2023年12月12日
今回ワタクシは近鉄京都線の丹波橋駅から向かいました。
歩いて15分ほどで入口らしき所に辿り着きます。
最初に現れたのは桓武天皇陵。
大きな駐車場の先には模擬城門と模擬天守が見えてきます。
模擬とは言え凄い大迫力。江戸城の大手門並みに大きな櫓門です。
これまた立派な模擬天守。
明治天皇伏見桃山陵に向かう広い砂利の道は桃山御陵山道。両側は杉の木で美しい山道となっています。
矢穴と呼ばれる跡が石材の至る所に見られます。
一番の目的は御香宮神社の門を見ること!
立派な石垣の上に漆喰の土塀と瓦が目を惹きます。
神社の門でありながら、上には鯱が鎮座しています。
これは伏見城の大手門を移築したそうです。
これが伝説の伏見城の門だと思うと、感慨深いものがあります。
こちらの門は重要文化財に指定されています。
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大阪から再び京都へ。
淀城に行くか、二条城に行くか悩みましたが、時間もあるのでゆっくり伏見城を目指すことにしました。
伏見城は豊臣秀吉が隠居後の城として築城したのが始まりとされています。
伏見城は戦国時代に歴史のキーポイントとなる城ですが、城としては不運な運命でもありました。
元は豊臣秀吉の隠居城としての計画でしたが、息子の秀頼の誕生により天守を持つ本格的な城郭に整えられました。
初代の伏見城を指月伏見城と呼びます。
しかし1596年に慶長の大地震により築城中に倒壊。
この場所が城地に向かないと判断した秀吉は、現在の明治天皇伏見桃山陵になっている、伏見木幡山に移して新たに築城しました。
この時代の伏見城を木幡山伏見城と呼びます。
当時は最新技術を集結した五層の豪華絢爛な大天守が建っていたようです。
また政務の中心となっていたので、伏見城の周りには大名達の屋敷が並びました。
また豊臣家の財力によって城下町も整備され、水陸交通の要衝になり、情報と物資が集結する当代随一の近代的な都市となりました。
秀吉が亡くなった後は徳川家康が伏見で政務を行いました。
そして、1600年に天下分け目の関ヶ原の前哨戦として、豊臣軍と徳川軍が伏見城で激突した為、残念ながら伏見城は焼失。
天下を取った徳川家康は1602年に伏見城を新たに築きましたが、1623年に廃城となりました。
現在は全く違う場所に四代目となる模擬天守が1964年にキャッスルランドというテーマパーク内に建てられました。
現在キャッスルランドは閉園。天守の中に入ることもできません。
今回ワタクシは近鉄京都線の丹波橋駅から向かいました。
歩いて15分ほどで入口らしき所に辿り着きます。
最初に現れたのは桓武天皇陵。
このあたりも、おそらく城の一部だったと思われます。
後世に造られた可能性もありますが、周りは土塁のようになっています。
後世に造られた可能性もありますが、周りは土塁のようになっています。
この裏には堀があったようなので確率は高そう。
桓武天皇陵を越えると巨大なゲートが見えてきます。
キャッスルランドの入り口。
現在は閉園しているので、自由に通過することができます。
大きな駐車場の先には模擬城門と模擬天守が見えてきます。
模擬とは言え凄い大迫力。江戸城の大手門並みに大きな櫓門です。
これまた立派な模擬天守。
大天守と小天守の連立。
大阪城の復興天守と似た造りになっています。
天守があった場所は若干違えど、この伏見のエリアに巨大な城があったことは事実ですからね。
天守があった場所は若干違えど、この伏見のエリアに巨大な城があったことは事実ですからね。
雰囲気は存分に味わえます。
しかし、人が一人もいなかったので寂しい雰囲気でした。
続いて明治天皇伏見桃山陵の近くにあると言われる石垣を見る為に山林を抜けて向かいます。
天守近くにある森の中の池。
続いて明治天皇伏見桃山陵の近くにあると言われる石垣を見る為に山林を抜けて向かいます。
天守近くにある森の中の池。
これは治部池と呼ばれています。
治部といえば石田三成。
この地に治部少丸という建物がありました。
石田三成は豊臣秀吉に信頼を得ていた奉行衆でしたので、伏見の城内に建築することを許されたそうです。
この池は当時、内堀の一部だったとのこと。
この池は当時、内堀の一部だったとのこと。
明治天皇伏見桃山陵に向かう広い砂利の道は桃山御陵山道。両側は杉の木で美しい山道となっています。
こちらも平日だからか、人が全くいません。
至る所で城らしい自然地形もあるのですが、説明看板やパンフレットもないので不明。
やっと当時の石材が現れました。
やっと当時の石材が現れました。
一つ一つが大きくインパクトあります。
矢穴と呼ばれる跡が石材の至る所に見られます。
矢穴とは石工職人が石材を割るときに、ノミで矢(クサビ)を入れる穴を掘ります。
そこに矢を入れて大ハンマーで叩くと綺麗に左右に割れる技術。
その痕跡がはっきりと分かる石材です。
この頃には石垣の技術がさらに上がり、石の形状をそのままに積んでいく野面積みから、石を加工して使用する切込み接や、打ち込み接が出てきました。
伏見城は石垣も最先端技術であったことが分かります。
当然、明治天皇陵には立ち入ることができないので、紅葉を見て引き返します。
こちらが木幡山伏見城の本丸があったとされている場所です。
残念ながら現在は伏見城跡として開放しているわけでは無いので、どこに行っても遺構などの説明書きも地図もありません。
また京都市が出しているパンフレットはあるらしいのですが、園内には一切ないので事前に調べていかないと、広大な土地故にどこを歩けば良いのか分からなくなります。
ワタクシは一度伏見城跡を出て、伏見桃山駅方面へ向かいます。
目指すは御香宮神社。
こちらは徳川家康が建立したとされる神社で、豊臣秀吉と徳川家康を祀っています。
一番の目的は御香宮神社の門を見ること!
重厚感のある巨大な門。
立派な石垣の上に漆喰の土塀と瓦が目を惹きます。
神社の門でありながら、上には鯱が鎮座しています。
これは伏見城の大手門を移築したそうです。
近くによると尚更、城門にしか見えません。
惚れ惚れするような立派な門。
惚れ惚れするような立派な門。
これが伝説の伏見城の門だと思うと、感慨深いものがあります。
こちらの門は重要文化財に指定されています。
伏見の周りには伏見城から移築された建築物が存在しています。
石垣も至る場所で部分的に保存されています。
巨大だった伏見城は城郭の櫓なども移築されました。
天守は二条城へ移築。
櫓は福山城に移築されたのは信憑性が高く有力とされています。
その他、大阪城や江戸城にも伏見櫓は存在していて、いずれも伏見城から移築との言い伝えがあります。
歴史から姿を消した城でしたが、全国の至る所で伏見と名の付く建築物が存在します。
歴史的に外すことのできない城。
二日前に行った勝龍寺城。明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)が最後を迎えたのも、伏見城で勃発した関ヶ原の前哨戦。
徳川家康が征夷大将軍に任命されたのも伏見城。
一大シティとなった伏見城は、江戸時代には立ち入り禁止となりました。
静けさなども相まって、何となく禁足地に近い雰囲気がありました。
そんな不思議なエリアでした。
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