元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

『奥の細道』初めの部分、南千住から北千住駅まで旧日光街道を歩く

2016-11-12 08:39:02 | ウォーキング

実施日;2016-11-10
天気;曇り
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー

[徒歩コース]南千住駅(9:00)→小塚ッ原刑場跡・回向院→コツ通り→スサノオ神社→
     天王公園→大橋公園→旧日光街道→千住仲町商店街→トポス→(12:40)北千住駅

↓以下2通の地図は、Mapionの地図に、ソフト「ペイント」で上書きして作成したものです。


[地図1]


[地図2]
 「やっちゃば」とは、現代の足立市場のような特別な敷地と勘違いしていた。勝浦の朝市のように、往来に商品を並べて売っていたのだと、山栄の夫婦に教わった。野菜だけでなく、大八車に載せて何でも売りにきた そうだ。上の地図で、緑色にした辺りに昔の痕跡が色濃く
残っている。この先の千住仲町商店街には、そうした名残はない。


南千住駅前で

延命寺--ここの「首切り地蔵」は思ったより大きかった。 
 刑死者の死体の扱いはひどいものだったそうだ。ほとんど野山に捨てられた状態で悪臭が漂い、野良犬やカラスが突いていたという。そこで、両国回向院の住職が刑死者の菩提を弔うために1741年に建てたという。


延命寺の首切り地蔵

 回向院--駅周辺はすっかり変貌していて、回向院に辿り着くのに手間取った。小塚原刑場跡の中を常磐線が走っていて、工事の際に分断されてしまった。元は同じ敷地内だったのに、「首切地蔵」のあるほうは、延命寺として独立したとのことだ。営団日比谷線も走っていて、この刑場跡もすっかり荒らされてしまった。

回向院--両国の回向院の別院。ということで、鼠小僧次郎吉の墓が両方にある。 
 橋本左内や頼三樹三郎など安政の大獄関係者(吉田松陰のは、後に高杉晋作などにより
長州の松蔭神社に改葬)、鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの墓もある。だが、処刑者なので、目立たないようにしてある。よく見ないと分からない。
  ここの死体の観察のおかげで、杉田玄白らによる「解体新書」が誕生したということで、「観臓記念碑」も注目すべき。


花を供えているのは高橋お伝、左が鼠小僧次郎吉、右が腕の喜三郎(江戸時代の侠客)。


再び駅前に戻り、商店街から細い路地を抜けてコツ通り に向かう。
山谷からこの辺りまで、昔は人通りもない野原であったのであろう。処刑された死体を野犬やカラスなどが荒らし、人骨も散乱していたと思われる。「コツ通り」とは上手い命名だ。

スサノオ神社--漢字はいろいろあり、牛頭天王とも呼ばれる。

蘇民将来の話は以下にある。↓



お伊勢参り2日間(その2--内宮・おはらい町散歩・伊勢湾クルーズ)→ 

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 こちらでは、この「蘇民将来子孫家」の札を注連縄で飾っている店や家が目立った。
「我が家は蘇民将来の子孫です」と唱っている。これを門に飾っていれば、その家には
災いや不幸が訪れないのだという。

 そもそも、蘇民将来とは何者?ネットで検索してください。いろいろな説明や言い伝えが出てきます。一番多いのは、みすぼらしい姿の旅人(実は身分を隠したスサノヲのミコト)に一夜の宿を提供した貧しい人、これが蘇民将来だった。数年後に蘇民の家を訪れたミコトが、
卑しい身なりの自分を泊めてくれた礼として、蘇民の縁の家には災いが来ないことを約束
したのだという伝説が源の信仰です。

 思いつきの妄想だが、私は蘇民の蘇にひっかかる。四面楚歌という言葉があるが、どうも、蘇は中国系ではないか。更に飛躍するが、中国に秦という国があった。秦は漢民族ではなく、シルクロードのかなたの民だという説もある。丹沢のハダノ(秦野)は渡来民族によって拓かれた所かも知れない。

 もしかしたら、何らかの理由で、大昔に中国大陸から逃れて来た高貴な人、この人が蘇民(蘇の貴人)で、一夜の宿を提供した男と名前が摩り替わった(つまり、その男の名は残らなくていい)。この札を掲げていれば、(災いが近づいたら)いつでも蘇民が来て(将来)守ってくれるとのまじないなのではないか?
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 スサノオ神社には、このほかにも、富士講の富士山が築かれているし、風変わりな狛犬や神楽殿などもあり、立派な建物だ。


ふるさと文化館で
  ここで「千住散策マップ」と「荒川区南千住まちあるきマップ」をもらう。たいへん役に立つ。


天王公園。牛頭天王公園とみる。この辺りもスサノオ神社の境内であったのであろう。
写真右手の人造岩山は、夏休みシーズンになると、見事な水量の滝が落ちるという。
滝下は浅い水場になっていて、子供たちで満杯になるそうだ。

草の戸も 住み替はる代ぞ ひなの家』の 句を残し、深川の芭蕉庵から舟で隅田川をのぼり、千住で舟から陸に上がった。当時は橋がなく、現在の千住大橋の東詰めは江戸へ入る
交通の要であった。当然、関所があったはずだが、関所のことは芭蕉も曽良も触れていない。それどころか、「奥の細道」で、関所通過の苦労話もなく、咎められずにすいすいと通ってしまう。尿前の関では、あろうことか関所役人の封人の家に泊まり、蚤虱 馬の尿する
枕もと』の句を残している。
 奥の細道を読むと、芭蕉の健脚ぶりは驚くばかり。伊賀上野出身でもあり、このことから
芭蕉=幕府隠密説が出てくる。各藩の状況を調査する役目をおったのだろうか。

 さて、関所役人の尋問にあうこともなく、現在の千住大橋袂で弟子たちに見送られ、魚で
さえ悲しんだという別れの句、『行春や 鳥啼 魚の目は泪』を第一句として奥の細道へと旅立った。

旧日光街道--松尾芭蕉も大名行列も、昔はこの道を通った。


 矢立を取り出し、『行春や 鳥啼 魚の目は泪』を書いている芭蕉像であろうか。


やっちゃば句会の絵---「やっちゃば通り」には、このような資料が随所に貼られている。
やっちゃ場やっちゃば) - 語源由来辞典


正岡子規や高浜虚子も此処を通っている。山頭火も多分、通っているだろう。


この通りの店の中には、このように昔の場所を引き継いでいる所もある。
通りの左右をみると、間口の狭い昔風の家には、このような木札が懸かっている。


鮎の子の白魚送る別れ哉--写真下部が切れているが、芭蕉の句である。


昔の「やっちゃ場」の賑わいの様子がよく書かれている。「投げ師」という言葉が見られるが、「投げ師は千住宿だけの商売。 特定の店を持たず、競り落とした品物を 大八車で神田や京橋の市場へ売りに行った。」とある。


京都や次郎長の家もそうだが、昔は間口が狭く奥行きの深い家が並んでいた。
現代になっても、その名残のようだ。昔は間口の長さで税額が決められたからだと、山栄の主人に教えられた。山栄では、「一番奥の部屋なんか、(あまり遠いので)ここ半年行ったことがない」なんて言っていた(笑い)。

北千住駅方面の旧日光街道「北千住商店街」は近代的な店が並び、歴史を学ぶところは
少ない。北千住駅を超えた先には、まだ見どころがあるようだが、この日はトポスの所を
右折して駅へ向かった。北千住駅に着いて時計を見たら、12:40分であった。
そこから東武線で西新井大師に向かった。

西新井大師--川崎大師と異なり、ひっそりとしていた。

西新井大師から西新井駅に行き、駅ビル内のガストで昼食・打合せをした。
その後、竹ノ塚駅へ行き、そこから舎人公園へ徒歩で行く予定であったが、もう時間も遅い
ので、本日はここで終了とした。

 


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