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宗教に対する偏見の中には、宗教を、前時代的なものと勘違いなさっている人も多いです。 恥ずかしながら、私も以前、若かりし頃はそうでした。
「今は、科学万能社会だぜ。」「宗教なんて、時代遅れだよ。」 言葉にすれば、こんな感じですかね。
ただこの中には、一定の割合で、神の存在を信じている人がいることも事実です。
つまり、ご自分の考える神の像を説明している宗教に、まだ出合っていないパターンです。
これは菩提心がある方、努力を重んずる方とも言えますね。
これはまた後日述べるとして、今日は、進んだ科学の時代=宗教不要論を破邪してみたいと思います。
さて、神の存在を、公的には認めていない現代日本社会ですが、それは、そういう人たちの精神構造として、経典等の中に、神を閉じ込めているところがあるからだと思うのです。
世の中には実は一定の割合で、2次元的な学び、つまり、文字からしか、情報を得ることができない人がいるんですね。
それは勉強のできる人に、とても多いのですけど、「文字、文章に書いていることのみが現実で、後はない。」という、とても短絡的な思考形態を持つ人がいるんです。
となると、そういう方にとっては、神のことを書いてある情報ツールとすれば、聖書や仏典など、2000年前の情報しかありませんので、それだけで、神仏そのものを判定してしまうことってないでしょうか。
つまり、「神の情報ツールより、最新の科学的な情報の方が、進んでいる=宗教は時代遅れである。」という、思考形態ですね。
それまでならまだしも、「宗教は時代遅れである=神はいない。」となれば、それはお門違いと言うもので、むしろ、短絡的思考過ぎるレベルかも知れないです。
旧約聖書が3~2000年前、仏典が2500年前、新約聖書は2000年前、コーランは1500年前に書かれたものです。
しかも仏陀やイエスは、一冊の本も書いていません。
全て、釈尊やイエスが語ったことを、後々、直弟子たちが文章にしたものです。
つまり、当時の弟子や信者が、認識できるギリギリの範囲でしか、釈尊やイエスは、仏神を語ってはいないか、弟子が理解できるレベルで、経典は残っているわけです。
つまり、今我々が認識できる宗教の経典というのは、2千年以上前の、直弟子たちが認識できる釈尊やイエスの教えなのですね。
それを、たかだか200年とか、極々最近の、科学的思考が進んだ時代の見識で、どうのうこうの言う方が、実は無理があるわけなんです。
現代人は科学的思考を持ちましたし、現実に、宇宙の様相まで認識するに至りました。
これらは、仏陀釈尊やイエスの時代には、ありえなかったことだと思います。
「地球は宇宙の中の一惑星であり、我らが住む星にも、そして宇宙にも、始まりというものがあった」というのは、現代では当たり前の常識です。
そうであるならば、「多くの人が、この宇宙というものや、宇宙の中の地球を認識した現代において、もし仏陀やイエスが生まれていたならば、仏陀やイエスなどの覚者は、人々に一体何を言うだろうか?」ということに、思いをめぐらさないではならないのではないでしょうか。
そう、数千年前の経典VS現代知識では、科学が後出しジャンケンなので、比較そのものがアンフェア(不公平)なのです。
一般的な人々の認識できる世界が、せいぜい身の回りの国々程度の時代における宗教であるならば、大聖者と言われる方であっても、民族的色彩の宗教から始める以外の手立てはないでしょう。
それは、時代的制約、地域的制約、文明的制約というものでしょう。
大学教授と言えども、幼稚園児に微分積分や因数分解を、教えるわけにはいかなからですよね。
しかし、「宇宙に始まりがあり、そしていつか終わりがある。」ということを知っている現代人であるならば、当然話は違ってくるでしょうね。
つまり神とは、「大宇宙の心」という認識を持たないといけないと思うのです。 そこを踏まえない宗教議論など、的外れでしかないと思うのです。
神=大宇宙の心であるならば、宇宙の始まりから、終わりまでを統べる思想でなければなりません。
これを科学では、法則とか真理と読んでいるはずで、 全ての科学者は、この法則、または真理というものの探求者であるはずです。
さあ、もしも神=大宇宙の心ならば、「宗教=時代遅れ」ということがありえましょうか?
そう、今、現在ただ今、リアルタイムで、真っ只中の出来事のはずなんです。
そして人類は未来永劫知り続け、情報を取り続けなければならないはずなんですね。
一人一人の地上のでの寿命が、宇宙の終わりであるはずの、何百億年ということはあり得ないです。
せいぜい100年ほどが、人間の寿命です。 ならば、我々人間は、神の体の中で暮らしている存在なのです。

つまり、神の心=宗教を知る必要性は、時代がどう変わっても変わりようがないです。
神=大宇宙の心では済まないかも知れません。
それは、「宇宙の外の世界」を認識しえない、現代的知性の限界の中で生きる我々の、宗教認識の限界なわけですから。
要するに、何が言いたいかと申しますと、「神は時代遅れには、決してならない」ということです。
悠久の過去から永遠の未来まで、人は神の中で、神仏と共に生きる存在だからです。
そう、神の最新情報を伝えるべき宗教が出てしまえば、現代的常識と思われている、「宗教は時代遅れ」ということがなくなってしまうからです。
本日は、幸福の科学の大川隆法総裁経典『幸福の革命』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。
(ばく)
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【死ぬまでに知っておきたい①】「愛」の大切さ
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私が述べたいのは、要するに次のようなことです。
仏教の教えは、民主主義の理想となんら変わりません。 また、法治主義ともなんら変わるところはないのです。
仏教の教えには、極端な個人主義や個人礼賛もなければ、全体主義的な独裁もありません。
釈尊は自分自身について、
「法を見る者は、われを見る。われを見る者は、法を見る」と言っていました。 すなわち、
「教えこそ自分自身である。教えを離れての自分はない。あなたがたは私の肉体を私だと思ってはならない。 私の説く法が私なのである」
ということを明確に述べていたのです。
そこには、「この地上に降りたる一個の人間の頭脳によって、人びとを支配し、国家を支配しよう」などという考えは、みじんも見られません。
そこにあるのは、この宇宙を貫く普遍の法則を示さんとする熱意のみです。
釈尊は、「宇宙の理法を示した教法(きょうほう)こそ、わが生命である。その教えを知ったならば、われを見たのと同じである」と言っていたのです。
したがって、仏教的なる理想を真に知っていれば、その行動原理は、民主主義的で、かつ、法治国家になじむものでなければなりません。
それを打ち破り、踏みはずすものであるはずがないのです。 『幸福の革命』(幸福の科学出版)P168~170

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【幸福実現党CM】もし消費税が10%に増税されたら?逆に5%に減税したら?