日産 マーチ スーパーターボ (EK10 1989-1991)
本日も幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越し下さり、本当にありがとうございます。
え~本日は、なかまのぶろぐ読者さんの間でも、賛否両論あるカテゴリー(笑)、「自動車から見える日本と世界」でございます。
しかししかし、これでも結構な安定的アクセスを稼いでおりまして、最近では、「ばくちゃん編集長が、自動車ネタから、どうやって布教に結びつけるかが楽しみじゃ。」と言ってくださる方も出て参りました。
そして昨今、中国発コロナウィルス感染禍で、「三密」つまり、「密閉・密集・密接をやめよう。」という動きもあり、「今最もお勧めの行動の一つは、ドライブや自転車でのサイクリング」ということかも知れませんし、またそのうち、「ここの記事から、幸福実現党を支持できるようになった。」と言ってくださる、自動車好きの方が出てくるかも知れないと、人知れず夢見ている代表編集長でございます。
さて本日のお題は、日産マーチ(初代 K10型)です。
初代マーチは、人気歌手のマッチこと近藤真彦さんがCMキャラクターを務めたことで「マッチのマーチ」として、また1982年の登場以来ほとんど形を変えずに、10年間製造された長寿車として知られる、ジョルジョット・ジウジアーロ氏が基本デザインした、ナイスデザインの実用小型車です。
この作品のスゴイところは、実用小型車とは到底思えない、超絶エンジンを搭載したことです。
詳しく言うと、スーパーチャージャーとターボチャージャーという、種類の違う過給器のついたエンジンを、世界で初めて搭載したことです。
過給器というのは、エンジンの中の、ガソリンが燃えてエネルギーを発生させるシリンダーの中に、強制的に空気を押し込む機械のことです。
エンジンパワーを多く発生させるためには、大まかに言えば、2つの方法論があります。
ひとつは、多くのガソリンを燃やすこと、そしてもう一つが、高いトルク(回す力)を、高回転で発生させることです。
多くのガソリンを燃やすと、強いトルクが発生します。また、トルク×回転数が出力(パワー)です。
出力は物理で言うところの「仕事量」ですから、エンジンパワーが大きければ、それだけ推進力、つまり前へ進む力が大きくなるわけですね。
そこで多くのガソリンを燃やすためには、排気量を増やすことが、最も確実で、最も簡単な方法となります。
排気量とは、裏を返せば、空気を吸い込む量です。
エンジンは吸い込んだ空気に、一定の比率、大体、空気14、ガソリン1の割合でガソリンを混ぜ込みますので、エンジンが吸い込む空気の量が多ければ、それに比例して、燃やすガソリンの量も多くなるわけです。
しかしここで問題なのは、排気量を大きくするには、エンジンの寸法も大きくならざるを得ないという、この世的な宿命があるわけですね。
排気量を大きくするには、大きなシリンダーやピストンを使用するか、もしくは、シリンダーの数を増やすかしか方法論がないからです。
となると必然的に、大きな排気量をエンジンを積むには、大きなエンジンルームが必要不可欠となります。
となると、小さな車体だと、高性能のエンジンの搭載はできないことになるのですね。
しかしここで、「じゃあ、エンジンのシリンダーに、強制的に空気を押し込めばいい。」という考えが出るわけです。
これが「過給器」です。
過給器があれば、事実上、排気量を大きくしたのと同じ効果が得られると同時に、小さなエンジンしか積めない小型車でも、気軽に、しかも確実に性能の向上が見込めるわけですね。
過給器の歴史は古く、第二次世界大戦の折りには、戦闘機のエンジンの大半は過給器付きでした。
というのも、空気の薄い高地を飛行する関係上、安定してエンジン内に空気を押し込むことが、安定かつ高性能を維持するのに役立ったからです。
戦後、航空機のエンジンが、ピストンエンジンからいわゆるジェットエンジンに移行して、そちらでは衰退したのですが、多くの人に普及してきた自動車に、過給器の技術が使われ始めたのですね。
さて過給器には2種類存在します。
ひとつは「スーパーチャージャー(S/C)」で、これはエンジンに空気を送り込むフィンを、エンジンの駆動力を使って回すモノです。
そしてもう一つが「ターボチャージャー(T/C)」で、これは排気側と吸気側に連結したタービンがあって、エンジンが排出する排気ガスを利用して片側のタービンを回し、その力で、吸気側のタービンを回して、吸気ガスをエンジンに押し込むモノです。
この2つの過給器には、それぞれ違った特性があります。
スーパーチャージャーは、エンジンの回転によって直接過給器を駆動するので、アクセルを踏み込むと同時に、高い加給が可能です。
しかし原理上、どうしてもエンジンの出力が過給器に食われてしまいますし、当然ながら、高回転ほど摩擦で奪われるエネルギーも増える関係上、出力ロスが大きくなります。
つまり、エンジンの出力向上効果は薄いのですが、アクセルレスポンス(反応)が良く、市中で扱いやすく力強いのが、スーパーチャージャー搭載エンジンです。
一方ターボチャージャーは、排気ガスを過給器の駆動力として使う関係で、どうしてもエンジンに空気を押し込む際に、時間差が出てしまいます。
タービンが回るためには、十分な排気ガスが必要だからです。
このアクセルと実際に出力が出るまでの間を、通称「ターボラグ」と呼びます。
これまで世界中の自動車メーカーが工夫を凝らして、現在ではターボラグは、かなり小さくなりましたが、日本初のターボエンジンを積んだ日産スカイライン(通称ジャパン)では、「ターボが効き始めるのに、信号ひとつ分の距離が必要だった。」とも言われますので、その噂が本当なら、ターボエンジン搭載車は、当初はかなり危険な乗物だったことがうかがい知れます。
例えば、滑る路面などで、コーナーリング中に突然出力UPなどされたら、車体がどこに行くかが予想不可能となりますよね。
しかしターボチャージャーは、本来なら捨て去る排気ガスを利用しての過給器ですから、エネルギー効率が良く、高回転でも出力ロスがほとんどないので、「高回転で高トルク」となります。
つまり、エンジンの出力向上効果が高いのは、圧倒的にターボチャージャーの方なんです。
つまり、スーパーチャージャーとターボチャージャーは、同じく「過給器」であっても、全く正反対の性格、特性、そして得意分野を持った代物なのですね。
そこで当然ながら、「だったら、スーパーチャージャーとターボチャージャー、2つを搭載すれば良い。」「さすれば、低回転域をスーパーチャージャー、高回転域をターボチャージャーで過給することで、全域での高トルクを狙った、超絶スペシャルエンジンになる。」という理屈が発生するんですよね。
とても原理主義的というか、理想主義的な発想ですが、これを世界で初めてやったのが、日産のマーチ(初代)だったわけです。
事実、マーチのスーパー&ターボエンジン「MA09ERT型」は、超扱いやすい超高性能エンジンでした。
また89年に同じエンジンを積んだマーチRが、WRCアクロポリス・ラリーでデビューウイン(クラス優勝)するなど華々しい活躍もありました。
ノーマルの987ccより小さな930ccで、最高出力110馬力/6,400rpm・最大トルク13.3kgm/4,800rpmですから、これは大体、当時の1600㏄エンジンの性能に匹敵しますし、この性能を低回転が苦手なターボチャージャーだけで実現しようと思えば、街中では使い物にならない代物となったはずです。
このエンジンの出力を、1リッター当たりに換算すれば118馬力となり、当時の市販車としては特出したものですが、普通に考えれば、「そりゃそうだ。」となるスーパー&ターボチャージャーエンジン、実用燃費も12~16㎞/Lですから、性能を考えれば、そうとう優秀です。
小さな車体なので車重が700㎏台と軽量なのと、低回転で力があるので、エンジンを不必要に回す必要がなかったからだろうと思われます。
良いことずくめのように見えるスーパー&ターボのダブルチャージャーエンジンですが、実は、世界の自動車の歴史上、この「マッチのマーチ」まで、この形式をやった実例はなかったし、その後も、21世紀に入って、ドイツのフォルクスワーゲンとスウェーデンのボルボがやった、たった3例しか、スーパー&ターボチャージャーエンジンは存在しないんですね。
しかも、日産もフォルクスワーゲンもボルボも、単一車種に搭載した後、後継機を制作していません。
なぜか。
それは、エンジンの吸排気系が、とんでもなく複雑になるからです。
スーパーチャージャー、ターボチャージャー単独であっても、ノーマルエンジンより、吸排気系は遥かに複雑になります。
それが2倍ですから、とんでもなく複雑なんです。
しかも、出力ロスの大きいスーパーチャージャーには、大規模な出力向上効果は、それほど期待できませんので、生産の手間やコストの割には、性能向上にはならないのですね。
事実、マーチスーパーターボのエンジンルームの画像を見ると、スーパーチャージャーとターボチャージャー、そして吸気を冷やすインタークーラーなどが、もともと狭いマーチのエンジンルームを占領してしまって、「これでもか!」というくらいギチギチです。
このエンジンを積んだマーチスーパーターボには、この頃当たり前になっていたパワーステアリングが搭載されていません。
これはどうやら、各種補助機をギチギチに搭載したことで、パワーステアリングの機械を搭載するスペースがなくなってしまったようです。
超絶高性能車でありながら、出で立ちはマッチのマーチですから、このマーチスーパーターボ、可愛いスタイルなのに、超絶重ステだったらしいですね。
ただモデルとなったマーチは、この8年前に登場していますから、もともとスーパー&ターボチャージャーによるチューニングの予定があったとは思えません。
私はこの機構を、小さなマーチのエンジンルームに押し込んだ、当時の日産の理想主義と技術者魂に、ただただ敬服するのみでございます。
さて、そういった技術的背景があり、それほど普及したとは言えないスーパー&ターボチャージャーエンジンですが、その後の自動車産業に、大きな影響を与えたのは間違いありません。
それは、「エンジン出力の、理想の姿を提示した」からです。
無駄に大きくなく、低回転で力があり、高回転でも十分な性能が発揮できて、なおかつ、低燃費だという実例です。
自動車の歴史を時系列的に見る限り、このマーチスーパーターボの存在が、その後の世界のダウンサイジングターボの流れの始まりになっているのは間違いありません。
マーチスーパーターボ以降、「高コストのスーパー&ターボチャージャーのダブル過給のエンジン特性を、なんとか、比較的安価で簡単な、ターボチャージャー単独搭載で成し遂げよう。」という努力を、世界の各メーカーが続けていると私は見ています。
さてここからが毎度の布教なのですが(爆笑)、幸福の科学グループは、宗教法人を本体に、出版から映画作成から教育、そして政治や海外事業まで、広い分野にまで活動を展開しておりますが、これはそれぞれの分野で、「理想的な雛型」をつくっているんですね。
これは大川隆法幸福の科学グループ総裁の仕事に仕方なのですが、宗教を始めとするそれぞれの分野で、理想的な形式をつくり、それを広げ、後世に伝えていくという、いわば、新しい文明の源流をつくっているわけです。
5月には、映画「心霊喫茶『エクストラ』の秘密ーTh Real Exorcist-」も始まります。
これらの活動は、「エル・カンターレ」という名の地球神の存在を明らかにしつつ、人生と霊界の関係学を明らかにするものです。
今幸福の科学グループは、新時代の価値観、つまり「誰もが神を信じ、人生の目的と使命を意識しつつ生きる」という基本思想と共に、新たな文明の源流を創造している真っ最中なのです。
本日は経典『心の挑戦』(大川隆法著 幸福の科学出版)より、一部抜粋をご紹介いたします。
(ばく)
千眼美子(清水富美加)がエクソシストの力を発揮/映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密−The Real Exorcist−』本編映像
NISSAN MARCH SUPER TURBO 日産 マーチ スーパー ターボ ・非売品・教育用ビデオ
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=176
神は人間を創った造物主であって、人間は被造物、創られたものである。粘土をこねて創られたものである。あるいは、塵を集め、かき混ぜて創られたものである。あるいは、肋骨の一部をとって、そして生命の息を吹き込んで創られたものである。こういう思想がキリスト教系統にはあります。
「創ったもの」と「創られたもの」というのがはっきりしておりますと、もはや「創られたもの」は「創ったもの」になることはできないのです。「創ったもの」のようになろうとして、エデンの園で禁断の木の実に手を出して、楽園から追放されたという神話まで遺っているぐらいです。
ここには、神と人間とは明らかに違うものなのだ、という一線が画されていて、その一線を人間が超えようとしたときには、神は怒り給うものだ──こういう思想であるわけです。
もちろん、幸福の科学で説かれている多次元構造論を見ればわかるように、神と人間が違うというのは、ある面ではその通りです。住んでいる次元が違いますから一緒ではありません。
しかしまた、同じものをも含んでいる。同じものをも含んでいるけれども、その進化の程度が違う、あるいは光の出し方の程度が違う、そういう考え方を当会はとっているわけです。
誰もがダイヤモンドの原石を有してはいるが、その磨き方が違う、光の出方が違う、その光の出方によって等級が分かれているのだ、ということです。ダイヤモンドの等級が分かれるように、人間でも、その魂の磨き方によって、四次元的魂、五次元的魂、六次元的魂、七次元的魂、八次元的魂、九次元的魂というように、あの世での階層が違うわけです。
また、あの世の階層は、この世での魂の悟りのレベルとも、まったく一致しています。この世でそれだけの輝きを出している人は、あの世に還れば、その世界に還ります。この世的に七次元の悟りを持っている人は、あの世に還れば七次元世界に還り、この世的に五次元の悟りを得ている人は、あの世に還れば五次元の世界に還ります。このように、この世での魂の磨きと、あの世で行くべきところとが、まったく対応しているというのが、仏教的な思想であるわけです。
こうしてみると、人間そのものへの見方として、こういうことが言えます。
人間というのは、もともと進化の可能性を持っていて、可能性においては平等である。ただし、永年の転生輪廻において、ずいぶんと魂に違いが出てきた。公平に結果を判定していく過程において、魂には、進化したものと、そうでないものとが現われてきた。しかし、その進化の可能性自体は、いつの時代にも残っている。現在も残っている。そしてその可能性は、新たな触媒、すなわち法という触媒によって磨き出されるときに、一躍悟りを高めるチャンスがそこに現われてくる。
そういうことが、私が考えている修行論の中心であるわけです。
『心の挑戦』(大川隆法著 幸福の科学出版)P22~26
https://cafe-extra.jp/
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