つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

高松城@香川県

2024-10-18 17:30:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山県→高知県→香川県へと移動。
四国には多くの城があり、限られた時間の中では周りきることが出来ないので、高知県の後は香川県に絞りました。

香川県の中心地、高松市には日本100名城の高松城があります。

高松市は讃岐一国を与えられた生駒親正によって1588年から築城が開始され、生駒氏が転封後は松平氏が11代に渡って納めた地域。

その居城となったのが高松城です。

高松駅前からは西門から入城すると近いのですが、ワタクシはぐるっと遠回りをして大手口がある東側から入城します。

時間は15時。本当は明日の朝から周る予定でしたが、超快晴の天気だったので疲れをおして強行突破です。


大手口の脇には高松城の名所となる艮櫓が姿を出します。

高松城といえばこの艮櫓の写真が多いですが、間近で見るとすごく大きいです。

外部に跳ね出した石落としは、まるで袴を着衣しているようです。

1677年に造らた艮櫓は、日本で12基しか残っていない現存三重櫓の一つです。



高松城は水堀で防御した近世城郭。
城郭に向かう橋は旭橋。その先には旭門があります。

橋と門を見て違和感にお気づきでしょうか。

旭門に対して旭橋が斜めに架かっています。
これは敵が攻めてきた際にスムーズに通過させない狙いがあると言われています。



斜めの旭橋の先に現れるのは巨大な枡形虎口。

綺麗に石材を隙間なく加工した切込接の乱積み。



旭門は格式ある高麗門。
門脇にチケット売場があり、御城印などもここで購入することができます。



枡形の一角に石垣を切り欠いた場所は埋門(うずみもん)です。

字の如く、綺麗に形成された石垣に埋め込まれた門です。

近世城郭でたまに見かける築城技術。
門上の石垣は一つの長い石材で荷重を受けています。
原理が全く同じ木造建築の技術を石材で表現しています。



枡形を抜けると艮櫓と対面!
外部の水堀側からの写真しか見たことがないので、楽しみです。



内部には入ることができなかったのですが、近くで見るとより一層大きさを感じます!

三層三階の城漆喰の総塗籠。
特徴は一階の千鳥破風ですね。

二階の屋根部を貫通するように千鳥破風が設けられています。
唐破風もあり、高さ11.5mの壮麗な建築物となっています。



艮櫓は昭和40年に解体修理が行われ、太鼓櫓があった現在の位置に移築復元されました。

その際に艮櫓に合わせて石垣も拡張したそうです。

意外と手を加えられているようですね。

昭和25年に国の重要文化財に指定されています。



大手口を抜けると早速、天守台が現れます。 
これは巨大な天守台。石垣の積み方は野面積み。

 

背景には高層建築物。

石垣の石材が様々な色をしているのでアーティスティックです。



本丸に向かう途中には三の丸の入り口に桜御門があります。

国宝に指定されることが内定していましたが、翌年高松空襲によって焼失。

しかし、令和4年に77年ぶりに復元して蘇りました!



復元には膨大な時間を要します。
この門一つ復元するのに、発掘調査から完成まで12年を要しました。

しかし、これは未来への継承です。
復元を実現させた高松市は素晴らしい。



桜御門を抜けると重要文化財の披雲閣が現れます。

披雲閣は松平氏時代に作られ、藩の政庁及び藩主の居城として使われていました。

明治期に老朽化で取り壊されたものの、大正6年に現在の建築物が完成しました。



延べ床面積1.887㎡の巨大敷地に142畳の大書院があり、今は貸会場として利用されています。



ワタクシが入城した日はコンサートの予定になっていました。
中には入ることが出来ませんでした。



続いて月見櫓、水手御門、渡櫓。


三重の月見櫓は1676年に完成し現代に残る現存の貴重な櫓です。

日本に12基しか現存していない三重櫓の内、艮櫓と月見櫓の二つが高松城にありす。



千鳥破風、唐破風、総塗籠の月見櫓は風格があります。
階層の中間にある黒の木材のラインが特徴的で、カッコいいです。


月見櫓下からの景色。
絶景の海!

今は城郭と海の間に道路が走っていますが、当時はこの月見櫓の下は海でした。

高松城は近世の平城ですが、水城とも呼ばれ日本三大水城の一つで海と直結した城。

いつか行きたいと思っている小豆島も見えました。



月見櫓の隣には渡櫓がありますが、間に接続した門が水手御門。



堀の中にある水手御門。
この門こそ海と直結した水城たる所以。

水手御門の階段下には船が泊まり、この門から入城することができたようです。
まさに海の大手門。

これは他の城で見ることのできない、海城独特の建築物。



通常、月見櫓はお月見をするために造られた平和の象徴的な建築物ですが、高松城では出入りする船の監視の役割と、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見ていた事から「着見櫓」と呼ばれていたそうです。



当時の高松城の模型。
町ごと堀で囲んだ総構え。

海に面していて、海水を引き入れて水堀としているのも高松城ならではの特徴的な造り。



本丸に行くには鞘橋を渡る必要があります。



鞘橋から見た天守台。
現在は天守はありませんが、もし天守があったら水に浮かぶ城だったと想像します。


海の城らしさとして、堀には鯛が泳いでいました。

普通は鯉が一般的ですが、鯛やヒラメなど海の魚が生息しています。



間近で見る天守台。

野面積みで隅は算木積みになっています。勾配も急で高さ幅共に大きな天守台です。



天守台入り口。
高松城の天守は三層四階+地下一階の構造で四国最大の規模を誇っていました。

しかし明治17年に老朽化によって取り壊されました。



天守の礎石。

取り壊してしまった天守ですが、平成17年にイギリスのケンブリッジ大学図書館で、高松城天守の鮮明な写真が発見されたことで、天守台の修復工事を平成17年から25年まで行われました。
そして、地下一階部分から58個の礎石が出土。
発掘調査が進められています。 

天守の復元案もあり、今後の動きが非常に気になるところ。



資料館にあった模型。
天守は張出造りと呼ばれる建築スタイル。
天守台石垣よりも一層目が大きく張り出しています。
有名な熊本城が同様の形式になります。

また、最上部が南蛮造りになっているのも特徴的。

日本の城は上の階に連れて幅が小さくなって行きますが、南蛮造りは最上階が一階層下よりも大きくなるのが特徴。

小倉城や岩国城が同じ南蛮造りの天守になります。
この模型を見ただけでワタクシはテンションが上がってしまいます。



天守台から見た水門。
高松城は海から海水を引き入れているので、水門にて調整を計っています。

ちなみに、水門の前では鯛にエサをあげることができ、大量の鯛がエサ欲しさに集まっていました。



同じく天守台から見た鞘橋。
上から見ると曲輪や城郭の構造がよく分かります。
橋は二の丸と本丸を繋いでいて、本丸は完全に独立した曲輪となっているのが分かります。

そして、本丸にはこの橋を渡る以外には行くことができません。
これは本丸が城の本質である軍事施設としての役割を意味します。

しかし、高松城は一度も戦を経験することなく明治を迎え廃城となります。





松平氏の時代に高松城は拡張され、東ノ丸が完成しました。

しかし、廃城と共に堀は埋め立てられ取り壊されましたが、現在の県民ホールや県立ミュージアムあたりに石垣が復元されています。



すごい光景ですね。
石垣の上を現代建築物が跨いでいます。



一番最初に見た艮櫓は本来はこの辺りにありました。

奥に見えるのは月見櫓。

艮櫓の向きが現在と違いますね。
90度回転して太鼓櫓があった現在の位置に移築されました。



城郭と町と一体化していて良き。
高松城にきたら是非、この県民ホールあたりも周って頂きたい。


今まで幾つもの城を見てきた中で、高松城はやはり海城特有の独特な城という印象。

二日間で岡山城、高知城、高松城に行きましたが、それぞれが素晴らしく全くテイストが違う城でした。

これだから城巡りは楽しい。

桜御門も復元させた高松市ですから、天守の復元は現実的に可能だと個人的には思っているし、願っています。


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高知城@高知県

2024-10-18 10:00:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山城を見た後、20時に高知市のビジネスホテルに到着。

高知県といえばカツオ!
ホテル近くの堀川さんで食事をしましたが、全ての料理が超絶品。



素晴らしい夜を堪能し、ホテルに帰って就寝。

高知県に来たからには高知城に行かない選択肢はありません。

朝7時にホテルを出発し、高知城を目指します。



ホテルから高知城までは約2キロ。
メインストリートの脇には水路が整備されています。

何気ない水路でも、城郭近くだと遺構ではないかと想像してしまいます。

城造りで欠かせないのは水路。
水路は城下町発展のファクターとなります。



高知城へと続く道は開けて中央には路面電車が走ります。

普段の生活では2kmは抵抗感ある距離ですが、思いを馳せながら見知らぬ土地を歩けば、あっと言う間です。



歩いて25分程で高知城が見えてきました。

設計の打ち合わせは10時からなので、それまで存分に楽しみたいと思います。



水堀と現在のメインゲートとなる追手門から入城します。

奥には天守見え、あいにくの天気ながら素晴らしいショットです。

高知城には貴重な現存12天守があり、日本で唯一の天守と本丸御殿が現存している城です。



追手門は枡形となっていて、1663年に崩壊しましたが、翌年64年に改築したものが今でも現存している貴重な門です。



やはり城門は良いですね。
追手門は格式高く、櫓門となっています。

追手門と天守が現存している城は、高知城、弘前城、丸亀城のみ。


高知城の櫓門の特徴は、脇の櫓台よりも跳ね出して柱で支えている点。

このアングルから見ると、清水寺の懸造のようになっています。

こんな有難い追手門ですが、昭和の写真では門の下を普通に自動車が通行していました。

現代では考えられませんが、城の文化的価値は年数が経つ度に高まってきています。



追手門を抜け、右へ左へとクランクしつつ、標高44mの天守方面へ向かいます。



まず、高知城は石垣が素晴らしい!
昨日の岡山城も圧巻でしたが、高知城もマニアの心をくすぐる石垣です。

そして、見どころの一つでもある石樋が現れます。

他の城ではなかなか見ることのできないレア技術。
排水が直接石垣に当たらないように多雨地帯の高知城では排水に関して工夫がなされました。


三ノ丸下の石垣。
見事な野面積み。しかも隅石が算木積みになっていて、急勾配を実現しています。

これが野面積みの技術における最高到達地点。



感動すら覚えるこの石垣を積んだのは、最高技術を有した石工集団の穴太衆。

数々の名城の石垣を手掛けた穴太衆。

ワタクシのブログにも度々出てくるワードですが、穴太衆が詰んだ石垣を目の前にすると涙が出るほど感動してしまいます。

カッコ良すぎる。



見上げる天守と石垣。

後ほど記載しますが、決して大きな規模の天守ではありませんが、この大迫力な石垣の要塞を前にすると、威圧感が凄いです。


本丸と二ノ丸の間から撮った一枚。
いつの間にか天気も快晴に!



左手は天守のある本丸。
右手は二の丸で、正面には本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門。

貴重な現存天守と現存本丸御殿がピックアップされがちな高知城ですが、縄張りが素晴らしい。



追手門から見て天守裏側に周ります。
本丸下の石垣。

本丸、二ノ丸、三ノ丸それぞれが高い石垣で強固に守られていて、まるで迷路のような縄張りはまさに戦う為に造られた城。



本丸に向かう道と二の丸に向かう道の分岐点。
エグい程の180度に折り返した道。

石垣だけでも興味深く、また十分楽しめる城です。


二ノ丸から見た本丸側の天守。



そびえ立つ石垣の上には櫓群で囲まれています。

これが本来あるべき日本の城の姿です。

城にはたくさんの櫓などが存在していましたが、廃城令によって明治初期に全国の城は取り壊されてしまいました。

城の文化的価値が見直されたのは、残念ながら壊された後のこと。

左手は本丸に繋がる詰門。横向きになっている櫓は廊下門。
奥に見えるのは西多聞櫓。



二ノ丸から本丸を繋ぐ現存の詰門は2階が渡廊下になっていて、1階は門になっています。

他の城には無い、1802年から残り続ける現存唯一の廊下橋です。



詰門の出口は廊下門の下をくぐる造りになっています。
この先を抜けると、いよいよ本丸へ。



抜けた先の廊下門。

天守は白漆喰のホワイトで、櫓群も外側はホワイト色に対して、本丸側は黒色。



そして、天守にやっと到着です。
ここまで、既に見どころが多すぎて書ききれないほど。

しかし、高知城の凄さはここから!



天守は外観は4重ですが、内部は三層六階。
望楼型天守で、最上階にある高欄と呼ばれるバルコニーは、現存電車の中では犬山城と高知城だけ。

そして、高知城といえば天守と直結した現存の本丸御殿!



店主の開城は9時。8時半に本丸到着。
天守に入る前に重要文化財の黒鉄門を紹介しないわけにはいきません。

本丸を守る黒鉄門は黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられており、石落としや武者が隠れることができることを考えると、最後の砦となる本丸を防御する極めて重要な城門だったかが分かります。



白と黒のコントラストが絶妙なアングル。

高知城はやはり戦う為の城。
これこそ日本が誇る城郭建築です。



いよいよ本丸御殿の懐徳館に入ります。
少し早めに開城して頂き、ポールポジションから入城します!

本丸御殿は対面所としてつくられました。



高知城は1601年に山内一豊が初代佐賀藩の藩主として着工。1611年に完工しました。

1600年の関ヶ原の合戦以降、大坂の陣までの14年間は軍事緊張が高まり、日本全体が築城ラッシュの時代。



日本の伝統的な書院造り。

城は軍事施設ですが、御殿に入ると何故かひと時の安らぎを感じます。

日本人の中に脈々と流れている木造のDNAがホッとさせるのでしょうか。



日本で唯一、現存天守も見える御殿。
これは高知城でしか味わうことができません。

清々しい朝と城巡り。
こんな贅沢は他になし。


御殿からの景色。
今も昔も変わらぬ眺め。

すごく安らぎと風情を感じます。



左が本丸御殿、右が天守。


右手には石落としと鉄砲狭間。

先程の安らぎの御殿とは一変、軍事施設にテイストが変わります。



天守の一階は模型など展示品があります。
高知城は石垣の大要塞。

天守は1603年に完成しましたが、1727年に火災により焼失してしまいます。

しかし1749年に再建され、当時のまま現代を生き続けています。



ポールポジションだったので、階段も気兼ねなく写真撮れました。

急勾配の階段も、軍事施設としての役割を果たしています。



天守最上階。
やはり現存の天守は内部も隅々まで楽しめるので素晴らしいです。



天守からの本丸エリア。
本丸にこれだけの建築物が現存しているのは他にはありません。

江戸時代の形をそのまま大切に保存してきた地域の努力の賜物。



上から見るとよく分かる城郭の形。
奥には二の丸、手前は本丸。

完全に独立した曲輪は、先ほど歩いた詰門で繋がっています。



三ノ丸の高石垣。

下から見上げる石垣もカッコいいのですが、上から見るとまた違った見え方がして良き!



高知市を一望。



意外と山に囲まれた高知市。
何百年も前には、山内一豊も見ていた景色。


天守を降り、右手の廊下を渡ると現存の東多聞に入ることができます。


東多聞→廊下門と繋がり、櫓内は展示物や高知城の歩んできた道のりを学ぶことができます。



廃城令、空襲、南海地震。
数々の苦難を乗り越えた高知城ですが、古い写真を見ると漆喰は剥がれ、瓦も落ち大きなダメージを受けています。

昭和に10年以上の歳月をかけて修復。

今の高知城は日本の受け継がれてきた技術の結晶ともいえます。



こちらも本丸にある西多聞櫓。
西多聞櫓も含めて、高知城には15棟もの現存建築物が残っており、国の重要文化財に指定されています。



帰りは二ノ丸の北側より下ります。
こちらは、より無骨感のある野面積み。

たまらないですね。この高石垣!


錦倉門跡からのショット。
高知城に来たのであれば、是非北側も周って頂きたい。



北側より三ノ丸下から。
高知城の石垣を存分に楽しみ9時45分に周り終えました。

夜はライトアップをしているようなので、見てみたかった!

江戸時代の姿のまま残された本丸と天守も魅力的ですが、個人的には戦う城として造られた縄張りと、穴太衆の技術の結晶を感じる石垣が本当に魅力的でした。

築城ラッシュによって急速に発展した石垣ですが、江戸時代になると一国一城令によって城の築城が禁止されたことで、石工職人も数が減ってしまいました。

しかし、穴太衆の技術は400年以上経過した今でも、滋賀の粟田工業によって継承され続けています。

城の楽しみ方は様々。
城を通してその地域の歴史を知り、日本の伝統的な技術を知る。

素晴らしい一日の始まりです。


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岡山城@岡山県

2024-10-17 17:00:00 | 100名城
2024年10月17日

岡山県に初上陸!
高知県で設計打ち合わせがあった為、岡山駅で乗り換え四国入り。

当然、岡山で乗り換えるならと岡山城へやってきました。

岡山城は日本100名城で宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏などによって戦国期から江戸時代末期まで活躍した城。

結論から言うと、想像を超えて素晴らしい城で3時間ほど見て周りました。

岡山駅から歩いて15分〜20分ほどですが、岡山到着が15時だったので、タクシーでひとまず岡山城に向かうことにしました。

運転手さんの計らいによって、大手門の前まで連れて頂きました。

降車の際に、楽しんで!と運転手さんに言われ暖かい気持ちになりました。



橋を渡るとすぐに本丸となります。

つまり、この水堀は主郭を囲んでいて、当時は内堀とさらにその外周を囲む外堀で形成された大きな城郭でした。

岡山城は旭川に面している為、城の後方部は旭川によって守られ、前方は幅の広い水堀で防御しています。

水堀の石垣は高くありませんが、石材ひとつひとつが大きく威圧感は十分です。


入ってすぐに枡形虎口の跡があります。
櫓門と櫓が上がっていたそうです。



こちらは、枡形虎口の正面にあたる石垣。
かなり巨大な石材が使われていることがわかります。

縦に長い隅の石は、他の城では見ることのできない独特な積み方。



模型で見るとこのような重厚感のある櫓と櫓門がカッコいいですね。


岡山城といえばやはり特徴的な天守が有名なので、ネットを見てもやはり天守の写真が多いですね。

しかし、まず思ったのは岡山城は石垣がすごい!

時代を感じる幾つかの積み方を見ることができます!



内堀の低めな石垣とは一変して、高い石垣群が現れます。
より本段に近い、中の段を囲む石垣。
重要な場所だけに堅牢な造りになっています。



信長の安土城から始まった総石垣の城ですが、野面積みの技術がかなり進んでいるのがよく分かります。



武骨ながら出隅は算木積みになっていて、出隅が急勾配になっています。

これこそ、荷重分散の石垣技術進化の象徴。

長い石材を角部で交互に積むことで、石垣の荷重が一点に集中せず分散することで、高く急勾配の石垣を積むことができるようになりました。



復元された不明門。
この門は主郭の本段に直結した門で、普段は閉ざされた門だったことから不明門と呼ばれました。



櫓門で明治の廃条例で取り壊されましたが、昭和41年にRC造で復元。

門の土台の石材は鏡石と呼ばれる巨石を使用。

鏡石は敵への威嚇や権力の象徴として、重要な門に使われます。

徳川大阪城が典型的ですね。



不明門を抜けると岡山城天守が見えてきます。
天守の前は現在広場になっていますが、当時は城主が住んだり政治を行う御殿がありました。



横幅のある、ずんぐりとした造りが特徴的の岡山城。
脇には付櫓もある複合式の望楼型、四層六階。

望楼型天守は豊臣期の象徴した天守といえます。


外壁は下見板で真っ黒。
この外観から岡山城は烏城と呼ばれています。



天守内は現在、展示や歴史を学べる博物館になっています。

金箔瓦なとが展示されています。



天守を出て、付櫓の脇の道から天守の裏側にまわります。



極度に狭く、まるで迷路のように折れ曲がります。



振り返っての一枚。
奥には天守台の石垣見えます。



右は天守を含めた本丸石垣。
左手には廊下門。
個人的にこのアングルの写真はお気に入り。

何百、何千という敵が攻めてきた際に180°旋回すればスピードが落ちます。

そこを、石垣上の狭間から攻撃。

道が急に狭くなるのもポイント。
大勢の軍勢がせめてきても、この場所では横並びで進むことはできません。

攻めにくく守り易い。
城は戦国の軍事施設。岡山城は至る所でその片鱗を見ることができる素晴らしい城です。



廊下門は1620年の池田忠雄によって造られましたが、明治に取り壊されました。

現在の門は1966年にRC造で復元されました。



廊下門の左手に、年季の入った建築物が現れます。

こちらは現存の月見櫓。
廊下門と同じ時期に作られたとされていて、外観は二層ですが内部は三階の造りになっています。


月見櫓の脇には穴倉があります。
上から銃で攻撃する際の穴で、石垣が加工されています。

同じ穴倉田は大阪城や江戸城でも見ることができます。



月見櫓アンダーショット。
月見櫓はその名の通り、お月見をするための櫓。

軍事施設の役割だった城は、江戸時代に戦のない平和な世が訪れたことで、役割も変化しました。

月見櫓は平和な象徴とされています。
岡山城にとって貴重な現存建築物といえます。



月見櫓脇の石垣。
月見櫓が建築されたのは1620年。
つまりこの石垣も岡山城が拡張されてから、日が経過した石垣といえます。

この一帯の石垣は、石材の形をそのまま生かした野面積みではなく、石材を加工して積んだ打込接。

特に隅にある石垣は綺麗に加工され、長手と短手を交互に積む算木積みのお手本となるような技術が詰め込まれています。



岡山城の天守裏側。
特徴は多角形の天守構造という点。

安土城をモデルにしたとも言われています。
こちらから眺めた天守の方が個人的には好みです。



天守裏は石垣が高いので、より迫力を感じます。
歪で特殊な形状をしている珍しい天守。
この多角形が安土城と同じスタイル。



こちらも天守のある本丸に直結した六十一雁木門。

この階段の下に当時は櫓門があり、強固で大きな城門を抜けた先の門のため、守りに徹した城門とは一味違います。



六十一雁木門の脇には土塀が連なり、その下の石垣は岡山城の中でも古い積み方をしています。

自然の石を生かした野面積みの中でも、岡山城は比較的大きな石が使用されていますが、こちらは小さな石材が使われています。

土塀と取り合っている石材だけは、綺麗に加工されていますね。



一周まわって最初に通過した不明門の下に戻ってきました。

この辺りの石垣が一番迫力あるように感じました。

それもそのはず!
豊臣政権時代の石垣技術の中ではトップクラスの15m級!



出隅は算木積みになってはいますが、技術の進化途中なのが分かります。

先ほどの月見櫓下の石垣とは違いが一目瞭然。
算木積みの技術が確立されて、高く勾配がきつい石垣ができるようになりましたが、この時代はやや勾配が緩いのが分かると思います。

しかし、この時代で15mの石垣は素晴らしい。

これだから、城の石垣は見ていて楽しい!
ちなみに、この石垣は築城者の宇喜多秀家の時代になりますので、関ヶ原の合戦前となります。

城の技術は石垣も含めて、関ヶ原の合戦以降に急激に進化します。



中の段の隅には大きな櫓が上がっていました。

櫓台を見ても横幅が大きいですね。
そして、石垣はやや大きめの自然石で積まれた野面積み。



模型で見るとイメージがつきやすい。
右下には変わった形の幅広い櫓が、先程の櫓台の上に上がっていました。


このまま中の段を囲む石垣下を進みます。



このあたりは、石材が綺麗に加工された打込み接。

場所によって石垣のタイプが全く異なります。
宇喜多秀家時代の岡山城の石垣を積んだのは、石工職人の集団穴太衆。
織田信長の安土城の石垣を積んで以来、全国各地の名城といえる城郭石垣を手掛けた集団。

穴太衆の技術は日本の宝です。



再び天守裏側へ。
天守裏側には旭川が流れていますが、現在後楽園と繋ぐ鶴見橋があります。

鶴見橋からの天守の写真が一番かっこいい。
段々に連なった入母屋破風がオシャレです。

主郭から見た姿とは違った見え方をします。



岡山城の特徴とも言える金箔瓦と金鯱、金の鬼瓦。

一部の大名にしか使用を許されていなかった金箔瓦を、岡山城は大量に使用しています。
やはり豊臣政権下での宇喜多秀家の立ち位置は重要であったと考えられます。

白漆喰の城も素晴らしいのですが、黒漆の城は重厚感があり金色が綺麗に映えます。



岡山城の裏に流れる旭川。
河岸にも石垣が使われています。


現在の上空写真。
旭川が岡山城の三方を守っているように流れています。

現在は主郭の前の内堀しか残っていませんが、当時は城の前面はいくつもの水堀で防御していました。



最後は内堀からのショット。左手には月見櫓。奥には小さく天守が見えます。

現在は本丸しか残っていない岡山城ですが、見どころは満載でした。



岡山駅まで帰る途中、至る所に石垣を発見しました。

天守台クラスのこの高石垣の上には、現在駐車場になっています。
これには衝撃でした。



突如街の中に現れたこの石垣も素晴らしい。



食い違いになっているこの場所は、門があったのではないかと個人的には思います。

今では一般車が普通に通行しています。



街と完全に一体化しています。
貴重な城郭の遺構なので、複雑ではありますが、ある意味では市民の手で守られているとも言えます。



駅へ向かっている路地で、偶然に櫓が出現しました!

櫓を模した建物かと思って調べたら、西丸西手櫓という重要文化財でした!

岡山城で一番大きな石材が使われていて、月見櫓と同じ現存建築物です。

10.4m×7.3m。高さ10.6m。二層の櫓です。

超貴重な建築物が、街中にあります。

まるでスタンプラリー。街そのものが城郭の遺構です。


こんなに素晴らしい岡山城ですが、天守や櫓など廃条令による取り壊しを免れた建築物は、空襲によって残念ながら焼失してしまいました。

もしこの大天守が現存で残っていたら・・・
そう思わずにはいられません。

すごく胸が締め付けられる悲しい歴史。

しかし、今では岡山県のシンボルとして、歴史を知るための観光スポットとして市民や観光客に愛され続けています。



戦う城、権威の城、政治の城。様々な時代を生きてきた岡山城は、今でも金箔瓦のように輝いています。


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佐倉城@千葉県

2024-10-14 15:00:00 | 100名城
2024年10月14日

本佐倉城の最寄駅、大佐倉駅から一駅の京成佐倉駅へ。

戦国期の中世の城が本佐倉城であれば、江戸時代の近世の城は佐倉城になります。

駅を降り、歩いて15分ほど。
本佐倉城で歩きまくったので、体力的には厳しめ。

しかし、佐倉城は日本100名城の千葉県を代表する城なので、行かないわけには行きません。



城郭の麓には水堀になっていて、整備された道路を上がっていきます。

雰囲気が出てきました。



戦国時代、この一帯の下総は千葉氏が納めていました。

本佐倉城が本城だった千葉氏は、この地に築城を命じたが事情により頓挫。

1610年に徳川家康の命で土井利勝によって築城が再開し佐倉城が完成しました。

佐倉城は佐倉藩の藩庁が置かれた城でした。



切り落としたような崖があり、城郭に近づいていることを肌で感じることができます。



佐倉城の見どころの一つの馬出し空堀。
この空堀は明治期に連隊造営のために埋められました。

しかし、発掘調査をした上で復元。
現在は深さ3mですが、当時は5mでした。

綺麗に整備されています。



早速、主郭に向かいます。
入り口には堀田正睦の銅像があります。

佐倉城は長きに渡り、堀田氏が幕末まで藩の経営を行ってきました。



こちらは二之門跡。
ここには桁行8間ほどの二重の櫓門が建っていました。

当時の写真も残っていて、見事な城門でした。
現在は公園になっている佐倉城ですが、何気ない道の折れ曲がりも、城跡であれば全てが意味をもたらしていると感じることができます。



二の門を抜けると二の丸が広がります。
二の丸の周りは空堀で防備されているのですが、木や草が生い茂っているため、深さなどを確認するのは困難です。



さらに先に進むと二の丸と本丸を区切る空堀があり、橋がかけられています。

本丸は孤立させて敵が攻めてきた際の防御策をしいています。

草木で見えはしないものの、空堀はけっこう深さがあるように思えました。

この橋の先には一之門があり、当時は間口が4間の二階建ての櫓門でした。

こちらも、当時の写真が残されています。



一之門跡。
脇には高めの土塁があります。
高さは3m越えくらいでしょうか。


土塁の上は歩くことができ、主郭となる本丸はこの土塁で全て囲まれています。



本丸の角にある天守台跡。



佐倉城には天守があがっており、7×8間の三重三階の天守でした。
三層としては規模の大きな天守だったそうです。
慶長の築城ラッシュ後の天守のため、破風などの装飾がなくシンプルやデザインだったようです。

しかし、城郭の一番角部に造られた天守だったので、城下からもよく見えたであろうと思われます。

1813年に盗賊による火の不始末が原因で、天守は焼失してしまいます。



天守の近くにあるのが銅櫓跡。
6間四方の二重の櫓で、下方は下見張り、上方は白漆喰。

明治の廃城令によって解体される時の写真がしっかり残っています。

複雑な気持ちになります。


本丸から登城した逆側の方面は向かいます。
整備された道から一転、急に山城のような雰囲気に。

佐倉城は平城の近世城郭だと思っていたのですが、裏の道から通ると割と高低差があり、やる小高い山に築かれた城なのだと感じることができます。



城郭の一番下にあたる場所では城郭の片鱗を見て取れます。



水堀と外郭の曲輪。
奥の山の上が本丸になります。

地上との高低差を考えると、やはり本丸と二の丸を区切る空堀は、深いかもしれませんね。


遠くから見た佐倉城。
外から見ると本佐倉城と変わらないくらいの山ですね。

近くには一級河川の鹿島川が流れます。



城の周りを歩くと、水堀が所々で現れます。

本佐倉城と佐倉城。
近くにありますが、全く異なる性質を持った城です。

それは、時代の移り変わりを象徴しているともいえます。

千葉氏時代の本佐倉城は、中世城郭で戦うための城。
それが役割でした。

しかし、江戸期の佐倉城は藩庁がおかれ、政治を行う場所としての役割を果たしました。

今では公園としての役割を話していますが、あれだけの貴重な写真があるのであれば、いつか城門や天守を復元すれば、より魅力的な城になるのかなと思います。







本佐倉城@千葉県

2024-10-14 12:00:00 | 続100名城
2024年10月14日

7月から怒涛の忙しさで、なかなか休みがとれない今日この頃。

3連休に城巡りをすると決め、この日のために1週間やり抜いた自分へのご褒美として、城巡りを決行!

本日は千葉県にある、続100名城の本佐倉城と100名城の佐倉城へ。

朝7時半に家を出発し、京成線に乗り約2時間ほどで大佐倉駅に到着。



ローカルな駅。
本佐倉城の続100名城スタンプは、駅の改札を出て左手にありました。



映画に出てくるような駅舎。

電車本数も少なく、駅の周りにはコンビニすら無いので不便と思われるかもしれませんが、一人旅をしているようでエモーショナルになります。

車で城に行くのも便利で良いのですが、電車で行くと旅の雰囲気が出るので個人的には好きですね。



周りは田園が広がり、快晴の空と合わさってまさに絵に描いたような風景。

駅から本佐倉城まではGoogleで25分となっていましたが、全く苦を感じることなく歩くことができます。



遠くに木が生えていない場所があるので、おそらく本佐倉城であろうと思い、周りを注意しながら目指します。



近づくと、堀切?切り通し?のようになっていて間違いなく城郭であることが確認できます。

しかし、ナビに沿ってまずは案内所を目指します。



奥の黒い建物が本佐倉城の案内所。
こちらで御城印も販売。

本佐倉城や千葉氏などの歴史を学ぶことができます。

千葉氏はこの一体、下総を納めていた有力大名。桓武天皇の血を引く関東の名族で、源頼朝に鎌倉に拠点を構えることを進言したり、源平合戦や奥州合戦にも参戦して活躍したことで、鎌倉幕府の中でも屈指の御家人になりました。



案内所でパンフレットもらうことをオススメします。

案内所の前は駐車場になっていますが、駐車場の目の前には断崖絶壁。

本佐倉城は1469年から1486に築城。1590年に豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏と共に千葉氏が滅びるまで110年以上、戦国時代に活躍した城です。



絶壁の上が本佐倉城の主郭となります。
案内所があるこの一帯は、まるでスタジアムのように囲まれています。

これは自然の地形なのか、造られたものなのかは分かりませんが、容易に落とせる城ではないなと感じます。



進むと矢盾が並びます。
もちろん、家紋は千葉氏の月星紋。

ちなみに三日月の上にある星は、神秘な力を持つ存在として神格化されてきた北極星。



先ほど堀切と思っていた遺構は東山虎口で、ここが正門とされていたようです。

高さのあるダイナミックな土塁を貫通する形で、食い違いの虎口になっています。



写真だとやや分かりづらい。
近くで見ると圧倒されます。



土塁の上からのショット。
東山虎口の素晴らしい遺構に、既に満足感があります。
しかし、本佐倉城はこんなものではありません!


土塁上からの景色。

ガイドさんに聞いたら、当時はこの近くまで印旛沼の水があり、足利公方などのお偉い方は船で近くまで来てこの正門から入城していたようです。



続いて城山曲輪と奥ノ山曲輪を分ける大堀切が現れます。

これも見事な堀切!



高低差6mでここには門があったと考えられています。

中世城郭全開の本佐倉城。



大堀切の上から撮影。
ちょっと怖いくらいの高さ。

とにかく遺構の保存状態が良好。



大堀切で道が分岐しますが、まずは奥ノ山に向かいます。
薄暗く、細い道を進むと開けた曲輪の奥ノ山にとうちゃくです。


さらに奥に進むと蔵跡に到着です。
こちらも大きな曲輪で、発掘調査で炭化した米が見つかったことで、この場所に倉があったと考えられています。



見どころは、倉跡の先にあるセッテイ山と倉跡を分断する巨大な空堀。
後ほど下から撮った写真と共に説明したいと思います。



一度、奥ノ山方面から下り、水の手方面から再度入城します。

こちらは険しい道で、セッテイ山方面へと向かいます。
まるで探検しているかのような道を進んでいきます。

右手はセッテイ山。

セッテイ山は接待する場とも言われているし、千葉氏は北条氏の傘下になったので、北条氏が常駐した場所とも言われていて、この曲輪の意味合いは謎のままです。

いずれにしても、セッテイ山は主郭とは分離されていて孤立した曲輪となっています。



セッテイ空堀は驚愕の高低差16m!
中世の城でこのスケールの空堀は珍しいと思っています。

先ほど倉跡上から見た倉跡-セッテイ空堀。
こちらも高低差10m
迷路のようになっていて、敵が攻めてきても一網打尽することができます。



この倉跡-セッテイ山の空堀は長く続いています。
この先には東光寺ビョウという曲輪があり、一番最初に回った東山虎口に繋がります。



最後は城山のいう本佐倉城の主郭に向かいます。
曲輪の入り口には城山虎口がありました。
城山に行くにはこの道一本しかありません。

いかに、本佐倉城にとって重要な場所であったかを示しています。



城山は広めの曲輪となっていて、ここで城主は執務をこなし住んでいたと思われます。



下を覗くと、入城した時に見上げた駐車場があります。
かなりの断崖絶壁なのが分かります。

本佐倉城はまさに戦国時代の城!という見どころが満載でした。

江戸時代は本佐倉城の近くに佐倉城が下総の拠点となった為、本佐倉城は歴史から消えてしまいますが、良好な状態のまま生き続け、平成10年には国の重要な文化財として国指定史跡になり、続100名城にもなっています。

そこには間違いなく千葉氏の息吹を感じることができます。

また、ガイドさんや案内所で働くスタッフさんもとても親切。

発掘調査もしっかりされ、案内のパンフレットも分かりやすい為、理解しながら周ることができます。

そういった努力も感じれるので、素晴らしい遺構だけでなく、とてもオススメの城といえます。



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