可能な限り、更新しよう~ と思いながら
今年も、今日と明日
あと 2日に なりました。
今日は、最近の私
こんな生活をして こんなこと してました
みたいな 色々を 綴ってみます。
よろしければ、お付き合いください。
最近、オルソケラトロジーを お休みして
1 Dayのソフトコンタクトレンズを 使っています。
オルソケラトロジー(Orthokeratology)
特殊なカーブデザインが施されたハードコンタクトレンズを装用することで
角膜形状を変形して矯正し、主に近視などの眼科的屈折異常を治療する
角膜矯正療法
通い慣れた 眼科に 久しぶりに行って言われることは、
目が特殊 & ryuruは相変わらず、天然だと(TT)
私は、かなり抜けている & 天然ボケなので
このブログに 綴っているような
科学的な内容を 話し始めると
外見と 中身が ここまで違う人も 珍しいと
呆れるように 言われます。
どのような、ボケっぷりかと言うと
担当の人が 荷物を置いてください と言われて
棚に服を入れて、あれ? なかなか案内されないわ
と思っていると 私が Bagを持ったままなので
案内できないと・・・
ふと 自分の姿を見ると Bagを持ったまま 立っている・・・
本人は、Bagも 棚に入れたつもり
担当の人と向き合って 椅子に座わり
右に 少し移動してください と言われ
すばやく、さっと 動いたら・・・
担当の私から見て 右ではなく、ryuruちゃんの右ですと・・・
私は、右に動いてください と言われて
なぜか 左に素早く動いていて@@
本人は ちゃんと 右に動いたつもり
コンタクトレンズの裏表を
何度も何度も 確認して 目に入れたのに
寝る前に外す時、やっと 反対を入れていたことに気が付いた。
裏返しに 入れていても・・・1日経過しても 気が付いてない・・・
それで、見えにくかったのね
本人は、ちゃんと 表を入れていたつもり
眼科の担当の人は
私は、ryuruちゃんと 漫才をしているんじゃないんです
と 真面目に 言われるのですが
私も わざとしている訳では ないんです (TT)
す、すみませ~~~ん。
こんな ボケボケryuruなのに
ここに 書けないほどの、可笑しいことを
毎日 たくさんしていても
Yちゃんは
ryuruは、飽きない。面白い と言って
いつも、遊んで下さいます。
この前、Yちゃんのお誕生日の 雨の日
Yちゃんと二人で 道を 歩いていました。
なるべく 雨に濡れないように、
目の前の信号が 青のうちに 早く渡ろうと
私が、早歩きをしたら
なぜか Yちゃんが 後ろから走ってくる。
ひぇぇぇ
どうして走るの~?
走らなくても 渡れるのに~~~
ryuruちゃんが 走っているから
私は 走ってないよ~ 早歩きしてるだけ~
と言いながら、
傘さして、雨の中 大笑いしながら
追いかけっこするみたいに
二人で 荷物持って 走ってました。
その後、デパートの食料品売り場で
ばさばさバサッ と 大きな音がして
何の音??? と見てみると・・・
私の持っていた荷物が なぜか床に 全部 落ちてる。
きゃ~~~
さっき、走った時 雨で濡れて
取っ手部分は 無事なのに、紙袋の底が 抜けてる。
そのryuruを見て、クスクス 笑いながら
Yちゃんは、お買い物かごを 持ってきて
助けて下さったのでした。
大した事ではないのに
私たちは、いつも こんな感じで
にぎやかに 街を歩いているので
チケットぴあ のお店の お友達は
私たちを 見かける度に
いつも、楽しそうだよね。
コーヒー飲みに行く時、私も誘ってね
と 言われます。
Yちゃんは、お友達だけど お姉さんみたいです。
私は、姉が欲しかったので
成人して、こんなに 仲良しのお友達が出来たのは
とても、とても 幸せと思っています。
実の姉ではないけれど
離れ離れになっていた 姉に 巡り会えた
そんな感じに 思っています。
世間では、色々な 再会劇がありますね。
今日は、家族の再会の記事を ご紹介します。
長年の仲良し2人は双子だった、出会いから数十年後にDNA鑑定で判明。
http://www.narinari.com/Nd/20101214706.html
普段当たり前のように接している友人や知人が、
突然自分と同じ血が流れる兄弟姉妹だと判明したら、
人はどのような反応を示すのだろうか。
今まで以上に仲良くなるのか、それとも距離を置くようになるのか――。
中国では先日、仲の良い友人として付き合っていた2人の女性が、
実は双子の姉妹であることが発覚。
それは2人が出逢ってから38年という長い月日が流れた後に訪れた
サプライズだった。
中国紙大河報や環球時報、中国日報などによると、
今年50歳になる華霞さんと馬玲さん(ともに仮名)が出逢ったのは、
今から38年も前のこと。
河南省洛陽で育った2人は、お互い近所に住んでいたにも関わらず、
それまでは会うことがなかったという。
ときおり友人や知人から「似ている女の子がいる」と
何度か聞かされたことはあったそうだが、直接出逢うことは一切なかった。
しかし、1972年10月、華さんと馬さんの友人同士が知り合いだったことから、
2人は顔を合わせることになる。華さんと馬さんは外見が似ているだけでなく、
孤児だったことなど生い立ちもとても似通っていたため、
友人が気を利かせて会えるように取り計らってくれたのだという。
華さんは馬さんと最初に会ったときのことを今でも鮮明に覚えており、
「まるで鏡を見ているようでしたよ。とても不思議でした」と振り返る。
友人の紹介で知り合った2人だが、すぐに意気投合。
時間が経つに連れ、2人の関係はどんどん深まって行った。
しかし、当時の2人の家庭の暮らしは正反対。華さんの家庭は比較的裕福で、
馬さんの家庭は貧しい農村家庭だった。そのため、華さんは養母にお願いして、
馬さんにもお揃いの洋服を作ってくれるようお願いしたりしたそうだ。
また、華さんの母親が病気になったときには、
馬さんが交代で看病に訪れたりするなど、
もはや2人は本当の姉妹のような関係になっていた。
1980年になると、2人は相前後して結婚。子どもも誕生した。
ともに生活は今まで以上に忙しくなり、関係も疎遠になるかと思いきや、
今度は家族間の交流が始まる。
2000年に華さんの夫が病に倒れ帰らぬ人となったときには、
馬さんは頻繁に日用品や食品を届けたりするなどしてサポート。
“姉妹”と慕い合う2人にとって、幸せや苦しみはともに分かち合うものだった。
出逢ってから一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、周囲からは「双子ではないのか?」
と訊ねられる機会も増えた華さんと馬さん。
それでも2人は自分たちが双子であるという点についてはまだ疑問を持っていた。
華さんは「私の性格は外交的ですが、彼女(馬さん)は内向的。
それに戸籍上の年齢も違っていたので……」とその理由を話す。
実際には血液型が同じO型であること、鼻炎持ちであることなど
いくつか類似点もあったのだが、
他人として知り合った2人が血の繋がった姉妹であり、かつ双子であるとは、
そう簡単に信じられることではないだろう。
しかし、2006年、そんな2人の“真の関係”を知るための格好のチャンスが訪れる。
テレビ局が2人の存在を知り、DNA鑑定を受けられることになったのだ。
そして2006年5月16日、DNA鑑定の結果がテレビの生放送で発表された。
その結果は「双子の姉妹」。
2人は番組内で涙を流しながら抱擁を交わしたが、
それは“姉妹”のような親しい関係になってから、
34年という長い月日が経った後の出来事だった。
その後、専門の病院で再度検査。
結果はやはり“一卵性双生児”で間違いなかった。
曖昧ではあるものの、馬さんの記憶によれば、彼女は3、4歳の頃、
江蘇省から洛陽まで車や列車を乗り継いで連れて来られたという。
列車の車両の中には子どもがたくさんいて、大きなベッドで
ほかの子どもたちと一緒に遊んだ記憶があるそう。
そして、子どもたちは一人ずつ誰かに抱かれ、その場を後にしていったらしい。
それからしばらく年月が流れ、今年のはじめ。
2人の身体的な特徴を知った江蘇省の男性が
「自分の妹たちではないか」と名乗り出た。
そこで男性と2人のDNA鑑定を実施。結果は先日明らかになり、
男性は生き別れた兄だと判明する。
さらに生存するほかの兄弟とも対面を果たした。
ただ、自分たちを捨てた両親はすでに他界しており、
墓前で2人は「安らかに眠ってください。私たちは元気です」と手を合わせると、
兄弟たちは2人を慰めるように背中をさすったという。
ひ孫発見情報で65年ぶりの再会劇、養子縁組サイトで曾祖母の名に気付く。
http://www.narinari.com/Nd/20101114523.html
ネットで検索したことをきっかけに、何十年も生き別れになっていた家族が
再会したという話は、欧米を中心にしばしば聞かれる。
先日も米国の養子縁組サイトの情報から、65年前に養子へ出した息子との
再会を果たした女性がいた。
ネットが発達した今だからこその再会劇は、
どのような経緯で現実のモノとなったのだろうか。
米放送局KXLY-TVによると、ワシントン州コルファックスで暮らす
キャロリン・ヘイナーさんは今年9月、孫が見つけた情報に驚かされた。
ネットで家族史を調べていた孫は養子縁組サイトで、
見知らぬ男性のプロフィールページにあった“母”の欄に、
へイナーさんの母親と同じ名前
「タワナ・ジョー・イェイデン」と記されているのを偶然発見したという。
なぜ母親の名前が――不思議に思ったヘイナーさんは当初、
親族にこの話をしてみたが、誰も母親の過去を知る人はいなかった。
それでも何か不安が拭えずにいたヘイナーさん。
「『タワナ・ジョー・イェイデン』という名前の人が、2人いるなんて考えられない」
と2~3日悩み、思い切ってプロフィールページの男性フレッド・カイザーさんと
連絡を取ることを決意する。
最初に調べた電話番号は繋がらなかったが、
次にFacebookで検索してカイザーさんのページを発見。
彼女は母親のことをたずねるメッセージを送った。
このメッセージに、今度はカイザーさんが驚くことに。
オクラホマ州の「良い家庭」で育てられたというカイザーさんだったが、
小さい頃から自分が養子であるのは知っていたという。
そのため、1971年からずっと実の母親を捜し続けていたものの、捜索は難航し、
母親の存在を確かめられないまま40年の月日が経過。
そこに突然舞い込んできたのがヘイナーさんからの知らせだった。
2人は電話とメールでやり取りを重ねる中で、お互いが兄妹、
すなわち母親が同一人物の「タワナ・ジョー・イェイデン」さんだと確信。
そこでヘイナーさんはこれが事実であるかを確かめるため、
母親にカイザーさんの存在を伝えた。
すると「ノー」と弁解を始め、明らかに取り乱した様子を見せたそうだ。
実は、母イェイデンさんが頑なに息子の存在を誰にも明かさないまま
現在に至ったのには、暗い理由があった。
1944年、まだ10代だったイェイデンさんは不幸にも男性に襲われてしまい、
その結果、1945年1月1日にカイザーさんを出産。
敬虔なキリスト教徒だった彼女は、望まずして生まれた男の子をすぐに養子へ出し、
その数週間後には家族と共にオクラホマ州からカリフォルニア州へと
引っ越したという。
その後、1946年にイェイデンさんは結婚。2人の子どもに恵まれ、
幸せな家庭を手に入れた彼女は、この暗い過去を誰にも話さず心に封印していた。
しかし、ヘイナーさんから話を聞いたイェイデンさんは、男の子を養子に出した当時
「もう会えないだろうと何度も泣いた」ことを吐露。
母親の過去を知ったヘイナーさんは
「母がどれだけ強い心で過ごさなければならなかったかと知り、胸が痛かった」
と話している。
この“告白”のあと、ヘイナーさんは2人が会えるように尽力。
まず、カイザーさんに連絡先を伝えて母親の声を初めて聞かせ、
さらに先日、カイザーさんをオクラホマ州から呼び寄せる形で
65年ぶりの再会を実現させた。
メールをもらうまでは母親との再会は半ば諦めだったというカイザーさんは
「いますぐ死んでも良いくらい幸せ」と嬉しい気持ちでいっぱいに。
一方、アルツハイマー病を患っているイェイデンさんも、
彼を見るなり力強く抱き寄せ、
ずっと会えずにいた息子との再会を心から喜んでいたという。
“患者”の父と41年ぶり再会、転院先は看護師の娘の勤務先だった。
http://www.narinari.com/Nd/20100914187.html
米ニューヨークの病院で看護師として働く女性は、
転院してくる末期がん患者の名前を医師から聞いて耳を疑った。
その名前は生まれて間もなく母親と離婚して、
行方が分からなくなった父親と全く同じ。
写真もなく、顔すら分からない父親が自分の勤める病院に運ばれてくるのかと、
女性は動揺したという。
米紙ニューヨーク・ポストなどによると、
ニューヨーク・ブロンクスのカルヴァリー病院で働く
41歳の看護師ワンダ・ロドリゲスさんは、8月25日が忘れられない1日となった。
この日、別の病院から転院してきた末期がん患者の名前を医師から聞いた
ロドリゲスさんは「固まった」(ニューヨーク・ポスト紙より)。
その患者はビクター・ペラザさんという60歳の男性。
彼女がその名前に反応したのは、生まれて間もなく
自分の前から姿を消した父親と同じ名前だったからだ。
ロドリゲスさんの両親は、高校時代からの交際を経て結婚。
両親はロドリゲスさんと姉の2人の子どもをもうけながらも間もなく離婚した。
母親は2人の子どもを引き取り、
郵便公社で働いて生計を立てながらブロンクスで生活。
その間、家族で父親についての話題は一切上がらず、父親からの連絡も一切なかった。
そのため、「父がどこにいるか分からなかった」状態だったという。
また、父親の写真は一切残されず、彼女がその顔を思い出す機会は失われてしまった。
それでも「いつも私のすぐそばを歩いていたように思っていた」
と想いを秘めていたロドリゲスさん。
しかし、時が経つに連れて「再会は難しい」と諦めの気持ちが強くなっていたらしい。
そんなとき、突然父親と同じ名前の人が自分の勤める病院にやってくると知り、
彼女は浮き足だった。そして、運ばれてきたペラザさんの病室へと足を向ける。
今まで父親の顔を知らないはずのロドリゲスさんだが、
病室に入りペラザさんの肌や目の色を一目見るなり「この人が父に違いない」
(米放送局ABCより)と分かったそうだ。
最初は看護師らしく、気分を尋ねるなどの会話から始めたが、
子どもの話になったとき「感情が高ぶり、部屋から飛び出した」という。
それはペラザさんがしっかりと「ジーナとワンダという娘がいるよ」と答えたからだ。
記憶の中には名前しか残っていなかった父親の存在を目にした瞬間、
ロドリゲスさんは涙を流した。
落ち着きを取り戻し、再び病室へと入った彼女は
「私はワンダよ、あなたの娘よ」と話しかけた。
すると、ペラザさんは「君が私の娘だと分かってたよ」と語りかけ、
娘の目を見つめたという。
その後2人はお互いに泣きあったそうで、末期がん患者のペラザさんは
「死ぬ準備ができたよ」(ニューヨーク・ポスト紙より)と、
すっかり落ち着きを見せている様子だ。
離婚後はクイーンズ地区に移り、
再婚することもなく銀行員として働いていたペラザさん。
1年半前にがんと診断されて以来転院を繰り返し、
この8月に偶然移ることになったのが、
ロドリゲスさんの勤務先にあるホスピスだったそうだ。
ロドリゲスさんは、姉や母、自分の子どもを父親に会わせたほか、
自分の勤務時間前にも世話をするために病室を訪れているという。
ペラザさんは再会を果たしてからしばらくして
「いい父親でなかったのは分かっている」(ABCより)と謝罪。
これを受けて彼女は「父親に会いたいと思わない娘なんている?」と許し、
今はそばにいる喜びを噛みしめているようだ。
私が眼科で、目が特殊 と言われるのは
黒目が、大きいからなんです。
私は、二重でないのに、目が大きいと 言われるのは
黒目が大きいから そのように 見えるのだと思いますが
産まれてすぐ、
目の黒い部分しかなくて、白い部分が 無いように見えたらしく
この子は 目が見えていないのではないかしら? と
母は、とても 心配したそうです。
このような話しも、
実の両親に 育てられ
幸福に育ったゆえに、教えてもらえる
生後 間もない頃の 私の様子
今月の私の誕生日には、両親に 挨拶に行きました。
ryuruを 生み育てて下さって、ありがとうございます。
私は、とても 幸せです。
二人の娘として生まれて、本当に 幸せです。
ありがとう
ありがとう
と、私の大好きな 白とピンクの薔薇を持って
心と 言葉を 伝えて 参りました。
これは、私の誕生日に
両親に渡した花束と 同じものを
プレゼントさせていただいた Yちゃんからの
薔薇ありがとう~ こんなふうに飾ったよ
という写真です。
これと同じ 花束を持った父は
どうして 花が ここにあるのか? と・・・
痴呆が 進んでいて、
さっき 渡したのに もう忘れている様子(TT)
でもね
痴呆になってからの方が、父は 素直に感情を
表現しているみたい。
私に、もう帰るのか?
なんて 今まで 言わなかったよ。
もっと、ずっと 一緒にいたいってことだよね?
それから、家にいるのに
中学生の子供が二人 待っているから
早く 家に帰らなきゃ いけないんだ
と 弟に 何度も何度も 言って
少し前には 困らせたみたい。
私と弟が、中学生の頃
そんなふうに、外出先で 言ってたのかな?
父は、出掛けたら なかなか 帰ってこない人で
家にいることが とても少なくて
子供のことより
自分のことが 精一杯なのかと思っていたわ。
なんとまぁ
ずいぶんと・・・
感情を 素直に出せなかった人だったのね
と、今になって 父のそんな優しい言葉を 聞くと
涙が 止まらないよ。
私の愛する父は
私の愛するひとは
私の愛する男性は、shy すぎる
なぜ、そこまで 純粋なのか
想像を絶する
予測のつかない
あり得ない
前代未聞の
奇蹟のような思考と言動 (TT) が
恋愛事情を 複雑化
純粋にも、程度があるでしょーーーー
世間の誰も、あなたを そこまでっっ純情だとは思ってないわよ! と
突っ込みたくなるほど
恥ずかしがり屋で うぶな性格の男性の
思考と言動が
父を通して、学びを深められた私です。
ありがとう
おとうさん (*^_^*)
それでは、皆様
あと2日
笑って お過ごしください。