つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

江戸城 遺構巡り【其の一】@東京都

2024-11-17 13:00:00 | 100名城
2024年11月17日

東京には江戸城の遺構が、街中に幾つも残っています。

現在、江戸城の主郭になっていた場所は皇居になっており、天守台や櫓、城門などが現存や復元されています。

しかし、江戸城は全長15kmに及ぶ日本一の巨大城郭でしたので、現在も至る所にその名残を見ることができます。

今では世界の東京都となり高層ビルが立ち並び、さらなる大開発が進んでいますが、江戸の歴史を知ることで今の東京を違った視点で楽しむことができます。

定期的に江戸城の埋もれた遺構を巡っていきます。

まず向かったのは四ツ谷駅。
四ツ谷駅は中央線、総武線、南北線、丸の内線が交わる大変便利な駅。

新宿区と千代田区の境に位置しており、江戸城はこの四谷まで広がっていました。



改札を出ると鉄道や駅周辺の歴史について観覧板があります。

当然江戸城についての内容もあるので、一度ここで知識を深めてから楽しむのも良いかなと思います。



四ツ谷駅から麹町方面の出口を出ると江戸城の遺構を見ることができます。



駅の目の前に現れるのは四谷見附。
立派な石垣が現れます。



見附とは番兵が駐在している城門のこと。
江戸城三十六見附と呼ばれ、江戸城には幾つも堅牢な門が存在していました。

現在でも地名として残っているのは、この四谷見附と赤坂見附です。



それでは四谷見附はどのような役割があったのか。
四谷見附は甲州街道に繋がる門だった為、万が一の際に将軍が甲府に脱出する為の重要な門だったようです。

江戸時代の甲府は幕府管轄領だったので納得です。



四谷見附前の橋からの一枚。
四ツ谷駅のホームと中央線。

首都東京の心臓となる中央線の線路こそ、実は江戸城の貴重な遺構です。

中央線の線路は江戸城の外堀の底部に敷いたので、周りよりも低い位置を走っています。



サイドから見ると四谷見附付近が、今でも城郭の形状をしているのが分かります。

ある意味では、堀のスペースに駅と線路を敷いたことで、他の建築物が建つこともなく宅地造成されるのもなく、堀の形状を現在に残し続けています。



四谷見附から飯田橋方面に向かいますが、土塁の上は整備されていて、歩くことができます。



静かで都会にいることを忘れてしまいそうな素敵な道。

今まさに江戸城の遺構の上を歩いています。


土塁の上から下を覗くと、堀になっているのが分かりやすいです。


市ヶ谷駅付近に来ると水堀になります。


橋からの一枚。
右側には先ほどまで歩いていた、巨大で美しい土塁。

そして、水堀。
東京に来た時は川だと思っていましたが、これは立派な水堀です。


いよいよ目的地の飯田橋駅に到着です。
牛込橋を渡ると牛込見附跡の遺構を見ることができます。


土塁と巨大な石垣。
ここには櫓門があり、それを支える石垣の土台が両側に残っています。

江戸城の外豪の中でも、最も状態よく残っている遺構。


さすが江戸城!と言わんばかりの石垣。

直方体の石材を交差して積んでいくのが、算木積みですが、江戸城の算木積みは他の城では見ることのできない程、綺麗に加工された巨大な石材を使用しています。


隅部以外はある程度加工した石材を使用する、打込接で積まれた石垣。

江戸城は拡張工事も行いつつ強固な城にしたので、完成は三代将軍徳川家光の時。

徳川家康から始まった江戸城の工事はトータル35年程の工事だったので、場所によって石垣技術が異なります。



飯田橋駅の改札側。
こちらは隙間なく積み上げた綺麗な切込接。



一つ石材がポツンと置かれています。

何やら下には文字が刻まれています。
松平阿波守と書かれていて、初代徳島藩主の蜂須賀忠英を指しています。

1639年に蜂須賀氏が天下普請によってここを築城担当した確かな証拠。

当時のメッセージは数百年経過した今、貴重な資料として届けられました。


駅前の道を挟んで二つ土台の石垣が残っていますので、櫓門の想像がつきやすい。


飯田橋駅の2階のテラスからは、さらにハッキリとイメージをもたらしてくれます。

二つ並んだ櫓台の上に、道をまたいで櫓門が建っていました。
天下を納める幕府の城らしく、巨大な城門だったことは、容易く想像できます。

牛込見附は枡形になっていて、敵を迎え打つ防御機能も備わっていました。



飯田橋の総武線ホームから、先ほどの櫓台の足元が見えます。

都内に住んでいる方にすれば何気ない光景かもしれませんが、江戸城の伊吹は何気ない光景の中に感じることができます。

東京の魅力を違った角度から見ることで、今の東京は確実に江戸時代と繋がっていることを感じます。

次は赤坂見附に行きたいと思います。




にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



品川台場@港区

2024-10-20 22:40:00 | 続100名城
2024年10月20日

三日間の岡山、高知、香川の100名城巡りを終え東京に帰ってきましたが、翌日は台場で用事があったので、品川第三台場に行きました。

日本続100名城にも選ばれている品川台場ですが、おそらくお台場に遊びに来ているほとんどの人が知らないであろう江戸幕府による貴重な遺構です。



よくあるお台場の光景。
ビーチには高校生や観光客、ファミリー、カップルなど各々の時間を楽しんでいます。

そんな幸せの時間が流れるこの地で、
江戸時代の1853年、日本に激震が走ります。

ペリー率いる4隻の軍艦が神奈川の浦賀沖に現れました。

江戸幕府は守備を強化するために砲台を建設することを決断。



奥にはレインボーブリッジが見えます。

お台場公園の見慣れた当たり前の光景ですが、レインボーブリッジの下に石垣造りの島があります。

海に浮かぶあの島こそ江戸幕府が造った要塞、品川第三台場です。

こんなオシャレタウンに大砲を放つための島があったなんて驚きですよね。



まるで天橋立のように細い道が島につながっています。

石材で造られた道で、対岸にはフジテレビが見えます。

砲台場は12基建造計画がありましたが、
幕府が開国したことで最終的には6基建造しました。

その内、現存しているのは第三台場と第六台場で現在、国の指定史跡となっています。

一般人が行けるのは品川第三台場のみ。

ワタクシが東京に来たのは13年前。
恥ずかしながらこの品川台場を知ったのは城好きになった最近のこと。

それまで全く存在を知りませんでした。



近ずくと石垣がよく見え、綺麗な切込接を確認できます。

緊急性が高い建築計画だった為、泉岳寺境内や品川の御殿山を切り崩して埋め立てられました。

資材を運ぶための船は1日2000隻。
作業員数は1日5000人。

超突貫工事です。

フジテレビなどがある、現在お台場と言われるエリアも埋立地ですが、江戸期に既に埋め立てられた島を造っていたのですね。



石垣は腰巻石垣になっていて、海と接する下部は石垣。
上は土塁で囲まれています。

第三台場は約150m四方の石垣で囲んでいます。



砲台場の中心部はサッカースタジアムのようになっています。



レプリカですが、大筒をセットする砲台置き場があります。



結局、台場は一度も使われることがなかったのですが、外国から日本を守ることは江戸幕府の威信をかけた事案だったことがわかります。


現在、品川台場には建築物は残っていませんが、想像を掻き立てる跡はしっかり残っています。



石材で形成された防空壕のような穴は、大砲の弾や火薬を収納するための弾薬庫として使用されました。



下から見るとまさにスタジアムのピッチに立っているようです。

砲台場は当時は御台場と呼ばれていました。

徳川幕府の威信を掛けた事業は、今も変わらない姿で残っています。

歴史は今に繋がっている。
まさに、お台場はそれを感じることができるエリアです。



夕暮れが近づくお台場。
レインボーブリッジと高層建築物。

目覚ましい発展を遂げた日本ですが、特にこの東京は世界で有数のビックシティになりました。

しかし、変わらない物もある。
海に浮かぶ第三台場とこの太陽は今も昔も変わらない。

この歴史を伝え繋がるのは、現代を生きている我々。

素敵なロケーションが、エモーショナルな気分にさせる。そんな1日でした。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



丸亀城@香川県

2024-10-19 12:00:00 | 100名城
2024年10月19日

昨日の高松城に続いて、今日は丸亀城に向かいました。

まさかの曇りで、雨予報。

当初の予定は午前は高松城で午後は丸亀城の予定でしたが、晴天の昨日の内に高松城に行ったのは正解!

高松駅からJR伊讃線で約20分ほどで丸亀駅に到着。



レトロなアーケードを歩き、丸亀城を目指します。
城が目的であっても、知らない街並みを歩くのも旅の楽しさの一つ。



歩いて10分〜15分ほどで丸亀城の水堀に到着です。

丸亀城周辺は大型バスも入れる大きな駐車場もあり、観光客を受け入れる体制がしっかりしているように思えました。

1587年に17万石でこの一帯を納めた生駒正親。
1597年に丸亀城に着手。1602年には完成したものの、本城は昨日行った高松城でしたので、1615年の一国一城令によって廃城とされてしまいました。

しかし、生駒氏がお家騒動によって所領没収により、丸亀藩が立藩し山崎氏が入封し丸亀城再建に着手。

その後、京極氏が入封して明治期を迎えます。

京極氏の時代に32年間の改修の末、現在の丸亀城に生まれ変わりました。


城下から城を見上げた瞬間、丸亀城の石垣に衝撃を受けます。

山一つを削り出して造られた城です。

まるで天空の城ラピュタのような、いくつも段になった石垣。

雨が強くなり、どんよりとした天気でも、この石垣を見ればテンションが上がってしまいます。

写真では何度も見ていましたが、実際に見ると圧倒されます!



まずは大手二の門から入城します。

大手二の門脇には、鉄砲を打てる狭間があります。

水堀に架けられた橋は極度に細く、大軍が攻めても横並びで進行するのは不可能。

つまり1000人で攻めてこようが、10000人で攻めてこようが、この橋を渡れる人数は決まっています。

この橋を渡る敵は狭間から完全にロックオンされます。

遥か奥の天守は今でこそ美しいですが、攻める側であれば、総石垣も含めて威圧が凄いですよね。



横から見ると分かるのですが、橋が途中で途切れています。

おそらく、有事の際はこの橋ごと落とすことで、より攻めにくくする狙いがあるのではと個人的には感じます。

水堀の石垣は綺麗な切込接で目地を揃えた布積み。

しかし、土塀下の石材だけは一回り大きな石材を使用しています。



二の門を抜けると枡形になっていて、大手一の門が出現!

枡形には鏡石と呼ばれる巨石が使われて、メインゲートとなる大手門にふさわしい格式高い門となっています。


上から見た枡形虎口。これぞ城門!

袋小路にすることで、敵に一斉攻撃を仕掛ける仕組みになっています。

二の門は高麗門で、一の門は櫓門。
櫓門で藩士が太鼓を打ち、時を知らせていたので太鼓門とも呼ばれていました。



大手門を抜けるとお土産屋があり、その脇の見返り坂を登り進めると天守へ繋がります。

坂は150mあります。



見返り坂の途中には、丸亀城の名所となる扇の勾配と呼ばれる石垣が現れます。

高さ20mクラスの石垣が丸亀城を取り囲みます。



先進的な切込接で隅は算木積み。
扇の勾配と呼ばれる通り、下は緩やかな勾配ですが上にいけばそり返って、ほぼ垂直になっています。

熊本城も同じ扇の勾配で有名です。
この巨大な高石垣を築いたのは、当然最高技術を有した石工集団の穴太衆。
熊本城の石垣も穴太衆が積んでいます。

元は自然石をその形を生かして利用した野面積みから始まった石垣は、綺麗に加工され、最終的には隙間がないように敷き詰められ、横目地が綺麗に揃った切込接と呼ばれる技術に辿りつきました。

昨日の高知城では野面積みの最高峰技術を見ましたが、丸亀城では日本の城郭建築における石垣技術の最高到達地点を目にしました。



見返り坂を登りきると、二の丸大手口跡が見えてきます。

写真では分かりづらいのですが、勾配がきついです。



二の丸には多くの櫓や渡櫓が建築されていて、本丸を防御していました。



本丸を支える石垣。
奥の張り出した場所には二重の塩櫓がありました。



天守に続く本丸の入り口、本丸虎口跡。
丸亀城はどこまで行っても勾配と石垣!


天守に到着。
三重三階の層塔型天守。

丸亀城は現存12天守の一つで、1660年に完成。
四国には現存天守が4城ありますが、四国の中で最も古い天守です。

国指定重要文化財の貴重な建築物。

長手面には黒の下見板張りが施されています。



天守入り口が可愛らしいのは、元々は天守と渡櫓が接続していた為。

天守の高さは15mで現存12天守の中では最も小さなサイズ。

総高60mを誇る石垣の要塞にしては、可愛らしい天守ですね。

しかし、この天守は小ぶりなのに相当な実装を備えた軍事施設なのです。

後ほど紹介!



非常にシンプルな天守で、後から付けたかのような唐破風が特徴的。
控えめながら千鳥破風もあり、一通りの装飾があります。



下から見上げる石垣も素晴らしいのですが、上から見る石垣もまた良き。

丸亀城には天守以外には麓にある城門しか建築物が残っていないのですが、至る所に櫓の跡が残ります。

丸亀城には12基の櫓が上がっていたので、当時の姿は壮麗だったことでしょう。



天守内部に潜入ー!



天守は1950年に解体修理が行われ、当時のままの姿を維持しています。

やはり木造建築は素晴らしいです。
小さめな天守ですが、一階は50本の柱で支えています。



一階は天井が高く、階段も急です。



いくつも複雑に重なり取り合っている横架材。
現存12天守だからこそ楽しめる昔ながらの技術。



海側に向けられた狭間。
鉄砲狭間はよくありますが、鉄砲狭間より大きなサイズの大砲狭間は、漆喰を塗られて穴が塞がれています。

これは非常時に壁を破って大砲を使用できるようにしたもの。

この天守から放たれる大砲の威力は、きっと強力であったと思われます。

丸亀城は一度も戦うことが無かった城です。



こちらも珍しい防御アイテム、太鼓壁。
写真をよく見て頂くと、長押から下の壁が分厚く内側に張り出しているのが分かります。

漆喰が厚く塗られ、鉄砲の弾丸が貫通しないように防御力を高めた壁になっています。



最上階。
昭和の解体修理をした際に、南東隅の壁の中から、祈祷札が出てきて万治三年の年号が墨書きされていました。

築城した日付なのか、解体修理した日付なのか、可能性は幾つか考えられますが、この時には天守が存在していたことが証明されました。

数百年の時を超えて、先人から我々に送られたメッセージ。



最上部の天井は面白いですね。

日本に12城にしか残されていない貴重な現存天守。これからも素晴らしい天守を、そして受け継がれた技術を守り続ける使命があります。



天守を見た後は、本丸→二の丸→三の丸へと戻り、南東隅にある月見櫓跡へ。

何故か天守を出た30分程だけ雨が止みました。

曇ってはいますが、それでも景色が素晴らしい。奥に見える大きな山は飯野山。

当時もこの月見櫓で絶景を楽しんでいたことでしょう。



二の丸を取り囲む南東側の石垣。


圧巻の打込接の高石垣です。



帰りは登ってきた見返り坂とは逆側となる搦手口側から降ります。



こちら側からの石垣も凄い!

張り出した石垣が多い為、隅部が多く石垣の技術の高さを、より一層感じることができます。


三の丸下の石垣。

二の丸下の石垣も高くて魅力的でしたが、三の丸下も同じくらい高い。
最上部に向かうに連れて勾配がキツくなり、最上部はほぼ垂直!



右奥には先程立っていた月見櫓跡の石垣。
下から見上げると、石垣の反り具合が分かります。

時代や城、築城者、地域によって石垣は全く異なります。

そんなところに石垣の魅力があります。



複雑に形成する三の丸を囲む石垣群。


上には三の丸の石垣。
下段は三の丸下にある帯曲輪の石垣。



これはさらに凄い!

一番上段は三の丸の石垣。
中段は三の丸下の帯曲輪の石垣。
下段は時代の異なる野面積みの石垣。

丸亀城には各曲輪ごと石垣で形成していて、いくつもの段々になっています。

三の丸石垣上には二の丸を囲む石垣と、さらに上には本丸を囲む石垣が存在します。

これが石垣の総高60mという、日本一の高さを誇る要塞、丸亀城です。

そんな全国のお城ファンからも愛されている丸亀城ですが、悲劇が襲います。


平成30年7月7日、七夕。
断続的に続いた西日本豪雨により、


南側の帯曲輪の石垣が一部崩落。


同年、10月8日
帯曲輪の南西隅部も崩落。


翌日、10月9日
三の丸坤櫓を含む南西隅部の大部分の石垣が崩落。



日本屈指の石垣の名城、丸亀城は大ダメージを受けてしまいました。

三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険とされていて、修復工事に着手する直前だったそうです。


6年経過した今も、鹿島建設が必死に復旧をしています。

本来は2024年度末に完工予定が、2028年完工に変更されました。

それは単純に復旧すべき石垣の数が増えたからです。
では、なぜ当初の見立てより増えてしまったのか



実は帯曲輪で隠れていましたが、三の丸の石垣は帯曲輪の土の中深くまで積まれていていたことが、崩落によって判明。

写真の通り、上段の石垣がグッと下まで伸びているのが分かります。

その高さは驚愕の31m!!
この発見により、単体の石垣としては徳川大阪城に次ぐ全国2位の高さとなりました。



土の中で隠れていた石垣によって、修復石材個数は1万1746個。

石材一つ一つに番号が振られ、城の前の広大な敷地に並べられています。


発見は石垣の高さだけではありません。

崩落した石垣の中に、丸形などに加工された石材が多く発見され、重ねると五輪塔が幾つも発見されました。

供養塔やお墓の一種とされる五輪塔が、なぜ石垣の中から出てきたのか、今だに謎のままだそうです。



発見は素晴らしいことですが、痛々しい姿に20分ほど立ち止まって現状の姿を眺めていました。

石垣は崩落したら何年もの歳月を費やします。
可能な限り元の姿に戻すには、おそらく新たに石垣を積むよりも難しく、さらに莫大な費用が重なります。

それでも元の姿に戻すことを決断したのは、現代の我々に先人から託された丸亀城を守るため。
そして未来に繋ぐため。

そんな誇り高き復旧を陰ながらワタクシも応援しています。



再び雨が強くなりましたが、再び大手口に戻る途中には、玄関先御門があります。

旧藩主居館の表門とされていて、江戸時代初期に建築。

形状は薬医門。左上には天守も見えます。


皆さん天守や石垣に目がいきがちですが、忘れてはいけないのが、再び戻ってきました大手一の門。

入口が通り過ぎてしまうほど影が薄いのですが、お土産屋を出てふと見たら中に入れることを知りました。

丸亀城に来たら観覧必至です。



一の門の中から太鼓で時間を知らせていたので、奥には太鼓がおいてあります。

現在は正午に太鼓で時を知らせているようです。



しかし、丸亀城のメインゲートの大手門ですから、当然防御機能も備わっています。

櫓門の防備アイテム石落とし。



丸亀城の枡形は18m×20mで大きめ。

大手二の門から侵入した敵はこの枡形で立ち往生。
そこを一の門から狙い撃ちます。

ここからだと、全てが手に取るように分かります。
しかし、鉄砲狭間などはなく窓も大きめなのでガチガチの戦国期の防御機能に比べると、やや劣る。もしくは他の意図があったのでしょうか。



大手一の門は1670年に京極氏によって建造。
関ヶ原の合戦からは70年が経過しています。

櫓内部の木材はやや細め。

しかし大手門の現存は珍しく、天守と大手門が現存しているのは、弘前城と高知城そして丸亀城のみ。

丸亀城の大手一の門も国指定重要文化財になっています。



大手一の門内部を見たら、来た時と同じ大手口の枡形から帰ります。



名残惜しいですが、大手口から丸亀城を後にします。


日本一の石垣の名城なので、見どころが多い丸亀城でしたが、やはり心に突き刺さったのは崩落した石垣。

崩落する前の、10月8日、9日共に住民から石垣から音がすると市役所に問い合わせがあったそうです。

物理的に音が鳴ったことは間違い無いのですが、石垣にも魂が宿っているのではないかと考えてしまうのです。
実際に石材一つ一つに職人の手が加えられ、思いが詰まっています。

そんな思いを今、一つ一つ繋ぎ合わせています。

1日も早い復旧を願っています。

3日間で岡山城→高知城→高松城→丸亀城と日本100名城の4城を周りました。

全ての城で素晴らしい石垣や建築物を見ることができました。

同じ城なのに全く性質が異なるので、城めぐりはやめられない。

四国にはまだまだ多くの名城があります。

また、改めて四国での城めぐりを敢行したいと思います。



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



高松城@香川県

2024-10-18 17:30:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山県→高知県→香川県へと移動。
四国には多くの城があり、限られた時間の中では周りきることが出来ないので、高知県の後は香川県に絞りました。

香川県の中心地、高松市には日本100名城の高松城があります。

高松市は讃岐一国を与えられた生駒親正によって1588年から築城が開始され、生駒氏が転封後は松平氏が11代に渡って納めた地域。

その居城となったのが高松城です。

高松駅前からは西門から入城すると近いのですが、ワタクシはぐるっと遠回りをして大手口がある東側から入城します。

時間は15時。本当は明日の朝から周る予定でしたが、超快晴の天気だったので疲れをおして強行突破です。


大手口の脇には高松城の名所となる艮櫓が姿を出します。

高松城といえばこの艮櫓の写真が多いですが、間近で見るとすごく大きいです。

外部に跳ね出した石落としは、まるで袴を着衣しているようです。

1677年に造らた艮櫓は、日本で12基しか残っていない現存三重櫓の一つです。



高松城は水堀で防御した近世城郭。
城郭に向かう橋は旭橋。その先には旭門があります。

橋と門を見て違和感にお気づきでしょうか。

旭門に対して旭橋が斜めに架かっています。
これは敵が攻めてきた際にスムーズに通過させない狙いがあると言われています。



斜めの旭橋の先に現れるのは巨大な枡形虎口。

綺麗に石材を隙間なく加工した切込接の乱積み。



旭門は格式ある高麗門。
門脇にチケット売場があり、御城印などもここで購入することができます。



枡形の一角に石垣を切り欠いた場所は埋門(うずみもん)です。

字の如く、綺麗に形成された石垣に埋め込まれた門です。

近世城郭でたまに見かける築城技術。
門上の石垣は一つの長い石材で荷重を受けています。
原理が全く同じ木造建築の技術を石材で表現しています。



枡形を抜けると艮櫓と対面!
外部の水堀側からの写真しか見たことがないので、楽しみです。



内部には入ることができなかったのですが、近くで見るとより一層大きさを感じます!

三層三階の城漆喰の総塗籠。
特徴は一階の千鳥破風ですね。

二階の屋根部を貫通するように千鳥破風が設けられています。
唐破風もあり、高さ11.5mの壮麗な建築物となっています。



艮櫓は昭和40年に解体修理が行われ、太鼓櫓があった現在の位置に移築復元されました。

その際に艮櫓に合わせて石垣も拡張したそうです。

意外と手を加えられているようですね。

昭和25年に国の重要文化財に指定されています。



大手口を抜けると早速、天守台が現れます。 
これは巨大な天守台。石垣の積み方は野面積み。

 

背景には高層建築物。

石垣の石材が様々な色をしているのでアーティスティックです。



本丸に向かう途中には三の丸の入り口に桜御門があります。

国宝に指定されることが内定していましたが、翌年高松空襲によって焼失。

しかし、令和4年に77年ぶりに復元して蘇りました!



復元には膨大な時間を要します。
この門一つ復元するのに、発掘調査から完成まで12年を要しました。

しかし、これは未来への継承です。
復元を実現させた高松市は素晴らしい。



桜御門を抜けると重要文化財の披雲閣が現れます。

披雲閣は松平氏時代に作られ、藩の政庁及び藩主の居城として使われていました。

明治期に老朽化で取り壊されたものの、大正6年に現在の建築物が完成しました。



延べ床面積1.887㎡の巨大敷地に142畳の大書院があり、今は貸会場として利用されています。



ワタクシが入城した日はコンサートの予定になっていました。
中には入ることが出来ませんでした。



続いて月見櫓、水手御門、渡櫓。


三重の月見櫓は1676年に完成し現代に残る現存の貴重な櫓です。

日本に12基しか現存していない三重櫓の内、艮櫓と月見櫓の二つが高松城にありす。



千鳥破風、唐破風、総塗籠の月見櫓は風格があります。
階層の中間にある黒の木材のラインが特徴的で、カッコいいです。


月見櫓下からの景色。
絶景の海!

今は城郭と海の間に道路が走っていますが、当時はこの月見櫓の下は海でした。

高松城は近世の平城ですが、水城とも呼ばれ日本三大水城の一つで海と直結した城。

いつか行きたいと思っている小豆島も見えました。



月見櫓の隣には渡櫓がありますが、間に接続した門が水手御門。



堀の中にある水手御門。
この門こそ海と直結した水城たる所以。

水手御門の階段下には船が泊まり、この門から入城することができたようです。
まさに海の大手門。

これは他の城で見ることのできない、海城独特の建築物。



通常、月見櫓はお月見をするために造られた平和の象徴的な建築物ですが、高松城では出入りする船の監視の役割と、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見ていた事から「着見櫓」と呼ばれていたそうです。



当時の高松城の模型。
町ごと堀で囲んだ総構え。

海に面していて、海水を引き入れて水堀としているのも高松城ならではの特徴的な造り。



本丸に行くには鞘橋を渡る必要があります。



鞘橋から見た天守台。
現在は天守はありませんが、もし天守があったら水に浮かぶ城だったと想像します。


海の城らしさとして、堀には鯛が泳いでいました。

普通は鯉が一般的ですが、鯛やヒラメなど海の魚が生息しています。



間近で見る天守台。

野面積みで隅は算木積みになっています。勾配も急で高さ幅共に大きな天守台です。



天守台入り口。
高松城の天守は三層四階+地下一階の構造で四国最大の規模を誇っていました。

しかし明治17年に老朽化によって取り壊されました。



天守の礎石。

取り壊してしまった天守ですが、平成17年にイギリスのケンブリッジ大学図書館で、高松城天守の鮮明な写真が発見されたことで、天守台の修復工事を平成17年から25年まで行われました。
そして、地下一階部分から58個の礎石が出土。
発掘調査が進められています。 

天守の復元案もあり、今後の動きが非常に気になるところ。



資料館にあった模型。
天守は張出造りと呼ばれる建築スタイル。
天守台石垣よりも一層目が大きく張り出しています。
有名な熊本城が同様の形式になります。

また、最上部が南蛮造りになっているのも特徴的。

日本の城は上の階に連れて幅が小さくなって行きますが、南蛮造りは最上階が一階層下よりも大きくなるのが特徴。

小倉城や岩国城が同じ南蛮造りの天守になります。
この模型を見ただけでワタクシはテンションが上がってしまいます。



天守台から見た水門。
高松城は海から海水を引き入れているので、水門にて調整を計っています。

ちなみに、水門の前では鯛にエサをあげることができ、大量の鯛がエサ欲しさに集まっていました。



同じく天守台から見た鞘橋。
上から見ると曲輪や城郭の構造がよく分かります。
橋は二の丸と本丸を繋いでいて、本丸は完全に独立した曲輪となっているのが分かります。

そして、本丸にはこの橋を渡る以外には行くことができません。
これは本丸が城の本質である軍事施設としての役割を意味します。

しかし、高松城は一度も戦を経験することなく明治を迎え廃城となります。





松平氏の時代に高松城は拡張され、東ノ丸が完成しました。

しかし、廃城と共に堀は埋め立てられ取り壊されましたが、現在の県民ホールや県立ミュージアムあたりに石垣が復元されています。



すごい光景ですね。
石垣の上を現代建築物が跨いでいます。



一番最初に見た艮櫓は本来はこの辺りにありました。

奥に見えるのは月見櫓。

艮櫓の向きが現在と違いますね。
90度回転して太鼓櫓があった現在の位置に移築されました。



城郭と町と一体化していて良き。
高松城にきたら是非、この県民ホールあたりも周って頂きたい。


今まで幾つもの城を見てきた中で、高松城はやはり海城特有の独特な城という印象。

二日間で岡山城、高知城、高松城に行きましたが、それぞれが素晴らしく全くテイストが違う城でした。

これだから城巡りは楽しい。

桜御門も復元させた高松市ですから、天守の復元は現実的に可能だと個人的には思っているし、願っています。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



高知城@高知県

2024-10-18 10:00:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山城を見た後、20時に高知市のビジネスホテルに到着。

高知県といえばカツオ!
ホテル近くの堀川さんで食事をしましたが、全ての料理が超絶品。



素晴らしい夜を堪能し、ホテルに帰って就寝。

高知県に来たからには高知城に行かない選択肢はありません。

朝7時にホテルを出発し、高知城を目指します。



ホテルから高知城までは約2キロ。
メインストリートの脇には水路が整備されています。

何気ない水路でも、城郭近くだと遺構ではないかと想像してしまいます。

城造りで欠かせないのは水路。
水路は城下町発展のファクターとなります。



高知城へと続く道は開けて中央には路面電車が走ります。

普段の生活では2kmは抵抗感ある距離ですが、思いを馳せながら見知らぬ土地を歩けば、あっと言う間です。



歩いて25分程で高知城が見えてきました。

設計の打ち合わせは10時からなので、それまで存分に楽しみたいと思います。



水堀と現在のメインゲートとなる追手門から入城します。

奥には天守見え、あいにくの天気ながら素晴らしいショットです。

高知城には貴重な現存12天守があり、日本で唯一の天守と本丸御殿が現存している城です。



追手門は枡形となっていて、1663年に崩壊しましたが、翌年64年に改築したものが今でも現存している貴重な門です。



やはり城門は良いですね。
追手門は格式高く、櫓門となっています。

追手門と天守が現存している城は、高知城、弘前城、丸亀城のみ。


高知城の櫓門の特徴は、脇の櫓台よりも跳ね出して柱で支えている点。

このアングルから見ると、清水寺の懸造のようになっています。

こんな有難い追手門ですが、昭和の写真では門の下を普通に自動車が通行していました。

現代では考えられませんが、城の文化的価値は年数が経つ度に高まってきています。



追手門を抜け、右へ左へとクランクしつつ、標高44mの天守方面へ向かいます。



まず、高知城は石垣が素晴らしい!
昨日の岡山城も圧巻でしたが、高知城もマニアの心をくすぐる石垣です。

そして、見どころの一つでもある石樋が現れます。

他の城ではなかなか見ることのできないレア技術。
排水が直接石垣に当たらないように多雨地帯の高知城では排水に関して工夫がなされました。


三ノ丸下の石垣。
見事な野面積み。しかも隅石が算木積みになっていて、急勾配を実現しています。

これが野面積みの技術における最高到達地点。



感動すら覚えるこの石垣を積んだのは、最高技術を有した石工集団の穴太衆。

数々の名城の石垣を手掛けた穴太衆。

ワタクシのブログにも度々出てくるワードですが、穴太衆が詰んだ石垣を目の前にすると涙が出るほど感動してしまいます。

カッコ良すぎる。



見上げる天守と石垣。

後ほど記載しますが、決して大きな規模の天守ではありませんが、この大迫力な石垣の要塞を前にすると、威圧感が凄いです。


本丸と二ノ丸の間から撮った一枚。
いつの間にか天気も快晴に!



左手は天守のある本丸。
右手は二の丸で、正面には本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門。

貴重な現存天守と現存本丸御殿がピックアップされがちな高知城ですが、縄張りが素晴らしい。



追手門から見て天守裏側に周ります。
本丸下の石垣。

本丸、二ノ丸、三ノ丸それぞれが高い石垣で強固に守られていて、まるで迷路のような縄張りはまさに戦う為に造られた城。



本丸に向かう道と二の丸に向かう道の分岐点。
エグい程の180度に折り返した道。

石垣だけでも興味深く、また十分楽しめる城です。


二ノ丸から見た本丸側の天守。



そびえ立つ石垣の上には櫓群で囲まれています。

これが本来あるべき日本の城の姿です。

城にはたくさんの櫓などが存在していましたが、廃城令によって明治初期に全国の城は取り壊されてしまいました。

城の文化的価値が見直されたのは、残念ながら壊された後のこと。

左手は本丸に繋がる詰門。横向きになっている櫓は廊下門。
奥に見えるのは西多聞櫓。



二ノ丸から本丸を繋ぐ現存の詰門は2階が渡廊下になっていて、1階は門になっています。

他の城には無い、1802年から残り続ける現存唯一の廊下橋です。



詰門の出口は廊下門の下をくぐる造りになっています。
この先を抜けると、いよいよ本丸へ。



抜けた先の廊下門。

天守は白漆喰のホワイトで、櫓群も外側はホワイト色に対して、本丸側は黒色。



そして、天守にやっと到着です。
ここまで、既に見どころが多すぎて書ききれないほど。

しかし、高知城の凄さはここから!



天守は外観は4重ですが、内部は三層六階。
望楼型天守で、最上階にある高欄と呼ばれるバルコニーは、現存電車の中では犬山城と高知城だけ。

そして、高知城といえば天守と直結した現存の本丸御殿!



店主の開城は9時。8時半に本丸到着。
天守に入る前に重要文化財の黒鉄門を紹介しないわけにはいきません。

本丸を守る黒鉄門は黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられており、石落としや武者が隠れることができることを考えると、最後の砦となる本丸を防御する極めて重要な城門だったかが分かります。



白と黒のコントラストが絶妙なアングル。

高知城はやはり戦う為の城。
これこそ日本が誇る城郭建築です。



いよいよ本丸御殿の懐徳館に入ります。
少し早めに開城して頂き、ポールポジションから入城します!

本丸御殿は対面所としてつくられました。



高知城は1601年に山内一豊が初代佐賀藩の藩主として着工。1611年に完工しました。

1600年の関ヶ原の合戦以降、大坂の陣までの14年間は軍事緊張が高まり、日本全体が築城ラッシュの時代。



日本の伝統的な書院造り。

城は軍事施設ですが、御殿に入ると何故かひと時の安らぎを感じます。

日本人の中に脈々と流れている木造のDNAがホッとさせるのでしょうか。



日本で唯一、現存天守も見える御殿。
これは高知城でしか味わうことができません。

清々しい朝と城巡り。
こんな贅沢は他になし。


御殿からの景色。
今も昔も変わらぬ眺め。

すごく安らぎと風情を感じます。



左が本丸御殿、右が天守。


右手には石落としと鉄砲狭間。

先程の安らぎの御殿とは一変、軍事施設にテイストが変わります。



天守の一階は模型など展示品があります。
高知城は石垣の大要塞。

天守は1603年に完成しましたが、1727年に火災により焼失してしまいます。

しかし1749年に再建され、当時のまま現代を生き続けています。



ポールポジションだったので、階段も気兼ねなく写真撮れました。

急勾配の階段も、軍事施設としての役割を果たしています。



天守最上階。
やはり現存の天守は内部も隅々まで楽しめるので素晴らしいです。



天守からの本丸エリア。
本丸にこれだけの建築物が現存しているのは他にはありません。

江戸時代の形をそのまま大切に保存してきた地域の努力の賜物。



上から見るとよく分かる城郭の形。
奥には二の丸、手前は本丸。

完全に独立した曲輪は、先ほど歩いた詰門で繋がっています。



三ノ丸の高石垣。

下から見上げる石垣もカッコいいのですが、上から見るとまた違った見え方がして良き!



高知市を一望。



意外と山に囲まれた高知市。
何百年も前には、山内一豊も見ていた景色。


天守を降り、右手の廊下を渡ると現存の東多聞に入ることができます。


東多聞→廊下門と繋がり、櫓内は展示物や高知城の歩んできた道のりを学ぶことができます。



廃城令、空襲、南海地震。
数々の苦難を乗り越えた高知城ですが、古い写真を見ると漆喰は剥がれ、瓦も落ち大きなダメージを受けています。

昭和に10年以上の歳月をかけて修復。

今の高知城は日本の受け継がれてきた技術の結晶ともいえます。



こちらも本丸にある西多聞櫓。
西多聞櫓も含めて、高知城には15棟もの現存建築物が残っており、国の重要文化財に指定されています。



帰りは二ノ丸の北側より下ります。
こちらは、より無骨感のある野面積み。

たまらないですね。この高石垣!


錦倉門跡からのショット。
高知城に来たのであれば、是非北側も周って頂きたい。



北側より三ノ丸下から。
高知城の石垣を存分に楽しみ9時45分に周り終えました。

夜はライトアップをしているようなので、見てみたかった!

江戸時代の姿のまま残された本丸と天守も魅力的ですが、個人的には戦う城として造られた縄張りと、穴太衆の技術の結晶を感じる石垣が本当に魅力的でした。

築城ラッシュによって急速に発展した石垣ですが、江戸時代になると一国一城令によって城の築城が禁止されたことで、石工職人も数が減ってしまいました。

しかし、穴太衆の技術は400年以上経過した今でも、滋賀の粟田工業によって継承され続けています。

城の楽しみ方は様々。
城を通してその地域の歴史を知り、日本の伝統的な技術を知る。

素晴らしい一日の始まりです。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村