Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年2月号 二つの都市の物語、それとも混在都市?

2009年07月06日 | カクマタウンとケニア
【写真】カクマ・タウンの鳥瞰図

ケニアの小さな町が多数の難民を受け入れるホスト・タウンになった時、異文化の影響は大きく、多様で、広範囲におよぶ。

カクマは、多国籍の人々や様々な職業が織りなす活気に満ちたユニークな地域特性を持っている。難民キャンプが作られ、地域の社会や環境に良い意味でも悪い意味でも影響をおよぼしてきた。この点で、カクマ難民キャンプとカクマ・タウンは、二つの違う町なのだろうか。

1992年にスーダン人の難民を受け入れて以来、カクマ難民キャンプは多国籍で多様な難民が流入して拡大してきた。スーダン人、ソマリア人、エチオピア人、ウガンダ人、ルワンダ人、ブルンジ人そしてエリトリア人など、現在登録されている難民は51,000人に達している。

その間、カクマ・タウンは難民キャンプの町として、独自のアイデンティティを保っている。ケニア型郵便局、賑わう市場、病院、数か所の教会、そして何軒かの人気のあるナイトクラブは、カクマの誇りである。

活気のない、眠ったような町

1990年代の始め、カクマは活気のない、眠ったような町であった。しかし、第一陣の難民が到着してから、カクマの町は変わっていった。カクマは、色々な活動で、活気のある忙しい町に変貌した。

ロクウェルは、カクマに何十年も暮らしてきた現地の住民である。彼が言うには、「10軒位の家しかなく、市場などはなかった。1993年、難民、特にエチオピアの人達によってはじめてカクマに市場ができた」

ロクウェルによると、多くのエチオピア人は彼らの事業を難民キャンプに持ち込んできたという。時を同じくして、現地の住民はNGOに職を得、家を作り、収入を増やしていった。

難民キャンプができてすぐに、難民数が現地の住民を上回るようになった。そのため、当初は貴重な資源の取り合いが起き、それが対立や恨みを引き起こした。しかしUNHCR、受け入れ社会、現地政府による一連の和解策が、相互の関係を改善させた。

今日、現地の住民と難民との間の恨みはかなりおさまっている。平和的共存は、双方に果報をもたらした。現地の住民は、難民の存在により直接的にも間接的にも恩恵を受け、また難民社会は、仕事、教育、宗教、及び文化などの多くの面で、現地の住民と協調している。

「カクマ大学」

難民キャンプは難民、現地住民、人道支援で働く人達に、あらゆる面で新しい知識をもたらした。

難民及び現地住民は、人道支援団体や組織との交流を通して、人権や近代化の考え方に直面することとなった。公開メッセージは、難民や現地住民と共に行う人権擁護団体の活動では、重要な伝達方法である。現地社会や難民社会は、彼らの生活のあらゆる面で、このメッセージに触れる。

特に強調されているのは男女平等である――NGO施設の看板に「男性も女性も同様に良き意思決定者である」と書かれている。子どもの権利、良い衛生状況、正しい公共衛生、病気の予防、文化的態度、栄養実習などの社会教育に、同様のメッセージが利用されている。

公開メッセージに遠慮はない。UNHCRのコンパウンド近くの看板には、「結婚前のセックスは慎むように」と堂々と書かれている。この看板には、施錠された鎖でぐるぐる巻きにされた腰巻き姿の男性が、川辺に立ち、その鍵を川に投げ捨てている姿が描写されている。

国内外から集まった人道支援者も、この多様な文化や習慣の中で働くことによって、新しい知識を得ることができる。ここが文化の集結地であることを考えれば、これは当然のことだ。カクマでは、世界中からの救援隊員、多くのアフリカ諸国からの難民、多様な社会出身のケニア人等、一度に16カ国の国籍の人達を迎え入れることは、ごく当たり前のことなのだ。

難民キャンプの管理という難しい問題にチャレンジしていると、従来とはまったく違った人道主義的解決を迫られることがある。例えば、難民社会には早婚や持参金等、それぞれ特有の風習があるので、国際的な法律が求めるものがどうであれ、彼らにとって妥当な処置を施さなければならないことがある。こうした複雑な問題を解決することは、あらゆる面で豊かな知識と経験を得る機会になる。

GTZ(ドイツ連邦政府技術協力公社)で働いているある人道支援隊員は、カクマでの体験が職業機会を増強すると信じている。「国際隊員や国内隊員は、弱い人達に仕えることによって多くのことを学ぶ。だから、多くの隊員がアフガニスタンやインドネシア、ダルフールといった国々に行って働く」

人道支援隊員はこの事実を知っていて、カクマ・キャンプのことを、冗談半分に、しかし共通の引用例として「カクマ大学」と呼んでいる。最近、ある人道支援隊員が、胸に「カクマ大学」、背中に「あなたもそこにいたらいいのに」と書いたTシャツを作った。このTシャツは、カクマからナイロビにかけて、人々を驚かせ、大きな笑いを誘った。

支援隊員達はカクマ・キャンプでの任期終了を、「カクマ大学の卒業」と称することが知られている。これは、冗談でなく真実である。

基本的支援が現地社会にも届く

トゥルカナ地域の人達の生活水準は一般的に低い。深刻な貧困が広がっている。しかし、直接的に又間接的に、この地域の人々は、難民への支援の恩恵を受けている。受け入れ地域社会のメンバーは誰でも、入院患者や外来患者としての診療、食糧供給、初等・中等教育を含む教育や医療サービスを、無料で受けられる。

ある栄養不良の子どもを抱えているトゥルカナの母親は、「私はカクマの近くのナダパル村に住んでいます。子ども達に十分な食糧を与えることが出来ません。今はごらんのとおり、国際救済委員会の食糧供給センターに来て、子どもの食糧を補充してもらっています。子どもは丁度一週間前に難民キャンプの病院から退院しました」

彼女は付け加える。「私には子どもを他の私立病院に連れて行くお金がありません。だから、難民病院はとても助かります」

エケノは、現地のトゥルカナの若者で、カクマ難民中学で学ぶ生徒だ。彼は難民の学校は貴重な機会を与えてくれたと思っている。「もし難民の学校がここになければ、勉強など出来なかったと思う。ケニアの学校に行くには、とてもお金がかかる。少なくとも16,000ケニア・シリング(Ksh)はかかるのだ。とてもぼくには払えない」

「だから、難民の存在は僕たちにとって、大きいのだ」と付け加えた。

現地社会はまた、難民に無料で配布される食糧の恩恵を間接的にこうむっている。地域住民は食料の割り当てを得る権利はないが、難民に割り当てられる食料品から確実に食糧がまわってくるので、地域のすべての消費者向けに安くて便利な食糧市場ができあがる。

砂糖、ミルク、お茶、野菜というような必要食糧のすべてが難民に供給されるわけではない。しか難民の中には、配給食糧の一部を、同じ地方の他の地域に比べて、はるかに安く売って現金を得ている者もいる。彼らは、お茶や砂糖のような日常使う商品を買うことで地域に貢献し、現地の経済にも寄与している。

仕事と所得の創出

カクマ・キャンプにおけるUNHCRとNGOの活動は、地域社会の多くの人達に職業機会を与えている。人道支援団体は事務所で地域住民をフルタイムで雇用しているし、特別な事業の際には、一時雇用の仕事を得ている地域住民も多い。

難民が運営するキャンプでの小規模の仕事も、雇用機会を提供している。現地の多くの人が、これらの仕事によって、家族の日常の生活基盤を支えている。

現地人で、6人の子どもを持つアンナは、難民が運営するホテルでコックとして働いている。「この仕事を6年間続けています。とても助かっています。これが、子ども達を育て、学校の授業料を払い、必要な物を買うのに、私ができる唯一の仕事だからです」

その他、難民や人道支援隊員のために洗濯や掃除をして収入を得ている人達もいる。仕事が終わると、清潔な水を家に持って帰る。清潔な水を簡単に手に入れられない現地の人達にとっては、これはとても重要なことなのだ。十分とは言えなくても、現地の人達にとって、水を得られることは、大きな恩恵になっている。

さらに付け加えれば、木を切って難民に薪を提供することで、お金を得ている現地住民もいる。GTZ(ドイツ連邦政府技術協力公社)から供給される薪は十分でなく、多くの難民は現地の人から薪を買っている。

宗教の改革

エチオピア正教会は、新たに出会った社会に神と言う言葉を広めるために、亡命者を役立てようとした。現地の信者が増え、カクマの町に新しい教会が建ち、その宗教的繋がりを保たれた。

セント・ガブリエル正教会の落成式で、アレム神父は「今日のこの日を私たちは待ちわびていました。何故ならば、私たちはいつか母国に帰ること、そしてこの地場の人々に何か大事なものを残して行きたいと、いつも願っていたからです。それが、この教会です」

アレム神父によると、およそ500人の現地住民が、エチオピア正教会の信徒に加わり、3人のスーダン人と5人のトゥルカナ人が教会の執事に任命された。「この事業の目的は、彼ら自身の神父を持ち、彼らの言葉で礼拝をしてもらうことです」

カクマ・タウンに新しく出来たエチオピア正教会のトゥルカナ人の執事、エカウムはこう言う。「私はこの宗教をとても喜ばしく思っています。私は強い信仰を持っており、これによって、神父になって神に一生仕え、他の人々にこの聖なる宗教に加わるよう、教えを授けたいと思っています」

トゥルカナの正教会信者達は、エチオピア難民のカサフムに感謝している。彼はミサや祈りの本を、エチオピアのアムハラ語から彼らが理解できるスワヒリ語に訳した。

キャンプの宗教組織は、コミュニテーィの発展にも役立っている。「我々は、トゥルカナ正教会に属している数家族に対し、少しばかりの資金を援助し、小規模の仕事を始めて自立するように促している」とアレム神父は言う。援助は難民の寄付でまかなっているので質素ではあるが、この狙いは喜ばれている。

「私たちは、地域社会にもっと宗教の知識を広めたいと思っています。」「私たちが去った後にも、現地の人達が彼ら自身の神父を持ち、神を信仰し続けて行くよう、神が私たちを助けてくれるだろうと信じています」

国際的な教会の会衆がもたらす別の明白なメリットも、人道支援隊員と難民との関係から生まれている。ケニア人や外国人の隊員が、難民キャンプの教会を敬うようになったことで、難民と援助隊員たちが理解を深め、団結するようになった。


カクマの現地社会の人達が、難民の存在で様々な恩恵を受けているとは言え、悪い影響も見てとれる。

森林伐採

1993年以前のトゥルカナ地域は、暑い日には暗い日陰をもたらすほどの大きな木が点在していた。しかし、今ではそのほとんどがなくなっている。難民が薪や建物を作るために、多くの木を伐り、現地の人々も難民社会に売る炭を作るため、木を切っていった。こうした行為が、カクマの森林破壊の大きな要因である。

現地住民の中にもまだ木を切って売っている人はいるが、現地社会のあるメンバーは、難民の存在がこの森林破壊の主な原因だと主張している。難民は1か月一度、一人につき10キロの薪の束を配られている。つまり一か月に51,000束の薪が難民全体のために使われている計算になる。

アイザックは現地社会の一人で、国際救済委員会(IRC)で働いている。彼はカクマの森林破壊について、次のように説明している。「1990年以前はトゥルカナ地域にもたくさんの木があり動物がいた。難民が来てから動物たちは逃げ、木は伐採されるようになった。気候が変わったのも、そのせいだ」

木は、難民とNGOの居住地に垣根を作るため、棘の枝を提供するために使われた。この垣根は、定期的に茨を伐採して修理しなければならない。毎朝、トゥルカナの女性達は新しく刈った重い木の枝を運んでいる。彼女達は歩きながら、 “ムティ、ムティ”(木、木)と大声を出して難民に商品を宣伝している。

森林破壊の影響の緩和策はなされてはいる。GTZは森林再生の活動を地域全体で行い、森林再生のための多くの苗床を維持管理している。また、難民に調理用の灯油を供給することが、森林伐採への解決策になるのではないかとも考えられている。

働く子ども

現地の子ども達の多くが、キャンプの難民のために、小さな仕事や使い走りをしている。子どもの労働は殆どの場合家計を助けるためと思われる。現地の多くの大人は、この傾向を心配し、難民キャンプができる前はこんなことはなかったと思っている。

「難民が来てから、我々の子ども達は学校に行くのも両親と一緒に働くのも嫌がるようになった。ヤギの世話をさせようとしても、子ども達は草むらにヤギを放りだしたまま、ホテルや個人の家で働いて食べ物を貰おうと、難民キャンプに消えてしまう」と、現地社会の昔ながらの服装をした老人、エカスコットは言う。

子ども達は食べ物を貰う約束をしているため働きたがるのだと彼は言う。「ここはいつも食糧不足だから、皆難民キャンプに行ってしまう。彼らは解っていないが、働いてもお金は貰えず、食べ物を与えられるだけなのだ」

一方、難民は子どもの労働が搾取だとは思っていない。エチオピア人の青年ファシルは次のように言う。「私の考えでは、18才以下の子どもの場合、過酷な労働をさせられることもあり、そういう場合は肉体的、精神的、道徳的な成長を損ない、教育を受ける権利も侵害する」

しかし、自分の家で使っている子どもについては、次のように言う。「私は現地の子一人を、私や家族の手伝いとして使っている。あの子がやっているのは家の子がしている仕事と同じだ。家の子達が学校に行っている間、あの子も同じように学校で学んでいる。だから、私はあの子を搾取しているとは思わない。むしろ、助けている。月末には給料も払っているし、あの子の親の助けにもなると思う」

多くのトゥルカナの子ども達が学校を忘れ、毎日のパンのために難民キャンプに通い、小さな仕事をしているというのは、非常に残念なことである。仕事をすることで、食べる機会と服を着るチャンスを与えるかもしれないし、彼らが村に帰った時、家族を食物で助けているかもしれない。しかし、難民キャンプができてから、カクマで物事が変わってしまったことの証拠でもある。

「私達の文化を忘れて行く」

難民キャンプがもたらした異文化の流入は、必然的に現地の若者たちに影響を与えた。

IRCで働く現地民のアイザックは、若者の文化面での変化についてコメントしている。「子ども達は、全体的に駄目になっている。彼らは自分達の文化を忘れ、かわりに我々の文化とは全く違う、他の国の文化を取り入れている。女の子は我々の文化では許されない難民との国際結婚に走り、男の子は、アルコール中毒になっている」

「我々の社会では」とアイザックは言う。「年老いた男女だけがアルコールを飲めた。地場のブサアというビールだ。ところが最近は、これとは別のチャンガアというアルコールが入ってきて、皆、男も女も少女も少年も、アルコール中毒になってしまった。結果として、ほとんどの男女が、子ども達を家において、難民キャンプでそれを楽しんでいる。家で子ども達が両親のいない寂しさに耐えている間に!」

現地社会のメンバーのフェスタスは、国際色豊かな社会が伝統的な習慣に与える影響について、彼の見解を述べている。「私たちの文化では割礼はしない。しかし最近は多くの機関が割礼を促している。我々に最初に説教をした宗教は、キリスト教だった。しかし今ではイスラム教の難民が増え、この社会を支配するようになったので、みんなイスラム教に改宗している」

結論

実際には、カクマやカクマの環境に与えた影響の善し悪しは不明瞭で、変化は多方向に及んでいる。カクマのような難民キャンプを持つ町では、ギブ・アンド・テイクの精神をもって支配者たちが、それぞれの役割を認識することが重要である。

食糧の確保や経済的安定のために、現地の人達も難民も共に、森林伐採、子どもの労働、職業や市場の変貌を助長させた。文化の流動性と正統性を求める中で、現地の人達も難民も共に、宗教の改宗や伝統の損失、チャンガア酒の濫用といった文化の変化に参画した。

現地の人々は、最終的に難民を受け入れたのだろうか。また難民はカクマの人々を彼らの社会に最終的に受け入れたのだろうか。1年たてば受け入れられるのか、それとも10年かかるのか? 答が出るのはこれからだ。


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