SEKAI NO OWARI
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私は、幸福の科学の信仰者でございます。
私は無神論も、「神様なんていない。」という教義を持つ、堂々とした信仰だと思っています。
私は、共産主義(無神論)を唱えた、カール・マルクスの資本論も、「神は死んだ。」と言った、ニーチェの著作も読んではおりません。
ただ彼らは、「自身の論説の中心である無神論を、”確認”したわけではない。」
この真実は理解できます。
なぜなら、神がいらっしゃらないということを、確認する術はないからです。
同様に、「あの世なんてなかったよ。」と、あの世に行って(笑)、確認した人もいないのです。
さて、現代の世界において、次々と人権蹂躙な実態が明らかになっているのが北朝鮮と中華人民共和国。
この両国の共通点と言えば、「共産主義国である」ということです。
共産主義と言えば、経済思想であると同時に、「無神論」という宗教思想でもあります。
思想面において、信教の自由社会であるはずの日本も、思想的に優位なのは「無神論」のようですし、本質的な面においての、そして、現代日本の底辺に流れる、基本思想としての無神論は、これは後代、そう、自分の子供の世代には、絶対に残すことの出来ない、日本の歴史の恥部であると、私は考えているのです。
ですから私は、この日本人の心の癌細胞である無神論を駆逐するまで、徹底的に戦います。
それが私の生きる道です。
大川隆法幸福の科学グループ総裁の教えならば、科学が進んだ社会に生まれ育った現代人や、もっと社会が進んでいるであろう未来の方々であっても、ごく自然に、神のご存在や、死後の世界を信じられると思っております。

さて、最近気付いたことなのですけど、「無神論者というのは、偶然という神を信奉する方々なのではないか?」と思えるようになりました。
様々な社会の歴史を見たり、文化文明論や政治思想を知れば知るほど、その根底にはやはり宗教があります。
これは歴史の現実ですので、たとえ無神論者の方と言えども、この世の現実そのものは、受け入れてもらう以外にはありません。
これらは、「神の理想、願いをこの地上に実現させる」という理念の下、発信され発展してきたものなのです。
であるならば、彼ら無神論者が信奉する、「偶然という名の神の願いを、地上に表した場合に、結果は一体どうなったのか?」を、検証しなければなりません。
無神論者が宗教を非難する場合に、良く使うものにものに戦争があります。
確かに戦争というの多くは、宗教が原因になって起こるものです。
歴史上の戦争は、ほぼ全てが宗教によってもたらされたと言って良いと思います。
これは現代でも、欧米社会とイスラム社会が、現に対立していますね。
では、その戦争で、実際に命を落とした人の数は、一体どれくらいなのでしょうか?
今に残る数千年の人類史から推測するに、およそ800万人と言われます。
めい一杯集めて、「1000万人行くか行かないか?」という人数です。
では、公に無神論を標榜する、共産主義国家において、国家に粛清された人の数は、一体どれほどなのでしょうか?
少なく見積もって、1億人です。
ソ連という短い歴史の国だけで、少なくとも3000万人。
カンボジアのポルポト政権下で、これも少なく見積もって200万人。
また中国では、毎年一体どれくらいの人たちが、政治犯として処刑されているか分かりません。
恐らく中華人民共和国という、たった70年ほどの短い歴史の国家の中でさえ、1億人以上の人々が、命を奪われているはずです。
また、共産主義国家において、公表されている数字は、正しいとは限りません。
政府の都合の悪い人は皆、闇から闇に処刑さていると見て良いです。
北朝鮮の人口が、ほぼ同じ面積を持つ韓国の、約半分しかいないのはなぜでしょうか?
想像すると・・・、それはそれは恐ろしすぎて、文字にできません。
とにもかくにも、無神論=偶然という神を信奉するということは、それは、戦争をするより恐ろしいことなのです。
つまり、無神論というのは、「人類史最悪の宗教」、否、「邪教」なのです。
そして神の子であったはずの人間を、目的のためなら手段を選ばぬ存在に貶め、自分が生き残るためなら、なんだってやる存在にしてしまうからです。
たとえ戦争状態であっても、神を信じるもの同士であれば、必ずどこかで、行動のブレーキのかかるものです。
なぜなら、良心の呵責を感じて、粛清を怯む人は、今度は国家(無神論政府)の、処罰の対象となるからです。
大川隆法幸福の科学グループ総裁
人類史の汚点、最大最悪の宗教=無神論。
これを駆逐し撲滅するために、科学的思考を理解し、開けた文明論を持ち、未来への指針ふんだんの幸福の科学は、もっともっと大きな影響力を持つべきだと思うのです。
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何を信ずるか。言うまでもありません。いちばん簡単なことです。
「この世を創られ、私たちを見守っておられる大宇宙の神がいらっしゃる」ということ、「私たち人間は、神が創られた子供である」ということ、この単純な事実から出発いたします。
しかし、考えてもみてください。
人間が偶然にできあがり、そして偶然にできあがるのみならず、ちょうどゼンマイ仕掛けの人形か何かのように、魂なく動いているだけの存在であるという考えを前提とするならば、そこに、どうして愛が生まれてくるでしょうか。
愛だけではありません。
もっと素晴らしい、人間的な多くの高貴な感情は、すべて魂の属性なのです。
美しきを見て感動する心、誠実さを見てよろこぶ心、素直さを見て尊いと思う心、そして自らの命をも厭わずに、神のために生きてゆく人たちを見たときのその感動は、唯物的なものの見方からは決して出てこないのです。
そうして、神が宇宙を創られ、人間たちを創られて、今もなお見ておられると信ずることが、私たちの生き方をどれほどまでに素晴らしいものへと変えてゆくでしょうか。
その神の目があるからこそ、大いなるものが見つづけていると考えるからこそ、熱いまなざしを送りつづけているという確かな手応えがあるからこそ、私たちは日々自らを律し、素晴らしき人間となってゆくために、自己改革に励むのではないでしょうか。
この事実を受け入れたところで、何ひとつ私たちが困ることはないのです。
その事実を受け入れて困る人間は、生きている間に、さんざん自分のやりたい放題のことをし、他の人びとに迷惑をかけている人びとだけであるはずです。
彼らは恐れるに足るでしょう。
死んで何もかもなくなると思えばこそ、そのような生き方ができるのでしょう。
もし、死んで後に生命があるとするならば、たいへんなことであります。
けれども、人間としての存在が是とされ、また他の人びとにも、「こういう人といっしょに生きていてよかった」と言われるような人であるならば、この「信仰」ということを当然のことと受けとめて、何ら恥じることはないはずです。
そして、それは素晴らしいことです。
今、自分がどのような姿として現われていたとしても、「本来神の子として創られた存在であるならば、無限の可能性があるのだ」「まだまだ自分は磨いてゆけば光ってゆくのだ」と思えるからこそ、個人としても素晴らしくなり、社会としても素晴らしくなってゆくのです。
これは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門です。
神を信ずる者にとっては、すべては輝きに満ちて見えます。世界は宝の山に見えます。
しかし、神を信じない者にとっては、ああ、世界はどのように見えることでしょうか。
その、たったひとつの心境の違いだけで、見える世界までが違ってくるのです。
同じく数十年の人生を生きるのであるならば、損得で考えても、素晴らしい人生を生きるほうをとってゆくことが得であり、人間として当然の義務であると、私は思うのです。
『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)P77~82
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