【写真】 紛争の被害者たち
【写真】 瞑想の集会のために移動するヌビアンのリーダーたち
カクマ難民キャンプのスーダン人コミュニティーで内紛が起こり、一人が死亡し数人が重傷を負った。
スーダン人のディンカ・バハル・エルガザル 族とヌビアン 族の間で紛争が起きたのは、2012年4月9日の月曜日、難民キャンプのカクマ1ゾーン3のジュバ・サッカー場だった。夕方の5時ごろ、アングリカン教会の近くでけんかが始まった。けんかの原因は、その前の週の前半に2つのグループで生じたいくつかの誤解だった。
けんかは次第に激しくなり、矢や槍や大なたが使われるまでに発展。その晩は、多くの人が難民キャンプの病院に運ばれた。当初、けんかの理由はすぐには確定できなかった。後に、2012年の3月31日、両グループの若者たちが、サッカー場でどのチームが先にプレイするかをめぐって揉め事を起こしていたことが判明した。ヌビアン族の若者のリーダーによれば、みんなで決めたルールがあるのにそれに従わなかったからだという。「ルールは簡単さ、最初にそこへ来たチームが最初にプレイするんだ」と、A・アリはKANEREに語った。
自警団がホンコン地区担当の警察署に通報すると、警官がやってきて一旦は平穏を取り戻した。ところが日が暮れるまでに少なくとも6人のヌビアンと5人のディンカの若者がキャンプ内の中央病院に運ばれた。そのうちのひとりは、ヌビアンの15歳の少女だった。「けんかをしている人たちは、獣みたいだった。みんな、手とか頭から血を流していた」と言うのはカドゥグリ小の生徒ラシアルだ。キャンプの病院に運ばれた者のうち、2人の ディンカ・バハル・エルガザルと1人のヌビアンの若者 アルガ・アムダは、容態が悪化しカクマ・ミッション病院に転院となった。
KANEREが入手した情報によれば、この紛争が始まった原因は、これらのグループ間に以前からある誤解と文化的な嫌悪感にあるらしい。また、この2つのグループはかつてジュバ・サッカー場やブロック4の給水所を共有していたことも判明した。お互いのグループは人目を避け、抗争が起きた晩に密かに会合を開いた。警官とケニア警察サービス隊(GSU)は周囲の安全を守るために警備員を配備したが、翌日の2012年4月10日の早朝、再び争いが始まり、ジュバ・サッカー場はさながらヌビアンとディンカ・ バハル・エルガザルの戦場となってしまった。そこに集まった若者や中年の男たちは原始的な武器まで手にしていた。「両方のグループの若者が武装しているのを見ました。他の人たちよりもたくさんの武器や防具を持っている若者もいました。殺し合いなんてまっぴらです」と、ブロック3の・ジュバ・サッカー場の近くに住むブルンジ人は言っている。
数発の銃声が鳴り響き、争っていた人たちが引き離された。お互いのグループの若いリーダー達は、この争いが激しくなったのは個人的に行われた復讐が原因で、しかももともとは話し合いで解決できるようなちょっとした問題だったと説明した。しかし、両グループはともに、ホンコン地区の警察官は、この紛争が起きる何日も前に報告されていた事件について安全のための適切な措置をとらなかったと主張した。ヌビアン族の若者の1人は「小競り合いがあった時に報告したのに。ここの警官は仕事に熱心じゃなかった。だから、こちらも彼らを信用していない」と言い、ディンカの自警団のひとりも匿名を条件に「あまりにもお粗末な仕事ぶりだから、最近ホンコン地区の警察所長と何人かの警官が配置替えされたんだよ」と語った。KANEREの記者が現場を取材している時も、現場には血痕がたくさん残り、原始的な武器を持った若者たちが辺りの低木の藪の中にまだ隠れていた。
襲われて怪我をしたアルガ・アムダは、14時ごろにカクマ・ミッション病院で亡くなった。「彼は危険なものを持った暴徒に故意に殴られた」と親族のH.K.は言っている。また、同じ病院に入院しているディンカ族の2人の若者はなんとか生きながらえている。この紛争で学んだのは、犠牲になったすべての人たちが、集団の中で正義とされる行動で傷つけられたということだ。アルガは2011年にカクマ難民中学校の生徒会長をしていたので、彼の死がもたらすショックの波紋はカクマ・キャンプのヌビアン・コミュニティー全体に広がった。その結果、それぞれのグループをそれぞれのブロックに閉じ込めてグループ同士を接触させないように、警官のパトロールがより頻繁に行われるようになった。
15:00までには、両方のグループのコミュニティー・リーダーがUNHCRの車でカクマ地方監督官事務所に連れて行かれ、解決策の話し合いが行われた。その話し合いを呼びかけた地方監督官はこう発言した。「争いは許さない。今回の紛争に責任のあるリーダーや年長者たちは全て拘束する」。キャンプ内のスーダン人管理官は、「ヌビアンは1人が死亡し6人が負傷、ディンカは5人が負傷した」と述べた。
2012年4月13日には、紛争で重傷を負ったディンカの2人は首都ナイロビのAIC キジャベ病院に飛行機で運ばれた。退院時の診断で明らかになったが、ガスティロは腕を骨折していた。もうひとりの患者、17歳のL.ヨムは頭に鋭い切り傷、両手と右足は骨折しており、2012年5月11日になってようやく退院した。ヨムは理由もなく襲われ、そのときは紛争が起きていることすら気づいていなかった、しかし自分を襲った人たちは以前に見たことがあると言っていた。「教会からの帰りにそのへんをぶらぶら歩いていたら、6人のヌビアンにボコボコにされた。これからの人生を考えると暗い気持ちになる」と車椅子に乗ったヨムはKANEREに語った。
KANEREは2つのコミュニティーに対し、次のように諭したい。難民は国外に逃避している間はコミュニティーをきちんと管理するため、お互い平和のうちに協調して生活しなければならない。人生は目的や将来像を持って生きるべきであり、よその国で仲間を殺すために生きるべきではないとも言いたい。
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