4年ぶりに、小田原「北條五代祭り」が開催され、出かけた。
武者行列に、マルシェはじめ、各種イベントで
過去最高26万人の人出だったという。
小田原市の人口が19万人なのだから、市外から訪問が多かったと言うこと。
実際、横浜からの東海道線は、通勤電車よりは、ややマシなレベルの混雑、
外国人観光客の姿も目立った。
わたしたちの目当ては「北条氏誕生 500 年記念シンポジウム」。
3月の「北条氏誕生500年記念シンポジウム」で知り、
帰りにはチケットを購入し、楽しみにしていた。
講師の先生がとても良い。
憧れの平山優先生は、今年度から健康科学大学特任教授、
大河「どうする家康」の時代考証をご担当。(お声も素敵♥)
駿河台大学教授の黒田基樹先生は、小田原北条氏研究の第一人者、
大河ドラマ「真田丸」の時代考証もなさった。
そして、おなじみ、諏訪間順・小田原城天守閣館長。
今度は席も良い!
憧れの先生方を間近で観られると思うと嬉しい♥
・・・ということで、
「第59回小田原北條五代祭り シンポジウム 家康と小田原北条氏」に
参加。
プログラムは以下の通り。
さて、このシンポジウム、
諏訪間順・小田原城天守閣館長が、最初に宣言。
「大河ドラマ『どうする家康』に完全に乗っかった企画です」と。
「北条五代を大河ドラマに!」は小田原市の悲願。
この日のオープニングセレモニーには、小田原市とあゆみを共にする、
岡山県井原市、大阪狭山市、静岡県沼津市、静岡県三島市、横浜市港北区、
東京都八王子市、埼玉県川越市、埼玉県寄居町の首長が顔を揃えたほどだ。
すべて北条5代ゆかりの地・・・大河ドラマ化を願っている。
諏訪間館長はおっしゃる。
「今日の講演から、北条氏の魅力をSNSにじゃんじゃんアップして下さい」
ということで、微力ながらまとめてみたい。
(撮影はオッケ~とのことでした)
北条氏の希有な点は、
なんといっても、骨肉相食むことなく、
戦国時代において、5代100年にわたり穏やかな治世だったこと。
虎印の北条家の印章・「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」に明らかだ。
領民の禄(財産)、寿(命)は応(まさ)に穏やかなるべし」
あの時代に、民の財産や命を気遣う領主って、素晴らしいじゃないか。
後に、この北条氏の姿勢を引き継ぐことになるのが徳川家康。
私にとって、家康は、長くタヌキおやじのイメージ(失礼!)だったのだが
北条氏から多くを学び、太平の世を築く土台にしたと知り、
すっかり家康公びいきになってしまった。
今回のシンポジウムでは、北条氏の魅力を、
大河ドラマと絡めてうかがっている。
その中で、一番、印象的だったのが、
↑黒田基樹先生のお話にあった、
小牧長久手の戦いにおける、北条氏の存在。
小牧長久手の戦いは、天正12年(1584年)、
羽柴秀吉軍と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康合軍との戦いで、
両者は互角の力を持っていた。
当時の羽柴秀吉は、織田信長亡き後、天下統一に向け、
なんとしても徳川家康を臣従させたい。
一方の家康にしてみれば、とんでもない話。
家康は、この前年の天正壬午の乱で武田家の旧領・甲斐を
傘下に収め、勢いがついているときだ。
実は、この天正壬午の乱とは、武田家の旧領をめぐる
徳川家康と北条家との戦いなのだけれど・・・
この戦で和睦するための条件が、北条氏直と徳川の督姫との結婚。
とにかく、家康側としては、羽柴秀吉に臣従の礼をとる気など
さらさらない・・・
それぞれの思惑とともに、羽柴秀吉、徳川家康(織田信雄)連合軍が
激突したのが小牧長久手の戦い。
このとき、北条氏は4代目氏政、5代目氏直の時代。
戦いに参戦していないが、実は、北条氏がいたからこその
家康の小牧長久手の合戦だと、黒田先生はおっしゃる。
先述したように、
前年の天正壬午の乱の和睦条件として
家康の次女・督姫と当主・氏直が結婚している。
当時、姻戚は最大の同盟者であり、一心同体。
家康にとって北条家は唯一の同盟者だった。
しかも、家康の要請があれば、当主・氏政か氏直のどちらかが
援軍として、秀吉軍と戦うために駆けつけるというのだ。
北条は関東の覇者である。
実際は約束だけで、参戦はなかったものの
東の大大名北条との同盟関係は、西に進軍する家康にとって
心強かったはずだと、
だから家康は、秀吉に強い態度をとり続けられたのだと、黒田先生。
「大河『どうする家康』で、小牧長久手の戦いの時、
北条家は出てきますかねぇ・・・
この北条家の存在感の大きさを出して欲しいんですよね」とも、
黒田先生は、おっしゃる。同感!
後半の先生方3人によるシンポジウムでは、
さらに、話が発展する。
北条家がいたからこそ、徳川家康は羽柴秀吉にギリギリまで対抗できた。
結果として、織田信雄が秀吉に下るなど、様々な事情があり、
家康は秀吉に一応の礼はとってはいる。
余談ながら、このとき家康は、秀吉の妹朝日姫との婚姻など、
さまざまな条件を自ら要求したという。
これは3月のシンポジウムで伺ってびっくりした話。
朝日姫は、秀吉から家康にムリムリ押しつけられたが、従来の見方。
それが全くの逆だったのだから、近年の歴史研究はめざましい進歩だ。
話を戻す。
とにかく、同盟関係にある北条家のおかげで、
家康は小牧長久手の戦いに臨め、
その後も秀吉に強い態度をとり続けることができた。
家康が臣従すると、次に、秀吉は北条家に目を向ける。
ここからは、家康が、秀吉に北条家を、どうとりなしていくかと、なる。
北条家も、家康の意図によく応え、
結果として北条氏規 (うじのり:氏政の弟)の上洛で、
秀吉との合戦を回避できた。
氏規と家康は、今川家で共に「人質」生活を送った、
いわば幼なじみ。
今回、秀吉との間を取り次いだのは、その家康だった。
結果として、北条家は小田原合戦により、滅亡するのだが、
家康の姻戚だったことが、功を奏し、
後に北条家は河内狭山藩を所領することができた。
狭山藩で、北条家は江戸時代を生き抜き、明治を迎えるのだ。
このように家康と北条家との関係が濃いことは
あまりにも知られていない。
むしろ北条といえば、小田原合戦の一夜城や
氏政の汁かけ飯のエピソードなどから、
決して良いイメージを持たれてはいないのではないか。
全然違う!
北条こそ、徳川安泰の礎。
家康が見習った善政の国。
わたしが北条家に惹かれるのは、
決して神奈川県民だからばかりではない。
「禄寿応穏」の印判を知ったことが始まりだった。
・・・ということで、まずはシンポジウムのご報告。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
北条五代を大河ドラマに!
オンライン署名も受付中です、どうぞよろしくお願い申し上げます。
→小田原市
なお、本日の記事は、シンポジウムのレジュメおよび
私のメモをもとにまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかと存じます。
素人のこととお許し下さいませ。
わたしも、このスタンプを小田原城の売店で買い、
封蝋代わりに使っています♫
4公6民、たぶん、わたしは富樫倫太郎氏の小説で知りました。
伊東潤氏と冨樫氏も同年輩ですね。
何でもお書きになれるところも似ています。