2024年5月4日
最近は出張が無かった為、城巡りに行けていなかったので、ゴールデンウィークを利用して、神奈川県小田原市にある石垣山城に行きました。
続100名城にも選ばれている城跡で歴史の転換期となる、重要な城であり念願叶って訪問となりました。
軽く石垣山城の説明をしますと、織田信長が討たれ、豊臣秀吉が天下統一の目前と迫った時代。
関東方面の最大勢力は小田原の北条氏でした。
秀吉は北条氏の討伐に向けて、全国の諸大名を小田原に参陣させます。
難攻不落の小田原城を攻略するために、海山全てを15万人以上の軍勢で包囲しました。
小田原城の向かい側にある山に、陣を敷いた豊臣秀吉は、関東では初となる石垣の城を築城。これが後に石垣山城と呼ばれるようになりました。
それを小田原城から見た北条氏は降伏。
北条家は滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ手中に納めることとなりました。
歩いて登る方もいますが、城の麓まで車でも行くことができます。
上には駐車場もありますが、休日は混雑しています。
電車の場合は早川駅から約2kmあります。
一番最初に現れるのは南曲輪の石垣です。
崩れてはいますが、全体の形は残っています。
高さもあり、かなりの迫力です!
石垣山城の入り口となる場所なので、諸大名が小田原に参陣した際、この石垣を見て度肝を抜かれたのではないでしょうか。
隅石は巨石を使っていて、よく見るとなんとなく算木積みされているのが見てとれます。
調べたところ、まだ算木積みが発展途上時の積み方のようです。
南曲輪の左手はまだ状態が非常に綺麗です。
この石垣を積んだのは、最先端で最高技術を有した穴太衆。
安土城から始まり、幾つもの名城の石垣を積んだ石工職人集団です。
ちょうど新しい技術の転換期あたりの石垣と考えると、この遺構の価値は計り知れません。
二の丸(馬屋曲輪)を囲っている石垣。
ここも、状態が良い石垣を見ることができます。
上から見たショット。
上から見たショット。
ややアールでスタジアムのようで迫力ありますね。
二の丸は現在は広場となっています。
この広大な芝生の敷地。
即席突貫の工事だったにも関わらず、このスケールの城郭を造るとは、さすが天下人です。
本丸に向かう、物見台あたりの石垣。
状態はよくありませんが、隅石なのは分かります。
この時代の石垣は勾配が緩やかなのが特徴。
後に算木積みの技術が主流になることで、城の石垣はどんどん急勾配で高い石垣へと変貌していきます。
本丸となる本城曲輪の石垣も崩落しています。
城は軍事施設であり、役目を終えると敵又は敵になる可能性がある人達に使わせないために、わざと壊すそうです。
石垣山城も破城の可能性もありますが、関東大震災で多くが崩落したとされています。
中段くらいの石垣は綺麗に残っている箇所もあります。
中段くらいの石垣は綺麗に残っている箇所もあります。
このショットだと中段の石垣がハッキリ分かります。
勝手な憶測ですが、手前側に崩落した石垣は最上段あたりの石垣で、わざと崩落させたと考えれば、崩落した石垣の裏には最下段の石垣が、より良い状態で残っているのではないかと考えてしまいます。
この本城曲輪は本丸だったので、この城のメインの場所。
さらに小田原城に面した石垣になるので、籠城した北条氏に見せつける重要な石垣だったと考えます。
本丸となる本城曲輪。
二の丸も大きな敷地でしたが、本丸はさらに大きな敷地を誇ります。
本丸からの景色は絶景!
相模湾の豊富な漁場が今も昔も、この地に住む人々の生活を支えています。
しかし、1590年に豊臣軍は約15万人で相模湾にも水軍を置いて、小田原城を全包囲します。
本丸から見た小田原城。
秀吉もきっとここから、同じ景色を見ていたと思うと心が震えてしまいます。
本丸の奥には天守台跡があります。
本丸の奥には天守台跡があります。
今では石材が散らばっていて、こんもりと土が盛り上がっています。
天守台の下には西曲輪が広がります。
天守台の下には西曲輪が広がります。
石垣の規模は南曲輪や馬屋車に比べると小さめですが、しっかりと石垣が残っています。
天守台から獣道のような細い道があったので、降りてみたのですが立ち入り禁止だったのでしょうか。
誰も人がいなかったので早々に撤収。
最初に見て周った二の丸の下に、石垣山城の見どころポイント井戸曲輪があります。
最初に見て周った二の丸の下に、石垣山城の見どころポイント井戸曲輪があります。
二の丸から25mの高低差があり、石垣が一番状態良く残っています。
この井戸は淀君が利用したことから、淀君の化粧井戸とも呼ばれています。
素晴らしい石垣!
ぐるっと囲んだような石垣。
石垣山城は関東大震災で、多くの石垣が崩落しましたが、この井戸曲輪は430年以上の時を超えて綺麗に残っています。
そして、今でも井戸からは水が湧き出ています。
石の形をそのまま生かした野面積み。
石垣は常に進化を遂げてきましたが、初期の野面積みはやはり個人的には好きです。
小田原征伐後、石垣山城がどのようにして廃城になったのかは、分かっていないようです。
しかし、歴史の表舞台から消えて割と早い段階で廃城になったと思われます。
誰も足を踏み入れない地になっても石垣だけは、この状態として残っている。
これは奇跡というべきか。
穴太衆の技術の高さを感じます。
本来は陣城なので、簡易的な造りになるのが一般的ですが、関東では初の総石垣で天守や櫓をもつ城が完成しました。
四万人を動員して造った石垣山城はわずか80日で完成。
号令と共に木を伐採し、夜が明けたら突如城が出現したので、石垣山城は一夜城とも呼ばれています。
最後は登城した南曲輪の石垣を最後に見て終了です。
総石垣の城は織田信長が作った安土城が始まりと言われています。
石垣の進化を見るのも楽しみの一つ。
天候にも恵まれた一日。
観光客も多く、麓にはヨロイヅカファームがあり、スイーツを求めてきた人も多くいたので、石垣山城は大変賑わっていました。
石垣山城は国の指定史跡であり、続100名城。
天下人豊臣秀吉の凄さ、穴太衆の石垣技術の凄さを改めて感じることができる貴重な城址でした。
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