幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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体の中の砂漠と、『愛の原点』

2018-03-28 23:11:53 | 命の不思議

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看護師でもある私が、常々思っていることがあります。
それは、身体は、あまりにも、良く出来すぎているということです。

ですので、生き物が勝手に誕生し、勝手に進化しているとは、とても思えないのです。

生き物は素晴らしい芸術家が、何かを表現したくて、「愛しさ」を秘めて創造したとしか見えないのです。

その「生命を創造した偉大なる芸術家こそ神である」と私は信じて疑わないのです。

さて、生き物には、食べ物を消化・吸収する器官に、小腸がありますが、本日はその話です。 

 
 

最終的な消化吸収器官で、栄養のほぼ全てを、ここで吸収しています。

意外なのですが、実は小腸の中には、ほとんど細菌はいないんですね。
大腸の中にはウジャウジャいるのですが(笑)、もっと栄養豊富なはずの小腸では、ガクッとその数を減らします。

広大な砂漠の中に、時折り生き物がいる。
小腸をイメージするならば、まぁ、そんな感じだと思います。
 
そう、意外ですけれども、演題の「体の中の砂漠」というのは、小腸のことなのです。
 
     ナミブ砂漠のアイドル ミズカキヤモリ

それはなぜかと申しますと、小腸の消化吸収のメカニズムが、深く関係しています。
実は、小腸の中では、「栄養を摂取するギリギリまで、消化しない仕組みがある」のですね。

腸のヒダの奥の奥にある小腸細胞に、触れるか触れないかというギリギリのポイントで、腸液を「ピュッ!!」と出して、粒の大きな栄養素を分解し、「サッ!!」と一気に吸収しているのです。

もう秒殺です。
 
下の画像が小腸のヒダの拡大図ですけれども、このヒダに栄養が触れる瞬間に、酵素を含んだ腸液を出し、一瞬で吸収していて、目にも止まらぬ速さ、神業です。

酵素で大きな糖分などを、一瞬でブドウ糖に変えて、一瞬で摂取しているところが「小腸」なのです。

 

それでなにが起こるかというと、「腸内細菌たちが、食べ物を食べることができない」のですね。

身体の小さな腸内細菌にとっては、消化酵素入りの腸液に触れる前の食べ物は、栄養の粒が大きすぎて食べられないのです。
 
たとえば、一口サイズのお肉なら一口で食べれますが、牛一頭丸のみはできないように、腸内細菌も、摂取できる大きさというものがあるわけです。
 
食べ物をじっくり食べていることができず、ただ「食べ物が小腸細胞に吸収されていく姿を、指をくわえて見ていることしかできない。」という訳です。
我々はそういう小腸の機能でないならば、食べた食べ物がすべて腸内細菌に食べられてしまって、飢え死にしてしまうのですね。
 
こんな超際どい作業を、小腸の細胞はしているために、ものすごく負担が大きいのでしょうね。
小腸細胞の平均寿命は、な・・・なんと、約1週間だと言われています。

ですから、小腸から発生するガンというのは、ほとんどありません。
ガンというのは、何年越しもの、慢性疾患でして、小腸の細胞はガンになる前に、寿命を終えているからです。
 

そして身体も、その小腸の栄養吸収システムを維持するために、膨大な予算を計上していて、基礎代謝の約半分は、この消化吸収と、小腸細胞の入れ替えに費やされています。

そうでもしないと、小腸内で栄養を腸内細菌に食べつくされて、母体の方が栄養失調になるからです。

生物の体って、本当に良くできている、否、「良く出来過ぎている」ということの実例です。

こんなこと、偶然にはできやしませんよ。
絶対に。
 
しかも、この奇跡のような構造が、「当たり前である」ということです。
「当たり前である」から、あんまりありがたくないかも知れませんけれども、この「当たり前」という前提が崩れたら、「誰も生きてはいけない」という厳粛な事実だけは享受していただかなければなりません。
 
生き物は、神様がお創りになったんです。
そうに違いありません。 
私はそう思います。
 
進化論信奉者の方、どうか反論してみてくださいませ。
 
本日は、経典『愛の原点』(幸福の科学出版)より、「当たり前のできごとや環境って、ありがたいことなんだなぁ。」と思えた部分の抜粋をお届けいたします。
 
           (ばく)

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「取り越し苦労をやめよう」 幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋

映画「さらば青春、されど青春。」メイキング映像

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=145

人間の血や肉となる、こうした食物の事実そのものに着目してみたいと思います。

なぜりんごはおいしいのですか。なぜトマトはおいしいのですか。なぜキャベツはおいしいのでしょうか。

なぜ魚の身がおいしいのでしょうか。なぜ牛や豚が食用に通しているのでしょうか。

エネルギーを得るということだけが目的であるならば、彼らはおいしいということを前提としていなくてもよいはずです。活動のエネルギーになるというだけであるならば、そうしたことは、なくともよいはずです。

しかし、人間の食用に供される彼らは、おいしさというものをまとって現れてくるのです。ここにもまた、一つの愛があると私は思うのです。

もし、感謝なき人間に食べられることを、トマトが嫌だと思うならば、彼らは食用に適さないような味を伴って出てくることも可能なはずです。

もし、牛や豚が、人間の食用に供されることを永遠に拒否しつづけるとするならば、彼らの肉そのものが人間の舌に合わないようなものになることは可能なはずです。しかし、事実はそうなっていないのです。

彼らも、生命を断たれるときには、それなりの悲しみはあるでしょう。

しかしながら、彼らは、人間の食用に供されるという、その運命を抱きしめつつ生きているということ、そして、そのなかには、単に運命を抱きしめつつ生きているだけではなく、みずからの身を喜んで差し出しているものもあるということ、こうした事実にみなさんは気がつかなければならないのです。

やはり、愛とは、自分のためではなく、他のものに尽くしたいという思いなのです。

植物や動物にも、そうした思いはあるのです。彼らもまた愛のエネルギーなのです。

このようなことを考えたときに、みなさんは、みずからのあり方というものを反省せざるをえないはずです。振り返らざるをえないはずです。

人間を取り巻く万象万物は、人間を生かし、はぐくむために、常にその場を提供し、常にその生命を提供し、常にそのエネルギーを提供しているのです。
『愛の原点』(幸福の科学出版)P50~53

 

映画「心に寄り添う。」

 


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