直也はボクシングトーナメント試合で言葉では表せない何か見つけていた。次は3回戦目、しかし直也には緊張感は殆どなくなり分析力と集中力で深呼吸を繰り返しながら息を荒くしていた。直也の頭の中にあるのは、もう優勝しか考える事はなかった。それが直也の緊張の元になるが、しかし、この緊張感はマイナス思考ではなくプラス思考が体に働きながら直也を変えていく。由子は直也が久美子や春樹や真一との別れから怒りと悲しみを抱き囚われた思いから逃れたいと思っている事も知っている。由子は、そっと直也の傍に寄り添い水とタオルを渡した。そんな由子の顔を見て直也は頭をかきながら笑う。由子も直也と同じように笑うと、まるで恋人同士のようだった。直也の通うジムの会長やコーチ、他に通う訓練生達は、きっと周囲から見えば2人を見ていた人達は彼氏と彼女と恋人同士と思っていたに違いない。
近くで見ていた観客の中で由子に声をかけてくる人達がいたが、
「話しかけないでください!」と由子は何故か涙目で言葉を返した。
「お前、そんな事言うな」と由子は直也に言われる。
「ごめんなさい、でもね、直也の為に言ったの」と由子は答えた。
「どうして?」と直也は静かな声で聞いた。
「優勝するんでしょ、邪魔な事は、私が許さない」
由子は直也の本当の思いを感じていたのかもしれない。直也は保育園入園してから幼き頃からの友として由子の思いや気持ちは知っていた。
「まるで、お前は久美子みたいだな」と直也は由子を見ず下向き加減で小さな声で呟く。
「えっ?今なんて言った?」と由子は直也に聞いた。
「なんでもないよ、お前は馬鹿だ、昔から大馬鹿だよ」と直也は自分の裏顔の気持ちで答える。
「馬鹿でけっこう、直也の為になるなら、どんな事でもするから」と直也に言う由子は強気だった。
2人の関係は由子の片思いかもしれないが直也の心は由子の思いに揺れ動いていた。直也自身の心が動くとは思う事はなかった直也は言葉では言い表せない思いからリング上のボクシングに目を向ける。
3回戦目となると更に強い優勝をした事のある選手との戦いだった。
「強いなーそれでも俺は勝つしかないんだよな由子!」直也は由子に声をかける。
「絶対に勝ってよね、直也がどんな人間なのか思い知らせてよね」
由子は、まるで自分がボクシングをしている気持ちで直也に答えていた。いよいよ直也の3回戦目準決勝が始まろうとしていた。直也は軽く体を動かしリング上の勝者を見つめている。まだ勝者が決まっていないというのに直也は勝者を決めていた。
「前回優勝者はアイツだ、この3回戦、絶対に勝つ!」
直也は前回優勝者が勝つと言葉にはせず自分に渇をいれてプラス思考になる新たな思いを胸の内で叫んでいた。3回戦目の前回優勝者は3ラウンドまで行われ判定によって勝者になった。
「アイツはかなり体力を消耗しているはずだ」
いよいよ直也の3回戦目だ。この試合を勝ち抜けば、あとは前回優勝者との戦いになる。直也は前回優勝者との戦いばかりを考えるようになっていた。優勝は目の前だ、直也には心の高鳴りによって再び緊張感がうまれていたが、その半面には賢い冷静さがあった。直也は過去の事は成長していく過程の過去として考えられ緊張感と冷静さのバランスを整えていたのだろう。
「さてと、どうするか?アイツには隙がなさすぎる、どうする俺」直也の頭をよぎる。緊張感の中で直也は3回戦目で戦うに当たり最善の策というものは無くなっていた。ただ前回優勝者は体力の消耗が激しく椅子に座る姿を見て、直也は、この3回戦は体力を消耗させないようにと自身で考えていた。その姿をコーチは気づいていたのか?わからないが。
「直也、やれるだけやればいいからな、きっとお前なら勝てるよ、この3回戦もな」
このコーチの一行の言葉で、ふと直也から不思議と緊張感が消える。それは直也が素の状態で素直になり目的や動機を持つ事が出来たからかもしれない。会長から言われた言葉で重要なのは1試合ずつ全身全霊で向かい合い試合に勝って行く事だった。直也は会長から常に言われていた言葉をトーナメント試合で忘れていた。自分自身の状態がどういうものであるのか緊張感と冷静さのバランスが取れている事に気づくと1回だけ深い深呼吸をする。直也は体育館の天井を見てスパーリング中のヤスシのアッパー1本で気を失った事を思い出していた。
前回優勝者の3回戦目リング上では前回優勝者の手が上げられた時、3回戦目の相手の姿を見つめていると相手も直也を見つめていた。3回戦目の相手は、まるで闘争心というか何かオーラというものを直也は感じていた。直也にはない何かを持っているかのような選手だった。3回戦目の相手選手は身長差はほとんどなくパンチ力のある選手だった。リング下に試合を終えた選手と交代で、直也は静かに観客達を見回しながらリングに上がっていく。「直也!直也!直也!」「大島!直也!大島!直也!」直也の声援が多くなっている由子の大声援の声も聞こえないくらいになる。リングコーナーではプロテスト前のヤスシとコーチは直也に声をかける事はない。会長は腕を組み、ただ直也の顔を見つめているだけだった。直也にアドバイスをするトレーナー役は、この時は誰もいない直也自身に任せる事にした。由子の大声援の声も聞こえないくらいになると由子は今度はタオルを振り回し始める。
そして「カーン!」3回戦目1ラウンドのゴングが鳴った。
相手選手のフットワークの速さは直也とほぼ同じ今までの選手の眼つきとは違った。直也は、とにかく勝つ事、自分を信じて相手の動きにあわせていくが直也のフットワークよりも速くなっていく。
「なんだ!コイツ、コイツ強いぞ、それに素速い」
直也は相手の選手から距離を測りながら心の中で思っていた。
「どうするか、どうする、俺、大島直也!」
直也は、そう焦る事はなく冷静さを保ちながら身体を揺さぶっていく。直也は相手の隙を伺いながら相手よりも先にジャブ!が入った!これならいけると直也は、身体で感じるものがあった。見た目ばかりを見ていた直也は軽いジャブが入る事に相手の懐へ入るとジャブ!そしてすぐに後ろに下がる。この繰り返しが1ラウンド続けら、相手は嫌な顔を見せたが直也はこのラウンドで鋭い集中力で体力を消耗していた。チャンスがきた!と思った時だった。
「カーン!」3回戦目、1ラウンドの終了のゴングが鳴った。
チャンスを逃してしまった直也は息を荒くしていた。手ごたえを感じた直也はコーナーの椅子に座ると相手を見ながら笑っているが体力の消耗に気づく事はなかった。「勝てる」とそればかり直也は考えていた。会長やコーチが教えていない事を、この試合で直也は自分自身で学んでいた。同じジムに通う訓練生達は直也の戦いに首を振りながら信じられないと思っていた事だろう。これが直也の持つ強さでもあり弱さでもあったのだ。見た目は強く感じるが落胆した時、直也のもろい刃の様な心は立ち直る事に時間がかかる。人間はある程度に強さと弱さを持っているが直也の場合は完璧さを求める為に、ある程度では済ます事ができないのだ。やり遂げる為には、どんな事を考え、どういう行動を起こせばいいのか。直也は自然と身についている産まれつきの素質の1つだった。
しかし会長とコーチだけは、その素質は強いものでもあり直也自身を壊してしまう事もある素質でもある事に気づいていた。プライドを持つ事は良いが、そのプライドの使い方によっては人を傷つけ自分をも傷つけてしまう事もある。直也にはプライドだけではなく他の何かが必要だった。直也が持つプライドをコントロールできるのだろうか?直也優先に動いているが、この3回戦は厳しい戦いになると会長やコーチは思っていた。直也に声をかけようか迷う会長やコーチだった。しかしプロテスト前のヤスシはリングサイドで直也に耳打ちしていた。何を伝えているのか、それは直也とヤスシにしかわからない。何を伝えたのか、それは2ラウンドの結果に出てくる。
「直也!思い通りにやってこい!」
「はい、先輩!」
ジムでは敬遠の中であったヤスシは直也の何かに気づいたようで直也と顔を合わせ笑っていた。
「カーン!」
2ラウンド目のゴングが鳴ると直也がとった行動はヤスシに言われた通り相手にパンチを出来る限り打たせるという行動だった。あえて隙を見せガードを深くガードによってパンチ力を見ると同時に相手のボクサーとしての癖を見つけていく。まさかここまでとは最善の策だった。中学生では恐怖を感じるところだが直也は相手のパンチをグローブと腕でガードをする中で相手を見つめながら笑っていた。
「来い!来い!来い!来い!来い!」直也の心の中での声があった。