鹿島へ向かう松尾芭蕉が通った頃の鎌ヶ谷宿周辺は、まさに万里の長城並に野馬土手が延々と延びていた。現に、渡辺華山の絵も残っていて、市役所の壁に大きく伸ばして紹介されている。この雄大な放牧場の北端から富士山のかなたに落ちていく原野の上の夕日を眺める役人の姿が目に浮かぶ。
明治になって2年目、薩長政府が失業対策として、困窮庶民をこの地に送り込んでこの放牧原野を開墾させた第一歩が、私の住む初富新田ということになる。
大陸や朝鮮半島系の神社は高麗犬が守っている。沖縄のシーサーもそうだが、原形はライオンであろう。秩父の三峰神社は山犬、つまり、日本狼が守っている。ところが、稲荷神社はきつねである。ライオンや狼が敵や悪霊からガードしてくれるのは分かるが、きつねはそんなに強くない。稲荷信仰はその漢字のごとく、稲と関係があるとよく言われるが、過疎地の穀倉地帯で稲荷神社を見かけることは少ない。むしろ人口密集地の、つまり都会のダウンタウンに多く、商売繁盛を願って祭られている。
稲荷信仰は江戸時代に、下級武士や町人の間に爆発的に広まったようである。お米中心というのではなく、五穀豊壌、つまり毎日何か食べる物がありますようにという願いと、商売繁盛の2つが組合わさった信仰と解釈していますが、どうでしょうか。
矢切止夫は稲荷は夷也と書くのが正しく、鳥居が赤で、きつねが火炎玉と巻物をくわえていることを考えよ、と言い残してこの世を去ったが、もう少しヒントが欲しかったと悔やんでいます。
我が町は、人間が住む所としての歴史は、既述のごとく、明治2年に始まったことが分かっている。明治政府が開拓させたのだが、この鎌ヶ谷の初富地区に稲荷神社が3つもあるということは、とうぜん、政府の意向であろう。どうして稲荷なのか。他の神社ではいけなかったのか。奈良や京都は別格として、田舎では寺も神社も毎に1つずつというのが、最近分かってきた。それでは、なぜ同時に3つも作らせたのか。
1.稲荷信仰とは 2.稲荷神社ときつねの関係 3.明治政府が同一に3つも稲荷神社をつくった理由---- どなたかご教授ください。