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ずいぶん更新の間が開いてしまったが、
学童集団疎開のお話の続きである。
太平洋戦争末期、学童の集団疎開が実施されるも、
そこに人道的な目的があるのではなかったこと、
単に「学童」を戦争継続のための要員と見なせばこそだった。
それも国が経費を負担し、実施したと言うことは見逃せない。
また神奈川県は、国の割り当てた地域ではなく、
県知事の一声で県内への集団疎開が行われた、
レアケースだったというのが前編。
さて、神奈川県からさらに絞って、横浜市港北区である。
当時、横浜駅の近く、神奈川区にお住まいだった「学童」草笛光子さんも
隣りの港北区に集団疎開している。
その港北区から、さらにピンポイント、
現在の東急・日吉駅前に日吉台国民学校(現・日吉台小学校)が
本日の中心。
この学校の集団疎開がきわめて奇妙なのだ。
〔日吉界隈〕
当時の日吉界隈は、桃の産地として知られ、
その花盛りに行き会った、
建築家・谷口吉郎は「桃源郷」と褒めたと聞く。(出典不明)
この土地に長くお住まいの先輩方達も言う。
「イチゴの栽培が盛んだったんですって・・・」と、おひとりが言えば、
「そうそう、母は、ここに引っ越す話が出たとき(昭和20年代)
『イチゴしかないところに、何故引っ越さなきゃ行けないの』って
文句を言っていたわ」と、合いの手が入る。
(お母上は都会育ちだったそうな)
また、隣接する井田山(川崎市)は、
東京の子ども達が学校行事で登山にきたという。
さらに、お隣の綱島駅前には天然の温泉もあった・・・
当時、日吉は東京から日帰りできる、手軽な遊び場・・・
「今の感覚なら、(県内の)湯河原あたりかしら?」と
私が問うと、先輩方は「そうそう、そんな感じ!」と手を叩かれた。
そんなのどかなエリア日吉だ。
学童集団疎開などをする必要は、まったくなかった。
港北区は、あくまでも疎開の受け入れ側だったはずだ。
ところが「日吉台国民学校」の3年生から6年生までは
港北区で唯一、集団疎開をしている。
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〔港北区唯一の学童集団疎開〕
「横浜市学童集団疎開先一覧表」(『横浜市の学童疎開』137頁)
によれば、昭和19年8月19日、高田町の興禅寺に70名、
下田町の真福寺(↑)に100名(120名の説もあり)が疎開している。
ちなみに、草笛光子さんの斎藤分のほか、
いずれもお隣り・神奈川区内から、子安、白幡、神橋の
国民学校、計4校が港北区内に疎開している。
いずれも、同じ区内とは言え日吉駅からは離れた地域に、である。
〔奇妙な学童集団疎開〕
当時六年生だった女子学童の回想文を見れば、いよいよ奇妙だ。
(引用:『横浜市の学童疎開』155頁)
「私達疎開児童は…布団や行李を積んだ荷車のあとを
ぞろぞろ歩いて行きました」
疎開先に歩いて向かうのは、草笛光子さんも同じだったが
横浜市内のこの移動方法は、全国的には珍しいことだろう。
さらに、この作文によると、
疎開したのは駅前の商店街と住宅地の学童で、
奧の農村地帯に位置する下田地区の生徒は疎開していない。
なんと、残留組として、学校の一教室へ通っていたというのだ。
つまり・・・
下田地区の生徒→日吉台の校舎へ通学
日吉地区の生徒→下田の寺へ集団疎開
同じ学校の生徒ありながら、全くおかしな話だ。
さらに、生徒の作文は続く。
「少し生活に慣れた頃から毎日曜日には家に帰れたことです…
私共約四十人の子どもは下田から跳ねながら日吉の自宅へ戻るのです
約四十分くらいの道のりでした」
そんな嬉しい帰省であっても、
夕方五時には寺へ戻っていなければならない。
それでも遅刻する子どもは一人もいなかったという。
当時の子ども達のことだ、子ども達なりに、
銃後を守る一員という自負があったのではないかと思う。
〔真福寺での集団疎開生活〕
長くなるが・・・
ここで少しだけ、真福寺さんから伺った
集団疎開当時のエピソードについて触れておく。
真福寺の裏には、大人なら数人が入れる素掘りの防空壕が
いくつか残っている。
檀家さんが掘ったのかもしれないが、学童自らが掘った可能性もある。
学童の入浴は、裏手にある旧家でもらい湯をしており、
ご家族のご好意で、ゆっくりつかわせてもらえた。
境内には甘い香りのする「ニッケイ(シナモン ニッキ)」が
そびえている(冒頭画像)
甘いものに飢えていた学童が、これを囓り、住職からたしなめられた。
その木は健在で、横浜市の「名木古木」に指定されている(↓)。
就寝は男子も女子も、現在築120年ほどの本堂で雑魚寝。
令和に入り、屋根の葺き替え修理をしたときに
屋根裏から子供用の木製枕が大量に見つかった。
虫食いがひどく腐っていたため処分したので、
現在は、ほとんど残っていない。
戦後80年、真福寺さんでも、疎開当時の記録はなく、
当時を伝える遺物もないそうだが、
これらのお話だけでも、貴重である。
ありがたく拝聴し、ここに備忘録として残す次第だ。
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〔奇妙な学童集団疎開の実施理由〕
とにかく、なぜ、こんな奇妙な学童集団疎開を実施したのか?
『日吉台小学校百年の歩み』によると、
「昭和19年 学童集団疎開が強行され、真福寺や興善寺などで授業をした
(八月十九日)
帝国海軍が日吉台小学校を接収(九月十日)
海軍省の疎開地として併用す」と記される。
先の「学童」も書いている。
「後から思えば安全と思えた日吉も、駅の反対側慶應大学の丘の下には
大本営の大地下壕が作られ、綱島側は岡本工作機械…
相当な重要危険地域だったのです」
日吉台国民学校に移ってきたのは、海軍人事局功績調査部だった。
あとから掩体壕も築かれたことが、わかっている。
(「日吉台地下壕保存の会パンフレット20頁)
そして、回想文で「側慶應大学の丘の下」にあったとする大地下壕は
「大本営」とあるのは間違いで、
正しくは「海軍連合艦隊司令部地下壕」である。
昭和19年11月、司令長官・山本五十六亡き後、
海軍連合艦隊は、艦から日吉の陸に移ったのだ。
(山本五十六の次の次にあたる豊田副武司令長官時代)
いずれにせよ、地域では
「海軍のせいで日吉台国民学校だけが
学童集団疎開をさせられた」と見ていたのだろう。
日吉台国民学校の学童集団疎開の理由は、
『わがまち港北』(211頁)にあるように、
海軍人事局功績調査部や、連合艦隊司令部の移転など
「軍の作戦と関係があるのかも知れません」としか言えないままだ。
〔日吉への空襲〕
しかし、日吉台国民学校は
疎開の行われた翌年、昭和20(1945)年4月15日の空襲で
校舎が全焼してしまった。
当時としてはモダンな地域・ご自慢の校舎だったそうだ。
日吉は横浜市の端、隣の川崎市と接しているせいか、
あの横浜大空襲(5月29日)の被害を受けていない。
この日の空襲も、川崎大空襲(4月15日)の余波かもしれず、
あるいは日吉が狙われたのは、「慶應の下の地下壕のせい」かもしれない。
地域では、この空襲は、「慶應の下の地下壕のせい」との声が根強い。
だが、実際のところ、連合軍が、「慶應の下の地下壕」
つまり連合艦隊司令部地下壕の存在を知っていたのかどうかも
現時点ではわからない。
戦後80年の今年になっても、まだ、わからないことだらけなのだ。
ただ一つ言えるのは、
国の方針ひとつで、どんな奇妙なことだってできるということだ。
日吉の駅前から下田地域は、横浜市の丘陵地帯にある。
今でこそ、ビッシリ住宅が並んでいるが、
当時は雑木林や畑が広がり、見晴らしも良かったことだろう。
ということは、日吉台の国民学校からも、下田の真福寺からも
互いの姿が見えたはずだ。
疎開先から自分の家が見える学童もいたことだろう。
すぐそばに家族の住む家があるのに・・・
集団疎開生活を余儀なくされる日々。
現在、私の足で、たかだか徒歩20分ほどの場所へ、
子どもを家族から引き離し、国庫負担をしてまで
集団疎開を「強行」したことは、どう考えたっておかしい。
長く高校教員を務め、現在も各地の戦跡調査を続けている
知人が言った。
「ひとつコトがおきれば、今だって、確実にそうなるよ」と。
犠牲になるのは、弱い立場の庶民ばかりだ。
泣かされるのは御免蒙りたい。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
素人のブログゆえ、間違いや勘違いはあることと存じます。
どうぞ、ご容赦下さいませ。