愛しています

すべての方が、笑顔で
あたたかく優しい 愛ある日々を
生きられることを願って・・・

幸福な未来への鍵

2010年01月21日 04時48分41秒 | 懐かしいとき
 

 
今日は、平成22年1月21日

普段 何気なく使っている 「元号」
漢字文化圏で、特定の年代に 年を単位として付けられる呼称

今は、平成




日本の最初の年号を、ご存知ですか?
「大化」です。

日本書紀では、
645年 大化の改新の時に「大化」が用いられたのが
最初とされています。

日本の起源は、
飛鳥の豪族を 中心とした政治が、
天皇中心の政治への 転換点となった 大化という時代にある
ということを 意味している ということですね?




ところが
この大化の改新が 歴史家によって
評価の対象にされたのは 意外と遅く、

幕末の紀州藩重臣であった 伊達千広(陸奥宗光の実父)が
『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、
それが、明治期に広まった とされている とのことです。

「大化」 が 「明治」 に・・・




私は、最近 明治維新の本などが 目につき
「大化の改新」と「明治維新」が・・・韓国が・・・

以前から、
これらの キーワードが つながる未来と
つながる一つの方法が、ビジョンとして 私に降りています。

けれども、書ける内容ではないので
ここには、今まで 書き残しておりませんが

何年も、近い人たちには 話し続けていて
私が 話している通りに ますます なってくるので
周りの人たちは、驚いています。

そして・・・以前より、もっと
何かが、大きく動き始めたのを 今 私は感じています。

今日は、再び 大化の頃のことを 綴っておこうと思います。




日本の古代国家は、645年の 大化の改新後から
中国の律令制度にならった 中央集権的な 支配体制がつくられ
部族国家から 統一国家への第一歩を 踏み出していますから

今日に続く 天皇家が磐石となる礎を気付いたのが この時期であり
明治維新まで続いた 律令制度が この頃 成立していることから

この時代は、日本という国が 誕生した時期でもあるといえる
ということですね?




けれども、これまで 日本は
その誕生過程の真相を 深く追求することなく
曖昧にしたまま その後の歴史を 語ってしまっている
と・・・

国家成立の根源に 関わる真相を
知ることができるのか どうか

私は、額田王が 日本国家誕生の真相を握り
秘密の鍵を 持っている と思っています。




日本という国が誕生した「大化」
現在の朝鮮と 日本とが大きく関わっていた時代

天智天皇と 天武天皇
古代史を代表する 二人の英雄に愛され

優れた万葉歌人として
華麗で 多才な才能を発揮した 額田王は
今だに 多くの謎を秘めた女性です。




日本書紀は、
古代史に 重要な影響を及ぼした 額田王の存在を
まるで無視しているようです。

万葉集では、
この時代の中心人物であるかのように、のびやかで 優れた歌と共に
宮廷に深く関わった姿が 鮮やかに描かれています。

この日本書記と 万葉集のそれぞれが示す ギャップが、
歴史の裏に秘められた
重大な謎を 物語っているのではないか と思われます。




額田王は、何者?

王を名乗れるのは、皇族2~5世の王族のみ

万葉集には、天智天皇 葬儀の最後の行事 御陵退去に際し
群集 后妃を代表して詠んだ 額田王の歌が収録

単なる巫女や 采女ではないはず




政局の中枢にいて
政局の流れに 関与していたはずの 額田王を
なんらかの事情によって 故意に 抹殺したと考えれば
新たな額田王像が 浮上してくるのは 当然です。

その額田王を 寵愛していたと言われる
天智天皇の周辺、不明瞭なことばかりです。




天智天皇の皇后 倭姫王

倭と名のつく女性は、極めて 高い位のシャーマン

倭姫王は、即位権のあった 古人大兄皇子の娘とされ
しかも、天智天皇の皇后となった人物なのに 生没年不詳

能力が、かなり高いと思われる女性 倭姫王と額田王
二人も 天智天皇の側に存在したのは、不自然




天智天皇の 弟とされている 天武天皇

生没年、及び 年齢の記述が一切無く
天武天皇が、歴史上名前を表わす時期が 異様に遅い。




藤原 鎌足(中臣 鎌足)

「藤原」姓を賜ったのは、わずか死の一日前
臨終に際して、大織冠とともに 藤原姓を賜った。

韓半島南部の伝承で、藤原氏は 百済滅亡前後に渡来した一族
百済 朴(パク)氏の出自である というものも あるそうです。




歴史は、勝者が 作ったもの。

天智天皇と 天武天皇
日本書紀における 二人の重要な人物との
関わりがあった額田王が

日本書紀から まるで無視されたことは 
日本書紀 編纂目的の意図を 暗示し

額田王が、日本書紀 体制側にとって
きわめて 不都合な人物であったことを
うかがわせるものでは、ないでしょうか?




どうして、そのようなことに なってしまったのか?

きっと、私たちが 生きている時代に
これら真実が 明らかになる日がくる

私は、そう確信しています。




なぜなら、歴史は 繰り返されるから。

そして・・・
人は、生まれ変わり 似たような人生を歩むもの
ですから。




今、日本と韓国は とても近くなりました。

日本古代国家が誕生した この「大化」の時代
日本は、現在の朝鮮と どのぐらいの交流があったのでしょう?




日本と韓国は
今より もっと、もっと 近い国になる

世界の維新が、起きる

そのように 確信しています。




政治だけではなく、映像の力で

愛の力で







莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

                                  額田王


658年 紀の温泉(ゆ)に幸ししとき、額田王が作る歌

これは、江戸時代に、莫囂圓隣歌 考 という本が 何冊もあらわされるほど
研究者を悩まし続けてきた、未だに定訓がない 難訓歌で有名な歌

          我が背子は、天智天皇のこと   でしょう

  わが背子(親しい男性を呼ぶ語。多くは女性が夫・恋人を呼ぶ場合に用いられる。)





ネタバレになりますが、記しておきます。

日本で、3月6日(土)から 放映される
韓国では、39.9%という高視聴率でした
イビョンホンさん 主演ドラマ 「IRIS」

朝鮮 南北の統一が、核によってなされようとされ
それを、阻止する役を イビョンホンさんが 演じられました。




今までも、そうでしたが

イビョンホンさんが、ご出演される作品は

その時代や
ご本人自身の未来への暗示も含めて
無意識に、選択されているようですね。




続編に、
イビョンホンさんは ご出演予定はないようですが

IRIS 2 の脚本は、南北の状況によって作られると
最近の記事で読みました。

日本に住んでいると、
戦争は とても遠い世界のような日常ですが
韓国は、違う・・・

そのことを、再び 心に深く刻ませていただけた 記事でした。




南北の統一が、どのようにされるか

この結果によって、

世界の未来が、とても とても 大きく変わる事実を
本日 ここに 再び 記しておきます。

世界の平和の大きな鍵が、韓国 ということです。




ですから

韓国の脚本家さんたち 頑張ってください。

世界を大きく 幸福に変えることが できるような脚本
楽しみにしています。

切望しています。




そのためには・・・

「大化の改新」と「明治維新」

これが、大きなキーワードです。
日本が、とても大きく関わってきます

ということに 実は、話が繋がります。




今日は、未来のその日のために 予言のようなものを
綴らせていただきました。

具体的に、何を言いたいの?
と 突っ込まれそうですが(笑)




なぜ、今日 ここに この記事を残したか

幸福な未来の いつかの日か 綴ります。




そんな幸福な日が、一日でも 早く来ますように





大化の改新は、ほんの 1,365年前のこと



それよりも、
もっと もっと 前 ・・・ ずっと ずっと前からのことが

解明される日が、訪れることでしょう。



        眠れぬまま、朝を迎えた日   2010.1.21 ryuru

 

再び巡り合う 魂の伴侶

2009年01月24日 01時09分32秒 | 懐かしいとき
 
私は、以前 消された真実 天智と額田を書きました。

この日、本当は 別の事を書こうと思っていましたが
「あかねさす・・・あかねさす・・・」と何度も何度も
メッセージが降りてきて あのような内容になりました。

追記をしたくても、もう文字数の関係で出来ません。
ですから、もう少し ここで書き綴っておこうと思います。



なぜ、こんなに力を入れて書くかというと
私は、「額田王」が 世界を変える鍵を握る人物の一人であると
強く 確信しているからです。

日本の成り立ち、仏教と神道、天皇、国歌、韓国(朝鮮)との関係・・・

これらが、どのように繋がって 現在に至っているのか
そう遠くない未来 明らかになる日が 訪れるように思います。



歴史は勝者が作ったもの。真実は、葬られていると 言われています。



                                 


天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり
               日本書紀 巻29 天武2年(674年)2月


たったこれだけの記述で
なぜ 額田王は天武を愛し続けたと解釈されたのでしょう?

子供を産んだ記載だけで
なぜ 生涯 愛し続けていたのは天武とされてしまうのでしょう?

なぜ 天智と額田の関係そのものを なかったこととしている説が
優勢になっているのでしょう?

額田王について書かれた本は たくさん出版されています。
額田王が天武を愛し続けたと 全ての書籍には書かれていません。

直木 孝次郎さんは、天智と額田は相思相愛であったと記されています。

(旧海軍で軍隊生活も経験された難波宮跡の保存運動などで知られる90歳の老学者
日本の古代史研究をリードしてきた日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。文学博士)




あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)


この二首は、相聞の部でなく 雑歌の部に分類されています。
雑歌とは、公式の場で詠われた歌のことです。

題詞には「額田王の作る歌」とあり
額田王が、天武天皇個人に 向けて思いを伝えた歌「贈る歌」でなく
宴などで 公に披露した歌です。

万葉集への収録が 雑歌であって 相聞歌ではない以上
恋の歌ではなく 公式の場に相応しい 神事を詠った歌です。



「野守」 は番人=天皇を指すのではなく 「国魂」 を表し
「袖振る」 は 「相手の魂を呼ぶ」しぐさで、この場合は招魂の儀礼のことです。

「 朝の光のさす標縄の野で、国魂の神は見たのでしょうか
あなたが招魂受霊式で袖を振るお姿を 」 という硬い内容を
一見 相聞歌(恋の歌)風に詠ってみせた、額田王の技量が見て取れる歌です。



又、天武天皇は 自らを国魂の神に擬して
紫の服を着た人間の女性たち(人妻)の美しさを 詠われた歌と思います。

ですから、この歌から 額田が天武を愛し続けている。
天武から額田を奪ったのは 天智と解釈するのは かなり無理があります。



万葉集 巻4と巻8にそれぞれ重複して採られている
天智と額田を結びつける題詞がある歌

  近江天皇(天智)を思ひて作る歌
「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の
 すだれ動かし 秋の風吹く」 4-0488 8-1606 額田王

あなたが恋しくて恋しくて、心待ちにして恋い慕っていると
 すだれが動いて、あなたと思ったら、それは秋の風でした。


待つということで 天智天皇が生きていた時に詠まれたと
通常は考えられていますが、私は 愛しい夫亡き後の歌ではないかと思います。

天皇に対する呼称には、ある程度の法則があります。
今上天皇に対しては単に「天皇」
今上よりも、以前の天皇に対しては「○○天皇」

そして、その法則は万葉集そのものにも見受けられます。
万葉集の巻1と2は、天皇の時代ごとに歌をまとめられていて
その天皇の時代に詠まれた歌の題詞は、基本的に「天皇」
それ以前の天皇ならば「○○天皇」となっています。

近江天皇
つまり、天智天皇ですが 万葉集の場合は
天皇としての諡よりも 宮を構えた地で表すことも法則ですから
法則に従うのであれば「近江天皇」と記載されている以上
歌が詠まれたのは、少なくとも大津京が皇都であった時よりも後
となってしまうのです。

この考えだと、この歌は もう天智がこの世にはいない時期となります。



私が、天智天皇亡き後の歌と思う理由は
「この世的解釈」で天智天皇が生きていた時に詠まれたと考えられると思いますが
この世だけでなく、この世とあの世の両方の見解で生きている
巫女、シャーマンに「この世だけの解釈」は 当てはまらないからです。

私は、バックナンバーで
天智天皇の正妃 倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
と書き残しました。
倭姫王は、万葉集でこのように詠っています。


青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)

青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。



超強力な巫女、シャーマンであるならば
魂が抜け出して 往き来するのが見えるのは当然です。

天智が亡くなった後、夫の魂の訪れを待っていても なんら不思議はありません。
私でさえ、この世には もう存在されない亡くなった人のメッセージを受け取ったり
見えたりするのですから

でも、この時の額田王は 純粋に亡き夫を偲んで詠まれたと思います。
後の世で、何度も生まれ変わり 二人が出逢い 愛し合う確信も
過去 幾転生 愛し合っていた記憶も、薄かったのではないかと思います。

二人は、夫婦として愛し合う姿で世界を大きく動かし続けている魂かもしれません。
愛しい愛しい愛する夫が 先に逝く悲しい最期を何度も何度も経験し
その悲しみの克服と その克服時 数々の人生で付随発生してしまった業の修正を
転生の過程で課題とされているでしょうから 相当の悲しみであったことでしょう。




                                 



次に、ご紹介するロマンスは、現世一代での 再会ロマンス

再会のロマンス 成就 25年越し、京の身障者夫婦に
12月31日10時0分配信 京都新聞



お互い身体障害者で若いころ1度は結婚をあきらめたが
25年ぶりに再会して結ばれた夫婦が京都市伏見区にいる。

妻となった女性が「今昔物語集」に伝わる
再会のロマンスゆかりの勧修寺(かじゅうじ)(山科区)で長年暮らしていたことから
「平安時代の純愛伝説のよう」と周りの人たちも喜んでいる。

足が不自由な小西忠和さん(60)と、右半身に障害がある栄子さん(57)
かつて、忠和さんが野菜を届けに勧修寺を訪ねた際
境内の庵(いおり)に住み込んで尼僧大塚全教さん(故人)に師事していた
栄子さんに出会った。

恋仲になったが、当時収入が少なかった忠和さんは「養える稼ぎがない」と
結婚をあきらめ、2人は別れた。

それから長年、「思いは消えなかった」。
昨年夏、忠和さんが寺を訪ねると、栄子さんが昔と変わらず庵で暮らしていた。
家のローンを完済し、貯金もしていた忠和さんは「今なら2人で暮らせる」とプロポーズ。
同年9月に入籍を果たした。

今昔物語集には、内大臣藤原高藤がタカ狩りの際に偶然立ち寄った屋敷の娘
列子(たまこ)にほれ、6年間離れ離れになったが、再会して結婚したという説話が残る。

勧修寺は2人の孫の醍醐天皇が造営した。
勧修寺の筑波常遍住職らに結婚を報告した忠和さんと栄子さんは
「平成の高藤と列子のよう」と祝福された。

同居し始めて1年4カ月。
段差を少なくするなど生活しやすさに配慮した家で、
一緒に料理や庭の手入れをしたりと仲むつまじい。
忠和さんが体調を崩した時は栄子さんが看病、肩を貸して歩く支えにもなっている。
忠和さんは「1人より2人がいい。妻の笑顔で自分も明るくなれる」と幸せをかみしめている。


                                 


このお二人は、生きている何十年かの 一度の人生の上での再会
もし、お一人が 25年の時の中で 記憶喪失になっていても
再び巡り逢って、愛し合えたでしょうか?



私は、愛し合う二人は 必ず巡り逢い 愛し合うと確信しています。

それは、言葉が要らないもの。科学の方程式のように明確であるからです。
魂の半身 伴侶は、引き合うのです。逃れられないようになっています。

二人が生まれてくる前に 約束した 最も相応しい時に
最も相応しい方法で 巡り逢うようになっています。

私が、時空を超え 彼に出逢ったように・・・



そして・・・勧修寺は、天智天皇陵がある 京都府京都市山科区
天智の魂が、引き寄せたロマンスでしょうか
 

消された真実 天智と額田

2009年01月10日 06時40分05秒 | 懐かしいとき
 


今日は、百済を救済しようとした 天智天皇と
天智から 寵愛を受けたとされる 額田王について

記述されている事柄を 色々な書籍他から ご紹介させていただきます。
(出所を リンクしていなくて 申し訳ありません。)

二人が生きた時代は、現在の朝鮮と日本とが大きく関わっていた時代
ということは、ご存知の通りです。




                                 


中大兄の三山歌(みつやまのうた)

  香具山は 畝傍を愛しと耳成と相争ひき
  神代より かくなるらし古へも しかなれこそ
  うつせみも 褄を争ふらしき (中大兄皇子 万葉集2-105)

香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って
耳成山の神様と争った。
神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。
神様の昔もそうであったからこそ、現代も人は結婚相手をめぐって争うものらしい。



京都の山科区御陵(みささぎ)という地名の由来は、
この場所に天智天皇陵があるので古来より呼ばれているらしい。

御陵は京都の東、山科の地にある山科御廟野古墳(京都市山科区御陵上御廟野町)
比叡山から続く山地の裾野に造られた上円下方墳

他の天皇陵が、京都市内や奈良にあるのに
なぜ天智天皇陵だけ ポツンと離れた山科にあるのか?
当時、都があった大津からも離れています。



天智天皇の死に関して 不思議な話が伝わっています。

日本書紀によると 天智天皇は病没したことになっているのですが
のちの平安時代末期に僧皇円によって書かれた扶桑略記では
驚くべき記述があります。

天智天皇が、馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず
後日 履いていた沓だけが見つかった。
その沓が 落ちていた所を山陵としたと

これを現代の権威ある歴史学者達は
四百年も後に書かれた本の記述は信頼するに当たらない
と ばっさりと切って捨ててしまっています。
けれども、彼らの言う信頼に価する資料であるはずの日本書紀における数々の矛盾
天武天皇の生没年、及び年齢の記述が一切無いこと
天武天皇が歴史上名前を表わす時期が異様に遅いこと

このように、天智天皇は政争の中で
暗殺されたとも思われる説話が 平安時代後期に伝わっていたことがうかがえます。



天智天皇 即位後 詠まれた次の歌の真実は?

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)

日本書紀の記録上、額田王が大海人皇子に嫁いだという記録はあるけれども
天智天皇に嫁いだという記録はありません。

当時、とくに彼等、彼女らのような立場にあった人間として婚姻は
その跡継ぎを作るためのものでもあった。

年長けて、その事がかなわなくなったならば特に寵愛を受けていたか
それに準ずる立場にいた女性でない限りその関係がとぎれていたとも考えられる。

万葉集における記述に関して言えば、
やはり額田王は 天智の妻としてしか読み取れない。

ここで大海人皇子の歌に人妻故にとあることをどう解釈するべきか
なぜ大海人皇子は自分の妻である額田王を人妻と呼んだのか
ここを明らかにしなければならない。

確かに日本書紀の記録上、額田王は大海人皇子の妻になったとしか記録はない。
しかし、このことが天智の妻とはならなかったという積極的な根拠とはなり得ない。
記録の漏れがありうるからだ。 

日本書紀をみると天皇の妻に関しての記述には、
その妻との間に生まれた皇子、皇女のことが伴うことが多い。
ということは、皇子、皇女の誕生がなかった相手は記録されないと言うこともあり得る。

額田王は大海人との間に十市皇女をなしている。
だからその婚姻関係は記録されたが、その後の天智との関係は子どもが出来なかったので
記録されなかったと言うことは充分にあり得る。

である以上、記録がないから婚姻関係がなかったと考えることは消極的な根拠にしかならない。
となると、大海人皇子の歌の人妻という語は、天智と額田王の結婚の根拠として
あながち無視できることではない。



日本書紀は、古代史に重要な影響を及ぼした額田王の存在を まるで無視している。
万葉集では、この時代の中心人物であるかのように、のびやかで優れた歌と共に
宮廷に深く関わった姿が鮮やかに描かれている。

この日本書記と万葉集のそれぞれが示すギャップが、歴史の裏に秘められた
重大な謎を物語っているのではないか

今日に続く天皇家が磐石となる礎を気付いたのが この時期であり
明治維新まで続いた律令制度がこの頃成立していることから
この時代は、日本という国家が誕生した時期でもあるといえる。

けれども、これまでの日本の歴史は その誕生過程の真相を深く追求することなく
曖昧にしたまま その後の歴史を語ってしまっている。

いかにして、国家成立の根源に関わる真相を知ることができるのであろうか
実は、以外なことに これまで まるで歴史に関わることのなかった額田王と
万葉集こそが この秘密の鍵を握っていたのである。

万葉歌人として知られてきた額田王のどこに、そのような秘密が隠されているのか
額田王とは何者なのか
天智天皇と天武天皇という古代史を代表する二人の英雄に愛され
優れた万葉歌人として華麗で多才な才能を発揮した この額田王は
今だに多くの謎を秘めた女性である。

なぜ、これほど知名度の高い人物の実像が解明されないのだろうか
その原因は、額田王に関する資料の決定的な欠如にある。

朝廷の正史である日本書紀において、天武紀に載る
「天皇、初め鏡王の女 額田 姫王をめして 十市皇女を生しませり」
たったこれだけ一行の説明で額田王の生涯をたどるのは実に困難なことである。
額田王を単なる万葉歌人として捉える限り、額田王の実像に迫ることは不可能である。

日本書紀は、天武紀に額田王の名を載せてはいる。
その後、天智天皇の妃になったことは、万葉集の歌から まぎれもない事実だが
天智紀には額田王は まったく記載されていない。

天智と天武という日本書紀における重要人物とかかわりあった額田王が
日本書紀から まるで無視されたことは 日本書紀編纂目的の意図を暗示し
額田王が日本書紀体制側にとって きわめて不都合な人物であったことをうかがわせる。

政局の中枢にいて政局の流れに関与していたはずの額田王をなんらかの事情によって
故意に抹殺したと考えれば 新たな額田王像が浮上してくるのは当然である。



額田王の父と姉と言われている方の名に 天皇家の三種の神器の一つである鏡がついている。
神社には 必ずといっていいほど鏡が祭られている。
鏡と神道祭祀は きってもきれない関係にあった。
額田王が 政局に大きな影響を与えていた巫女
宮廷の神事に奉仕する特殊な地位に位置する女性を表している。
そして、父とされる鏡王自体が 不明な存在で架空の人物と考えられる。

鏡が物部氏そのものを表していたことは額田王の正体を明確に示唆する。
物部出身のシャーマンであることが、いかに重要な存在を意味するものか
額田王を 単なる巫女として捉えるわけにはいかない。
王を名乗れるのは、皇族2~5世の王族のみであり采女ではないのである。

七世紀以前の神道は 天皇家というよりも物部氏のものであり
ヤマト朝廷の誕生は、ヤマトの盟主 物部氏が 神武天皇を招き寄せたものであり
物部氏は天皇家に后妃を送りこむことで政治と宗教の両極を支配することに成功した。

日本書紀では、なぜ 采女ともとれる記述に終始したのか
しかも、天智に嫁ぎ 人妻になったことは万葉集によって明確であるのに
日本書紀では この事実をまったく無視してしまっている。

この謎を解く一つの鍵は、藤原氏にある。
物部氏が作り出した朝廷システムを そのままそっくり継承した藤原氏にとって
物部氏が日本本来の正当な王家であり ヤマト朝廷成立以降
歴代の皇后を輩出し 実験を握っていたこと。

しかも、ニギハヤヒを祀る物部系の巫女であることが 皇后という資格を得られた
という事実を歴史上に残すことは藤原氏の所得した地位の正当性を否定することに
直結したのである。
そこで日本書紀を編纂して物部氏の実像を歪曲し 同時にニギハヤヒを
太陽神の座から引きずり降ろした。

このような藤原氏の陰謀の前に、ニギハヤヒを祀る巫女として
天智のもとに嫁いだ額田王も 当然 消し去られる運命だったのである。

額田王は天智天皇妃の系譜のなかにはまったく入れられていない。
けれども、額田王が天智の妃になっていた事実は明らかであり
実際に 皇后の位についてもおかしくないほどの重要な存在であったはずである。
とすれば、日本書記の天智妃の系譜も もう一度 見直す必要があるのは当然である。



天智の皇后として日本書紀に登場してくる倭姫王
倭と名のつく女性は きわめて高い位のシャーマンであった。
倭姫王は、天智の異母兄 古人大兄皇子の娘とされているが
架空の人物であったとも推理され 倭姫王の実像を隠すために
古人大兄皇子という虚像を作る必要があったとも考えられる。

倭姫王と額田王は 驚くほど共通点がある。

倭姫王が シャーマンとして天智のもとに嫁いだとすれば
彼女が物部系の女性であったことは ほぼ間違いない。
倭姫王という巫女の総称的な名から見ても 額田王の別名であったとしても不自然ではない。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
倭姫王と額田王が別人だとしたら、天智には超強力な力を持つ巫女が
二人も側にいたことになる。別人と考える方が、不自然ではないだろうか?
しかも、この二人は 数多くの共通点で結ばれている。

倭姫王は天智の皇后であったが 子はなさなかった。
額田王も天智との間に子がいない。

倭姫王は その名からみても巫女である。
額田王も三輪の巫女である。
三輪山はヤマトの神を祀るのである。
ヤマトの神の巫女は、すなわち倭姫王である。

倭姫王は、即位権のあった古人大兄皇子の娘とされ
しかも、天智天皇の皇后となった人物なのに生没年不詳である。
額田王も、天智 天武に関わりながら やはり生没年不詳である。

これらの共通点をみてみると両者が同一人物であったと思わざるをえなく
実際に 天智の行動を追ってみると つじつまがあってくるのも事実である。



例えば、天智一行は百済救済に向かう途中熟田津に立ち寄った。
万葉集は、この時 額田王の有名な歌を載せている。
この遠征には、朝廷のほとんどの重要人物が同行したことを日本書紀は記している。

このなかに、天武天皇妃である大田皇女が同行しているにも関わらず
この時の主役である天智天皇妃の記載が全くないのである。

しかも、老齢であった斉明まで連れて行ったこの行軍に
天智妃だけが不在であることは不自然である。

大海人皇子から額田王を奪ったので罪滅ぼしとして
自分の娘4人を大海人皇子に妃として送り込んだと言われているが
仮に そうだとして考えると、熟田津の歌が詠まれた時に
すでに額田王は天智の元にいたということになる。

万葉集が同行したことを証言する額田王に関して
日本書紀の記述から割り出すことができないのは
日本書紀にとって 額田王の行動を記すことがよほど重要な不都合があったのではないか

つまり、物部最後の姫 額田王と倭姫王が同一人物であったため
この事実を抹消すべく日本書紀は両者の名を記事から取り除いたのではないか



又、天智天皇が長く即位しなかったことは、政治史における謎の一つである。
天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新を成し遂げ
即位した後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。

こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが
万葉集に納められている歌から伺われるように
人間的な側面をも併せ持っていた。

天智天皇が政治的実権を手中にしながら
長らく即位しなかったことについては、様々な憶測がなされてきた。

有力な説としては、天武への配慮、またその背後に控える豪族たちとの抗争
といったもの、或は女性関係に原因があるといったものである。

即位すると正妃 皇后を立てる必要がある。

額田王を寵愛していたという天智天皇には
後宮に 多くの夫人がいたことが記されているが
ただ一人 皇后に立ったのが倭姫王である。

天智の子を産むこともなく、記紀も殆ど記するところがない
倭姫王は、夫の死に際して哀切な歌を作っている。
天智の死に際しては誰よりも強く
まるで悲しさを独占しているかのように切々たる情を歌う。
倭姫王は、類まれな優しい真情の持ち主だったようだ。

万葉集には、天智天皇の葬儀の最後の行事 御陵退去に際し
群集 后妃を代表して読んだ額田王の歌が収録されている。

ここから見て、額田王は 天智天皇の皇后であったと推測でき
倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう
という説が あります。



・・・・・参考までに・・・・・・・

倭姫王が、夫の死に際して詠った哀切な歌


天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天足らしたり(万2-147)

はてしなき大空を仰ぎ見れば
大君の御命は長々と天を満たしております。


青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)

青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。


人はよし思ひやむとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも(万2-149)

人はたとえあなたを忘れることがあっても
わたしにそんな日が来る事はないのです。
あなたを思わぬ日はなく
いつまでも面影が見えて忘れる事などできません。
どうして忘れる事ができるでしょう。


鯨魚(いさな)取り 淡海の海を
 沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
 沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
 若草の 夫の命の 思ふ鳥立つ(万2-153)

近江の海を沖から漕ぎ来る船よ
岸辺を漕ぎ来る船よ
舵をそんなに櫂で水をはねないでください。
亡き夫の愛する鳥(亡き夫の魂の比喩)が
驚いて飛び立ってしまうから。



そして、次は 額田王の歌
額田王は、 天智天皇を とても深く愛してしたことがわかります。

やすみしし 我ご大君の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる
  山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと
  昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや
  百敷の 大宮人は 行き別れなむ(万2-155)

我が大君の恐れ多き御陵に対し、山科の鏡山で 夜は夜通し昼は一日
声を上げて泣き続けています。
こんなふうに泣き続けながら、宮廷にお仕えする人はみな
散り散りに別れてゆくのでしょうか。




日本の古代国家は、645年の大化の改新後から
中国の律令制度にならった中央集権的な支配体制がつくられ
部族国家から統一国家への第1歩を踏み出した。

この新しい国家体制は天智天皇の死去、さらに壬申の乱をへて
天武天皇と持統天皇により、日本は古代国家として確立した。

天武天皇は壬申の乱を通じて神にまもられて即位したという意識が強く
そのため即位後の天皇の地位は、従来の部族の王を超えて
天を頂く天皇 つまり現人神になった。
  
日本書紀では、第1代神武天皇以来、天皇を称しているが
天皇が政治権力と神的権威をもって君臨するようになったのは
天武、持統天皇からと考えられる。

その天皇の権威を明確にするために、古事記、日本書紀が編纂され利用された。
そして万葉集には天皇を神としてたたえる賛歌がいくつか登場した。




倭姫王と同じ 倭姫が名前にある
日本武尊の叔母といわれる倭姫命

二千年前、倭姫命(やまとひめのみこと)は
天照大御神の鎮座する地を求めて旅をした。
旅の果てに伊勢を宮地と決め手から二千年が経った。

崇神天皇の時代、天変地異が頻発し疫病が蔓延した。
人心が乱れ、多くの死者が出、人口が約三分の一となった。
皇居の中で神(アマテラス)を祭祀している事が(天皇との同殿同床)
神の怒りに触れたとのご神託が下った。
崇神天皇は世の平安を願い、神を皇居から外に出すことを決めた。

倭姫命は巫女として、神であるアマテラスに仕え
その鎮座地にふさわしい場所を求めて各地を巡行した。
四十数年ともいわれる長い旅の末
ようやく神の御心に叶った土地を見つけて遷座した。
伊勢神宮の基礎はこのようにして築かれたのである。


アマテラスとは、
「天(アマ)=世界を照らす大いなる意思を持った生命エネルギー
(母なる女神)」のことである。
そのエネルギーを受けることのできる巫女が
オオヒルメとか、ヒミコと呼ばれていたのではないか。
神であるアマテラスは次元が違うのでご自分ではコップ一つ動かせない。
そこでアマテラスの心を受けた巫女が手足となって
神の御心を正しく感じ取りながら祭祀を行っていた。

倭姫命は、新しい国づくりのために選ばれた特別の巫女(シャーマン)でした。
神の声を聞きながら各地を転々と巡り
神の御心に叶った伊勢の五十鈴の川上にアマテラスを祀る祠を建てた。
以来、伊勢神宮は聖地として、二千年間連綿と守り継がれてきた。

後に、倭姫命は蛮族の討伐に東へ向かう日本武尊に天叢雲剣を与えている。

天叢雲剣は、天照大神の弟、須佐之男命が
八岐大蛇を退治したさいに、その尾から出現した剣

駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で
草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が草薙剣と呼ばれるようになった。

なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが
天智7年(668年天智天皇即位年)僧道行によって盗まれ
その後は宮中に留め置かれた。

ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり
剣は再度熱田神宮に祭られることになった。
熱田神宮には「酔笑人神事」といって
このときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり
草薙剣が 本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。



この剣、壇ノ浦で平家が安徳天皇と共にもって逃げ
安徳天皇が海に飛び込んでも剣だけは 浮いたという話があります。

安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母
二位尼に抱き上げられると
「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて
「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが
悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。
この世はつらくいとわしいところですから、極楽浄土という
結構なところにお連れ申すのです。」と言い聞かせる。

安徳天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えると
二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま
壇ノ浦の急流に身を投じ、安徳天皇は歴代最年少の8歳で崩御した。
『平家物語』「先帝身投」より

母の建礼門院(平清盛の娘の徳子)も入水するが
熊手に髪をかけられ引き上げられている。



                                 



以上、今日ここで ご紹介させていただきました色々な事柄

何が 本当で、何が 間違った解釈か
いつか 明らかになる時が くるのではないかと 思います。



人は、転生輪廻を するもの

韓国と日本が、韓流ブームをきっかけに 急速に交流が深まっている現在

天智天皇も 額田王も
生まれ変わって、同じような使命に 生きているかもしれません。



二人が、生まれ変わって
二人の転生輪廻の真実が 世界のために 必要なら

真実の方が 真実の時期に 真実の方法で
世界に幸福を 広げるために 明らかにされることでしょう。




 

生命を賭して、夫を愛した ・・・

2008年12月01日 17時10分02秒 | 懐かしいとき
 
「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火の中にたちて 問いし君はも」

  相模の国の野原で火攻めにあったときも
  私の身を気づかってくださった あなたの心は忘れません。



これは、弟橘媛が 夫 日本武尊の安全の為に 海神を沈めるために
自ら海に身を投げ、入水に当たって詠ったとされる辞世の歌

弟橘媛は、日本神話に登場する日本武尊の后
事跡は日本書紀の景行紀、および古事記の中巻、常陸国風土記に記されている。

穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘だという。
尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)を儲ける。

尊の東征に同行
走水(はしりみず)の海(現在の浦賀水道)に至った時
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した
尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。

海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。
海神の怒りを解くため、海に身を投じる。
侍女10人が、媛に従って入水した。
すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。
彼女が持っていた櫛は、七日後、海岸に流れ着いた。

『日本書紀』によれば碓日嶺(現在の碓氷峠)
『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において
媛を忘れられない尊は、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。
日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。
いわゆる地名起源説話である。



二人は、固い絆で結ばれていたことがわかる。

海神を鎮める為 自ら身を投げ出したのが、弟橘媛
夫に使命を遂げさせるために、我が身を投げ出した使命感
生命を賭しての愛

日本女性とは、どういう存在であるのか
日本女性の強靭な生き方の原型を示すものではないか?



                                 
 

倭建命(古事記では、このように表記)と弟橘媛の愛
これは、神話 伝説ではなく事実です。
私たちと同じように肉体を持った人間が、遠い遠い昔に経験した美しい夫婦愛です。

100年、200年・・・1,000年、2,000年・・・
時を経て、変わらないものは 夫婦愛しあい 生命をつないでいくこと。

どのような夫婦の形態、妻としての姿を極めるか?
100人いらしたら、100通りの考えがあられるでしょう。
100組の夫婦には、100通りの夫婦の形が存在されるでしょう。

二人が歩む日々が、どのような日々になるかは
愛し合う夫婦二人の努力の結果によるもの。
同じ生きるのであるならば、二度と戻らない一秒一秒を美しく尊いものとしたい。

私は、夫のために生きられる日々
夫の存在が、私の幸福  夫の幸福が私の幸福
このように幸せを感じる人間です。



そんな私の目の前に、今 弟橘媛さまがいらっしゃいましたら・・・

「とても、とても大きな使命を果たされましたね。
どれだけの愛と勇気が必要だったことでしょう。
現在は、生命を賭さなくてもよい時代になりました。
海神の怒りを解く方法、荒れ狂った海を静める方法
夫の生命を救う特別な方法をお知らせします。」・・・と
宇宙根源の力を使い、運命を切り開く至高方法を 私は お伝えします。

弟橘媛さま ・・・
私は、あなたの生き方を学び 手本とし
日本女性の優美な姿を美しく完成させることをお誓い致します。



私が、このような内容を堂々と書き綴れる理由は
全ての物事に対する絶対的確信です。
ここまで書けるのは、よほど正しいか 異常に間違っているか
極論すればどちらかではないでしょうか?

私は、普通に生きている一般人です。ただ違うのは・・・
ここを訪れてくださる方々の想いの種類まで感知してしまうような
体質で生まれたということだけです。

私は、今世 その力を存分に使い 夫の成功のために生き続けます。
 

一期一会

2008年11月22日 01時01分25秒 | 懐かしいとき
  
「君が代」は、日本の国歌ですが このもとにあたる歌は
「古今集」にあります。


我が君は 千代に八千代に
        さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

わが君は、千年も八千年も ずっとずっと長生きをしてください。
小石が成長して 大きな岩となって 苔が生えるまでも



私の夫が 長生きをしますように
小さな石が大きくなって 大きな岩となって そして苔がむすまで
そんな長い年月 ずっと ずっと 元気でいらしてください
   という願いを込めて 詠われた歌です。

真実は・・・夫の長寿を祝う歌  とても素晴らしい夫婦関係

そこには 政治的な意味合いはなく、「きみ」は「あなた」のことを指し
あなたの長寿が この先も末永く続くことを願っている歌

明治の初めに この歌詞が国歌にもちいられることになった時
解釈し直され、天皇の治める世が 末永く続くことを願う歌とされ
政治的意味を 帯びるようになっていきました。




「古今集」
醍醐天皇の勅命によって 編まれた 初めての勅撰和歌集
平安時代の延喜5年(905年)に成立
同年4月18日(5月29日)に 醍醐天皇に奏上された。
『万葉集』から撰者の時代までの140年間の名歌を集めている。



                    



大切な 大切な夫には、ずっと元気で長生きして欲しい
心から そのように願います。

先日 ご主人が 天国に帰られた彼女を見ても そう思います。



今日、その子とは違う別の友達が、遊びに来てくれました。
その友達を お見送りさせていただいた時・・・
今日のこと 一生忘れないと 大きく手を振り お伝えできた幸福な時間でした。

たくさんのお土産と 愛を届けて下さって・・・サンタさんみたいだったんです(涙)
夫と以前よりも仲良くしているのよ~と言われてました。
とても、とても 嬉しかったです。

一日一生です・・・夫婦で仲良くできる時間を持てる方 素敵ですね。
仕事に出かける夫を 毎日 お見送りできる妻の立場の方 幸せですね。。。



お見送り時ですが・・・
私は、不特定多数の方とあまり握手はしません。特に、男性の方とは・・・
エネルギー交流になるのです。

けれども、女性の友達は 私をよく抱きしめてくださいます。
私は、家に遊びに来てくださった方のお姿が見えなくなるまで
いつも、お見送りをさせていただいています。

お姿が、見えなくなったら 心からの感謝を込めて
ありがとうございます と帰って行かれた方向に お辞儀をさせていただいています。



どんな出逢いも、一期一会だから・・・
皆様と 共に大切な時間を過ごせること とても幸せです。

全ての方々が 毎日 愛に溢れた幸せな時を すごされますように・・・
やさしい やさしい時間を・・・




・・・ご連絡をいただいた皆様へ

私が、どこかに行ってしまうのではないか?
ryuruに逢いたいと ご連絡を たくさんいただいています。
ありがとうございます。

ここで生存確認を みなさんにしていただいている状態で
全ての方々に 返信が すぐ出来ていなくて ごめんなさい。

もう少し、お時間を下さい。
必ず、お一人お一人に ご連絡をさせていただきます。

私は、皆様から 愛されて 幸せです。 ありがとうございます。
こんなに いい人ばかりいらして・・・
私も、皆様のように 愛深き人になれますように・・・頑張ります。
 

女神 額田王

2008年11月08日 05時29分29秒 | 懐かしいとき
 


いつの頃だったでしょう?

私は、初めて、額田王の名前を見た時
言葉にならない数々の想いが 心から溢れるように出て
止まらなかった。



万葉集随一の女流歌人 謎の歌姫

実は、額田王は、日本武尊の妃
日本女性の鏡といわれる 弟橘媛の分霊です。
(分霊:一つの魂が別々の個性を持って独立した魂になること)
      ↑
これは、日本神道系での表現方法で 本来は、魂の兄弟・分身のことの意です。


弟橘媛は、夫の安全の為に 海神を沈めるために
自ら海に身を投げ、侍女10人が媛に従って入水しています。


これは、弟橘媛の愛の人柄と、身を捨てても夫を救おうとした
祈りが感じられる 入水に当たって詠ったとされる辞世の歌です。

「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火の中にたちて 問いし君はも」
(相模の国の野原で火攻めにあったときも、私の身を気づかってくださった
 あなたの心は忘れません)


霊査によれば・・・
弟橘媛は、極めて清楚で美しく、少し気が強く、しっかりした
頭のよい女性で その魂の本質は、竜宮界の女神

竜宮界の住人となれる条件は・・・
澄み切った心、常に美しい感情・感性を保ち
美しい言葉を発すること。



7世紀、和歌は 現代では信じられないほど重要なものでした。
見事な歌は、ときに神の怒りを鎮め、ときに人に幸せをもたらすものでした。

特に、額田王は 言魂の宿る歌を詠む力を持っていると信じられており
額田王には、神が宿ると思われ、公の行事でも天皇に代わって
歌を作った(御言持ち) 並ぶ者なき優れた女流歌人です。

御言持ち:天皇の心を歌を通じて広く民に伝える役

又、神と交信する巫女的性格を備えていて
その力は、政治を仕切る権力者たちにとって、大きな魅力であったことは
想像に難くありません。



大和朝廷は
天皇家と物部氏の「和」=連合によって成り立っていた。

天皇は、物部氏より妃を得て即位する。

妃は、神事を行い、神の意を受信し
その神意に基づいて天皇が政治を行う
そういうシステムであったといいます。




額田王も、物部氏の最高位に位置する女性だったらしいのです。
単なる巫女や後宮の一女性ではなく、「王」の名の示すとおり皇族であり
連合政権の要であったらしいのです。


額田王につながる物部氏の勢力は、天智天皇が「大化の改新」で
やりきれなかった土地改革を藤原不比等と組んでやり抜いた
持統天皇によってその膨大な土地を召し上げられる事で消滅しました。


そして、天皇家の地位を強調する正史「日本書記」が成立し
この過程で、額田王の出自は、物部氏と天皇家との
関わりが消されていくと共に抹消され
天智天皇と天武天皇とのロマンスの謎が残ったようです。




運命に翻弄されたかのような額田王の人生ですが
どんな立場に置かれようとも 毅然とした女らしさ
美しい心を失わず、澄み切った心を大切にする女神らしく
執着とも縁が無いと感じ取れます。


せつない恋や詩を詠っていても、すぐれて論理的であり
いつも透明で澄み切っていた明るさがあります。

又、詩の背景には時代が歴史的事実が 必ずと言っていいほど
読みこまれていました。




  近江天皇を思ひて作る歌

「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の
 すだれ動かし 秋の風吹く」 額田王

近江天皇とは、天智天皇・・・
あなたが恋しくて恋しくて、心待ちにして恋い慕っていると
 すだれが動いて、あなたと思ったら、それは秋の風でした。



弟橘姫の分霊ならば、ひとすじの愛を全うする魂であり
この歌は、万葉集 編者の間違いか意図的作為ではないだろうか?
と言われる方もいらっしゃいます。

けれども、私は 編者の間違いでもなく、意図的作為でもなく
額田王は、天智天皇を 愛していたと思います。



天智天皇(626~672年1月7日)

中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害
叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。
そして大化という元号を制定し、様々な改革を行なった。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため
朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し百済復興を図った。
百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが
661年、斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず称制したが
663年、白村江の戦いで大敗を喫した後大津へ遷都してそこで即位した。


大海人皇子から額田王を奪ったので
罪滅ぼしとして(自分の)娘4人を大海人皇子の元に妃として
送り込んだと言われている。




天智天皇が長く即位しなかったことは
7世紀の政治史における謎の一つです。

このことについて議論されている説がいくつか存在します。

天武天皇を推す勢力への配慮。
即ち、従来定説とされてきた
天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤り

『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される
天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば
天武が年長となってしまいます。

聖徳太子が十七条憲法を制定して、日本を仏国土にしようとしていた時
光の菩薩の出城は、天皇家にありました。
蘇我入鹿に魔が入り、国政を壟断しようとしていた時に
天智天皇は、立ち上がりクーデターを起こされました。

皇子ともあろうものが、祭りの際に 政府の高官を斬って捨てられました。
天皇家の方が 家臣を斬って捨てるというのは 前代未聞のことでした。
これだけのことをして日本の国政を守られたのです。




藤原 鎌足(614~669)
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)

飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。
大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し
藤原氏繁栄の礎を築いた。

「藤原」姓を賜ったのは、わずか死の一日前



藤原氏は中臣鎌足が賜姓してからの一族と云われます。
初代が藤原鎌足です。
ところが、中臣氏はその後も別系で存続しているのです。

中臣氏と藤原氏は別系ではないかと考えられます。
鎌足は、中臣氏に一旦入り婿し、その後、賜姓して分派したと。
中臣氏は、元来男覡として祭祀を司る一族ですが
藤原氏にはその様な例が見られません。

韓半島南部の伝承で、藤原氏は
百済 朴(パク)氏の出自であると云うものがあります。

おそらくこれが、藤原氏の出自を正しく伝えていると考えられます。
百済滅亡前後に渡来した一族だと思われます。

賜姓については、一般に、公的文書への署名には用いますが
通称では用いないことが多いのです。

賜姓後の藤原氏は中臣姓を一切を用いていないことが
上記推察の裏付けにもなります。

無論、百済は唐に反抗し、滅んでいますから
朴姓を用いるはずもありません。

おそらく、百済王族に近い一族であったため
その後日本においても王権に近い位置を
占めているのだと、考えられます。