地元、京都の吟士権大会で優勝したのが昭和44年、もう44年前です
優勝はこの吟で、と決めたのが佐野竹之助の「出郷の作」でした。
この前の年が準優勝だったので”来年こそこの吟で”と選びました。
桜田門に井伊直弼を討つべく水戸を出ずる時の作、目的は違えど
決然と優勝決定戦に挑む心に「出郷の作」の魂を植えつけたかった。
それから2年後、今度は乃木希典の「金州城」にて文部大臣賞を受賞
44年から46年までの約2年、練習は乃木希典の「金州城」一本でした
「凱旋」「爾霊山」「法庫門営中の作」そして此の「金州城」
すべてが乃木希典の反戦歌、或いは鎮魂歌と云って良いと思う。
私が「金州城」を選んだのは≪二度と悲惨な戦争を起してはならない≫
との思いを、コンクールの場を借りて訴えたかったからでした。
その結果文部大臣賞を頂くことに成ったのです。
さて、乃木希典が名詩「金州城」作成の背景と大意を少しだけ!
日清戦争で落とした金州城で10年後、まさか長男が戦死しようとは
日露戦争で(長男)勝典中尉が戦死したのは、明治37年5月27日の事
父、希典が雨のそぼ降る金州に到着するのが十日後の6月7日であった
辺り一帯見渡す限り、あまりの凄まじさに馬でさえ進めない有り様
やがて雨も上がり、西日が雲間から差し始めた時、
希典はおもむろに手帳を取り出し、
勝典を偲びながらこの詩を
メモ書きにしたためた・・・・・山川草木転た荒涼
十里風腥し新戦場
征馬前まず人語らず
金州城外斜陽に立つ
当時、陸軍大将に成ったばかりの
乃木希典の名詩「金州城」はこの様にしてなった
私のこの詩への想い、声に出し戦争の悲惨さを伝える事こそ、
松の使命だと思っています、命ある限り吟じつづけて・・・・
優勝はこの吟で、と決めたのが佐野竹之助の「出郷の作」でした。
この前の年が準優勝だったので”来年こそこの吟で”と選びました。
桜田門に井伊直弼を討つべく水戸を出ずる時の作、目的は違えど
決然と優勝決定戦に挑む心に「出郷の作」の魂を植えつけたかった。
それから2年後、今度は乃木希典の「金州城」にて文部大臣賞を受賞
44年から46年までの約2年、練習は乃木希典の「金州城」一本でした
「凱旋」「爾霊山」「法庫門営中の作」そして此の「金州城」
すべてが乃木希典の反戦歌、或いは鎮魂歌と云って良いと思う。
私が「金州城」を選んだのは≪二度と悲惨な戦争を起してはならない≫
との思いを、コンクールの場を借りて訴えたかったからでした。
その結果文部大臣賞を頂くことに成ったのです。
さて、乃木希典が名詩「金州城」作成の背景と大意を少しだけ!
日清戦争で落とした金州城で10年後、まさか長男が戦死しようとは
日露戦争で(長男)勝典中尉が戦死したのは、明治37年5月27日の事
父、希典が雨のそぼ降る金州に到着するのが十日後の6月7日であった
辺り一帯見渡す限り、あまりの凄まじさに馬でさえ進めない有り様
やがて雨も上がり、西日が雲間から差し始めた時、
希典はおもむろに手帳を取り出し、
勝典を偲びながらこの詩を
メモ書きにしたためた・・・・・山川草木転た荒涼
十里風腥し新戦場
征馬前まず人語らず
金州城外斜陽に立つ
当時、陸軍大将に成ったばかりの
乃木希典の名詩「金州城」はこの様にしてなった
私のこの詩への想い、声に出し戦争の悲惨さを伝える事こそ、
松の使命だと思っています、命ある限り吟じつづけて・・・・