9/30をもちまして5周年フェアは終了いたしました。
たくさんのお客様にご参加いただきまして本当にありがとうございました
まだまだ発送が大変大変混雑しております。
何卒よろしくお願いいたします。
日を追うごとに、ブログの読者数が増えております^^;
二年前に始めたころの読者数は、100名前後だったと記憶しているのですが・・・
今はその数倍の方々にご覧いただいております(それでもウェブショップのメルマガ読者数には到底及びませんね)。
大変喜ばしいことです。そして、ちょっぴり恥ずかしいデス^^;
最近では、「ずっとブログを読んでいて、今回初めて注文しました」と仰ってくださる新規のお客様も多くなっております。
大切なお客様方から「ブログ楽しみにしています!」というお言葉をいただくたび、
がんばって更新しなきゃっっ! と、思います^^;
書き出すと止まらないのと同様、サボりだすと止まらない。
いや、別にサボっているわけではありません^^;
今回はフェア中で、時間がとれず、更新が滞ったのです。ゴメンナサイ。
大切なお客様Nさまから、こんなに素敵な贈り物をいただきました
超~~かっわいい
袋を開けた瞬間、「かわいい~~(*^_^*)」と大声で叫んでしまいました
お店のカウンターの後ろ、一番目立つところに飾らせていただきました。
Rose Partyのテーマカラー「ピンクと白」に仕上げてくださって・・・
Nさまの優しいお気持ちがひしひしと伝わってくる素晴らしい贈り物です
「Rose Party」と施された刺繍のかわいいこと!
感激です。本当にうれしくって(>_<)
Nさま、本当に本当にありがとうございました。
わたしの宝物です
さて。
わたしは最近、海外ドラマにはまっており、せっせとツタヤで借りては観ています。
先日までは『奥様は魔女』。
観ている間中、サマンサのように鼻を動かしたくて何度も練習しましたが、どーしてもあんなふうにできませんでした。よく考えたら、いい歳をした大人が・・・アホみたい・・・。
現在は『グレイズ・アナトミー』
夜の夜中・・・一時とか二時とかから観始めるので睡眠不足かと思いきや、
昔から、夜中は本を読む時間だったので、本がDVDに変わっただけのことです。
『グレイズ・アナトミー』は、シアトルの大病院を舞台に、外科インターンとして働く主人公たち(メレディス・イジー・クリスティーナ・ジョージ・アレックス・・・主にこの5人のインターン)の仕事と成長、そして恋愛を描いた青春医療ドラマ。
わたしはちょうどシーズン2を観終わったところ。
いやーそれにしても、アメリカの医療ドラマってすごいですね。
臨場感あふれる場面が目白押しで、日本の医療ドラマ・・・と言ってもわたしは『白い巨塔』しか観ていませんが・・・とは比較にならないなあ・・・。
日本の作家は真面目で細かいので、ストーリー自体は日本物も負けてはいないと思いますけどネ。
シーズン2のラストは号泣してしまいました。
イジーとデニーが言い争いをする場面があるのですが、ある日のわたしとダーの言い争いを再現しているようで、
胸が引き裂かれる思いでした。
外科インターンのイジー・スティーブンスは、心臓移植を待つ患者・デニーと恋に落ちてしまいます。
彼を心から愛するようになるのです。
デニーの心臓は、体内に取り付けられた器械で動いており、デニーは、そんな自分を、まるでロボットだ、と卑下します。
彼は、イジーに向かって、「自分は36歳で、心臓病を患うまでは健康に生きてきた強い男だ。それが今では、病院のベッドに横たわったまま、家に帰ることすらできない」と
絶望を訴えます。
そして、「もし今度心臓が来なければ、静かに逝かせてほしい。僕はもう疲れた」と言うのでした。
そんな折、待ちに待ったドナーが現れましたが、一つの心臓を二人の外科医が奪い合うような状況になってしまいます。
「心臓は誰にも渡さない。デニーのものだ」
イジーは、心臓移植の順位を上げるため、デニーを生かしている人口心臓のコードを切り、
故意に悪い検査結果を出して、心臓をこちらへもらう、とデニーに宣言したのです。
もちろん、後々の処置は万全を期すと約束をして・・・。
当然ながら、デニーは強く反対をします。
「ぼくは他人から心臓を奪おうとは思っていない。それに、そんなことをすれば、君の医者としての生命も終わる」
「かまわないわ。あなたを生かしておけるなら、どんなことになってもかまわない」
完全に自分を見失い、狂気に満ちたイジーの表情を、不安げに見つめながら、デニーは言葉を尽くしますが、イジーは聞きません。
デニーは微笑をたたえながら、静かに言いました。
「イジー、ぼくは大丈夫だ。ぼくは天国を信じている。今の状態と天国なら、ぼくは天国を選ぶ」
そして、その言葉に、イジーは、自分の中にあったはずの、あらゆる理性・・・あらゆるモラルを失ったのです。
「そうでしょう! あなたはそれでいいでしょう! でもわたしはどうなるの?
あなたを失ってしまうわたしはどうなるの?! わたしは一体どうすればいいの?! 天国とか明るい光とか、もう聞きたくない! お願い、お願い、わたしのために、わたしのために言うことを聞いて。お願い、お願い、デニー、お願い・・・」
「プリーズ! プリーズ! プリーズ・・・!!」
そう叫ぶイジーの姿の、なんと憐れだったことか・・・なんと情けなかったことか・・・。
もう観ていられなかった。まるで、あのときの、自分を観ているようだったから。
デニーは泣きじゃくるイジーを抱きしめながら、「・・・わかった」と言ってしまいました。
自分のためにここまでやろうとしているイジーを、いとおしげに見つめるデニーの表情には、
愛するイジーの願いが叶うなら、人口心臓のコードを切られ、それによって死んでもかまわない、という覚悟が表れていました。
イジーは、ドナーの心臓を、デニーに移植させるため、つまり、デニーを生かしておくために、故意にコードを切るはずでした。
人口心臓のコードを切れば、当然デニーの心臓の状態は悪化する。その検査結果を送れば、優先順位が上がり、ドナーの心臓はデニーのところへやってくる・・・という「もくろみ」です。
しかし、デニーには、そんなことをしたら、しかもインターンがそんなことをしたら、どんなことになるか・・・よくわかっていたのです。
デニーはその瞬間、イジーの手で生かされるのではなく、イジーの手で絶命させられる覚悟をしたのです。
デニーは、命を懸けてイジーの願いを叶えてやろうとしたのです
イジーが望むなら・・・と、彼女に、自分の命を差し出したのです
(わたしの説明ではうまく伝わらないのでぜひDVDを観てください^^;)。
わたしは、彼らの言い争いに、ある日、わたしたちが起こした言い争いの再現を見ているようでした。
腹膜に散らばったがんが、いよいよ活動を始め、腹水の貯留が始まったのは、
昨年の8月のことでした。
「とうとう、怖れていたことが起きた。終末期に一歩足を踏み入れてしまった」
わたしはその現実を消し去るために、何かできることはないのか、ひたすら主治医にお願いをし、
自分自身も走り回りました。
抜くほどでもない腹水の量でしたが、これ以上は絶対に、貯めるわけにはいきません。
利尿剤が効き、症状は安定し、ダーは相変わらず仕事も続けていましたが、
わたしの心の中は不安でいっぱいでした。
主治医以外にも、意見を聞けるがん専門医を数名知っていたわたしは、彼らに何度も何度も回復の可能性を訊ね、
やはり新規の抗がん剤しかないことを教えてもらい、
その薬が使えるよう、病院の薬剤部や副院長にも掛け合いました。
とにかく、わたしの心の中は、不安でいっぱいでした。
この人を失うかもしれない。わかっていたことなのに、突然それが、現実として目の前に横たわったとき、
言いようのない不安と焦りに苛まれました。
もう誰にも相談できない。したって同じだ。わたしがやらなければ。わたしが動かなければ・・・。
少しでも気を抜けば、イジーのように、何をしでかすかわからない状態だったのです。
仕事だけが、わたしを支えてくれる唯一の憩いの場でした。仕事が、わたしに、辛うじて理性を保たせてくれていたのです。
そんなある日、ダーが言ったのです。
「マキが行きたいって言ってた白浜にパンダを観にいこうよ」
「うん。行きたい。でも、もう少し落ち着かないとネ」
「マキに想い出をたくさん作ってあげたいんだ」
これはダーの優しさです。
刻々と近づいてくる死にも一切怯えることがなかったあの人の、わたしへの優しい気遣いだったのです。
しかも、特に意味を持たせて言った言葉でもなかったはずです。何気なく口から出た言葉だったはず。
それなのに、わたしは、この言葉に信じられないほど、過剰反応を示し、イジーと同じく我を失ったのです・・・。
「・・・想い出って何?」とわたしは食ってかかりました。
「想い出って何? そんなものいらない。あたしが欲しいのは、生きる意欲、あきらめない気持ちだ。死んだらおしまい。全部終わってしまう・・・」
「あなたはそれでいいけれど、わたしはどうなるの。あなたを失ったわたしは一体どうやって生きていけばいいの」
わたしはイジーと同じ言葉をわめき、あの人を困らせてしまったのです。
違ったのは、イジーは英語、わたしは大阪弁だったくらいのことです。
もし、自分がダーの立場だったら・・・と考えると、ゾッとします。
愛する人に、「わたしは一体どうすればいいの?」と泣かれることは、どんなに辛いことでしょう。
人は、自分の死を察知するといいます。
そしてそれは、かなりの確率で当たっていると思います。
ダーは、新薬を使おうと使うまいと、自分の死が、ほんのすぐそこまで来ていることを、知っていました。
そしてわたしには、それがたまらなく嫌だったのです。
本当の意味で信仰心の篤い人は、死を怖れません。死は消滅ではないことを知っているからです。
クリスチャンは、死は、神の元へ帰ることだと知っています。
ですから、あの人が、怖かったのは、死ではなく、わたしを置き去りにしてしまうことだったのです。
そして、本物のクリスチャンは、常に相手を思いやり、自分を二の次にしてしまいます。
自分のことより、相手の望むこと。
ダーが主役のはずが、いつの間にかわたしが主役になってしまっていたのです。
イジーと同じように、「プリーズ、プリーズ!」と執拗に言い続けるわたしに、彼は、命を懸けて応えていたのです。
当時のわたしには、わからなかったのです。
当時のわたしにとって、死は消滅であり、忘却であり、完全に無になってしまうこと。
何としてでも避けなければならない・・・それが「死」というものだったのです(今は違います)。
「あの人を死なせるわけにはいかない・・・」それがわたしのすべてであり、それ以外のことには盲目でした。
一番大切だったはずの、ダーの「心のケア」が完全に忘れ去られていたのです。
何が何でも生きてやる、というあきらめない気持ち。
それは多くの場合、必要なもので、間違いではないのかもしれません。
だけど、あのときのダーの場合はどうだっただろう・・・と考えると、間違いではない、とは言い切れないのです。
治療が続けられる状態であるなら、決して間違いではなかった。
事実、ダーには、生きるための意欲が十二分にありました。
新薬の投与を待ち望んでいたことも事実でした。
しかし、あのときは、すでに、何もかもが後退し始めていたのです。
何もかもが、もう戻れないところまできていたのです。
新薬の投与を心待ちにしながらも、誰よりも本人が、それを知っていたのです。
わたしはそんなあの人の気持ちに、気づくべきでした。
あの人の気持ちに気づいてやれず、自分のことばかり考えていたから、
「想い出作り」と言われたことに過剰反応し、頭に血が上ってしまったのです。
この人はあきらめてしまったのか、もう生きるための努力をしないつもりか、わたしはこんなにまで努力をしているのに・・・。
そんなふうに思って、たまらなくなってしまったのです。
「わたしはこんなに努力をしているのに」
本当に愛のある人は・・・こんな考え方はしないと思うのです・・・本当に恥ずかしいです。
わたしがしたことは、
払える能力のない人から、無理やり、身包み剥ぎ取ってでも払わせてやろうとする・・・
極端に言えば、そんなことだったのです。
万一、わたしと同じような経験をしたことのある人がいたなら、この例えの意味をわかってくださると思います。
あのとき、わたしがするべきことは、
黙ってあの人の話を聴いてあげることでした。
一刻も早く、勉強をし、自分の死生観を変えてしまうことでした。
死は消滅ではないことを、もしあのときのわたしが、今のように知っていたなら、
きっと黙って、話を聴いてあげることができたと思います。
すべては後の祭りですが、
これは大きな教訓となりました。
確かにわたしは後悔しましたが、未だにクヨクヨと悩んでいるわけではありません。
わたしはかなりずうずうしいのです(ーー;)
ダーはいつもわたしに、「転んでもタダじゃ起きないマキが好きだよ」と言ってくれました^^;
「ずうずうしいマキが大好きだよ」と言ってくれていました。
彼は大変な変わり者でした^^;
失敗をしたあとに、「失敗がもたらしてくれた拾い物」をすることができれば、
失敗は、そのまま教訓となり、成長の糧になるのだと、ダーは教えてくれました。
これからも、失敗をするでしょう。
小さな失敗。大きな失敗。
失敗をしないように気をつけて生きていくのは当然のことです。
それでも、誰もがやってしまうでしょう。小さな失敗。大きな失敗。
そんなときは、とことん反省し、必要であればとことん自分を責め、そして、もう二度と同じ過ちを犯さないことを決意した上で、
失敗から学ぶべきことを、根気よく、一つ一つ拾い上げていけばいいのです。
ただし、犯罪は論外です。
今夜はめちゃ書いてしもた^^;
どこまで書くねん・・・。
長文を読むのは大変疲れることです。
特に、ブログの長文は大変です。目が痛くなりますよね・・・^^;
書いているわたしも目が痛いです^^;
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。