つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

八王子城@東京都

2024-11-30 12:00:00 | 100名城
2024年11月30日

11月最後の土曜日は八王子城に遠征。 
戦国時代を象徴する、関東屈指の山城です。

今日は八王子城を含めた2つの城に行く為、今回は車で向かいました。

公共交通機関でのアクセスは中央線の高尾駅からバスが出ています。

八王子城を築城したのは北条氏康の三男となる北条氏照。
関東全域を制覇していた北条氏の本城となる小田原城と並ぶ、北条氏にとって重要拠点となっていたのが八王子城です。

八王子城は日本100名城で国指定史跡ですが、八王子城に関する資料が圧倒的に少なく、残された遺構と地道な発掘調査によって徐々に城の実態が解明されてきました。



八王子城は戦国時代末期の天正期に築城されたとされています。

戦国晩期に築城したこともあり、山城の最高傑作ともいわれています。

麓には八王子城跡ガイダンス施設があり、八王子城や北条氏についての資料を見ることができます。

こちらで少し知識をつけてから登城すれば、より楽しむことができると思います。



ちょうど紅葉シーズンだったので、イチョウも綺麗に色付いています。

八王子城は戦闘時に要塞となる要害地区と、城主の生活の中心となっていた居館地区、城の城下町となる根小屋地区に分かれています。

巨大な城でしたが、落城時はまだ未完だったとも言われています。



まずは、要害地区に潜入。
要害地区は標高460mの山に築かれた中世の山城タイプ。

入り口は無料の駐車場からすぐの所にあります。

こちらは新道で当時のルートとなる殿の道もあります。

これは後から知ったのですが、そちらのルートは堀切や石垣が見ることができるそうです。
これは今後の宿題でまた登城しようと思います。


細く狭い道を進んでいきます。

当時の遺構なのかは不明ですが、石垣も少し見ることができます。



最初に見えるのは金子曲輪。
北条氏家臣の金子家重が守っていたとされています。


本丸に続く道の途中には柵門跡があります。
平坦の地にあり、門跡の先は右手と左手に別れています。

今は、登山途中の休憩場となっています。


柵門跡を抜けると高丸が現れます。



高丸の先端は崖になっていて、下の曲輪の三方を見渡すことのできるように、突き出したような作りになっています。

防御機能の高い曲輪です。



八王子城はどこまでが天然の要害で、どこまでが人の手によって造られたのか、判断するのは難しいです。

しかし、間違いなくゴリゴリの戦う為の城であることに間違いありません。



さらに本丸を目指して、険しい道を進みます。



関東平野を一望できる、八王子城で一番の絶景スポット。



遠くには大都市、東京の高層ビル街が見えます。

八王子城は豊臣秀吉による小田原征伐の1590年に落城しました。

開戦やむなしの状態で、どういった想いでこの景色を見ていたのでしょうか。



デジカメでズームを使えばスカイツリーまでバッチリ見えます。

晴れた日は特に絶景です。



いよいよ、本丸が近くなりました。

右手には小宮曲輪、左手は松木曲輪、正面の階段を上がると八王子神社があり、その裏から本丸に上がります。



樹齢何年かは不明ですが、太い杉の木が並びます。
木は何も語りませんが、ここで繰り広げられた歴史も見てきたはずです。

八王子城の戦いでは豊臣軍となる前田利家、真田昌幸、上杉景勝の15000人の軍勢で攻め込まれ、1日で陥落しました。

本丸が近いこの辺りは激戦となった地なので、変わらぬ佇まいで八王子城落城の時も見ていたのでしょう。



東屋の裏手にあたる、三の丸にあたる小宮曲輪に向かいます。

狩野一庵が守っていたとされる曲輪。

小田原征伐の際に上杉景勝の軍勢の奇襲にあったことで落とされたとされています。



小宮曲輪を後にして、本丸に向かいます。



途中、本丸に向かう細い道で、神秘的な木があります。

ジブリに出てくるような、根本が洞窟のような穴になった木。



標高460mの本丸に到着です。
城の中心で最も重要な曲輪。



要害地区全般に言えるのですが、各曲輪の平地部分が小さいのが特徴的。

何百、何千の人員配置は難しそうに思えたのですが、どうやって戦ったのでしょうか。



続いて、松木曲輪。
中山家範がこの辺りを守備していて、奮闘しました。

松木曲輪を攻略した前田利家は、その武勇を惜しんで助命を申し出たと伝えられています。

そして、子息は徳川家康に仕えて、水戸徳川の家老になったそうです。



紅葉が見頃ということもあってか、多くの人が訪れていました。



一度、登城したルートで下山。
要害地区の次は居館地区に向かいます。

看板には古道・御主殿跡の看板があります。


山城の要害地区に比べて、居館地区は平らな場所に展開されています。



一つ目の橋を渡ると大手門跡に出ることができます。



一つ目の橋を渡った先に、堀切のように通路を切断した部分に架けられた橋が見えてきます。

本丸などが置かれている要害地区よりも、分かりやすく城の防御機能を見ることができます。



大手門跡の前には広めの空間があります。
昭和63年の発掘調査で門の礎石や敷石が見つかっています。

現在は埋め戻されています。



周りは土塁で囲まれていて、スタジアムのような臨場感があります。

大手門があったこの場所が居館地区に向かう八王子城の正面口となります。



道は綺麗に整備されていています。
この大手道を当時の武士たちも歩いていたことでしょう。

城主であった北条氏照も、歩いていたのだと思うと感慨深いです。



大手道の先には曳橋が見えてきます。
御主殿跡に架けられた大きな橋。

当時は簡素な木の橋が架けられていて、戦の際は橋を壊すことで主郭を分断する役割がありました。


橋を渡ると北条氏照の館があった御主殿跡に入ることができます。



関東では珍しい石垣。

中世城郭から近世城郭に移り変わるタイミングくらいの城なので、主郭部だけは石垣が使用されています。


入り口の突き当たりには少し大きな石材が積まれており、鏡石の原型を見ることができます。



無骨な野面積み。
主郭部は一段高い場所にあり、約9mの土塁で囲まれていて、腰巻き石垣と呼ばれる下部のみに積まれた石垣。


石垣が高く跳ね出している場所には、礎石が4ヶ所発見されていることから、櫓門もしくは物見櫓などの建築物があったとされています。



階段を登り、さらに90度曲がると主殿に入るための虎口が現れます。



階段の幅は約5m、踏面は1m、蹴上36cm。
ゆったり登れる階段は、現代でいうところの介護施設くらいバリアフリーに近い構造。

全面に石が敷き詰められているのも特徴的です。



当時をイメージした冠木門を抜ければ、御主殿です。



平成の発掘調査で、北条氏照の住まいだったとされる主殿、会所、庭園、敷石通路、水路などの遺構が発見されました。

建築物の礎石は、現在も見ることができます。
→礎石はレプリカのようです。



主殿の周りは土塁で囲まれています。
大きなスペースで、現在は広場となっています。



土塁の上からの曳橋。



造作物の上には会所の間取りなどが表示されていて、今はなき建築物を想像することができます。

建築物を復元できなくても、こういったプロモーションは凄く重要だと個人的には考えています。


帰りは曳橋の下を抜けるルートで帰ります。

そして、八王子城の名所なのが御主殿の滝。
崖になっていて、小さな滝が奥にあります。

天正18年、豊臣秀吉の軍勢によって落城した八王子城ですが、御主殿にいた女性や子ども、将兵達は滝の上で自刃し次々と身を投じました。

領民も含めた3000人が、八王子城で共に籠城していました。

滝から流れる川は、三日三晩赤く染まったと伝わっています。

戦国真っ只中の八王子城には、そんな悲しい歴史があります。



曳橋下からのショット。
素晴らしい4段に連なった石垣。

山城の要害地区とは一転して、近世城郭の姿を一層感じることができます。



御主殿周りの石垣は、復元して積み直したものですが、中には400年以上前のまま土の中に眠っていた箇所もあり、状態が良好なものはそのまま生かされています。



八王子城主の北条氏照は小田原合戦の際に、小田原城で籠城しており、八王子城の陥落の知らせは降伏の決め手となったとも言われています。

そして小田原城開城後に、北条氏政と共に切腹し、名家の北条家は滅亡します。

先の滝での自刃の話も含めて、悲しい話ではありますが、そもそも城とは軍事施設。

日本の文化として今は観光スポットとなっていますが、生死をかけた戦いの為に造られたのが、戦国時代における城の役割です。

後に城は権威の象徴や政治の中心地と役割が時代と共に変化していきます。

八王子城の落城は、同時に戦国時代に終わりを告げるものでもありました。

まだまだ謎多き城ですが、激動の歴史の中心となる重要な八王子城は、都内からのアクセスも良好なので、是非攻略して頂きたい城です。


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