幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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古代日本の都が奈良なのはなぜ?

2018-01-21 00:27:27 | 古代文明

 

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平昌オリンピックが近づき、アイスホッケーの南北共同チーム結成だとか、「あんたら、戦争当事者じゃないの?」と、耳を疑うことが取だたされていますし、一方では、アメリカの原子力潜水艦の寄港を韓国が断ったりと、「韓国さん、滅びたいの?」と、はたまた亡国の悪癖が出てしまっていて、日本ではそれを、平和ムードととらえる、一見平和主義的なアッポッポーな見解の人たちもいて。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6269150

そのような危うい隣国と隣合わせの日本はどうあるべきか。

日本は、日本のあるべき姿を取り戻し、目指す未来の構築のために、戦略的に為すべきことを為すべきです。

いくらインフルエンザが蔓延しようと、免疫力が強ければ感染しないように、隣国が危うかろうが、凶暴だろうが、その国々より、正しく強ければ良いのです。

日本の長い歴史があり、有史ではそれを示せないほどです。

日本の歴史の大きな特徴は、「最後は正しい結論を出し続けてきた。」ということだろうと思います。

だからこそ、世界最古と言われる、長い歴史を歩んでいるのです。

かつて古代日本では、神武東征というものがありました。

私は『東征』と言われるような軍事行動ではなく、その大部分は、日本神道の宗教アイテムでもある、『米と酒による外交』だと考えています。

というのも、栗を主食にした縄文時代から、急速に全国に米を主食にした弥生時代となるのですが、この時代に英雄伝がありません。

軍事行動が大きければ大きいほど、それは武勇伝なり英雄伝として語り継がれるものですが、弥生時代と思われる時期は、静かすぎる日本大変革なのです。

その米作を、九州以外の地域に伝えて、同盟国として仲間を作り、ヤマトの国=倭国を、その後の大和の国の道筋を創ったのが、天照大神の肉体子孫として、日本神道の最高の神官でもある『かつての天皇』ではないでしょうか?

口を漱ぎ手を洗い、柏手を打つのが日本神道の習わしですし、鎮守の森の中にお社を構えるのが神社ですけれども、それらは、『交渉の前に行う行事』や、『交渉を行う場所』だったのを示しているのかも知れません。

また、いつの間にか、米作が始まり、いつの間にか、卑弥呼が魏志倭人伝に登場し、いつの間にか、神武東征が始まり、そして、いつの間にか、大和朝廷ができあがっています。

これら、静かすぎるのに、あまりにも変化の大きなこの時代を、当時の朝鮮半島情勢を踏まえた上でシミュレーションするとするならば、この神武東征外交は、『米と酒を中軸とした外交と遷都』という結論になると思います。

なぜならば、仮想敵国である朝鮮半島諸国には、遷都は、”絶対に、知られては困る”内容だからです。

あくまで、九州にヤマト国は存在しているように見せながら、秘密裏に、東方縄文系諸国との外交を成功させなければ、朝鮮諸国に付け入られ、攻め込まれる危険が大きいのですね。

私がそう考えるに至ったのは、神武東征が成功し、ヤマト国が都を構えた場所が、”奈良盆地”であったからです。

ではなぜヤマトの国は、奈良盆地を都に選んだのでしょうか?
こう言っては、奈良にお住まいの方に失礼かも知れませんが、新たな都を構え、全国にお触れを出す土地として、奈良盆地は果たして、的確な場所なんでしょうか?

元来、奈良盆地に居を構える豪族が、全国制覇したのならいざ知らず、遠方から来た侵入者が、わざわざ奈良を拠点するのは、どうもつじつまが合わないのです。

現代とは違い、舟や徒歩しか移動手段のない時代、奈良は、交通の便が悪すぎるのです。



邪馬台国近畿説から言えば、元来大和朝廷の原型が奈良発祥ということになるのでしょうが、私はそれはありえないと思います。
なぜなら、奈良盆地で発見される都市群全てが、完全な計画都市だからです。
奈良盆地の都市群は、すべて計画があって新しく作られた痕跡があり、自然発祥的な都市ではない証拠です。

通常ならば、首都機能を持つような都市を造ろうとすれば、もっと”交通の要所”になる地を、選択するのが常なのではないでしょうか?

たとえば、出雲の国(島根県)ですね。
ここには西から海流が流れており、当時朝鮮から貿易などには、とても適した便利な土地ですね。

もしも、アジア大陸など、当時の先進国家群との交流を、まず念頭に置いた国づくりをするとしたならば、首都機能は、絶対に日本海側にないといけないのです。

朝鮮からの影響力が嫌ならば、吉備の国(岡山県)でもいいですね。
ここには当時、吉備の国という大きな”くに”があったようです。
自然災害も少ないですし、東西南北、そして海運の拠点には最適です。

しかし、ヤマト国の新たな都は、奈良盆地でした。
なにわ(大阪府)ではなく、更に奥深い奈良まで入っています。



しかも、最初に居を構えたであろう、纏向(まきむく)と言うところは、奈良盆地の奥の奥、山裾の地です。
当時の都市水運には欠かせない、大きな川(大和川)も、遺跡からは微妙な場所にあって、これは川を運搬に使っていたというよりは、堀として防御に使っていたように、私には思えますね。

和歌山県側からの進入ルートに使えそうな紀ノ川は、奈良纏向(まきむく)の地の近くでは、川幅も狭くなり激流となります。
運搬輸送の交通ルートとしては使えず、むしろ侵入者を阻むような地形構造です。

ヤマト国の新首都が奈良盆地。
これは、「隠れ住んでいた」とか、「篭城した」としか、私には見えないのです。
そうであるならば、納得が行くのですね。

奈良は、防御にはもってこいの地形であり、言わば『天然の要塞』のような土地だからです。

奈良の地は、朝鮮半島から見ればどういう位置づけになるのでしょうか?

九州には、ヤマト国の正規軍が残っています。
海流に乗り、山陰地方に向かえば、同盟国であったであろう出雲の国(現・島根県)が控えます。
出雲を破り、中国山地を南下すれば、そのにはやはり同盟国格だったと思われる吉備(きび)の国(現・岡山県)が待ち受けます。

九州ヤマト軍を切り抜け、関門海峡を通り抜けて、瀬戸内海から東征すれば、これまた同盟国の吉備の国が迎え撃ちます。

瀬戸内海は島に囲まれ、海流の流れが複雑な、海の難所です。
当時であれば、地元民以外、東西への通り抜けなど不可能です。
縄文系の、優れた航海術を持つ水軍を整備すれば、瀬戸内海での朝鮮軍船の東進を十分阻止できます。



たとえ、朝鮮軍が大阪湾に辿りついたとしても、今度は、奈良盆地の周囲の山々が、”防御壁”となって立ちはだかります。
盆地は山があるので、大軍の陸路からの進入経路を限定することができます。

つまり盆地は、大軍を無力化できるのです。

また、海軍として来るであろう朝鮮軍は、そのまま大和川に入ることはできません。
川が微妙に小さく、また河口から奈良盆地にいたるまでには、必ず急流があるので、船を小さく作り変える必要が出てきます。

盆地ならば、大量の軍隊の侵入は、絶対にできないですし、盆地のような山岳地帯は、地元民が絶対に有利です。
盆地は巨大な外壁ですから、攻め込むのに大量の軍隊を要するのですが、その軍隊の進入ができないし、無数の抜け道があり、地元民ならば、いくらでもゲリラ戦法による防衛が可能です。

古代日本の新首都が奈良盆地なのは、奈良盆地は、朝鮮半島からの攻撃に対する、鉄壁の防御が可能な土地だからだろうと思うのです。

「ヤマト国の東征は、弥生化が遅れていた、東国への陣略目的ではなく、当時の朝鮮半島国家軍からの、防御を目的とした大規模な遷都」

これが、奈良の地理的な条件を踏まえた、私なりの歴史考察です。 

本日は、2月3日(土)開催される大川隆法幸福の科学グループ総裁の宮崎講演会のお知らせに続き、経典『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)より、アトランティスやムーといった伝説の古代文明と現代日本について説かれた部分のご紹介です。 

            (ばく)

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大川隆法講演会サイト(https://ryuho-okawa.org/sp/mission/lecture/20180203 

☆大川隆法総裁先生 第1回講演会☆  

「情熱の高め方」 

日時:2月3日(土)13時~ 

会場:宮崎県都城市総合文化ホール(本会場)および、全国支部・精舎にて衛星中継  

高知支部精舎〒781-8105 高知県高知市高須東町2-11   

TEL:088-882-7775 

高知西部支部精舎〒781-1202 高知県高岡郡越知町2519-7   

TEL:0889-26-1077 

高知朝倉支部〒780-8062  高知県高知市朝倉乙988-11   

TEL:088-850-7774 

高知四万十支部〒787-0012  高知県四万十市右山五月町2-22 

TEL: 0880-34-7737 

【北朝鮮・国防編】幸福の科学・大川隆法総裁 2009年 提言集

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=157

アトランティス文明が滅び、巨大な文明、文化国家が地上から姿を消したわけですが、アトランティス文明の末裔たちは、「なんとかして、自分たちの国を再現したい。かつての繁栄を取り戻したい」という気持ちを強く持っていたのです。

そこで彼らは、大西洋の近くにある地中海を中心として、アトランティス文明の再興を図りました。

そして、いまから数千年前、エジプト文明の発展と同時に、ギリシャにも、一つの発展、繁栄を見ようとしたのです。すなわち、ギリシャ精神の根底に流れているのはアトランティス文明なのです。

そして、このアトランティス文明と対極にあるのがムー文明です。

かつて太平洋にあったムー大陸は、いまから一万五千年ほど前に沈没しましたが、ムー大陸で文明を栄えさせていた人びとは、その文明をどこに持っていくかを考えた結果、インドや中国、日本などに文明を栄えさせてきたのです。

結局、「西洋の原点はアトランティスにあり、東洋の原点はムーにある」と言うことができます。

現在、西洋文明と東洋文明という二大文明があり、それぞれ数千年の歴史を持っているように言われていますが、その原点は、アトランティスとムーという二大大陸に栄えた文明にあるのです。

そして現在、アトランティス文明とムー文明が、数万年の歴史を経て融合し、一つになろうとしている──このように理解してよいのです。

ギリシャという国が創られ、発展していく前には、天上界で高級諸霊が数多く集まり、ギリシャの指導神、ギリシャの神々となりました。

アトランティスの時代に光の指導霊だった人びとが集まって、ギリシャという国を創っていくという決意をし、西洋文明の源流を創ってきたのです。

一方、かつてはムー大陸で文明を創っていた光の指導霊たちは、東洋文明を創っていくという決意をし、東洋の地に磁場を創り、インドや中国、その周辺に、さまざまな勢力圏を創ってきたという歴史があります。

このように、ムー文明が東洋の源流をなし、アトランティス文明が、ギリシャやその後の西洋の源流となったのです。(中略)

そして、いま、西洋の流れが日本という国に流れてきて、東洋の流れと合致しました。

結局、この日本が、今後、アトランティス文明とムー文明とを合わせたような新文明を創っていくための淵源地、原点となるのです。

われわれは、いま、そのような運命を担っているのです。
『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)P193~197


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