事はこちら
石塚古墳を見た後は、谷保古墳を見つけに行きます。
街道の方に降りずに、丘の上を歩いて行きたいですが、そのためにはいったん南武線の踏切を渡らないとなりません。
踏切を渡り東へ向かい、頃合いを見計らって再度渡ろうとすると、踏切が鳴り出してしまいました。
谷保駅のほうから電車がやってくるようです。
せっかくなので撮っちゃいましょう。
踏切を渡り、谷保天満宮の方へ向かいます。
「東京都遺跡地図」では、この辺に谷保古墳があるはず・・・
あった!
お屋敷のお庭に墳丘が見えます。
墳頂には神様が祀られているようで、屋敷神でしょうか。
でもここは写真撮影が憚られるな。
ちょっと離れて撮影。
いつもなら普通にピンポンを押して拝見させていただけるようにお願いしてみるのですが、この状況ですから、訪問したら嫌がられそうです。
谷保古墳は、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、残存している墳丘を測量したところ、東西約16m、南北約14m、高さ約1.8mの大きさの円墳でした。
これ以上のことは分かりません。
なお、谷保古墳は、下谷保古墳群に含まれます。
「東京都遺跡地図」を見ると、下谷保古墳群には12基の古墳が確認されています。
谷保古墳はそのなかで一番西側に位置し、先ほど見た石塚古墳は下谷保古墳群には含まれず、単独の古墳とされています。
ではつづいて、街道を渡って谷保天満宮へ向かいます。
駐車場の東側隅に第六天神社が祀られているのですが、そこも古墳だそうなのです。
社殿が乗っている土盛りが墳丘なわけですね。
こちらは「東京都遺跡地図」に載っておらず、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』には名称も付けられておらず、南北の長さが約13mで、南側から観察すると1.5mほどの高さがあると記されています。
第六天神社の祭神は、面足尊(おもたるのみこと)と煌根尊(かしこねみこと)の二柱で、国生み神話では両柱は6番目に生まれているため第六天神社と呼ばれているそうです(『くにたちしらべ』No.6による)。
しかし、谷保天満宮も何度も来ており、当然ながら駐車場にも何度も車を停めているわけですが、この古墳の存在には気づきませんでした。
ついでというと神様に怒られそうですが、娘の受験の時にも霊力をお借りしましたので、神様にご挨拶していこうと思います。
鳥居をくぐると右手側に説明板が2基あります。
一つは、滅亡しかかっていますね。
こちらは大丈夫。
「やぼ」とふり仮名がふってありますが、その通りなのです。
一般的には「やほてんまんぐう」と呼ぶ人が多く、JRの駅名も「やほ」と清音です。
地元の人でも清音で発音する人が多いのですが、神社は濁音です。
ちなみに、昔の国鉄が駅名を付けたときは地元の発音を無視して清音にしたケースが多いので気を付けてください。
南武線の前身である南武鉄道時代の発音は、「やぼ」で、昭和19年4月1日に国有化された時点から戦後間もないころまでは「やぼ」ですが、その後ほどなく「やほ」に改名されてしまったようです。
境内の写真を撮っていると、ふいに背後から「こういうの好きなの?」と男性に声を掛けられました。
振り向くとワンちゃんを連れたご年配の方で、「僕はね、55年前にここで結婚式を挙げたんだよ」と、昔の神社の様子を教えてくださいました。
ひとしきり話をしたあとに私の方から、「ところで、昔はこの辺に土を盛った塚のようなものはありませんでしたか?」と尋ねたところ、「あったかもしれないけど、よく見ていなかったから覚えていないなあ」と返ってきました。
確かに大型の前方後円墳とかならまだしも、今日私が訪ね歩いているような極々小規模な古墳はよっぽどのマニアでないと気にも留めないでしょうね。
谷保天満宮は社殿の場所が現在の街道よりも一段低い場所にあります。
これが面白い特徴の一つなのです。
いま、南武線の谷保駅から神社へ向かうときは、武蔵野台地の立川面を歩いてくるのですが、鳥居をくぐって石段を下りると、多摩川低地、地元の言葉でいうと「ハケ下」になります。
中世から江戸の初期まではハケ下に甲州街道が通っており、谷保天満宮は昔からある神社ですから、その旧道沿いに社殿があったためこうなっているのです。
石段を降りているといつもの鳥さんがいました。
こいつ、何をやってるんだろう?
しきりに身体を地面に擦り付けていますよ。
体調でも悪いのか心配になります。
先ほどの方も降りてきました。
ワンちゃんの写真を撮らせていただきます。
私のことを「なんだこの変なおっさんは?」みたいな目で見ていますが可愛いですね。
面白いのはワンちゃんも鳥さんもお互いあまり関心が無いところです。
境内の鳥さんたちもワンちゃんには慣れているようで、むしろワンちゃんの方が恐縮しているような雰囲気です。
石段を振り返るとこんな感じ。
立川面から降りてきました。
「でも、こういうのを調べて歩くっていいことだね」と褒められた私は拝殿へ向かいます。
本殿と拝殿についての説明書があります。
多摩の銘酒・小澤酒造の澤乃井。
あなたたち、どこに登ってるんですか!
鳥さんたちは自由奔放ですね。
神様の遣いだから別にいいのです。
本殿を横から拝見。
斜め後ろから。
社殿はこのアングルで見るのが一番好きだ!
くびれが堪りません・・・
あ、それは前方後円墳だった。
厳島神社もあります。
厳島神社というとどこも池に囲まれたりして水が豊富な場所にありますが、こちらの場合は湧水が豊富なことで有名です。
雨の後なんかに来ると水が溢れ出ていて大変なことになっていることがありますが、厳島神社のあるこの地点は地形的に非常に面白いところなのです。
今日は貝殻坂を登った後は青柳面を歩いてきて、青柳面に造営された青柳古墳群を通り、ついで石塚古墳を見るときには、「1面クリア!」と言いつつ、立川面に1段上がりました。
そのあと、谷保天満宮の境内に入り、階段で拝殿のある場所に降りてきたわけですが、降りてきた場所は青柳面ではなく、それより下位の多摩川の沖積地なのです。
青柳面を飛び越して一気に2面クリアして沖積地に来てしまったのでしょうか?
実は青柳面は、厳島神社があるこの辺りで消えているのです。
正確にはここより東側に若干の段丘の名残はあるのですが、実質的にはここで消滅です。
以前から谷保天満宮のハケ上の街道を車で走っていて、谷保天満宮の近くだけ地形が窪んでいることに気づいていましたが、その窪みはこういった地形の変化を表していたのです。
地形図を見ると、何でこんな地形になったのか不思議に思う地点なのですが、この近辺は北側を頂点とする扇状地のような三角形状で抉れていて、その頂点がこの場所です。
この図をご覧ください。
三角形状に抉れている場所は赤色で示してみました。
普通の扇状地であれば上流に水源があってそこから流れ出た水が川となり地形が形成されますが、地図で見る限りではこの頂点部分より北側から流れてくる川はありません。
もしかすると地表面には川の流れは見えなくても、地下ではとんでもないことになっていて、地形を形成していたころにはすごい勢いで崖面から湧き出ていたのかもしれません。
地形の形成の順番としたら、立川面ができたあとに青柳面ができました。
その時点では、赤い三角形の底辺の部分が青柳面の崖線だったのではないでしょうか。
そうであれば、現在もかすかに残る青柳面の東端部分らしきところと綺麗に繋がります。
そしてその後、北側からのものすごい勢いで湧水が南流してきて、三角形状の窪みがが形成されたのではないでしょうか。
なお、この三角形になっている場所は、今でこそ普通の住宅街になっていますが、戦後間もないころまでは水田として利用され、人が住めるような場所ではなかったようです。
青柳面さん、今日はここでさようなら。
ハケ下からの入口は現在はこうなっています。
本殿の後ろの崖には境内神社が並んでいますよ。
全部で5柱いらっしゃるのですが、左から、天照皇大神宮、熊野神社、日吉神社、妙義神社、稲荷神社です。
この社殿の右手には獅子神社と刻された石が安置されています。
一方、左手にも祠があります。
よく見ると、「三郎殿」とあります。
三郎って誰だろう?
あ、そういえばこちらへ配流になった菅原道真の第3子道武の通称は三郎でしたね。
その道武を祀っている祠ですから、ある意味この神社の「コア神様」です。
実は今まで何度も谷保天満宮に来ていますが、本殿裏手のこのゾーンには登ったことがありませんでした。
さきほどの方が「本殿の裏にも神様が祀られているんだけどね、みんなあそこには行かないんだ」と言った言葉が気になって来てみましたが、三郎殿にお会いできてよかった。
ちなみに、道武という名前は道真の系図には現れないため、道真の子がこちらへ流されてきたのは史実ではないと考えることもできますが、道武は系図に現れないような身分の子だったか、もしくは系図に載っている誰かが変名してこちらに下ってきた可能性もあります。
だだし、道真の子だとしたら9世紀に生まれた人物となりますが、9世紀に「三郎」という通称はちょっと合わないような気がして、もっと後世の中世の人物(早くて11世紀かな?)のような気がします。
ですから、谷保天満宮は中世になってから道真の子孫と称する三郎という人物が創建した神社と考えられないこともないです。
本殿を後ろから拝見。
ハケの下に降りてしまったので、このままハケ下を歩いて行こうと思います。
⇒この続きはこちら
石塚古墳を見た後は、谷保古墳を見つけに行きます。
街道の方に降りずに、丘の上を歩いて行きたいですが、そのためにはいったん南武線の踏切を渡らないとなりません。
踏切を渡り東へ向かい、頃合いを見計らって再度渡ろうとすると、踏切が鳴り出してしまいました。
谷保駅のほうから電車がやってくるようです。
せっかくなので撮っちゃいましょう。
踏切を渡り、谷保天満宮の方へ向かいます。
「東京都遺跡地図」では、この辺に谷保古墳があるはず・・・
あった!
お屋敷のお庭に墳丘が見えます。
墳頂には神様が祀られているようで、屋敷神でしょうか。
でもここは写真撮影が憚られるな。
ちょっと離れて撮影。
いつもなら普通にピンポンを押して拝見させていただけるようにお願いしてみるのですが、この状況ですから、訪問したら嫌がられそうです。
谷保古墳は、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、残存している墳丘を測量したところ、東西約16m、南北約14m、高さ約1.8mの大きさの円墳でした。
これ以上のことは分かりません。
なお、谷保古墳は、下谷保古墳群に含まれます。
「東京都遺跡地図」を見ると、下谷保古墳群には12基の古墳が確認されています。
谷保古墳はそのなかで一番西側に位置し、先ほど見た石塚古墳は下谷保古墳群には含まれず、単独の古墳とされています。
ではつづいて、街道を渡って谷保天満宮へ向かいます。
駐車場の東側隅に第六天神社が祀られているのですが、そこも古墳だそうなのです。
社殿が乗っている土盛りが墳丘なわけですね。
こちらは「東京都遺跡地図」に載っておらず、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』には名称も付けられておらず、南北の長さが約13mで、南側から観察すると1.5mほどの高さがあると記されています。
第六天神社の祭神は、面足尊(おもたるのみこと)と煌根尊(かしこねみこと)の二柱で、国生み神話では両柱は6番目に生まれているため第六天神社と呼ばれているそうです(『くにたちしらべ』No.6による)。
しかし、谷保天満宮も何度も来ており、当然ながら駐車場にも何度も車を停めているわけですが、この古墳の存在には気づきませんでした。
ついでというと神様に怒られそうですが、娘の受験の時にも霊力をお借りしましたので、神様にご挨拶していこうと思います。
鳥居をくぐると右手側に説明板が2基あります。
一つは、滅亡しかかっていますね。
こちらは大丈夫。
「やぼ」とふり仮名がふってありますが、その通りなのです。
一般的には「やほてんまんぐう」と呼ぶ人が多く、JRの駅名も「やほ」と清音です。
地元の人でも清音で発音する人が多いのですが、神社は濁音です。
ちなみに、昔の国鉄が駅名を付けたときは地元の発音を無視して清音にしたケースが多いので気を付けてください。
南武線の前身である南武鉄道時代の発音は、「やぼ」で、昭和19年4月1日に国有化された時点から戦後間もないころまでは「やぼ」ですが、その後ほどなく「やほ」に改名されてしまったようです。
境内の写真を撮っていると、ふいに背後から「こういうの好きなの?」と男性に声を掛けられました。
振り向くとワンちゃんを連れたご年配の方で、「僕はね、55年前にここで結婚式を挙げたんだよ」と、昔の神社の様子を教えてくださいました。
ひとしきり話をしたあとに私の方から、「ところで、昔はこの辺に土を盛った塚のようなものはありませんでしたか?」と尋ねたところ、「あったかもしれないけど、よく見ていなかったから覚えていないなあ」と返ってきました。
確かに大型の前方後円墳とかならまだしも、今日私が訪ね歩いているような極々小規模な古墳はよっぽどのマニアでないと気にも留めないでしょうね。
谷保天満宮は社殿の場所が現在の街道よりも一段低い場所にあります。
これが面白い特徴の一つなのです。
いま、南武線の谷保駅から神社へ向かうときは、武蔵野台地の立川面を歩いてくるのですが、鳥居をくぐって石段を下りると、多摩川低地、地元の言葉でいうと「ハケ下」になります。
中世から江戸の初期まではハケ下に甲州街道が通っており、谷保天満宮は昔からある神社ですから、その旧道沿いに社殿があったためこうなっているのです。
石段を降りているといつもの鳥さんがいました。
こいつ、何をやってるんだろう?
しきりに身体を地面に擦り付けていますよ。
体調でも悪いのか心配になります。
先ほどの方も降りてきました。
ワンちゃんの写真を撮らせていただきます。
私のことを「なんだこの変なおっさんは?」みたいな目で見ていますが可愛いですね。
面白いのはワンちゃんも鳥さんもお互いあまり関心が無いところです。
境内の鳥さんたちもワンちゃんには慣れているようで、むしろワンちゃんの方が恐縮しているような雰囲気です。
石段を振り返るとこんな感じ。
立川面から降りてきました。
「でも、こういうのを調べて歩くっていいことだね」と褒められた私は拝殿へ向かいます。
本殿と拝殿についての説明書があります。
多摩の銘酒・小澤酒造の澤乃井。
あなたたち、どこに登ってるんですか!
鳥さんたちは自由奔放ですね。
神様の遣いだから別にいいのです。
本殿を横から拝見。
斜め後ろから。
社殿はこのアングルで見るのが一番好きだ!
くびれが堪りません・・・
あ、それは前方後円墳だった。
厳島神社もあります。
厳島神社というとどこも池に囲まれたりして水が豊富な場所にありますが、こちらの場合は湧水が豊富なことで有名です。
雨の後なんかに来ると水が溢れ出ていて大変なことになっていることがありますが、厳島神社のあるこの地点は地形的に非常に面白いところなのです。
今日は貝殻坂を登った後は青柳面を歩いてきて、青柳面に造営された青柳古墳群を通り、ついで石塚古墳を見るときには、「1面クリア!」と言いつつ、立川面に1段上がりました。
そのあと、谷保天満宮の境内に入り、階段で拝殿のある場所に降りてきたわけですが、降りてきた場所は青柳面ではなく、それより下位の多摩川の沖積地なのです。
青柳面を飛び越して一気に2面クリアして沖積地に来てしまったのでしょうか?
実は青柳面は、厳島神社があるこの辺りで消えているのです。
正確にはここより東側に若干の段丘の名残はあるのですが、実質的にはここで消滅です。
以前から谷保天満宮のハケ上の街道を車で走っていて、谷保天満宮の近くだけ地形が窪んでいることに気づいていましたが、その窪みはこういった地形の変化を表していたのです。
地形図を見ると、何でこんな地形になったのか不思議に思う地点なのですが、この近辺は北側を頂点とする扇状地のような三角形状で抉れていて、その頂点がこの場所です。
この図をご覧ください。
三角形状に抉れている場所は赤色で示してみました。
普通の扇状地であれば上流に水源があってそこから流れ出た水が川となり地形が形成されますが、地図で見る限りではこの頂点部分より北側から流れてくる川はありません。
もしかすると地表面には川の流れは見えなくても、地下ではとんでもないことになっていて、地形を形成していたころにはすごい勢いで崖面から湧き出ていたのかもしれません。
地形の形成の順番としたら、立川面ができたあとに青柳面ができました。
その時点では、赤い三角形の底辺の部分が青柳面の崖線だったのではないでしょうか。
そうであれば、現在もかすかに残る青柳面の東端部分らしきところと綺麗に繋がります。
そしてその後、北側からのものすごい勢いで湧水が南流してきて、三角形状の窪みがが形成されたのではないでしょうか。
なお、この三角形になっている場所は、今でこそ普通の住宅街になっていますが、戦後間もないころまでは水田として利用され、人が住めるような場所ではなかったようです。
青柳面さん、今日はここでさようなら。
ハケ下からの入口は現在はこうなっています。
本殿の後ろの崖には境内神社が並んでいますよ。
全部で5柱いらっしゃるのですが、左から、天照皇大神宮、熊野神社、日吉神社、妙義神社、稲荷神社です。
この社殿の右手には獅子神社と刻された石が安置されています。
一方、左手にも祠があります。
よく見ると、「三郎殿」とあります。
三郎って誰だろう?
あ、そういえばこちらへ配流になった菅原道真の第3子道武の通称は三郎でしたね。
その道武を祀っている祠ですから、ある意味この神社の「コア神様」です。
実は今まで何度も谷保天満宮に来ていますが、本殿裏手のこのゾーンには登ったことがありませんでした。
さきほどの方が「本殿の裏にも神様が祀られているんだけどね、みんなあそこには行かないんだ」と言った言葉が気になって来てみましたが、三郎殿にお会いできてよかった。
ちなみに、道武という名前は道真の系図には現れないため、道真の子がこちらへ流されてきたのは史実ではないと考えることもできますが、道武は系図に現れないような身分の子だったか、もしくは系図に載っている誰かが変名してこちらに下ってきた可能性もあります。
だだし、道真の子だとしたら9世紀に生まれた人物となりますが、9世紀に「三郎」という通称はちょっと合わないような気がして、もっと後世の中世の人物(早くて11世紀かな?)のような気がします。
ですから、谷保天満宮は中世になってから道真の子孫と称する三郎という人物が創建した神社と考えられないこともないです。
本殿を後ろから拝見。
ハケの下に降りてしまったので、このままハケ下を歩いて行こうと思います。
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であの辺りも古墳なんですか?びっくりです。実は私あの第六天さん好きなんで写真みて嬉しかったです。5年以上前に一回行ったきりです。
行った時何かイベントか何かやっていて境内社がある場所にどうしても行きたかったんで入らせてもらったのを覚えてます。そうあそこにも御嶽さんがいたような記憶でしたけど間違ってましたね。
息子さんのことは覚えているんですがあちらにいらしたんですね。そのお話を知ってからは関東と道真さんも色々と妄想してますよ。
古墳調べてみます。円墳ですね!個人的は円墳が一番好きでそのあとが八角墳でそのあと前方後円墳(後方墳も)。今段があるのもかなりハマってます。誰の古墳なんでしょうね?ワクワクしますね。