愛しています

すべての方が、笑顔で
あたたかく優しい 愛ある日々を
生きられることを願って・・・

妻の本当の仕事

2009年01月31日 00時50分00秒 | 家庭・結婚


人の心は、エネルギー「念」

大切なあなただけでなく
色々な人の色々なエネルギーが私に、届きます。

誰かの顔が浮かんでくると
その方が私に念を向けているのが分かります。
どんな種類の「念」であるかも、ほぼ判別できます

 


結婚相手は、魂の霊格によりますが
普通の人は第三候補まで決めてくるのです。

事故などによって、第一候補が 天国に帰ってしまう場合があったり
相手を間違える場合もありますから

使命が大きい人は、人生計画も緻密ですので例外です。

一人一人、人間の持っているエネルギー量が違うので
一番 合った エネルギー量の魂の半身、伴侶と
一緒に生きるのが、一番よい選択であるのは明らかです。

 

「念」エネルギーは、良質のものでしたら
相手に よいものとして届きます。

悪いもの、嫉妬・ねたみ・恨み・怒りなども届きます。
その場合は、相手を病気にしたり 不幸にすることになります。

嫉妬を向けられた相手が、強ければ 跳ね返せます。
そして、その跳ね返った念は、発生した相手に戻ります。
それらが、世界を行き交っています。

目に見えたら、怖いでしょう?
けれども、それが現実です。

 

私は、妻の役割とは 家に悪い念を入れないように
守る役割でもあると思います。

夫を、悪い念から守る役割でもあると思います。

夫婦の関係は、1+1=2ではありません。
相手によって、努力によって、答えは10にも100にも
変化すると思います。
100になれば、悪いものは入ってこれなくなるでしょう?

 

妻の役割とは、目に見える世界からも 目に見えない世界からも
夫を守り、支える役割と私は思います。
 


イビョンホンさんへの質問

2009年01月25日 16時53分03秒 | イビョンホンさん
 
JOFCで、21日まで受付されていました イビョンホンさんへの質問
たくさんありました。私も、全て目を通しました。

投稿された方が、削除される前の文章も 目にしました。
書き込みたくても書き込めない方々を代表された内容と読み取れました。

あぁ、これは 今まで もう答えられているわ というものもありました。
又、チャールズさんとの関係他 私のブログ内に書いているものもありました。



以前、「秉憲一百問」と「1994年の100問100答」で
質問に答えられています。

靴のサイズ・視力・初恋・初めての交際について・結婚相手の年齢について
結婚相手に求めるもの・喫煙について といった個人的なものから
CD発売についてなどの仕事のことなど たくさんの質問でした。



JOFCで緊急募集された質問が、どんなタイミングで何の為に使われるのか?
以前 答えられた200問と どのような点が変化され
どのような点を 貫き通されているのか 楽しみですね。

韓国は、今日 大晦日
2009年のイビョンホンさん 楽しみです。
 

再び巡り合う 魂の伴侶

2009年01月24日 01時09分32秒 | 懐かしいとき
 
私は、以前 消された真実 天智と額田を書きました。

この日、本当は 別の事を書こうと思っていましたが
「あかねさす・・・あかねさす・・・」と何度も何度も
メッセージが降りてきて あのような内容になりました。

追記をしたくても、もう文字数の関係で出来ません。
ですから、もう少し ここで書き綴っておこうと思います。



なぜ、こんなに力を入れて書くかというと
私は、「額田王」が 世界を変える鍵を握る人物の一人であると
強く 確信しているからです。

日本の成り立ち、仏教と神道、天皇、国歌、韓国(朝鮮)との関係・・・

これらが、どのように繋がって 現在に至っているのか
そう遠くない未来 明らかになる日が 訪れるように思います。



歴史は勝者が作ったもの。真実は、葬られていると 言われています。



                                 


天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり
               日本書紀 巻29 天武2年(674年)2月


たったこれだけの記述で
なぜ 額田王は天武を愛し続けたと解釈されたのでしょう?

子供を産んだ記載だけで
なぜ 生涯 愛し続けていたのは天武とされてしまうのでしょう?

なぜ 天智と額田の関係そのものを なかったこととしている説が
優勢になっているのでしょう?

額田王について書かれた本は たくさん出版されています。
額田王が天武を愛し続けたと 全ての書籍には書かれていません。

直木 孝次郎さんは、天智と額田は相思相愛であったと記されています。

(旧海軍で軍隊生活も経験された難波宮跡の保存運動などで知られる90歳の老学者
日本の古代史研究をリードしてきた日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。文学博士)




あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)


この二首は、相聞の部でなく 雑歌の部に分類されています。
雑歌とは、公式の場で詠われた歌のことです。

題詞には「額田王の作る歌」とあり
額田王が、天武天皇個人に 向けて思いを伝えた歌「贈る歌」でなく
宴などで 公に披露した歌です。

万葉集への収録が 雑歌であって 相聞歌ではない以上
恋の歌ではなく 公式の場に相応しい 神事を詠った歌です。



「野守」 は番人=天皇を指すのではなく 「国魂」 を表し
「袖振る」 は 「相手の魂を呼ぶ」しぐさで、この場合は招魂の儀礼のことです。

「 朝の光のさす標縄の野で、国魂の神は見たのでしょうか
あなたが招魂受霊式で袖を振るお姿を 」 という硬い内容を
一見 相聞歌(恋の歌)風に詠ってみせた、額田王の技量が見て取れる歌です。



又、天武天皇は 自らを国魂の神に擬して
紫の服を着た人間の女性たち(人妻)の美しさを 詠われた歌と思います。

ですから、この歌から 額田が天武を愛し続けている。
天武から額田を奪ったのは 天智と解釈するのは かなり無理があります。



万葉集 巻4と巻8にそれぞれ重複して採られている
天智と額田を結びつける題詞がある歌

  近江天皇(天智)を思ひて作る歌
「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の
 すだれ動かし 秋の風吹く」 4-0488 8-1606 額田王

あなたが恋しくて恋しくて、心待ちにして恋い慕っていると
 すだれが動いて、あなたと思ったら、それは秋の風でした。


待つということで 天智天皇が生きていた時に詠まれたと
通常は考えられていますが、私は 愛しい夫亡き後の歌ではないかと思います。

天皇に対する呼称には、ある程度の法則があります。
今上天皇に対しては単に「天皇」
今上よりも、以前の天皇に対しては「○○天皇」

そして、その法則は万葉集そのものにも見受けられます。
万葉集の巻1と2は、天皇の時代ごとに歌をまとめられていて
その天皇の時代に詠まれた歌の題詞は、基本的に「天皇」
それ以前の天皇ならば「○○天皇」となっています。

近江天皇
つまり、天智天皇ですが 万葉集の場合は
天皇としての諡よりも 宮を構えた地で表すことも法則ですから
法則に従うのであれば「近江天皇」と記載されている以上
歌が詠まれたのは、少なくとも大津京が皇都であった時よりも後
となってしまうのです。

この考えだと、この歌は もう天智がこの世にはいない時期となります。



私が、天智天皇亡き後の歌と思う理由は
「この世的解釈」で天智天皇が生きていた時に詠まれたと考えられると思いますが
この世だけでなく、この世とあの世の両方の見解で生きている
巫女、シャーマンに「この世だけの解釈」は 当てはまらないからです。

私は、バックナンバーで
天智天皇の正妃 倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
と書き残しました。
倭姫王は、万葉集でこのように詠っています。


青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)

青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。



超強力な巫女、シャーマンであるならば
魂が抜け出して 往き来するのが見えるのは当然です。

天智が亡くなった後、夫の魂の訪れを待っていても なんら不思議はありません。
私でさえ、この世には もう存在されない亡くなった人のメッセージを受け取ったり
見えたりするのですから

でも、この時の額田王は 純粋に亡き夫を偲んで詠まれたと思います。
後の世で、何度も生まれ変わり 二人が出逢い 愛し合う確信も
過去 幾転生 愛し合っていた記憶も、薄かったのではないかと思います。

二人は、夫婦として愛し合う姿で世界を大きく動かし続けている魂かもしれません。
愛しい愛しい愛する夫が 先に逝く悲しい最期を何度も何度も経験し
その悲しみの克服と その克服時 数々の人生で付随発生してしまった業の修正を
転生の過程で課題とされているでしょうから 相当の悲しみであったことでしょう。




                                 



次に、ご紹介するロマンスは、現世一代での 再会ロマンス

再会のロマンス 成就 25年越し、京の身障者夫婦に
12月31日10時0分配信 京都新聞



お互い身体障害者で若いころ1度は結婚をあきらめたが
25年ぶりに再会して結ばれた夫婦が京都市伏見区にいる。

妻となった女性が「今昔物語集」に伝わる
再会のロマンスゆかりの勧修寺(かじゅうじ)(山科区)で長年暮らしていたことから
「平安時代の純愛伝説のよう」と周りの人たちも喜んでいる。

足が不自由な小西忠和さん(60)と、右半身に障害がある栄子さん(57)
かつて、忠和さんが野菜を届けに勧修寺を訪ねた際
境内の庵(いおり)に住み込んで尼僧大塚全教さん(故人)に師事していた
栄子さんに出会った。

恋仲になったが、当時収入が少なかった忠和さんは「養える稼ぎがない」と
結婚をあきらめ、2人は別れた。

それから長年、「思いは消えなかった」。
昨年夏、忠和さんが寺を訪ねると、栄子さんが昔と変わらず庵で暮らしていた。
家のローンを完済し、貯金もしていた忠和さんは「今なら2人で暮らせる」とプロポーズ。
同年9月に入籍を果たした。

今昔物語集には、内大臣藤原高藤がタカ狩りの際に偶然立ち寄った屋敷の娘
列子(たまこ)にほれ、6年間離れ離れになったが、再会して結婚したという説話が残る。

勧修寺は2人の孫の醍醐天皇が造営した。
勧修寺の筑波常遍住職らに結婚を報告した忠和さんと栄子さんは
「平成の高藤と列子のよう」と祝福された。

同居し始めて1年4カ月。
段差を少なくするなど生活しやすさに配慮した家で、
一緒に料理や庭の手入れをしたりと仲むつまじい。
忠和さんが体調を崩した時は栄子さんが看病、肩を貸して歩く支えにもなっている。
忠和さんは「1人より2人がいい。妻の笑顔で自分も明るくなれる」と幸せをかみしめている。


                                 


このお二人は、生きている何十年かの 一度の人生の上での再会
もし、お一人が 25年の時の中で 記憶喪失になっていても
再び巡り逢って、愛し合えたでしょうか?



私は、愛し合う二人は 必ず巡り逢い 愛し合うと確信しています。

それは、言葉が要らないもの。科学の方程式のように明確であるからです。
魂の半身 伴侶は、引き合うのです。逃れられないようになっています。

二人が生まれてくる前に 約束した 最も相応しい時に
最も相応しい方法で 巡り逢うようになっています。

私が、時空を超え 彼に出逢ったように・・・



そして・・・勧修寺は、天智天皇陵がある 京都府京都市山科区
天智の魂が、引き寄せたロマンスでしょうか
 

人生を実り豊かにする方法

2009年01月18日 00時32分14秒 | 願望成就
 
問題が山のように見える時は、問題解決後をありありとイメージし
解決後の感情を作り 心の世界で未来を体験しながら まず寝ます。
就寝直前と起床直後のぼーっとした時に、指導が入ります。
その問題からの気付き 学ぶべきことが降りてきます。

現実の行動を箇条書きにし、種類別に分け 優先順位をつけます。
細分化すると 問題は小さいものに変化します。



例えば、お舅お姑 夫婦 子供5人の9人家族があったとします。
家族の洗濯物の量は、大変な量だと思います。

洗濯機で洗えるものは、白と色物に分けて洗い
ネットに入れて ネットの種類も色々あります。

ネットを使わなければ、痛みが早かったり 他の洋服の繊維が付着します。
色柄ものと白ものを一緒に洗うと色移りして 漂白が必要となります。
着れなくなることも あるでしょう。

又、手洗いのもの。クリーニングが必要なものもあるでしょう。

そして、取り入れた洗濯物も、一枚ずつ綺麗にたたみ
それぞれのタンスに 片付けていくようにすれば
問題を解決するための行動が見えてきます。
洗濯物が山になったままでしたら、大変ですね?

又、洗濯方法(知識)を知らなければ 知識を学ぶ必要がありますね?
色々な事を経験して人は成長していくもの
このように、知識に経験が加えられたものが、智慧となります。



人生を実り豊かにする方法は、人に何かを与えられる人であること。
その最たるものが、永遠の感動を人に与えられる人と言います。
どれだけの規模で、どれだけの方々に感動を与えられるかが
成功と正比例します。

たくさんの知識を学び、行動し、自らが獲得した智慧を
より多くの方々にお伝えし 循環することが幸福を拡大することになります。

多くの方々が、色々な出来事を経験することで
たくさんの知識を吸収し続けられ 物事の本質を見極められる目をたくさん養われ
より高度な幸福が 成就し続けられる日々でありますように・・・
 

消された真実 天智と額田

2009年01月10日 06時40分05秒 | 懐かしいとき
 


今日は、百済を救済しようとした 天智天皇と
天智から 寵愛を受けたとされる 額田王について

記述されている事柄を 色々な書籍他から ご紹介させていただきます。
(出所を リンクしていなくて 申し訳ありません。)

二人が生きた時代は、現在の朝鮮と日本とが大きく関わっていた時代
ということは、ご存知の通りです。




                                 


中大兄の三山歌(みつやまのうた)

  香具山は 畝傍を愛しと耳成と相争ひき
  神代より かくなるらし古へも しかなれこそ
  うつせみも 褄を争ふらしき (中大兄皇子 万葉集2-105)

香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って
耳成山の神様と争った。
神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。
神様の昔もそうであったからこそ、現代も人は結婚相手をめぐって争うものらしい。



京都の山科区御陵(みささぎ)という地名の由来は、
この場所に天智天皇陵があるので古来より呼ばれているらしい。

御陵は京都の東、山科の地にある山科御廟野古墳(京都市山科区御陵上御廟野町)
比叡山から続く山地の裾野に造られた上円下方墳

他の天皇陵が、京都市内や奈良にあるのに
なぜ天智天皇陵だけ ポツンと離れた山科にあるのか?
当時、都があった大津からも離れています。



天智天皇の死に関して 不思議な話が伝わっています。

日本書紀によると 天智天皇は病没したことになっているのですが
のちの平安時代末期に僧皇円によって書かれた扶桑略記では
驚くべき記述があります。

天智天皇が、馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず
後日 履いていた沓だけが見つかった。
その沓が 落ちていた所を山陵としたと

これを現代の権威ある歴史学者達は
四百年も後に書かれた本の記述は信頼するに当たらない
と ばっさりと切って捨ててしまっています。
けれども、彼らの言う信頼に価する資料であるはずの日本書紀における数々の矛盾
天武天皇の生没年、及び年齢の記述が一切無いこと
天武天皇が歴史上名前を表わす時期が異様に遅いこと

このように、天智天皇は政争の中で
暗殺されたとも思われる説話が 平安時代後期に伝わっていたことがうかがえます。



天智天皇 即位後 詠まれた次の歌の真実は?

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)

日本書紀の記録上、額田王が大海人皇子に嫁いだという記録はあるけれども
天智天皇に嫁いだという記録はありません。

当時、とくに彼等、彼女らのような立場にあった人間として婚姻は
その跡継ぎを作るためのものでもあった。

年長けて、その事がかなわなくなったならば特に寵愛を受けていたか
それに準ずる立場にいた女性でない限りその関係がとぎれていたとも考えられる。

万葉集における記述に関して言えば、
やはり額田王は 天智の妻としてしか読み取れない。

ここで大海人皇子の歌に人妻故にとあることをどう解釈するべきか
なぜ大海人皇子は自分の妻である額田王を人妻と呼んだのか
ここを明らかにしなければならない。

確かに日本書紀の記録上、額田王は大海人皇子の妻になったとしか記録はない。
しかし、このことが天智の妻とはならなかったという積極的な根拠とはなり得ない。
記録の漏れがありうるからだ。 

日本書紀をみると天皇の妻に関しての記述には、
その妻との間に生まれた皇子、皇女のことが伴うことが多い。
ということは、皇子、皇女の誕生がなかった相手は記録されないと言うこともあり得る。

額田王は大海人との間に十市皇女をなしている。
だからその婚姻関係は記録されたが、その後の天智との関係は子どもが出来なかったので
記録されなかったと言うことは充分にあり得る。

である以上、記録がないから婚姻関係がなかったと考えることは消極的な根拠にしかならない。
となると、大海人皇子の歌の人妻という語は、天智と額田王の結婚の根拠として
あながち無視できることではない。



日本書紀は、古代史に重要な影響を及ぼした額田王の存在を まるで無視している。
万葉集では、この時代の中心人物であるかのように、のびやかで優れた歌と共に
宮廷に深く関わった姿が鮮やかに描かれている。

この日本書記と万葉集のそれぞれが示すギャップが、歴史の裏に秘められた
重大な謎を物語っているのではないか

今日に続く天皇家が磐石となる礎を気付いたのが この時期であり
明治維新まで続いた律令制度がこの頃成立していることから
この時代は、日本という国家が誕生した時期でもあるといえる。

けれども、これまでの日本の歴史は その誕生過程の真相を深く追求することなく
曖昧にしたまま その後の歴史を語ってしまっている。

いかにして、国家成立の根源に関わる真相を知ることができるのであろうか
実は、以外なことに これまで まるで歴史に関わることのなかった額田王と
万葉集こそが この秘密の鍵を握っていたのである。

万葉歌人として知られてきた額田王のどこに、そのような秘密が隠されているのか
額田王とは何者なのか
天智天皇と天武天皇という古代史を代表する二人の英雄に愛され
優れた万葉歌人として華麗で多才な才能を発揮した この額田王は
今だに多くの謎を秘めた女性である。

なぜ、これほど知名度の高い人物の実像が解明されないのだろうか
その原因は、額田王に関する資料の決定的な欠如にある。

朝廷の正史である日本書紀において、天武紀に載る
「天皇、初め鏡王の女 額田 姫王をめして 十市皇女を生しませり」
たったこれだけ一行の説明で額田王の生涯をたどるのは実に困難なことである。
額田王を単なる万葉歌人として捉える限り、額田王の実像に迫ることは不可能である。

日本書紀は、天武紀に額田王の名を載せてはいる。
その後、天智天皇の妃になったことは、万葉集の歌から まぎれもない事実だが
天智紀には額田王は まったく記載されていない。

天智と天武という日本書紀における重要人物とかかわりあった額田王が
日本書紀から まるで無視されたことは 日本書紀編纂目的の意図を暗示し
額田王が日本書紀体制側にとって きわめて不都合な人物であったことをうかがわせる。

政局の中枢にいて政局の流れに関与していたはずの額田王をなんらかの事情によって
故意に抹殺したと考えれば 新たな額田王像が浮上してくるのは当然である。



額田王の父と姉と言われている方の名に 天皇家の三種の神器の一つである鏡がついている。
神社には 必ずといっていいほど鏡が祭られている。
鏡と神道祭祀は きってもきれない関係にあった。
額田王が 政局に大きな影響を与えていた巫女
宮廷の神事に奉仕する特殊な地位に位置する女性を表している。
そして、父とされる鏡王自体が 不明な存在で架空の人物と考えられる。

鏡が物部氏そのものを表していたことは額田王の正体を明確に示唆する。
物部出身のシャーマンであることが、いかに重要な存在を意味するものか
額田王を 単なる巫女として捉えるわけにはいかない。
王を名乗れるのは、皇族2~5世の王族のみであり采女ではないのである。

七世紀以前の神道は 天皇家というよりも物部氏のものであり
ヤマト朝廷の誕生は、ヤマトの盟主 物部氏が 神武天皇を招き寄せたものであり
物部氏は天皇家に后妃を送りこむことで政治と宗教の両極を支配することに成功した。

日本書紀では、なぜ 采女ともとれる記述に終始したのか
しかも、天智に嫁ぎ 人妻になったことは万葉集によって明確であるのに
日本書紀では この事実をまったく無視してしまっている。

この謎を解く一つの鍵は、藤原氏にある。
物部氏が作り出した朝廷システムを そのままそっくり継承した藤原氏にとって
物部氏が日本本来の正当な王家であり ヤマト朝廷成立以降
歴代の皇后を輩出し 実験を握っていたこと。

しかも、ニギハヤヒを祀る物部系の巫女であることが 皇后という資格を得られた
という事実を歴史上に残すことは藤原氏の所得した地位の正当性を否定することに
直結したのである。
そこで日本書紀を編纂して物部氏の実像を歪曲し 同時にニギハヤヒを
太陽神の座から引きずり降ろした。

このような藤原氏の陰謀の前に、ニギハヤヒを祀る巫女として
天智のもとに嫁いだ額田王も 当然 消し去られる運命だったのである。

額田王は天智天皇妃の系譜のなかにはまったく入れられていない。
けれども、額田王が天智の妃になっていた事実は明らかであり
実際に 皇后の位についてもおかしくないほどの重要な存在であったはずである。
とすれば、日本書記の天智妃の系譜も もう一度 見直す必要があるのは当然である。



天智の皇后として日本書紀に登場してくる倭姫王
倭と名のつく女性は きわめて高い位のシャーマンであった。
倭姫王は、天智の異母兄 古人大兄皇子の娘とされているが
架空の人物であったとも推理され 倭姫王の実像を隠すために
古人大兄皇子という虚像を作る必要があったとも考えられる。

倭姫王と額田王は 驚くほど共通点がある。

倭姫王が シャーマンとして天智のもとに嫁いだとすれば
彼女が物部系の女性であったことは ほぼ間違いない。
倭姫王という巫女の総称的な名から見ても 額田王の別名であったとしても不自然ではない。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
倭姫王と額田王が別人だとしたら、天智には超強力な力を持つ巫女が
二人も側にいたことになる。別人と考える方が、不自然ではないだろうか?
しかも、この二人は 数多くの共通点で結ばれている。

倭姫王は天智の皇后であったが 子はなさなかった。
額田王も天智との間に子がいない。

倭姫王は その名からみても巫女である。
額田王も三輪の巫女である。
三輪山はヤマトの神を祀るのである。
ヤマトの神の巫女は、すなわち倭姫王である。

倭姫王は、即位権のあった古人大兄皇子の娘とされ
しかも、天智天皇の皇后となった人物なのに生没年不詳である。
額田王も、天智 天武に関わりながら やはり生没年不詳である。

これらの共通点をみてみると両者が同一人物であったと思わざるをえなく
実際に 天智の行動を追ってみると つじつまがあってくるのも事実である。



例えば、天智一行は百済救済に向かう途中熟田津に立ち寄った。
万葉集は、この時 額田王の有名な歌を載せている。
この遠征には、朝廷のほとんどの重要人物が同行したことを日本書紀は記している。

このなかに、天武天皇妃である大田皇女が同行しているにも関わらず
この時の主役である天智天皇妃の記載が全くないのである。

しかも、老齢であった斉明まで連れて行ったこの行軍に
天智妃だけが不在であることは不自然である。

大海人皇子から額田王を奪ったので罪滅ぼしとして
自分の娘4人を大海人皇子に妃として送り込んだと言われているが
仮に そうだとして考えると、熟田津の歌が詠まれた時に
すでに額田王は天智の元にいたということになる。

万葉集が同行したことを証言する額田王に関して
日本書紀の記述から割り出すことができないのは
日本書紀にとって 額田王の行動を記すことがよほど重要な不都合があったのではないか

つまり、物部最後の姫 額田王と倭姫王が同一人物であったため
この事実を抹消すべく日本書紀は両者の名を記事から取り除いたのではないか



又、天智天皇が長く即位しなかったことは、政治史における謎の一つである。
天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新を成し遂げ
即位した後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。

こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが
万葉集に納められている歌から伺われるように
人間的な側面をも併せ持っていた。

天智天皇が政治的実権を手中にしながら
長らく即位しなかったことについては、様々な憶測がなされてきた。

有力な説としては、天武への配慮、またその背後に控える豪族たちとの抗争
といったもの、或は女性関係に原因があるといったものである。

即位すると正妃 皇后を立てる必要がある。

額田王を寵愛していたという天智天皇には
後宮に 多くの夫人がいたことが記されているが
ただ一人 皇后に立ったのが倭姫王である。

天智の子を産むこともなく、記紀も殆ど記するところがない
倭姫王は、夫の死に際して哀切な歌を作っている。
天智の死に際しては誰よりも強く
まるで悲しさを独占しているかのように切々たる情を歌う。
倭姫王は、類まれな優しい真情の持ち主だったようだ。

万葉集には、天智天皇の葬儀の最後の行事 御陵退去に際し
群集 后妃を代表して読んだ額田王の歌が収録されている。

ここから見て、額田王は 天智天皇の皇后であったと推測でき
倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう
という説が あります。



・・・・・参考までに・・・・・・・

倭姫王が、夫の死に際して詠った哀切な歌


天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天足らしたり(万2-147)

はてしなき大空を仰ぎ見れば
大君の御命は長々と天を満たしております。


青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)

青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。


人はよし思ひやむとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも(万2-149)

人はたとえあなたを忘れることがあっても
わたしにそんな日が来る事はないのです。
あなたを思わぬ日はなく
いつまでも面影が見えて忘れる事などできません。
どうして忘れる事ができるでしょう。


鯨魚(いさな)取り 淡海の海を
 沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
 沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
 若草の 夫の命の 思ふ鳥立つ(万2-153)

近江の海を沖から漕ぎ来る船よ
岸辺を漕ぎ来る船よ
舵をそんなに櫂で水をはねないでください。
亡き夫の愛する鳥(亡き夫の魂の比喩)が
驚いて飛び立ってしまうから。



そして、次は 額田王の歌
額田王は、 天智天皇を とても深く愛してしたことがわかります。

やすみしし 我ご大君の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる
  山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと
  昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや
  百敷の 大宮人は 行き別れなむ(万2-155)

我が大君の恐れ多き御陵に対し、山科の鏡山で 夜は夜通し昼は一日
声を上げて泣き続けています。
こんなふうに泣き続けながら、宮廷にお仕えする人はみな
散り散りに別れてゆくのでしょうか。




日本の古代国家は、645年の大化の改新後から
中国の律令制度にならった中央集権的な支配体制がつくられ
部族国家から統一国家への第1歩を踏み出した。

この新しい国家体制は天智天皇の死去、さらに壬申の乱をへて
天武天皇と持統天皇により、日本は古代国家として確立した。

天武天皇は壬申の乱を通じて神にまもられて即位したという意識が強く
そのため即位後の天皇の地位は、従来の部族の王を超えて
天を頂く天皇 つまり現人神になった。
  
日本書紀では、第1代神武天皇以来、天皇を称しているが
天皇が政治権力と神的権威をもって君臨するようになったのは
天武、持統天皇からと考えられる。

その天皇の権威を明確にするために、古事記、日本書紀が編纂され利用された。
そして万葉集には天皇を神としてたたえる賛歌がいくつか登場した。




倭姫王と同じ 倭姫が名前にある
日本武尊の叔母といわれる倭姫命

二千年前、倭姫命(やまとひめのみこと)は
天照大御神の鎮座する地を求めて旅をした。
旅の果てに伊勢を宮地と決め手から二千年が経った。

崇神天皇の時代、天変地異が頻発し疫病が蔓延した。
人心が乱れ、多くの死者が出、人口が約三分の一となった。
皇居の中で神(アマテラス)を祭祀している事が(天皇との同殿同床)
神の怒りに触れたとのご神託が下った。
崇神天皇は世の平安を願い、神を皇居から外に出すことを決めた。

倭姫命は巫女として、神であるアマテラスに仕え
その鎮座地にふさわしい場所を求めて各地を巡行した。
四十数年ともいわれる長い旅の末
ようやく神の御心に叶った土地を見つけて遷座した。
伊勢神宮の基礎はこのようにして築かれたのである。


アマテラスとは、
「天(アマ)=世界を照らす大いなる意思を持った生命エネルギー
(母なる女神)」のことである。
そのエネルギーを受けることのできる巫女が
オオヒルメとか、ヒミコと呼ばれていたのではないか。
神であるアマテラスは次元が違うのでご自分ではコップ一つ動かせない。
そこでアマテラスの心を受けた巫女が手足となって
神の御心を正しく感じ取りながら祭祀を行っていた。

倭姫命は、新しい国づくりのために選ばれた特別の巫女(シャーマン)でした。
神の声を聞きながら各地を転々と巡り
神の御心に叶った伊勢の五十鈴の川上にアマテラスを祀る祠を建てた。
以来、伊勢神宮は聖地として、二千年間連綿と守り継がれてきた。

後に、倭姫命は蛮族の討伐に東へ向かう日本武尊に天叢雲剣を与えている。

天叢雲剣は、天照大神の弟、須佐之男命が
八岐大蛇を退治したさいに、その尾から出現した剣

駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で
草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が草薙剣と呼ばれるようになった。

なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが
天智7年(668年天智天皇即位年)僧道行によって盗まれ
その後は宮中に留め置かれた。

ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり
剣は再度熱田神宮に祭られることになった。
熱田神宮には「酔笑人神事」といって
このときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり
草薙剣が 本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。



この剣、壇ノ浦で平家が安徳天皇と共にもって逃げ
安徳天皇が海に飛び込んでも剣だけは 浮いたという話があります。

安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母
二位尼に抱き上げられると
「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて
「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが
悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。
この世はつらくいとわしいところですから、極楽浄土という
結構なところにお連れ申すのです。」と言い聞かせる。

安徳天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えると
二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま
壇ノ浦の急流に身を投じ、安徳天皇は歴代最年少の8歳で崩御した。
『平家物語』「先帝身投」より

母の建礼門院(平清盛の娘の徳子)も入水するが
熊手に髪をかけられ引き上げられている。



                                 



以上、今日ここで ご紹介させていただきました色々な事柄

何が 本当で、何が 間違った解釈か
いつか 明らかになる時が くるのではないかと 思います。



人は、転生輪廻を するもの

韓国と日本が、韓流ブームをきっかけに 急速に交流が深まっている現在

天智天皇も 額田王も
生まれ変わって、同じような使命に 生きているかもしれません。



二人が、生まれ変わって
二人の転生輪廻の真実が 世界のために 必要なら

真実の方が 真実の時期に 真実の方法で
世界に幸福を 広げるために 明らかにされることでしょう。




 

イビョンホンさんの体

2009年01月08日 20時10分55秒 | イビョンホンさん
 
まず、最初に・・・以前、羽田で もう間もなく搭乗時間だというのに
どうしても書店に行きたくて その時に 出会えた本の抜粋。ご紹介です。



                                 


引退しようとしている ある高齢の大工の話


その大工は、もうそろそろ家を建てる仕事をやめて 妻と一緒にのんびり暮らそうと思った。

雇い主は、個人的な願いとして「もう一軒だけ建ててくれないか?」と頼んだ。
大工は、承諾したが、真剣に仕事をする気はなかった。

粗悪な材料を使い、手を抜いた。キャリアを積んだ優秀な職人の幕引きにしては、
残念な仕事だった。

家は完成した。点検にやってきた雇い主は、玄関の鍵を大工に渡して言った。

「この家は、あなたの家です。私からのプレゼントです。」
大工は大ショックを受けた。ひどく恥ずかしかった。
自分の家を建てているとわかっていたら・・・・多分、もっと頑張っただろう。


私達も この大工と同じだ。毎日、毎日 人生という家を建てている。
だが、建てていることに全力を尽くしていないことが多い。

そして、ずっと後になって、自分がつくりあげた人生(建てた家)に
一生住み続けなくてはならないことを知ってショックを受ける。

もう一度、やりなおすことができたら、全く違うことをするだろう。
だが、その時にはもう、後戻りは出来ないのだ。あなたには後悔して欲しくない。

あなたも私も、大工の事を笑えない。
私達は、人生という一生住み続ける家を作っているが、果たして最善を尽くしているか。

「ベストを尽くせ」という言葉は耳にタコが出来るほど聞かされた言葉かもしれない。
それから、「あと、ひと頑張りだ」という言葉も。

でも、もう一度言おう。今、取り組んでいることに全力を尽くすと
思いがけないところから幸運がもたらせることが多い。

もうだめだとか、おしまいだとか思っても、もうひと頑張りすることが、何より大切である。
それをどうか忘れないで欲しい。


                                 


私は、涙を流しながら機内で読みました。

そして、イビョンホンさんの姿を思い浮かべ
いつも いつもベストを尽くされている人・・・凄いなぁと思ったものです。



VOGUE NIPPON2月号 韓国ELLE 1月号他で
イビョンホンさんの鍛え上げられた体が披露されました。

鍛え上げる前が、専門的にどのような状態だったか Big Joeから聞いて知っていました。
(イビョンホンさんのトレーナー정주호さん
 私は、トレーナーさんのことを Big Joeと呼びます。)

ムエタイ キックボクシング選手だった私の友達も、あれは相当の努力が必要と
TOYOTA CMで イビョンホンさんの体を見て 驚いていました。



どんなことも、一生懸命
そんなイビョンホンさんの2月28日のファンミ とても、とても楽しみです。




こちらに ↓ 韓国ELLEでも公開された写真が載っています。

http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=6&ai_id=93217

http://spnimage.edaily.co.kr/images/photo/files/NP/P/2008/12/PP08122600008.JPG
http://spnimage.edaily.co.kr/images/photo/files/NP/P/2008/12/PP08122600009.JPG



* VOGUE NIPPON2月号 売り切れ店が多いようです。
  1月24日発売の「GQ JAPAN」に
  VOGUEのインタビューの続きが掲載されます。
 

私の目指す「母婦」

2009年01月03日 05時45分22秒 | 家庭・結婚
 
2,600年前 インドで、お釈迦さまが 説かれた
家庭に生きる主婦の七つの道のお話が 書かれてある本のご紹介です。

                                



インド コーサラ国の首都 シュラバースティーの郊外にある
祇園精舎は、大富豪スダッタ長者が寄進されたものでした。

スダッタ長者には、七人の息子がいて 上の六人に
素晴らしい妻を迎えていたので、末の子にも・・・と
スダッタ長者の家と つり合うような大富豪の父のもとで慈しまれ
大勢の侍女に かしずかれて 珠のように輝く 美しく育った女性
玉耶(ぎょくや)を迎えることが出来 大変喜んでいました。

けれども、その喜びは 束の間
玉耶は、朝は遅くまで寝て 起きてからは ゆっくりと時間をかけて化粧をし
美しい着物を着たり、身を飾ったりすることに興味があるだけで
夫の世話、両親の手伝い、家事は一切せず 姑に礼儀をわきまえず
嫁に来たのか お客として遊びに来たのか 分からないような生活をしました。

玉耶本人に、自分が怠け者である自覚があるようには思えません。
娘時代に、何一つ自分でしなくても暮らすことができた 無知ゆえに
世間知らずのお嬢様であったのです。

夫の言うことも、スダッタ長者の言うことも その奥さんの言うことも
全く聞かず、毎日 ゴロゴロして、化粧ばかりしている嫁を
なんとかよい嫁にしようと お釈迦さまに 玉耶の心の病を
治していただくように説法をお願いしました。



仏陀は、「いくら容姿が整っていて端整だったとしても
それを鼻にかけ、人を侮るようなことがあれば、美は一転して醜へと
変わっていく。
外見の美しさを鼻にかけ、夫を侮り、軽んじてはいけない。
外見ばかりを飾り立て、心の内を磨かぬ女性は、けっして美しいとはいえない。」
など 世間の話、人の生き方、家庭婦人の生きる道、夫婦のあり方、女性の徳など
について説かれました。

玉耶は、「私はこれまで、いかに我がままで奢り高ぶった女性であったか。
なんと世間知らずであったか。他人に迷惑をかけたり、他人をばかにして
傷付けても、それをなんとも思わずに過ごしてきてしまった。」と
はらはらと 涙を流して 反省をされました。

この玉耶の涙を見られて
「世間には夫婦のあり方がいろいろある。妻たる人にも それぞれの型がある」と
仏陀は家庭に生きる主婦の七つの道「七輩婦(五善婦・二悪婦)」を示されました。





怨家婦(おんけふ)

夫に怨み心を抱いている妻
いつも夫に対して敵愾心を持っている 仇(あだ)か敵(かたき)のような妻
夫の言うことに いちいち反抗するので 夫婦喧嘩が絶えない。
夫への愛情はなく、不満と憎悪の炎に燃え いつもヒステリーを起こして
夫に吠えつき 夫のあら捜しばかりして 夫を傷つけることを
自分の生きがいとしている心は、常に夫への不平不満と憎しみで渦巻いている。

夫のここが憎い。夫のここが嫌い。けれども、仕方なく一緒に暮らしている。
自らを省みる反省の心もなく、ただ「自分の不幸は夫のせい」と考えている妻



奪命婦(だつみょうふ)

夫の生命を奪ってしまう妻 悪人
最も非道な悪妻 家の財産目当ての盗人
いつも悪いことを考えていて 世間に知られないように夫を殺し
財産を横領してしまおうと思っている恐ろしい妻



婢婦(ひふ)

婢とは、お手伝いさんのことです。
嫁に来たからには、行儀見習いに来たつもりで、両親や夫の命に従い
嫌なことでも逆らわず、辛い仕事でもいとわず
夫の両親から努めて仕事を習います。

大家に仕える善良な召使の気持ちで誠心誠意を尽くしていく妻

主婦業の技量は、十年続けた主婦と 一年目の主婦とでは かなりの差があります。
新米主婦は、どこに仕事があるのかも充分に分かりません。
その時に、仕事を教えてくれるお姑さんがいることはありがたいことで
お姑が、いない場合に発生する新米主婦の未熟のツケを直接受けるのは夫。
ひと通りの仕事が段取りよくこなせて、夫に迷惑をかけずに家庭の切り盛りが
できるようになるまでには、たいていの女性は婢婦を経験しなくてはなりません。



婦婦(ふふ)

婦人らしい妻、妻らしい妻
貞淑で、礼儀正しく、少しも出しゃばらず夫に仕える妻
よいことは夫に譲り、悪い事は「自分がいたらなかった」と反省する妻
日々、家庭の平和や夫婦の和合に心を砕いている妻

女性としての礼儀正さを 身につけることが必要
女性らしい女性、妻らしい妻になるためには
自分より年上で あの方は良妻とよばれる人を見本として
自分のふるまいが どう違っているのかを考えなくてはならない。
女性らしさは、家庭生活を通して、また 小さい子供を育てていく過程で
繊細な仕事を積み重ねていくことで 次第に磨かれていく



善知識婦(ぜんちしきふ)

よき指導者、先生のような妻
夫の過ちを見ると、これを叱り 改めさせていく
夫のよい面も悪い面も すべて知り尽くしながら
夫の足らざるところを補い、長所を伸ばして ひたすら内助の功を積む妻

絶えざる学習が必要
書物を読み、よき師に就き、よき人生観を持たなければ善知識婦にはなれない。



妹婦(まいふ)

妹のような妻
兄を慕う妹のように、真心をこめて支える妻
信頼と敬愛の念を持って 夫にかしづく妻
夫に対する細かい気づかいが必要
同じ家庭で育ったかのように夫婦の好みが一致しなければ
仲睦まじい関係には なかなかなれません。

仲睦まじい夫婦となるためには、妻が夫を敬愛し
夫のよいところを観察し、自分の我を折り 相手に合わせていくことです。
そして、いつの間にか 夫の喜ぶことを自分も喜ぶことができ
一緒に暮らしていると心が安らぐ そうした女性。妻



母婦(ぼふ)

最も難しい理想像
母のように慈愛深い思いで、夫を暖かく見守っていく愛情深い妻
夫のために尽くし、夫を許し、夫をなぐさめ、励まして、生かしていく。
夫の長所も短所もすべてを包み込み、すべてを許し、ただただ その存在だけを
慈しんでいく そうした大きな心、大きく包み込むような慈愛の心の妻

夫の欠点を見つけては、それに対して いちいち きりきりしているのでなく
欠点さえも夫の特徴として愛おしみ 自分の不足を反省し 自らを改善していく。

いつも余裕を持って仕事が出来る高い能力を持っていると
母のような寛容な妻が可能

相手を許し、相手を包み込んでいくためには、認識力の高さと広い心
高い仕事能力が必要
その高い能力を身につけるには、日々の努力と経験の積み重ねが必要
努力なくして母婦になることはできません。





玉耶は、「私は、まことに無知で、わがままな妻でした。
奢り高ぶったふるまいをして、みなさんに迷惑をかけました。
そのお詫びもかね、私は婢婦となって働きたいと思います。
これを仏陀にお誓い致します。」と心から懺悔して述べられ
心を入れかえ 努力を重ね 立派な長者夫人となって人々の尊敬を集めました。



家庭は、長い年月にわたって女性を育むところ
そこには、仕事の段階が数多くあり、婢婦から婦婦、善知識婦、妹婦、母婦と
一年、一年 成長していくことができるようになっています。

まず、自分が何もしらないことを認めなければなりません。
そして、その後 成長していくためには よき先生に就いて仕事を教えていただき
すべてを謙虚に学んでいくしかないのです。

あなたは、家庭において成長しているでしょうか?
それとも、退化しているでしょうか?
自分の姿、家庭における妻としての姿を振り返ってみてください。



                                


玉耶夫人は、婢婦を まず選ばれました。
スダッタ長者の家の主婦は、現代の大企業の管理職ぐらいの力量がある人でなければ
務まらないことでしょう。

私は・・・母婦(五善婦すべての意)を目指します。
そうでないと・・・務まらないでしょう。そうでないと、役不足でしょう?



私は、白馬の王子様を待っている世間知らずの夢見る乙女ではなく
世間がどれだけ厳しく、どれだけ はかないものか知り
全ての物事を否定し、さらに それを否定した世界観

世間の厳しさを知り、血の涙が流れるような日々を乗り越え
夢は叶えるものと知っている 筋金入りの永遠の夢見る乙女です。
それが、堂々と「母婦を目指します。」と書ける理由です。



この世は、仮の世。ひとときの楽しい美しい旅行のようなもの
一回一回の生命の終わりには、どのように そのひとときを大切に生き抜いたか
心で思ったことまで、すべて すべて明らかにされる時が 必ず すべての人に訪れます。



ひとときの生命 この世の命が終わった時、その時に、私は・・・

夫を愛しぬいて 優しく暖かい愛に満ち溢れた家庭を作りました。
夫を強く深く愛し続けて作り上げた この家庭の温かさが全世界に広がっても
恥ずかしくない。皆様から 理想とされる家庭を作り上げました。
と、心に偽りなく ただ一人の夫のために生きていく人生を歩みます。

あなただけを 心から愛していました。
これからも、いつの世も あなただけを愛し続けます。
と 言い切れる真実の人生を 私は送ります。

過去から ずっと ずっと そうだったように ・・・