世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の
集落がある、長崎市・外海。
遠藤周作「沈黙」の舞台としても知られます。
ここを訪ねるのは2度目。
まずは大野集落の大野教会へ向かいました。
禁教の時代、この土地の潜伏キリシタンは、
表向き、神社の氏子を装いながら、
信仰を貫いていました。
明治6(1873)年、明治政府が禁教令を解き、
6年後に、フランス人マルコ・マリー・ド・ロ神父が
外海の出津に赴任してきます。
ド・ロ神父の指導の下、住民は出津教会、次いで大野教会を建て
この地の潜伏キリシタンはカトリックに復帰し、
潜伏の時代は終わりました。(明治26<1893>年)
神父は、今でも、親しみをこめ
「ド・ロ様」と呼ばれているほど、
大きな足跡を残しています。
大野教会は集落の丘の上にあります。
(以前は神社があったともきく土地)
堂内に入ることはできないので、開け放たれた窓から眺め、
ぐるりと周囲を一周しました。
その帰り道、軽トラとすれ違い
運転していた年配男性に声をかけられます。
この方は、大野教会の管理をしていらっしているとのことで、
いろいろとお話をしてくださいました。
地元の方の貴重なお話ゆえ、備忘録を兼ね、
以下にまとめておきます。
当時、ド・ロ様のもと、大野集落の25の家が
教会建設に励みました。
男性(以下、O氏)は、その25家のひとつ、
ご自身は4代目にあたるそうです。
一家4人だとして25軒の100人は作業にあたったのでしょう。
とはいえ、棟梁も大工もいない、素人集団です。
しかも、当時はなかった、誰も観たことのない教会堂を造る。
そのために先祖が一生懸命、建築作業にあたり、
一途な気持ちを持ち続けたこと、
それをご自身も伝えたい・・・
世界遺産になって
「電波を通して」脚光をあびることで、
皆に伝えていきやすくなったと感じている・・・
O氏が繰り返された言葉です。
何やら、こちらも胸があつくなりました。
80代の我が母は、この教会を見るなり、
「昔の我が家みたいだわ~」と声をあげました。
O氏も「この家は民家と同じです」とおっしゃいます。
というのも、教会の天井は、たいていコウモリ傘を広げたような
蝙蝠天井(ヴォールト天井)です。
でも、こちらは普通の民家と同じ。
ガラスもステンドガラスではなく、中から外は見えない磨りガラス。
柱のないことが違いでしょうか。
「『田舎の公民館みたいですね』と、見学された方がおっしゃって・・・」
と、O氏は苦笑されていました。
いわゆる「教会」らしくないということでしょう。
壁は、ドロ壁。
「泥壁」ではなく「ド・ロ壁」、
建築の知識もあったド・ロ神父の指導による壁です。
強度を保つため、裏山の石を運んできて、赤土、漆喰、砂を
接着剤代わりに使い、積み上げました。
見ると、裏の山に、同じような石が転がっています。
この壁は、100年以上もの間、びくともしていません。
世界遺産の候補だった頃、視察に訪れたユネスコのスタッフも
この壁に注目し、100年もの間、揺るぎないことに驚いていたとか。
台風も通るし、地震だってあったはず・・・
そりゃ驚きます!
ド・ロ壁は、なんとも言えない風合い穏やかな色合い。
この石運びを老人や子どもも手伝ったのだと思うと
ますます、この壁が美しく見えません?
石造りの教会堂ながら、窓枠だけは木製でした。
まず45センチの木を埋め込み、そこに釘を打って
窓枠をはめ込み、磨りガラスをいれたら
窓のできあがりです。
教会堂の奥は、畳敷きの部屋と馬小屋でした。
ド・ロ神父は、ふだん出津集落で過ごし、
ミサのときだけ、馬に乗り、泊まりがけでやってきたからだとか。
そこだけは、畳敷きながら・・・
教会堂は、昔から板敷き。
O氏は、少年時代、この板敷きに正座されるのが
本当に辛かったと笑います。
中学生の頃は、毎週の日曜学校が嫌で、
なんで、こんなウチなんだろうかとも、おっしゃっていました。
今、柔らかな表情のO氏にも、
そんな反抗的な気持ちがあったとは・・・
何やら微笑ましいようでした。
今は人口が減り、ミサは年に一度しか開かれないのだとか。
「あさって、毎年10月の第1日曜日と決まっています。
そのときは、花を飾って、みんなが集まるんです」と・・・
あさって!?
ああ、ミサを拝見したかったような・・・
でも、大事な日ゆえ、そのときは皆さんも、お忙しくて
こんな風に、お話を伺うことはできなかったでしょう・・・
それを思うと、良いタイミングだったのかも・・・
「以前、2016年に、ここを訪ねたときも、
今日と同じように、窓が開いていて、男性が閉めにいらしたところに
いきあいました」と、申し上げると・・・
「管理しているのは男性ばかりなんですよ、
世界遺産になる前は、たいてい閉まっていたから
日曜日か何かだったのでしょう、運が良かったですよ」とのこと。
そうか、あのときにも、この教会堂の内側を拝見できて、
わたしたちはラッキーだったんだなぁと、
いまさらながら思うのでした。
その時の記憶が好印象だったことが
今回の母を連れての訪問につながりました。
ご縁だったのかもしれません。
(屋根に十字架)
帰り際、O氏が、母と同い年であることが判明。
同い年のふたりは、笑顔で、
「お元気で」と声をかけあっていました。
O氏と出会い、ますます心に刻まれることになった
大野教会でした。
長崎の楽しかった旅の記憶は、本家ブログでアップし、
こちらでは、旅先で知った歴史のエピソードを綴ってまいります。
本家ブログ共々、どうぞ、お立ち寄り下さい。
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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◆「大野教会」パンフには「26戸の信徒のために」と書かれていますが、
O氏は信徒25とおっしゃっていました。
◆本記事はO氏のお話と、以下のパンフレットからまとめています。
素人のことゆえ、間違いや勘違いなどは、どうぞお許し下さい。
〇「世界文化遺産 国指定常用文化財 カトリック大野教会
カトリック出津教会」
〇長崎県世界遺産課「世界文化遺産
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
〇長崎市「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 時の遺産」