2024年10月18日
高松城は水堀で防御した近世城郭。
旭門は格式ある高麗門。
枡形を抜けると艮櫓と対面!
大手口を抜けると早速、天守台が現れます。
背景には高層建築物。
本丸に向かう途中には三の丸の入り口に桜御門があります。
桜御門を抜けると重要文化財の披雲閣が現れます。
続いて月見櫓、水手御門、渡櫓。
月見櫓の隣には渡櫓がありますが、間に接続した門が水手御門。
本丸に行くには鞘橋を渡る必要があります。
鞘橋から見た天守台。
間近で見る天守台。
天守の礎石。
天守の復元案もあり、今後の動きが非常に気になるところ。
天守台から見た水門。
松平氏の時代に高松城は拡張され、東ノ丸が完成しました。
城郭と町と一体化していて良き。
今まで幾つもの城を見てきた中で、高松城はやはり海城特有の独特な城という印象。
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岡山県→高知県→香川県へと移動。
四国には多くの城があり、限られた時間の中では周りきることが出来ないので、高知県の後は香川県に絞りました。
香川県の中心地、高松市には日本100名城の高松城があります。
高松市は讃岐一国を与えられた生駒親正によって1588年から築城が開始され、生駒氏が転封後は松平氏が11代に渡って納めた地域。
その居城となったのが高松城です。
高松駅前からは西門から入城すると近いのですが、ワタクシはぐるっと遠回りをして大手口がある東側から入城します。
時間は15時。本当は明日の朝から周る予定でしたが、超快晴の天気だったので疲れをおして強行突破です。
大手口の脇には高松城の名所となる艮櫓が姿を出します。
高松城といえばこの艮櫓の写真が多いですが、間近で見るとすごく大きいです。
外部に跳ね出した石落としは、まるで袴を着衣しているようです。
1677年に造らた艮櫓は、日本で12基しか残っていない現存三重櫓の一つです。
高松城は水堀で防御した近世城郭。
城郭に向かう橋は旭橋。その先には旭門があります。
橋と門を見て違和感にお気づきでしょうか。
旭門に対して旭橋が斜めに架かっています。
これは敵が攻めてきた際にスムーズに通過させない狙いがあると言われています。
斜めの旭橋の先に現れるのは巨大な枡形虎口。
綺麗に石材を隙間なく加工した切込接の乱積み。
旭門は格式ある高麗門。
門脇にチケット売場があり、御城印などもここで購入することができます。
枡形の一角に石垣を切り欠いた場所は埋門(うずみもん)です。
枡形の一角に石垣を切り欠いた場所は埋門(うずみもん)です。
字の如く、綺麗に形成された石垣に埋め込まれた門です。
近世城郭でたまに見かける築城技術。
門上の石垣は一つの長い石材で荷重を受けています。
原理が全く同じ木造建築の技術を石材で表現しています。
枡形を抜けると艮櫓と対面!
外部の水堀側からの写真しか見たことがないので、楽しみです。
内部には入ることができなかったのですが、近くで見るとより一層大きさを感じます!
内部には入ることができなかったのですが、近くで見るとより一層大きさを感じます!
三層三階の城漆喰の総塗籠。
特徴は一階の千鳥破風ですね。
二階の屋根部を貫通するように千鳥破風が設けられています。
唐破風もあり、高さ11.5mの壮麗な建築物となっています。
艮櫓は昭和40年に解体修理が行われ、太鼓櫓があった現在の位置に移築復元されました。
その際に艮櫓に合わせて石垣も拡張したそうです。
意外と手を加えられているようですね。
昭和25年に国の重要文化財に指定されています。
大手口を抜けると早速、天守台が現れます。
これは巨大な天守台。石垣の積み方は野面積み。
背景には高層建築物。
石垣の石材が様々な色をしているのでアーティスティックです。
本丸に向かう途中には三の丸の入り口に桜御門があります。
国宝に指定されることが内定していましたが、翌年高松空襲によって焼失。
しかし、令和4年に77年ぶりに復元して蘇りました!
復元には膨大な時間を要します。
この門一つ復元するのに、発掘調査から完成まで12年を要しました。
しかし、これは未来への継承です。
復元を実現させた高松市は素晴らしい。
桜御門を抜けると重要文化財の披雲閣が現れます。
披雲閣は松平氏時代に作られ、藩の政庁及び藩主の居城として使われていました。
明治期に老朽化で取り壊されたものの、大正6年に現在の建築物が完成しました。
延べ床面積1.887㎡の巨大敷地に142畳の大書院があり、今は貸会場として利用されています。
ワタクシが入城した日はコンサートの予定になっていました。
ワタクシが入城した日はコンサートの予定になっていました。
中には入ることが出来ませんでした。
続いて月見櫓、水手御門、渡櫓。
三重の月見櫓は1676年に完成し現代に残る現存の貴重な櫓です。
日本に12基しか現存していない三重櫓の内、艮櫓と月見櫓の二つが高松城にありす。
千鳥破風、唐破風、総塗籠の月見櫓は風格があります。
階層の中間にある黒の木材のラインが特徴的で、カッコいいです。
月見櫓下からの景色。
絶景の海!
今は城郭と海の間に道路が走っていますが、当時はこの月見櫓の下は海でした。
高松城は近世の平城ですが、水城とも呼ばれ日本三大水城の一つで海と直結した城。
いつか行きたいと思っている小豆島も見えました。
月見櫓の隣には渡櫓がありますが、間に接続した門が水手御門。
堀の中にある水手御門。
この門こそ海と直結した水城たる所以。
水手御門の階段下には船が泊まり、この門から入城することができたようです。
まさに海の大手門。
これは他の城で見ることのできない、海城独特の建築物。
通常、月見櫓はお月見をするために造られた平和の象徴的な建築物ですが、高松城では出入りする船の監視の役割と、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見ていた事から「着見櫓」と呼ばれていたそうです。
当時の高松城の模型。
町ごと堀で囲んだ総構え。
海に面していて、海水を引き入れて水堀としているのも高松城ならではの特徴的な造り。
本丸に行くには鞘橋を渡る必要があります。
鞘橋から見た天守台。
現在は天守はありませんが、もし天守があったら水に浮かぶ城だったと想像します。
海の城らしさとして、堀には鯛が泳いでいました。
普通は鯉が一般的ですが、鯛やヒラメなど海の魚が生息しています。
間近で見る天守台。
野面積みで隅は算木積みになっています。勾配も急で高さ幅共に大きな天守台です。
天守台入り口。
高松城の天守は三層四階+地下一階の構造で四国最大の規模を誇っていました。
しかし明治17年に老朽化によって取り壊されました。
天守の礎石。
取り壊してしまった天守ですが、平成17年にイギリスのケンブリッジ大学図書館で、高松城天守の鮮明な写真が発見されたことで、天守台の修復工事を平成17年から25年まで行われました。
そして、地下一階部分から58個の礎石が出土。
発掘調査が進められています。
天守の復元案もあり、今後の動きが非常に気になるところ。
資料館にあった模型。
天守は張出造りと呼ばれる建築スタイル。
天守台石垣よりも一層目が大きく張り出しています。
有名な熊本城が同様の形式になります。
また、最上部が南蛮造りになっているのも特徴的。
日本の城は上の階に連れて幅が小さくなって行きますが、南蛮造りは最上階が一階層下よりも大きくなるのが特徴。
小倉城や岩国城が同じ南蛮造りの天守になります。
この模型を見ただけでワタクシはテンションが上がってしまいます。
天守台から見た水門。
高松城は海から海水を引き入れているので、水門にて調整を計っています。
ちなみに、水門の前では鯛にエサをあげることができ、大量の鯛がエサ欲しさに集まっていました。
同じく天守台から見た鞘橋。
ちなみに、水門の前では鯛にエサをあげることができ、大量の鯛がエサ欲しさに集まっていました。
同じく天守台から見た鞘橋。
上から見ると曲輪や城郭の構造がよく分かります。
橋は二の丸と本丸を繋いでいて、本丸は完全に独立した曲輪となっているのが分かります。
そして、本丸にはこの橋を渡る以外には行くことができません。
これは本丸が城の本質である軍事施設としての役割を意味します。
しかし、高松城は一度も戦を経験することなく明治を迎え廃城となります。
松平氏の時代に高松城は拡張され、東ノ丸が完成しました。
しかし、廃城と共に堀は埋め立てられ取り壊されましたが、現在の県民ホールや県立ミュージアムあたりに石垣が復元されています。
すごい光景ですね。
石垣の上を現代建築物が跨いでいます。
一番最初に見た艮櫓は本来はこの辺りにありました。
奥に見えるのは月見櫓。
艮櫓の向きが現在と違いますね。
90度回転して太鼓櫓があった現在の位置に移築されました。
城郭と町と一体化していて良き。
高松城にきたら是非、この県民ホールあたりも周って頂きたい。
今まで幾つもの城を見てきた中で、高松城はやはり海城特有の独特な城という印象。
二日間で岡山城、高知城、高松城に行きましたが、それぞれが素晴らしく全くテイストが違う城でした。
これだから城巡りは楽しい。
桜御門も復元させた高松市ですから、天守の復元は現実的に可能だと個人的には思っているし、願っています。
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