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雲南市永井隆記念館(↓)で教えていただいた、
「永井隆生い立ちの家」。
道を教えてもらい、雨脚が強くなる中、車を走らせた。
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本日の記事は、そのときに撮影した画像をアップし、
永井隆記念館で購入した『永井隆さんの生いたちガイドブック1⃣』と
永井隆『村医』(アルパ文庫)を参考にする。
ガイドブックは、地元「飯石(イイシ)」に残る写真や
証言をまとめたガイドブックである。
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『村医』は博士の両親が、この地で医院を開業した1年を
題材にした「小説」である。登場人物は、もちろん仮名だ。
それでも、土地の雰囲気や博士の育った環境が伺えようと
あえて、参考にしたことを、最初にお断りしておく。
(以下、敬称略)
まず、永井家と現・雲南市との関わりを確認する。
博士の祖父・文隆(フミタカ 1848ー1908)は、
仁田米(美味♥)で知られる奥出雲町の出身で、
旧飯石郡(現雲南市)に、30歳頃から亡くなるまで
村医(漢方医)として活躍した。
文隆の長男・寛(ノブル 1880ー1939)は、この地で生まれ、
やんちゃな少年時代を送る。
地元の小学校を退校させられ、何度も転校、
結局、小学校の学歴すらないと言うから、相当だ。
それでも、20歳の頃、一発奮起、松江市田野医院(既に解体)で
書生として住み込み、猛勉強。
何事があって登(『村医』の名)が発奮したのかわからないが、
石にかじりついても医者になり、父の跡をつぐ決心したのであった18頁
5年後、医師の国家試験一次二次を同時に合格した。
全国で同時・合格はたった2名だけという快挙だった。
その後、寛は松江の田野病院に戻り、
今度は医師として働き、安田ツネと結婚。
隆は、田野医院の2階で産声を上げる。
その翌年、一家三人は、いよいよ飯石(イイシ)村へと移り住む。
田野医院の院長の推薦を受け、医師のいなくなった村で
開業することになったからだ。
人力車に揺られて、やってきたのが、
現在の「永井隆生い立ちの家」。
ちょうど売りに出ていた農家を医院に改築、
山から水を引き、「養生堂永井医院」はスタートした。
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さて、令和の今・・・
かつての永井医院までの道のりは、けっこう遠い。
失礼ながら永井隆記念館も、なかなかな山深い印象だった。
(なんせ目の前には山城がそびえているほど!)
ところが、生い立ちの家は、さらに上をいく。
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この山深さは、隆少年の時代と変わらないのではあるまいか。
夢中で撮影した画像をアップしたので、
おわかりいただけるはず・・・w
まるで山のすりばちの中だった...谷底を東から西へ小川が流れ、
それに沿うて村道があった。村道の両方の端は、まるで手品のように
山で切られていた。とにかく買った家は南向きの山腹に二つ並んだ、
この西の方のわら家だった。120-121頁
『村医』作中で、寛が景色を眺めた場面である。
その前を人も犬もイタチも通らず、ただキジが鳴いただけ・・・と続く。
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かつては、この家のすぐ下にバス停があったそうだが、
今は見当たらなかった。バス便は、なくなったのだろうか?
『村医』は、開業した医師夫妻の悪戦苦闘の日々が描かれる。
簡単にいえば、古い因襲がはびこる中、政治的な駆け引きは盛んで、
若い医師夫妻が掲げる、衛生観念や医療への偏見との闘いの日々
でもあった。
たとえばジフテリアが流行した時のこと。
薬を飲まそうとしない家庭、
必要ないと言いきった舌の根も乾かぬうちに、
我が子が罹患すると薬を手に入れようとする、土地のお偉方・・・
どこまでがフィクションかはわからぬのだが、
隆が両親から聞かされた昔話もあったのではないだろうか。
一方で、生活文化誌として読めば、
明治初期、農村の暮らしとして民俗学的な興味も満たされる。
『村医』は、そんな一冊だ。
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さて・・・
松江で生まれた隆は、この農村で成長する。
頭が大きく、難産の末、生まれたためか、成長しても
頭が大きく、帽子が入らなかったという。
そこで、ついたあだ名は「タカシャッポ」
三人の妹、弟一人の長男だったせいか、
穏やかで成績もよかった。
だが、松江中学の入試では、補欠の3番に甘んじた。
その後、発奮し、卒業時は主席だったそうだ。
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卒業後は松江高校を経て、長崎医科大学で学んだが、
故郷をわすれることはなかった。
夏休みに帰郷すると、近所の子供たちと遊び、
若者たちと芝居を楽しんだという。
観るのではなく、脚本演出を自ら手掛け、役者もこなす。
皆に愛される、多才な人だった。
大学卒業と同時に徴兵検査に合格、
軍医として大陸に出征している。
のちに、この体験を母校・飯石小学校で話したが、
巧みな話術で子供たちを引き付けたという。
終生、地元との交流は続いたそうだ。
今、隆の母校・飯石小学校と長崎市立山里小学校は
姉妹校となっている。
山里小学校は、爆心地にも近く、隆や教員、生徒の手で
「あの子らの碑」が建てられた学校である。
永井隆という偉大な名前は、
これからも語り継がれていくことだろう。
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最後に我が母のことを書いておきたい。
一昨年、長崎へ母と旅し、「如己堂」(↑)を訪ね、
それはそれは喜んだ。
本当は、津和野の「乙女峠」(↓)にも行きたがっていたのだが、
おそらく、あの山道を、母は、もう登れないだろう。
80代も半ばになった母であるが、
永井隆博士の名は、少女時代から燦然と輝いているのだ。
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母に繰り返し聞かされた話がある。
「小学生の時、朝、学校へ行ったら、シスターが
『永井隆博士が、亡くなりました。
皆さん、博士のためにお祈りしましょう』って集められて、
お祈りしたの。
子どもだから、よくわからないんだけれど、
えらい人が亡くなったんだなぁってことだけは、わかったわ。
それで永井隆って覚えたのね、きっと」
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わたしが永井隆博士に惹かれるのは、
そんな母の影響もあるのかもしれない。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
永井記念館の資料や以下の本を参考にまとめましたが、
素人のことゆえ、間違いや勘違いもあるかとじます。
どうぞお許しくださいませ。
参考:
●『永井隆さんの生い立ち ガイドブック1⃣』 雲見の里いいし
●永井隆『村医』(アルパ文庫)サンパウロ