松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

救急車の進行をさえぎる馬鹿!歩行者とトラック

2013年10月06日 23時16分57秒 | 日記

昨日のブログのタイトル「人情のかけらもない者に正義は語れない」を

本日!いやと言うほど味わってきまして、寝ようと思ったけどパソコンの前、

実は今日の昼前の事、義理の父?(3年前に亡くなった母と助け合いながら

生活をしていた濱田さん)の処へ行ったら、ベットに寝ている様子が変なので

肩をゆすったら、「痛い!」と言ったけど、目がうつろで意識も無さそうなので

慌てて救急車を呼びました、そして同乗して病院へ行くまでがタイトルなんです

四条通りに出たとたん、「止まって下さい!救急車が通ります」の連呼です

救急隊員は気の毒なぐらい、連呼し続けます、・・・【情けない人間ども】と私

やっと西院の交差点に差し掛かり、丸太町病院に向かって、左折します

またまた、隊員の連呼です・・・前方を見ると救急車の前の横断歩道を

のんびりと歩いています、その後ろから来た歩行者も止まらずに渡ります

30秒程・・・救急車は止まっています、もちろん隊員の連呼は続きます

カメラがあれば、歩行者の顔を写してココに載せたい程でした

何なんでしょうね、”世の中どない”、なったんでしょうね~

やっと、交差点を脱出して一路病院へ、・・・すると西大路の太子道で

前方にトラックがゆっくりと走ってます、「左に寄って下さい」と隊員さん

そのトラック!聞こえないふりか?次の円町までそのまま走り続け

やっと、我々は丸太町を右折出来ましたが、病人より私の血圧が

急上昇していたと思います、・・・わが京都の住人はこんな馬鹿

ばかりではありませんが、腹立ちまぎれに眠むた目で京の恥を

あえて、暴露(そんな大層な!)した次第であります

京都の馬鹿者どもよ!恥を知れ・・・

おそらく・・・京都だけでは無い筈です、・・・人間として情けない!

 

 

 

 


人情のかけらもない者に正義は語れない

2013年10月04日 18時59分12秒 | 日記

宮本輝の「草原の椅子」の映画の中での、私の好きなセリフ!

と言うことは・・・この世から正義が無くなったと言うことなんか

いやいや、まだまだ正義は存在している、と思いたいものです

藤光春さん(本名ではありませんが!お許しを)から頂いた

数え切れない人情と施し、私の詩吟人生の中に新たな輝きを

与えて頂き、今もその恩恵に感謝の気持禁じえずであります

光春さんを通じて日本画の鈴木靖将さんとも親しくさせて頂き

第一回の中国旅行では鈴木さんや”てんてこ”の河合さん達と

人生最初の海外旅行・・・孔子廟の曲阜、洛陽、西安、北京と

 

  《洛陽市を表敬訪問、真ん中に市長,右側ののっぽが鈴木さん、左から3人目の背広姿が私》

         

 《洛陽から西安に行く列車内、左が私、隣が鈴木さん》      《西安の市長さんの前で「春望」を吟ず》

まるで”夢か”と思う程でした、スポンサーはもちろん藤光春さん、

この旅で、忘れもしない西安での事!、同室の鈴木靖将さんが!

「松さん、ちょっと聞いてくれるか」と西安の夕陽を背にして

靖将さんが語り始めました「今まで個展を開くのが怖かった、

それは僕の絵を見た人から何を言われるかが、怖かったんや

そやけど、何時まで待ってても、その気持ちは消えへんやろ~

そやし、ぼろくそに言われたら云われるほど勉強や思って

個展を開いていこうと思うね・・・松さんも結果を怖がらずに

自分の会をドンドン、開こうな~」・・・その時、感じました

松をもっと勇気付けて自信を持たせてやろうと、自分の

個展の話から入られた事を、・・今も心に残る西安の思い出です

そして翌年に、初めてのリサイタルを開く事が出来たのです

企画はもちろん藤光春さんで、美術を鈴木靖将さんが担当

音楽が”てんてこ”の河合さんとリターチバのみなさんによる

【李白を吟う】でした、木戸銭を頂くのも初めてで当日まで

心配が身体の中を駆け巡っておりました。

≪風の吟≫の名付け親でもある藤光春さんの今回の企画

それは素晴らしい作品で、ナレーションも見事な出来栄えでした

今では光春さんも忘れている?かも知れないけど、「松さんの吟は

やさしい節回しと、その甘い声にあると私は思うのですが」

今回の李白の詩に譜付けをして、最初に聞いて頂いた時の事、

おそらく従来の”詩吟で御座います”といった節調やったんでしょう

その時でした、以前笛の藤舎推峰(当時の名称)先生が言われた

「松さん!詩吟もバイオリンの伴奏で吟じられなアカンな~」

突然思い起こされ、推峰先生の思いはこれかと初めて気付き

すべて譜付けを手直しして、聞いて頂きましたら、「これや」と一言

『松≪風の吟≫はこのスタイルやと思います』とOKが出ました

高音部への導入を今まで力任せにしていた事に気付き、「甘く」

振り上げられるように工夫し、もちろん譜面も流暢な流れを中心に

心がけました、李白の魅力を100パーセント引き出せるようにと!

光春さんと推峰先生の一言から≪風の吟≫が誕生したのでした

                  《翌日に載った「京都新聞」の切抜きです》

初リサイタル《李白を吟う》は大成功でした、「オペラみたいやな~」

との声も頂きました、皆様にも是非吟道松流のホームページ

【風の吟を聞く】で李白を吟うをお聞き頂き、確認下されば幸せです

グーグルから吟道松流(ぎんどうしょうふうりゅう)と検索して下さい

   

  《鈴木靖将さんの「李白を吟う」の為の原画》         《リサイタルのライブテープの表装です》

 

 

 

 

 

 

 

 

 


武士道と言うは死ぬ事と見つけたり!

2013年10月01日 18時22分41秒 | 日記

≪葉隠≫の代名詞ともなっているこの言葉、戦時中は曲解して

多くの人々が自らの命を絶ったという・・・・・

武士と申すは,何時如何なる時にも死ねる覚悟が必要である

平たく言えば、死ぬる事を恐れず武士らしき道を歩めと言う事

人間死ぬ覚悟が出来たとき、本来の生に目覚めるものであると

まだまだ凡人である私なんぞ・・・・・死が恐ろしくてなりませぬ

さて、本題に入りましょう・・詩吟で表現したいのが「生と死」です

昭和44年に行われた京都府詩吟連盟主催の吟士権大会

前年度、準優勝だった私、優勝して当たり前という立場にあった

4月から三ヶ月に亘って【第一次・第二次・本選】と行われる、

6月の本選では上位10人が吟題を変えて再度、決戦を行う

この決戦で吟じる詩を前年から選んで、優勝に向け猛練習

その吟題は、桜田門外の変にて見事井伊直弼の首を刎ねた

水戸藩士17人の中の一人、佐野竹之助の詩「出郷の作」

この時竹之助は若干22才、刀より三味線が似合ったほどのイケメン??

水戸藩主徳川斉昭を無期限の蟄居に追い込んだ井伊直弼を

”もうこれ以上生かしておくわけにはいかぬ”と決然と立ち上がった、

     

          決然国を去って天涯に向こう

         生別又兼ぬ死別の時   

       弟妹は知らず阿兄の志

          慇懃に袖を牽いて帰期を問う 

決然(死を覚悟で) 天涯に、(この詩では江戸を指す)旅立つ

幼い弟・妹との最後の別れである、(生別は死別を兼ねている)

しかし、幼い二人には兄の志が分ろうはずもなく、無邪気に

両袖を引っ張りながら「兄上、今度は何時のお帰り?・・・」

これが最後の別れ!・・・・・とは云えない兄の胸のうちを

吟で表現しなければ優勝は出来ない、

吟ずる私が胸を詰まらせたのだ!・・・

聞く人に感動を与えられない筈がない・・・

ウルウル来た場所を今度は、聞き手にウルウルを・・・

”袖を牽いて”の表現次第で竹之助に乗り移れる・・・

泣き声を上手く使えたら、・・・・・一年間この詩に懸けました

もう一箇所・・・最大の緊迫感が必要となる、吟じ始め!

当日、まず優勝カップの前へ行き、お持ち帰りの約束を・・・

そして・・・念願の初優勝を果たすことが出来たのです。