わたしはこの話をみなさまに伝えようか、この二年間黙っていたようにこのまま黙っていようか・・・
何度も迷い、正直今でも迷っています。
このブログは、Rose Partyというお店がメインのブログだし、わたしの個人的なことをずらずらと書くことには躊躇してしまいます。
だけど、わたしには、彼の闘病を通して、どうしても伝えたいことがあるんです。
それは、悲しみとかさみしさとかそんなものでは決してなく、あるとってもとっても大事な事柄で、
それは、わたしたちにも決して他人事ではない、重大なことなんです。
だから、書くことを決めました。
それを書くには、いろいろなことを書かなければいけないと思いますし、
一度や二度書いただけですべてを伝えられるとは到底思えません。
なので、ときどき、少しずつ書かせていただけたらなあ・・・と思っています。
初めに・・・世界中でわたしが一番愛した人、世界中でわたしを一番愛してくれた人が旅立ちました。
それなのに、いま、わたしはとても満たされた気持ちでいます。
なぜこんなにも満たされた気持ちでいるのか、さみしいけれど、悲しいけれど、会いたくてたまらないけれど、それでもなお、なぜ心の深い部分はこんなにも満たされているのだろう・・・
今回は、そのことについて書かせていただこうと思います。
興味のない方は遠慮なく飛ばしてくださいね。
2007年10月22日月曜日、午後5時15分、わたしのダーは旅立ちました。
直接の死因は、一昨年の2005年12月に発覚した横行結腸ガンです。
その日からこれまで、わたしたちは二人で、二年間の「病気との共存」を生きてきました。
この二年間は、言葉にはならないくらいの、きっとわたしの生涯の中で最も中身の濃い二年間になったと思います。
死の5日前くらいから、容態が毎日悪くなっていきました。
ガンの本当の終末期では、容態は週ごとに悪くなり、日ごとに悪くなり、ついには時間ごとに悪くなると聞いていましたが、
まったくその通りの経過を辿りました。
抗がん剤治療を中止せざるをえなくなり一ヶ月が経った9月の中旬ごろ、突然歩けなくなりましたが、その後も相変わらず痛みはなく、経口摂取も可能で、
必要以上に気力もあり、終末期に入ったことをダー自身もそしてわたしも自覚していたとはいえ、
絶対に奇跡は起こる、また歩けるようになる、仕事ができるようになる、と信じていました。
容態が突然・・・まるで階段を何段も一気に落ちたようにガタン、と悪くなった死の5日前、その日は奇しくも新薬投与の前日の事でした。
ダー本人が「明日の投与は中止したい」と言ったとき、わたしは病室を出て、ひとり泣きました。
あんなに期待していた新薬。ここまで進行した状態で効く可能性はほとんどない、と言われながらも何とか主治医を説得して勝ち得た投与。
それなのに・・・その前日にこんなことになってしまうなんて・・・
わたしはただ虚しくて悲しくて情けなくて・・・でも、今となっては、そんな気持ちは一切ありません。
最期の5日間は、わたしにとって、素晴らしい5日間になったからです。
突然の体調悪化に、ダーは不安になっていました。
彼は本当に精神力のある人で、二年間の抗がん剤治療でも一度も弱音を吐かず、
わたしが治療のことで悩み苦しんでいたときにも、ニコニコと笑いながら逆にわたしを励まし、わたしがダーの死に怯え、パニックを起こすときなども、
「僕はガンと闘っているんじゃない。自分自身と闘っているんだ。だからマキにも自分自身と闘ってもらわなきゃならないんだよ」と言い、
「ごめんね、マキ。でもがんばってね」とわたしを抱きしめてくれていました。
ダーはRose Partyが大好きで、仕事をしているわたしの姿が大好きで、
「仕事優先にしてよ。僕は大丈夫だから」といつも言ってくれていました。
わたしはこの二年間の事を、なおみさんをのぞいて、お客様はもとより、仕事関係の人たちには一切話していませんでした。
それは、ダーの希望でもありました。「キレイなものを扱っているんだから病気のことなんて言わないほうがいいよ。それに僕は元気なガン患者なんだから」と。
親戚たちにさえ、彼は言うことを拒み続けました。
わたしはわたしで、二人だけで闘うと決めていたし、彼は本当に元気なガン患者で、最期の入院の前までは普通に仕事をし、とにかく元気で、到底ガン患者には見えなかったし、わたしの仕事に支障が出るような状態でもなかったので、彼の言うことに従いました。
自分たちの問題は自分たちで解決すべきだし、誰かに言ったところで、その誰かを苦しませるだけだし、
実際わたしたちは幸せなガン患者とその家族として毎日を過ごしていましたから、
誰かに頼らなければならないこともあまりなかったのです・・・。
もちろんわたしの親友は、わたしの心の支えでしたし、たくさんの人に助けられてきました。それでも、問題の本質は、二人で、または、それぞれ自分と闘いながら
クリアしてきました。それが普通だし、そうするべきだ、と思っていたからです。
話は逸れましたが、そんなふうにいつもわたしを気遣ってくれていたダーが、死の5日前から不安を前面に出すようになってきました。
「マキ、どうしてもっと早く来てくれないの?」
「僕はマキだけを待っているのに」
「一分でも早く来てよ」「帰るの? 帰らないで。もう少しいてよ」
自分の体なのに自分の自由にならない・・・その不安で彼はわたしを離したがらなくなっていました。
わたしは営業前と営業後に病院に行っていましたが、それでも彼には足りなかったのです。
当然です。自分が死を・・・ほんのそこまで近づいてきている死を感じているとき、一番愛している人がそばにいてくれなければどんなに不安でしょう。
だからできるだけそばにいて、足をマッサージし、手を握り、楽しい話をたくさんしました。
わがままになったダーを心からいとおしく想いましたし、こんなに求められている自分をうれしくさえ感じました。
しばらくすると、彼はわがままは言わなくなり、わたしに「ありがとう」ばかり言うようになりました。
「ありがとう、マキ。何度言っても足りない。本当にありがとう。みなさん本当にありがとう」
主治医に何度も呼ばれ、死が近づいてきていることを告げられましたが、わたしは信じませんでした。
わたしはもう・・・ある意味かなり強くなっていたのです。
この二年間のあらゆることで鍛え上げられ、ちょっとやそっとのことでは動揺しない、そんな自分が出来上がっていました。
もちろんそれでも不安はたくさんあったし、恐怖で眠れない夜も過ごしました。
だけど、この怒涛の二年間は、いい意味でも悪い意味でもわたしに強靭な精神を養わせてくれました。
だからわたしは主治医の言葉にそれほど動揺はしていませんでした。それでなくとも、入院してからずーっと言われてきたことですから・・・。
しかし容態は日ごとに悪くなっていきます。夜帰って翌朝いくと、また何かが変わっているんです。
ガンは最期の最期に牙を剥く。その言葉は真実でした。ガンの成長は倍々ゲームだということを知っている方なら、この凄まじい牙の剥き方をわかっていただけると思います。
それでもわたしは信じていました。これまで長期間に渡って抗がん剤でおとなしくさせていたガンも、いまはやりたい放題やっている。
それでも、だからと言って、奇跡が起こらないとは誰にも言えないはずだから。
しかし、彼は知っていたはずです。自分の死を予感していたはずです。それでも「また元気になるね」と言ってくれていました。
死の2日前。親しくしていた人が家族総出で遠くから会いにきてくれました。
吐血が始まっていましたが、意識はしっかりあり、痛みもまったくなく、多少傾眠気味にはなっていましたが、たくさん話もできました。
殺風景な病室が、会いに来てくださった人たちの心からの愛と、彼のたくさんの笑顔と言葉であふれ、素晴らしい一日となりました。
その日、二人だけになったとき・・・わたしたちは神様の話をしました。
わたしは神を感じていました。彼はクリスチャンですが、わたしは洗礼を受けたにも関わらずそれほど信仰心は強くもなく、聖書の中身もほとんど覚えていません。
そんなわたしが、この数日間、ずーっと神を感じていました。
わたしは神様に見放されたのかな、と思っていました。だけど、そうではなかった、やっぱり守られていた、そのことを強く感じていました。
第一に、彼は臨終の間際にいても、意識はクリアで、これだけガンが体を蝕んでいるというのにガン性の疼痛がこれまでにも一度も起こらないし(ガン患者の大半はガン性の疼痛で苦しみます。しかし現在の痛み止めケアは万全ですので痛みを完全に失くす事が可能です。ダーはガン性疼痛自体がありませんでした)、何より笑顔が消えません。肝機能の低下は激しい倦怠感をもたらすので、辛かったとは思いますが、ずっと笑ってくれているんです。
第二に、優ちゃんがわたしといっしょにダーを看取りたい、と言ってくれました。最期の最期の一番辛い時期を、わたしは一人ではなく優ちゃんという強い存在によって支えられることになったのです。そんなことになるとは正直夢にも思いませんでした。
「あたし、初めてこんなに身近に神を感じることができて感謝してるんよ」
わたしが言うと、ダーは満面の笑みで
「よかったあ・・・」と言いました。
そしてわたしの手を握り「ありがとう、マキ。僕は幸せだ。僕のマキ。マキがいればそれでよかった。僕は幸せだ」
わたしは彼の前で涙を出さない事を自分自身に約束していたのに、とうとう号泣してしまいました。
ガンがわかってからの二年の間も、わたしは、やさしくないときもたくさんあった。治療の事で大ゲンカをしたこともある。忙しくてちゃんと話を聞いてあげないときもあった。食べたくない、と言うダーに、「体重減少は寿命減少(これは真実ですが)だよ!」と無理やり食べさせてことも何度もあった。
わたしは自分の無力さに慄いていたから、それをダーにぶつけていたのです。
それなのに。こんなわたしなのに・・・。
なんてやさしくてなんて強い人なのだろう。わたしが選んだ人はやっぱり間違っていなかった。わたしたちは歳がかなり離れていたし、お互いのいろいろなこともあって、周りにうるさく言われたこともあった。
だけど、そんなこと今ではもうどうでもいい。わたしはダーを愛していたし、ダーはわたしを愛していたし、その他に何が必要だったのだろう。
わたしは、死のほんの近くまできてしまった愛する人を見ながら、悲しみより幸せを感じたんです。
そして、愛する人の命の炎が消えかかっているその瞬間でさえも「幸せを感じられた」ことこそ、神がわたしたちを守ってくれている証だと思ったのです。
宗教でも何でもない。キリスト教だか何教だか知らない。実際は神様か何かもわからない。とにかく、何か本当に偉大な力、偉大な愛に包まれていることを感じたのです。
翌日、早朝に、血圧が低くなったのですぐにきてほしい、と病院から連絡があり、
優ちゃんと駆けつけました。
意識はありましたが、また・・・昨日より何かが悪くなっているのを感じました。
血圧の低下は、死が近づいてきたことを知らせる大きな指標になります。
わたしは何人かの人に連絡をし、ずっとわたしたちを助けてくれていた奄美大島にいるダーの親友にも連絡をしました。
親友は、すぐに飛行機を手配し、午後4時ごろ病院に入り、ダーと手を取り合い、最期のお別れをしてくれました。
それにしても眠ってばかりいるようで、何だか怖くなり、呼びかけましたら目を開けて「マキ・・」と呼んでくれました。
「わかるんやね?」と言うと「わかってるよー。うるさいなあ・・・」なんて笑ってくれました。
声をかけると応えますし、酸素も十分に入っているようでしたので、
わたしは泊り込みのためのタオルケットをとりに一旦家に帰ることを他の二人に告げ、立ち上がったその瞬間、
酸素が90を切りました。
わたしは帰るのをやめました。いま思うと、わたしがもし30分でも外出したらわたしはダーの最期を看取る事ができませんでした。
彼にはわたしの言ったことが聞こえたのです。わたしを帰さないようにしたのです。
そしてその日は定休日の月曜日でした。ある人が「先生は絶対に月曜日に亡くなると思っていた。マキちゃんの定休日だから」と言っていましたが、その通りでした。
その後すぐ、眼球に変化があったので、大声で呼びかけましたら、言葉にならない声でしたが目を開けて「なに?」と言いました。そのときでさえ、完全に意識がありました。
心停止したのはその直後でした。呼吸が消えたことすらわからないほどに静かでゆったりとして、何一つとして目に見えて大きな変化のない最期でした。
結局、ダーは最期まで意識があり、身の置き所のない臨終の苦しみも(苦しみを感じている様子はさほどありませんでしたが臨終には、体の中で、生命をかけた最期の闘いがあります)
痛み止めなど一切使わず自力で乗り越え、わたしでさえ信じられないほど静かで安らかな死を迎えました。
そして、笑顔でした・・・。本当に本当に笑っているんです。彼は笑いながら、みんなに感謝しながら、ありがとう、ありがとう、僕は幸せだった、って言いながら旅立ったのです。
入り代わり立ち代りさよならを告げにきてくれた人がみな「先生笑ってる。こんな笑顔で逝った人見たことない・・・」と言ってくれました。
奄美の親友は「この顔にすべてが表れている。幸せな死だった」と言ってくれました。
うれしかったのは・・・日常的に死と関わっていらっしゃる看護師長さんが泣いてくれた事です。
「一ヵ月半の入院中、たくさんお話してくれました。印象的な人でした。なんて安らかな笑顔なんでしょう・・・」
わたしは、彼の素晴らしい生き方が表れている死に方だった、と思っています。
彼の遺体は、彼の生前からの強い強い希望を叶えるべく、
大阪大学医学部に献体いたしました。
献体については、知らない方もたくさんいらっしゃると思いますが、未来の医師を育てるためにはなくてはならない存在です。
彼は、医学部講師時代に、献体に立会い、自分が死んだときも必ず献体しよう、と決心したそうです。
ダーは、大学卒業後、東大医学部医科学研究所、厚生省検疫課、T大学医学部講師、製薬会社での新薬開発、獣医師として開業と、ずっと医療に携わっており、
この二年間もまた、医療に助けられた二年間でした。
発覚した時点ですでに末期ガンであったにも関わらず、日本でトップクラスの抗がん剤治療を受けることができ、二年間もの延命「ただの延命ではない、元気な日を一日でも長く」を実践することができました。
日本の手術の技術は世界一です。しかし日本の抗がん剤治療は後進国並みです。
この事実にわたしたちは必死で立ち向かいました。
わたしたちの面倒を見てくれたのは、有名な大きな病院ではありません。
そこらへんにある市立病院です。
そんな病院でなぜ、最期まであきらめない抗がん剤治療を受けることができたのか・・・
それは、わたしたちが、後進国並の日本の抗がん剤治療に、自分たちなりに立ち向かってきたからです。
数千名の署名を集め、新薬の早期認可を厚生省と国民に訴えることもしました。
何より、主治医と、とことん話し合い、決して医者任せの治療は行いませんでした。医師をたてながらも自分たちの気持ちをはっきり伝え
「最期まであきらめない・元気な日を一日でも長くの抗がん剤治療」を行ってきました。
そして最期まで、自分たちの心に、「あきらめない」気持ちを日々蓄えつつ、前へ前へと進んでいきました。
わたしたちはガンには力及ばなかった。でも、ダーはいつも言っていました。
「僕はガンと闘っているんじゃない。自分自身と闘っているんだ」
ガンではなくても、病の治療には、体力以上に精神力が必要です。精神力がすべて、と言っても過言ではないかもしれません。
ダーは自分自身には決して負けませんでした。
彼は最期の最期まで自分を見失わず、毅然とし、人への感謝の想いにあふれ、人生への感謝の想いにあふれていました。
つまり、ダーの闘いは勝利だったのだ、とわたしは思っています。
弱い者(進行ガン患者)がますます弱い立場に追い込まれてしまう医療を改善するためには、わたしたちの意識改革が必要だと感じています(冒頭に書いたわたしが伝えたい重大なこと・・・それはこのことなんです)。
大したことは何にもできないわたしですが、今後も、わたしにできる範囲で、活動を続けていきたい・・・と思っています。
会いたくてさみしいとき・・・どこからともなく声が聴こえます。
「ここにいるんだから泣かなくてもいいよ。とにかく! 自分に負けるんじゃないよ!」
わたしは、たくさんの人に支えられ、励まされ、勇気付けられ、この二年間を過ごしましたが、
取り分けわたしを救ってくれていたのは、他ならぬRose Partyのお客様方です。
わたしはどんなに辛くても、仕事をしていると、元気になれました。
お客様からの暖かいメールを、お言葉をいただくと、心が安らかになりました。
この二年間、身をよじって泣くような回数が少なかったのは、仕事をしていたからです。
仕事はわたしの生きる希望、生きる勇気、わたしにとって必要なものをたくさんたくさん与えてくれました。
仕事が与えてくれた・・・つまり、みなさまが与えてくれたのです。
みなさまは直接的に、わたしたちの闘病生活に関わったわけではありません。
だけど間接的に、ずっとずっとわたしを支えてくださっていたのです。
本当に本当にありがとうございます。
こんなに長い文章を読んでくださり、本当にありがとうございました。
わたしは決してかわいそうではなく、何だかわたし・・・満たされています。
二年間、精一杯、愛する人と大きなことに立ち向かってこれたことに
心から満足しています。きっとこんな経験は・・・もうできないかもしれない。
何より・・・ダーの最期に、わたしは本当に救われました。最期の最期までダーはわたしを救ってくれたのです。
「マキ! お先に失礼! 泣くんじゃないよ!笑ってよ!」そう言っているような笑顔でした。
本当に感謝です。
みなさま・・・わたしへのお見舞いメールはけっこうですのでどうぞお気遣いなく(*^_^*)
わたしには、みなさまのやさしいお気持ちが伝わってきていますし、
それだけで十分なんです(*^_^*)
きっとこんな話を聞かされて何か言わなきゃ・・・と思ってくださる方も多いと思いますが、本当に大丈夫ですし、このブログを読んでくださったことだけで十分なのです。
個人的な話を・・・こんなにたくさん聞かせてしまってごめんなさい。
許してくださいね・・・。
わたしは大切な人をこの世では失いましたが、自分のこの世での人生をあきらめることなく、幸せになりたいと願っています。
とにかく今は、大好きな仕事をますますがんばっていきます。
ダーに叱られないように・・・。
みなさまの幸せ、そしてわたしの幸せ・・・ダーもすぐ近くで祈ってくれています(*^^)v
ダーが祈ると百人力ですよ(*^^)v
みなさま、読んでくださって本当にありがとうございました。
仕事はわたしの支えです。これからも精一杯がんばります。
末永くよろしくお願いいたします。
何度も迷い、正直今でも迷っています。
このブログは、Rose Partyというお店がメインのブログだし、わたしの個人的なことをずらずらと書くことには躊躇してしまいます。
だけど、わたしには、彼の闘病を通して、どうしても伝えたいことがあるんです。
それは、悲しみとかさみしさとかそんなものでは決してなく、あるとってもとっても大事な事柄で、
それは、わたしたちにも決して他人事ではない、重大なことなんです。
だから、書くことを決めました。
それを書くには、いろいろなことを書かなければいけないと思いますし、
一度や二度書いただけですべてを伝えられるとは到底思えません。
なので、ときどき、少しずつ書かせていただけたらなあ・・・と思っています。
初めに・・・世界中でわたしが一番愛した人、世界中でわたしを一番愛してくれた人が旅立ちました。
それなのに、いま、わたしはとても満たされた気持ちでいます。
なぜこんなにも満たされた気持ちでいるのか、さみしいけれど、悲しいけれど、会いたくてたまらないけれど、それでもなお、なぜ心の深い部分はこんなにも満たされているのだろう・・・
今回は、そのことについて書かせていただこうと思います。
興味のない方は遠慮なく飛ばしてくださいね。
2007年10月22日月曜日、午後5時15分、わたしのダーは旅立ちました。
直接の死因は、一昨年の2005年12月に発覚した横行結腸ガンです。
その日からこれまで、わたしたちは二人で、二年間の「病気との共存」を生きてきました。
この二年間は、言葉にはならないくらいの、きっとわたしの生涯の中で最も中身の濃い二年間になったと思います。
死の5日前くらいから、容態が毎日悪くなっていきました。
ガンの本当の終末期では、容態は週ごとに悪くなり、日ごとに悪くなり、ついには時間ごとに悪くなると聞いていましたが、
まったくその通りの経過を辿りました。
抗がん剤治療を中止せざるをえなくなり一ヶ月が経った9月の中旬ごろ、突然歩けなくなりましたが、その後も相変わらず痛みはなく、経口摂取も可能で、
必要以上に気力もあり、終末期に入ったことをダー自身もそしてわたしも自覚していたとはいえ、
絶対に奇跡は起こる、また歩けるようになる、仕事ができるようになる、と信じていました。
容態が突然・・・まるで階段を何段も一気に落ちたようにガタン、と悪くなった死の5日前、その日は奇しくも新薬投与の前日の事でした。
ダー本人が「明日の投与は中止したい」と言ったとき、わたしは病室を出て、ひとり泣きました。
あんなに期待していた新薬。ここまで進行した状態で効く可能性はほとんどない、と言われながらも何とか主治医を説得して勝ち得た投与。
それなのに・・・その前日にこんなことになってしまうなんて・・・
わたしはただ虚しくて悲しくて情けなくて・・・でも、今となっては、そんな気持ちは一切ありません。
最期の5日間は、わたしにとって、素晴らしい5日間になったからです。
突然の体調悪化に、ダーは不安になっていました。
彼は本当に精神力のある人で、二年間の抗がん剤治療でも一度も弱音を吐かず、
わたしが治療のことで悩み苦しんでいたときにも、ニコニコと笑いながら逆にわたしを励まし、わたしがダーの死に怯え、パニックを起こすときなども、
「僕はガンと闘っているんじゃない。自分自身と闘っているんだ。だからマキにも自分自身と闘ってもらわなきゃならないんだよ」と言い、
「ごめんね、マキ。でもがんばってね」とわたしを抱きしめてくれていました。
ダーはRose Partyが大好きで、仕事をしているわたしの姿が大好きで、
「仕事優先にしてよ。僕は大丈夫だから」といつも言ってくれていました。
わたしはこの二年間の事を、なおみさんをのぞいて、お客様はもとより、仕事関係の人たちには一切話していませんでした。
それは、ダーの希望でもありました。「キレイなものを扱っているんだから病気のことなんて言わないほうがいいよ。それに僕は元気なガン患者なんだから」と。
親戚たちにさえ、彼は言うことを拒み続けました。
わたしはわたしで、二人だけで闘うと決めていたし、彼は本当に元気なガン患者で、最期の入院の前までは普通に仕事をし、とにかく元気で、到底ガン患者には見えなかったし、わたしの仕事に支障が出るような状態でもなかったので、彼の言うことに従いました。
自分たちの問題は自分たちで解決すべきだし、誰かに言ったところで、その誰かを苦しませるだけだし、
実際わたしたちは幸せなガン患者とその家族として毎日を過ごしていましたから、
誰かに頼らなければならないこともあまりなかったのです・・・。
もちろんわたしの親友は、わたしの心の支えでしたし、たくさんの人に助けられてきました。それでも、問題の本質は、二人で、または、それぞれ自分と闘いながら
クリアしてきました。それが普通だし、そうするべきだ、と思っていたからです。
話は逸れましたが、そんなふうにいつもわたしを気遣ってくれていたダーが、死の5日前から不安を前面に出すようになってきました。
「マキ、どうしてもっと早く来てくれないの?」
「僕はマキだけを待っているのに」
「一分でも早く来てよ」「帰るの? 帰らないで。もう少しいてよ」
自分の体なのに自分の自由にならない・・・その不安で彼はわたしを離したがらなくなっていました。
わたしは営業前と営業後に病院に行っていましたが、それでも彼には足りなかったのです。
当然です。自分が死を・・・ほんのそこまで近づいてきている死を感じているとき、一番愛している人がそばにいてくれなければどんなに不安でしょう。
だからできるだけそばにいて、足をマッサージし、手を握り、楽しい話をたくさんしました。
わがままになったダーを心からいとおしく想いましたし、こんなに求められている自分をうれしくさえ感じました。
しばらくすると、彼はわがままは言わなくなり、わたしに「ありがとう」ばかり言うようになりました。
「ありがとう、マキ。何度言っても足りない。本当にありがとう。みなさん本当にありがとう」
主治医に何度も呼ばれ、死が近づいてきていることを告げられましたが、わたしは信じませんでした。
わたしはもう・・・ある意味かなり強くなっていたのです。
この二年間のあらゆることで鍛え上げられ、ちょっとやそっとのことでは動揺しない、そんな自分が出来上がっていました。
もちろんそれでも不安はたくさんあったし、恐怖で眠れない夜も過ごしました。
だけど、この怒涛の二年間は、いい意味でも悪い意味でもわたしに強靭な精神を養わせてくれました。
だからわたしは主治医の言葉にそれほど動揺はしていませんでした。それでなくとも、入院してからずーっと言われてきたことですから・・・。
しかし容態は日ごとに悪くなっていきます。夜帰って翌朝いくと、また何かが変わっているんです。
ガンは最期の最期に牙を剥く。その言葉は真実でした。ガンの成長は倍々ゲームだということを知っている方なら、この凄まじい牙の剥き方をわかっていただけると思います。
それでもわたしは信じていました。これまで長期間に渡って抗がん剤でおとなしくさせていたガンも、いまはやりたい放題やっている。
それでも、だからと言って、奇跡が起こらないとは誰にも言えないはずだから。
しかし、彼は知っていたはずです。自分の死を予感していたはずです。それでも「また元気になるね」と言ってくれていました。
死の2日前。親しくしていた人が家族総出で遠くから会いにきてくれました。
吐血が始まっていましたが、意識はしっかりあり、痛みもまったくなく、多少傾眠気味にはなっていましたが、たくさん話もできました。
殺風景な病室が、会いに来てくださった人たちの心からの愛と、彼のたくさんの笑顔と言葉であふれ、素晴らしい一日となりました。
その日、二人だけになったとき・・・わたしたちは神様の話をしました。
わたしは神を感じていました。彼はクリスチャンですが、わたしは洗礼を受けたにも関わらずそれほど信仰心は強くもなく、聖書の中身もほとんど覚えていません。
そんなわたしが、この数日間、ずーっと神を感じていました。
わたしは神様に見放されたのかな、と思っていました。だけど、そうではなかった、やっぱり守られていた、そのことを強く感じていました。
第一に、彼は臨終の間際にいても、意識はクリアで、これだけガンが体を蝕んでいるというのにガン性の疼痛がこれまでにも一度も起こらないし(ガン患者の大半はガン性の疼痛で苦しみます。しかし現在の痛み止めケアは万全ですので痛みを完全に失くす事が可能です。ダーはガン性疼痛自体がありませんでした)、何より笑顔が消えません。肝機能の低下は激しい倦怠感をもたらすので、辛かったとは思いますが、ずっと笑ってくれているんです。
第二に、優ちゃんがわたしといっしょにダーを看取りたい、と言ってくれました。最期の最期の一番辛い時期を、わたしは一人ではなく優ちゃんという強い存在によって支えられることになったのです。そんなことになるとは正直夢にも思いませんでした。
「あたし、初めてこんなに身近に神を感じることができて感謝してるんよ」
わたしが言うと、ダーは満面の笑みで
「よかったあ・・・」と言いました。
そしてわたしの手を握り「ありがとう、マキ。僕は幸せだ。僕のマキ。マキがいればそれでよかった。僕は幸せだ」
わたしは彼の前で涙を出さない事を自分自身に約束していたのに、とうとう号泣してしまいました。
ガンがわかってからの二年の間も、わたしは、やさしくないときもたくさんあった。治療の事で大ゲンカをしたこともある。忙しくてちゃんと話を聞いてあげないときもあった。食べたくない、と言うダーに、「体重減少は寿命減少(これは真実ですが)だよ!」と無理やり食べさせてことも何度もあった。
わたしは自分の無力さに慄いていたから、それをダーにぶつけていたのです。
それなのに。こんなわたしなのに・・・。
なんてやさしくてなんて強い人なのだろう。わたしが選んだ人はやっぱり間違っていなかった。わたしたちは歳がかなり離れていたし、お互いのいろいろなこともあって、周りにうるさく言われたこともあった。
だけど、そんなこと今ではもうどうでもいい。わたしはダーを愛していたし、ダーはわたしを愛していたし、その他に何が必要だったのだろう。
わたしは、死のほんの近くまできてしまった愛する人を見ながら、悲しみより幸せを感じたんです。
そして、愛する人の命の炎が消えかかっているその瞬間でさえも「幸せを感じられた」ことこそ、神がわたしたちを守ってくれている証だと思ったのです。
宗教でも何でもない。キリスト教だか何教だか知らない。実際は神様か何かもわからない。とにかく、何か本当に偉大な力、偉大な愛に包まれていることを感じたのです。
翌日、早朝に、血圧が低くなったのですぐにきてほしい、と病院から連絡があり、
優ちゃんと駆けつけました。
意識はありましたが、また・・・昨日より何かが悪くなっているのを感じました。
血圧の低下は、死が近づいてきたことを知らせる大きな指標になります。
わたしは何人かの人に連絡をし、ずっとわたしたちを助けてくれていた奄美大島にいるダーの親友にも連絡をしました。
親友は、すぐに飛行機を手配し、午後4時ごろ病院に入り、ダーと手を取り合い、最期のお別れをしてくれました。
それにしても眠ってばかりいるようで、何だか怖くなり、呼びかけましたら目を開けて「マキ・・」と呼んでくれました。
「わかるんやね?」と言うと「わかってるよー。うるさいなあ・・・」なんて笑ってくれました。
声をかけると応えますし、酸素も十分に入っているようでしたので、
わたしは泊り込みのためのタオルケットをとりに一旦家に帰ることを他の二人に告げ、立ち上がったその瞬間、
酸素が90を切りました。
わたしは帰るのをやめました。いま思うと、わたしがもし30分でも外出したらわたしはダーの最期を看取る事ができませんでした。
彼にはわたしの言ったことが聞こえたのです。わたしを帰さないようにしたのです。
そしてその日は定休日の月曜日でした。ある人が「先生は絶対に月曜日に亡くなると思っていた。マキちゃんの定休日だから」と言っていましたが、その通りでした。
その後すぐ、眼球に変化があったので、大声で呼びかけましたら、言葉にならない声でしたが目を開けて「なに?」と言いました。そのときでさえ、完全に意識がありました。
心停止したのはその直後でした。呼吸が消えたことすらわからないほどに静かでゆったりとして、何一つとして目に見えて大きな変化のない最期でした。
結局、ダーは最期まで意識があり、身の置き所のない臨終の苦しみも(苦しみを感じている様子はさほどありませんでしたが臨終には、体の中で、生命をかけた最期の闘いがあります)
痛み止めなど一切使わず自力で乗り越え、わたしでさえ信じられないほど静かで安らかな死を迎えました。
そして、笑顔でした・・・。本当に本当に笑っているんです。彼は笑いながら、みんなに感謝しながら、ありがとう、ありがとう、僕は幸せだった、って言いながら旅立ったのです。
入り代わり立ち代りさよならを告げにきてくれた人がみな「先生笑ってる。こんな笑顔で逝った人見たことない・・・」と言ってくれました。
奄美の親友は「この顔にすべてが表れている。幸せな死だった」と言ってくれました。
うれしかったのは・・・日常的に死と関わっていらっしゃる看護師長さんが泣いてくれた事です。
「一ヵ月半の入院中、たくさんお話してくれました。印象的な人でした。なんて安らかな笑顔なんでしょう・・・」
わたしは、彼の素晴らしい生き方が表れている死に方だった、と思っています。
彼の遺体は、彼の生前からの強い強い希望を叶えるべく、
大阪大学医学部に献体いたしました。
献体については、知らない方もたくさんいらっしゃると思いますが、未来の医師を育てるためにはなくてはならない存在です。
彼は、医学部講師時代に、献体に立会い、自分が死んだときも必ず献体しよう、と決心したそうです。
ダーは、大学卒業後、東大医学部医科学研究所、厚生省検疫課、T大学医学部講師、製薬会社での新薬開発、獣医師として開業と、ずっと医療に携わっており、
この二年間もまた、医療に助けられた二年間でした。
発覚した時点ですでに末期ガンであったにも関わらず、日本でトップクラスの抗がん剤治療を受けることができ、二年間もの延命「ただの延命ではない、元気な日を一日でも長く」を実践することができました。
日本の手術の技術は世界一です。しかし日本の抗がん剤治療は後進国並みです。
この事実にわたしたちは必死で立ち向かいました。
わたしたちの面倒を見てくれたのは、有名な大きな病院ではありません。
そこらへんにある市立病院です。
そんな病院でなぜ、最期まであきらめない抗がん剤治療を受けることができたのか・・・
それは、わたしたちが、後進国並の日本の抗がん剤治療に、自分たちなりに立ち向かってきたからです。
数千名の署名を集め、新薬の早期認可を厚生省と国民に訴えることもしました。
何より、主治医と、とことん話し合い、決して医者任せの治療は行いませんでした。医師をたてながらも自分たちの気持ちをはっきり伝え
「最期まであきらめない・元気な日を一日でも長くの抗がん剤治療」を行ってきました。
そして最期まで、自分たちの心に、「あきらめない」気持ちを日々蓄えつつ、前へ前へと進んでいきました。
わたしたちはガンには力及ばなかった。でも、ダーはいつも言っていました。
「僕はガンと闘っているんじゃない。自分自身と闘っているんだ」
ガンではなくても、病の治療には、体力以上に精神力が必要です。精神力がすべて、と言っても過言ではないかもしれません。
ダーは自分自身には決して負けませんでした。
彼は最期の最期まで自分を見失わず、毅然とし、人への感謝の想いにあふれ、人生への感謝の想いにあふれていました。
つまり、ダーの闘いは勝利だったのだ、とわたしは思っています。
弱い者(進行ガン患者)がますます弱い立場に追い込まれてしまう医療を改善するためには、わたしたちの意識改革が必要だと感じています(冒頭に書いたわたしが伝えたい重大なこと・・・それはこのことなんです)。
大したことは何にもできないわたしですが、今後も、わたしにできる範囲で、活動を続けていきたい・・・と思っています。
会いたくてさみしいとき・・・どこからともなく声が聴こえます。
「ここにいるんだから泣かなくてもいいよ。とにかく! 自分に負けるんじゃないよ!」
わたしは、たくさんの人に支えられ、励まされ、勇気付けられ、この二年間を過ごしましたが、
取り分けわたしを救ってくれていたのは、他ならぬRose Partyのお客様方です。
わたしはどんなに辛くても、仕事をしていると、元気になれました。
お客様からの暖かいメールを、お言葉をいただくと、心が安らかになりました。
この二年間、身をよじって泣くような回数が少なかったのは、仕事をしていたからです。
仕事はわたしの生きる希望、生きる勇気、わたしにとって必要なものをたくさんたくさん与えてくれました。
仕事が与えてくれた・・・つまり、みなさまが与えてくれたのです。
みなさまは直接的に、わたしたちの闘病生活に関わったわけではありません。
だけど間接的に、ずっとずっとわたしを支えてくださっていたのです。
本当に本当にありがとうございます。
こんなに長い文章を読んでくださり、本当にありがとうございました。
わたしは決してかわいそうではなく、何だかわたし・・・満たされています。
二年間、精一杯、愛する人と大きなことに立ち向かってこれたことに
心から満足しています。きっとこんな経験は・・・もうできないかもしれない。
何より・・・ダーの最期に、わたしは本当に救われました。最期の最期までダーはわたしを救ってくれたのです。
「マキ! お先に失礼! 泣くんじゃないよ!笑ってよ!」そう言っているような笑顔でした。
本当に感謝です。
みなさま・・・わたしへのお見舞いメールはけっこうですのでどうぞお気遣いなく(*^_^*)
わたしには、みなさまのやさしいお気持ちが伝わってきていますし、
それだけで十分なんです(*^_^*)
きっとこんな話を聞かされて何か言わなきゃ・・・と思ってくださる方も多いと思いますが、本当に大丈夫ですし、このブログを読んでくださったことだけで十分なのです。
個人的な話を・・・こんなにたくさん聞かせてしまってごめんなさい。
許してくださいね・・・。
わたしは大切な人をこの世では失いましたが、自分のこの世での人生をあきらめることなく、幸せになりたいと願っています。
とにかく今は、大好きな仕事をますますがんばっていきます。
ダーに叱られないように・・・。
みなさまの幸せ、そしてわたしの幸せ・・・ダーもすぐ近くで祈ってくれています(*^^)v
ダーが祈ると百人力ですよ(*^^)v
みなさま、読んでくださって本当にありがとうございました。
仕事はわたしの支えです。これからも精一杯がんばります。
末永くよろしくお願いいたします。