今日は、百済を救済しようとした 天智天皇と
天智から 寵愛を受けたとされる 額田王について
記述されている事柄を 色々な書籍他から ご紹介させていただきます。
(出所を リンクしていなくて 申し訳ありません。)
二人が生きた時代は、現在の朝鮮と日本とが大きく関わっていた時代
ということは、ご存知の通りです。
中大兄の三山歌(みつやまのうた)
香具山は 畝傍を愛しと耳成と相争ひき
神代より かくなるらし古へも しかなれこそ
うつせみも 褄を争ふらしき (中大兄皇子 万葉集2-105)
香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って
耳成山の神様と争った。
神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。
神様の昔もそうであったからこそ、現代も人は結婚相手をめぐって争うものらしい。
京都の山科区御陵(みささぎ)という地名の由来は、
この場所に天智天皇陵があるので古来より呼ばれているらしい。
御陵は京都の東、山科の地にある山科御廟野古墳(京都市山科区御陵上御廟野町)
比叡山から続く山地の裾野に造られた上円下方墳
他の天皇陵が、京都市内や奈良にあるのに
なぜ天智天皇陵だけ ポツンと離れた山科にあるのか?
当時、都があった大津からも離れています。
天智天皇の死に関して 不思議な話が伝わっています。
日本書紀によると 天智天皇は病没したことになっているのですが
のちの平安時代末期に僧皇円によって書かれた扶桑略記では
驚くべき記述があります。
天智天皇が、馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず
後日 履いていた沓だけが見つかった。
その沓が 落ちていた所を山陵としたと
これを現代の権威ある歴史学者達は
四百年も後に書かれた本の記述は信頼するに当たらない
と ばっさりと切って捨ててしまっています。
けれども、彼らの言う信頼に価する資料であるはずの日本書紀における数々の矛盾
天武天皇の生没年、及び年齢の記述が一切無いこと
天武天皇が歴史上名前を表わす時期が異様に遅いこと
このように、天智天皇は政争の中で
暗殺されたとも思われる説話が 平安時代後期に伝わっていたことがうかがえます。
天智天皇 即位後 詠まれた次の歌の真実は?
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)
日本書紀の記録上、額田王が大海人皇子に嫁いだという記録はあるけれども
天智天皇に嫁いだという記録はありません。
当時、とくに彼等、彼女らのような立場にあった人間として婚姻は
その跡継ぎを作るためのものでもあった。
年長けて、その事がかなわなくなったならば特に寵愛を受けていたか
それに準ずる立場にいた女性でない限りその関係がとぎれていたとも考えられる。
万葉集における記述に関して言えば、
やはり額田王は 天智の妻としてしか読み取れない。
ここで大海人皇子の歌に人妻故にとあることをどう解釈するべきか
なぜ大海人皇子は自分の妻である額田王を人妻と呼んだのか
ここを明らかにしなければならない。
確かに日本書紀の記録上、額田王は大海人皇子の妻になったとしか記録はない。
しかし、このことが天智の妻とはならなかったという積極的な根拠とはなり得ない。
記録の漏れがありうるからだ。
日本書紀をみると天皇の妻に関しての記述には、
その妻との間に生まれた皇子、皇女のことが伴うことが多い。
ということは、皇子、皇女の誕生がなかった相手は記録されないと言うこともあり得る。
額田王は大海人との間に十市皇女をなしている。
だからその婚姻関係は記録されたが、その後の天智との関係は子どもが出来なかったので
記録されなかったと言うことは充分にあり得る。
である以上、記録がないから婚姻関係がなかったと考えることは消極的な根拠にしかならない。
となると、大海人皇子の歌の人妻という語は、天智と額田王の結婚の根拠として
あながち無視できることではない。
日本書紀は、古代史に重要な影響を及ぼした額田王の存在を まるで無視している。
万葉集では、この時代の中心人物であるかのように、のびやかで優れた歌と共に
宮廷に深く関わった姿が鮮やかに描かれている。
この日本書記と万葉集のそれぞれが示すギャップが、歴史の裏に秘められた
重大な謎を物語っているのではないか
今日に続く天皇家が磐石となる礎を気付いたのが この時期であり
明治維新まで続いた律令制度がこの頃成立していることから
この時代は、日本という国家が誕生した時期でもあるといえる。
けれども、これまでの日本の歴史は その誕生過程の真相を深く追求することなく
曖昧にしたまま その後の歴史を語ってしまっている。
いかにして、国家成立の根源に関わる真相を知ることができるのであろうか
実は、以外なことに これまで まるで歴史に関わることのなかった額田王と
万葉集こそが この秘密の鍵を握っていたのである。
万葉歌人として知られてきた額田王のどこに、そのような秘密が隠されているのか
額田王とは何者なのか
天智天皇と天武天皇という古代史を代表する二人の英雄に愛され
優れた万葉歌人として華麗で多才な才能を発揮した この額田王は
今だに多くの謎を秘めた女性である。
なぜ、これほど知名度の高い人物の実像が解明されないのだろうか
その原因は、額田王に関する資料の決定的な欠如にある。
朝廷の正史である日本書紀において、天武紀に載る
「天皇、初め鏡王の女 額田 姫王をめして 十市皇女を生しませり」
たったこれだけ一行の説明で額田王の生涯をたどるのは実に困難なことである。
額田王を単なる万葉歌人として捉える限り、額田王の実像に迫ることは不可能である。
日本書紀は、天武紀に額田王の名を載せてはいる。
その後、天智天皇の妃になったことは、万葉集の歌から まぎれもない事実だが
天智紀には額田王は まったく記載されていない。
天智と天武という日本書紀における重要人物とかかわりあった額田王が
日本書紀から まるで無視されたことは 日本書紀編纂目的の意図を暗示し
額田王が日本書紀体制側にとって きわめて不都合な人物であったことをうかがわせる。
政局の中枢にいて政局の流れに関与していたはずの額田王をなんらかの事情によって
故意に抹殺したと考えれば 新たな額田王像が浮上してくるのは当然である。
額田王の父と姉と言われている方の名に 天皇家の三種の神器の一つである鏡がついている。
神社には 必ずといっていいほど鏡が祭られている。
鏡と神道祭祀は きってもきれない関係にあった。
額田王が 政局に大きな影響を与えていた巫女
宮廷の神事に奉仕する特殊な地位に位置する女性を表している。
そして、父とされる鏡王自体が 不明な存在で架空の人物と考えられる。
鏡が物部氏そのものを表していたことは額田王の正体を明確に示唆する。
物部出身のシャーマンであることが、いかに重要な存在を意味するものか
額田王を 単なる巫女として捉えるわけにはいかない。
王を名乗れるのは、皇族2~5世の王族のみであり采女ではないのである。
七世紀以前の神道は 天皇家というよりも物部氏のものであり
ヤマト朝廷の誕生は、ヤマトの盟主 物部氏が 神武天皇を招き寄せたものであり
物部氏は天皇家に后妃を送りこむことで政治と宗教の両極を支配することに成功した。
日本書紀では、なぜ 采女ともとれる記述に終始したのか
しかも、天智に嫁ぎ 人妻になったことは万葉集によって明確であるのに
日本書紀では この事実をまったく無視してしまっている。
この謎を解く一つの鍵は、藤原氏にある。
物部氏が作り出した朝廷システムを そのままそっくり継承した藤原氏にとって
物部氏が日本本来の正当な王家であり ヤマト朝廷成立以降
歴代の皇后を輩出し 実験を握っていたこと。
しかも、ニギハヤヒを祀る物部系の巫女であることが 皇后という資格を得られた
という事実を歴史上に残すことは藤原氏の所得した地位の正当性を否定することに
直結したのである。
そこで日本書紀を編纂して物部氏の実像を歪曲し 同時にニギハヤヒを
太陽神の座から引きずり降ろした。
このような藤原氏の陰謀の前に、ニギハヤヒを祀る巫女として
天智のもとに嫁いだ額田王も 当然 消し去られる運命だったのである。
額田王は天智天皇妃の系譜のなかにはまったく入れられていない。
けれども、額田王が天智の妃になっていた事実は明らかであり
実際に 皇后の位についてもおかしくないほどの重要な存在であったはずである。
とすれば、日本書記の天智妃の系譜も もう一度 見直す必要があるのは当然である。
天智の皇后として日本書紀に登場してくる倭姫王
倭と名のつく女性は きわめて高い位のシャーマンであった。
倭姫王は、天智の異母兄 古人大兄皇子の娘とされているが
架空の人物であったとも推理され 倭姫王の実像を隠すために
古人大兄皇子という虚像を作る必要があったとも考えられる。
倭姫王と額田王は 驚くほど共通点がある。
倭姫王が シャーマンとして天智のもとに嫁いだとすれば
彼女が物部系の女性であったことは ほぼ間違いない。
倭姫王という巫女の総称的な名から見ても 額田王の別名であったとしても不自然ではない。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
倭姫王と額田王が別人だとしたら、天智には超強力な力を持つ巫女が
二人も側にいたことになる。別人と考える方が、不自然ではないだろうか?
しかも、この二人は 数多くの共通点で結ばれている。
倭姫王は天智の皇后であったが 子はなさなかった。
額田王も天智との間に子がいない。
倭姫王は その名からみても巫女である。
額田王も三輪の巫女である。
三輪山はヤマトの神を祀るのである。
ヤマトの神の巫女は、すなわち倭姫王である。
倭姫王は、即位権のあった古人大兄皇子の娘とされ
しかも、天智天皇の皇后となった人物なのに生没年不詳である。
額田王も、天智 天武に関わりながら やはり生没年不詳である。
これらの共通点をみてみると両者が同一人物であったと思わざるをえなく
実際に 天智の行動を追ってみると つじつまがあってくるのも事実である。
例えば、天智一行は百済救済に向かう途中熟田津に立ち寄った。
万葉集は、この時 額田王の有名な歌を載せている。
この遠征には、朝廷のほとんどの重要人物が同行したことを日本書紀は記している。
このなかに、天武天皇妃である大田皇女が同行しているにも関わらず
この時の主役である天智天皇妃の記載が全くないのである。
しかも、老齢であった斉明まで連れて行ったこの行軍に
天智妃だけが不在であることは不自然である。
大海人皇子から額田王を奪ったので罪滅ぼしとして
自分の娘4人を大海人皇子に妃として送り込んだと言われているが
仮に そうだとして考えると、熟田津の歌が詠まれた時に
すでに額田王は天智の元にいたということになる。
万葉集が同行したことを証言する額田王に関して
日本書紀の記述から割り出すことができないのは
日本書紀にとって 額田王の行動を記すことがよほど重要な不都合があったのではないか
つまり、物部最後の姫 額田王と倭姫王が同一人物であったため
この事実を抹消すべく日本書紀は両者の名を記事から取り除いたのではないか
又、天智天皇が長く即位しなかったことは、政治史における謎の一つである。
天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新を成し遂げ
即位した後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。
こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが
万葉集に納められている歌から伺われるように
人間的な側面をも併せ持っていた。
天智天皇が政治的実権を手中にしながら
長らく即位しなかったことについては、様々な憶測がなされてきた。
有力な説としては、天武への配慮、またその背後に控える豪族たちとの抗争
といったもの、或は女性関係に原因があるといったものである。
即位すると正妃 皇后を立てる必要がある。
額田王を寵愛していたという天智天皇には
後宮に 多くの夫人がいたことが記されているが
ただ一人 皇后に立ったのが倭姫王である。
天智の子を産むこともなく、記紀も殆ど記するところがない
倭姫王は、夫の死に際して哀切な歌を作っている。
天智の死に際しては誰よりも強く
まるで悲しさを独占しているかのように切々たる情を歌う。
倭姫王は、類まれな優しい真情の持ち主だったようだ。
万葉集には、天智天皇の葬儀の最後の行事 御陵退去に際し
群集 后妃を代表して読んだ額田王の歌が収録されている。
ここから見て、額田王は 天智天皇の皇后であったと推測でき
倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう
という説が あります。
・・・・・参考までに・・・・・・・
倭姫王が、夫の死に際して詠った哀切な歌
天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天足らしたり(万2-147)
はてしなき大空を仰ぎ見れば
大君の御命は長々と天を満たしております。
青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)
青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。
人はよし思ひやむとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも(万2-149)
人はたとえあなたを忘れることがあっても
わたしにそんな日が来る事はないのです。
あなたを思わぬ日はなく
いつまでも面影が見えて忘れる事などできません。
どうして忘れる事ができるでしょう。
鯨魚(いさな)取り 淡海の海を
沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫の命の 思ふ鳥立つ(万2-153)
近江の海を沖から漕ぎ来る船よ
岸辺を漕ぎ来る船よ
舵をそんなに櫂で水をはねないでください。
亡き夫の愛する鳥(亡き夫の魂の比喩)が
驚いて飛び立ってしまうから。
そして、次は 額田王の歌
額田王は、 天智天皇を とても深く愛してしたことがわかります。
やすみしし 我ご大君の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる
山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと
昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや
百敷の 大宮人は 行き別れなむ(万2-155)
我が大君の恐れ多き御陵に対し、山科の鏡山で 夜は夜通し昼は一日
声を上げて泣き続けています。
こんなふうに泣き続けながら、宮廷にお仕えする人はみな
散り散りに別れてゆくのでしょうか。
日本の古代国家は、645年の大化の改新後から
中国の律令制度にならった中央集権的な支配体制がつくられ
部族国家から統一国家への第1歩を踏み出した。
この新しい国家体制は天智天皇の死去、さらに壬申の乱をへて
天武天皇と持統天皇により、日本は古代国家として確立した。
天武天皇は壬申の乱を通じて神にまもられて即位したという意識が強く
そのため即位後の天皇の地位は、従来の部族の王を超えて
天を頂く天皇 つまり現人神になった。
日本書紀では、第1代神武天皇以来、天皇を称しているが
天皇が政治権力と神的権威をもって君臨するようになったのは
天武、持統天皇からと考えられる。
その天皇の権威を明確にするために、古事記、日本書紀が編纂され利用された。
そして万葉集には天皇を神としてたたえる賛歌がいくつか登場した。
倭姫王と同じ 倭姫が名前にある
日本武尊の叔母といわれる倭姫命
二千年前、倭姫命(やまとひめのみこと)は
天照大御神の鎮座する地を求めて旅をした。
旅の果てに伊勢を宮地と決め手から二千年が経った。
崇神天皇の時代、天変地異が頻発し疫病が蔓延した。
人心が乱れ、多くの死者が出、人口が約三分の一となった。
皇居の中で神(アマテラス)を祭祀している事が(天皇との同殿同床)
神の怒りに触れたとのご神託が下った。
崇神天皇は世の平安を願い、神を皇居から外に出すことを決めた。
倭姫命は巫女として、神であるアマテラスに仕え
その鎮座地にふさわしい場所を求めて各地を巡行した。
四十数年ともいわれる長い旅の末
ようやく神の御心に叶った土地を見つけて遷座した。
伊勢神宮の基礎はこのようにして築かれたのである。
アマテラスとは、
「天(アマ)=世界を照らす大いなる意思を持った生命エネルギー
(母なる女神)」のことである。
そのエネルギーを受けることのできる巫女が
オオヒルメとか、ヒミコと呼ばれていたのではないか。
神であるアマテラスは次元が違うのでご自分ではコップ一つ動かせない。
そこでアマテラスの心を受けた巫女が手足となって
神の御心を正しく感じ取りながら祭祀を行っていた。
倭姫命は、新しい国づくりのために選ばれた特別の巫女(シャーマン)でした。
神の声を聞きながら各地を転々と巡り
神の御心に叶った伊勢の五十鈴の川上にアマテラスを祀る祠を建てた。
以来、伊勢神宮は聖地として、二千年間連綿と守り継がれてきた。
後に、倭姫命は蛮族の討伐に東へ向かう日本武尊に天叢雲剣を与えている。
天叢雲剣は、天照大神の弟、須佐之男命が
八岐大蛇を退治したさいに、その尾から出現した剣
駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で
草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が草薙剣と呼ばれるようになった。
なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが
天智7年(668年天智天皇即位年)僧道行によって盗まれ
その後は宮中に留め置かれた。
ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり
剣は再度熱田神宮に祭られることになった。
熱田神宮には「酔笑人神事」といって
このときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり
草薙剣が 本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。
この剣、壇ノ浦で平家が安徳天皇と共にもって逃げ
安徳天皇が海に飛び込んでも剣だけは 浮いたという話があります。
安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母
二位尼に抱き上げられると
「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて
「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが
悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。
この世はつらくいとわしいところですから、極楽浄土という
結構なところにお連れ申すのです。」と言い聞かせる。
安徳天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えると
二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま
壇ノ浦の急流に身を投じ、安徳天皇は歴代最年少の8歳で崩御した。
『平家物語』「先帝身投」より
母の建礼門院(平清盛の娘の徳子)も入水するが
熊手に髪をかけられ引き上げられている。
以上、今日ここで ご紹介させていただきました色々な事柄
何が 本当で、何が 間違った解釈か
いつか 明らかになる時が くるのではないかと 思います。
人は、転生輪廻を するもの
韓国と日本が、韓流ブームをきっかけに 急速に交流が深まっている現在
天智天皇も 額田王も
生まれ変わって、同じような使命に 生きているかもしれません。
二人が、生まれ変わって
二人の転生輪廻の真実が 世界のために 必要なら
真実の方が 真実の時期に 真実の方法で
世界に幸福を 広げるために 明らかにされることでしょう。