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●じう【慈雨】●じう 【時雨】(しぐれ)

2013年04月27日 20時19分09秒 | 色んな情報
●じう【慈雨】●じう 【時雨】(しぐれ)
★じう 1 【慈雨】
めぐみの雨。ほどよい時にほどよく降って、草木や作物をうるおしそだてる雨。
「旱天(かんてん)の―」
   ・・・・・・・・・・
・じう 1 【時雨】
(1)ちょうどよい時に降る雨。
(2)しぐれ。
» (成句)時雨の化
「慈雨」に似た言葉»      雨 潤い 絶好 水 恵まれる

万物を潤し育てる雨。また、日照り続きの時に降る雨。恵みの雨。「干天(かんてん)の―」《季 夏》

★時雨の化(か)
〔孟子(尽心上)〕草木が時雨を得て芽生えるように、君主・師の恩沢が広く及ぶこと。
» 時雨

★じう 1 【時雨】
(1)ちょうどよい時に降る雨。
(2)しぐれ。
» (成句)時雨の化
   ・・・・・・・・・・
・しぐれ 0 【《時雨》】
(1)初冬の頃、一時、風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨。冬の季節風が吹き始めたときの、寒冷前線がもたらす驟雨(しゆうう)。村時雨・小夜(さよ)時雨・夕時雨・涙の時雨などの言い方がある。
「―が通り過ぎる」「―する稲葉の山のもみぢばは/沙石 5」
[季]冬。《いそがしや沖の―の真帆片帆/去来》
(2)「時雨煮」の略。
(3)涙を落として泣くさまにたとえていう。
「野山の気色、まして、袖の―をもよほしがちに/源氏(椎本)」

★時雨(しぐれ)『ウィキペディア』 http://p.tl/M2zD
主に秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨や雪のこと


★時雨(しぐれ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
晩秋から初冬にかけて降る雨で、降ったりやんだりするにわか雨をいう。『和名抄(わみょうしょう)』では、「雨」を「之久礼」と訓(よ)んでいる。『万葉集』には40例近くみえ、巻8や巻10では秋雑歌(ぞうか)に位置づけされており、「九月(ながつき)のしぐれの雨に濡(ぬ)れ通り春日(かすが)の山は色づきにけり」(巻10)など、秋に重点を置きながら、紅葉(万葉では黄葉)を染めたり散らしたりするものと考えられていた。「時雨」という用字はまだなく、平安時代に入ってからのものらしい。『古今集』の用例は12例、季節意識としては『万葉集』と同様だが、「我が袖(そで)にまだき時雨の降りぬるは君が心にあきや来(き)ぬらむ」(恋5)のように涙の比喩(ひゆ)として詠まれたりするようになり、物語や日記などにもわびしさや悲しみを暗示する景物として用いられている。平安中期になると季節意識に変化があり、『後撰集(ごせんしゅう)』の「神無月(かみなづき)降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」(冬)などにみられるように冬の景物として固定し、時雨の多い京都の風土とも相まって王朝文学に頻出し、以後も継承された。俳諧(はいかい)の季題も冬。 [ 執筆者:小町谷照彦 ]

★時雨西行(しぐれさいぎょう)
長唄(ながうた)の曲名。河竹黙阿弥(もくあみ)作詞、2世杵屋(きねや)勝三郎作曲。1864年(元治1)9月初演。西行法師が江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)の遊女と歌を詠み交わすが、遊女は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の化身であったという話を題材にした能『江口』の長唄化である。本来は舞踊を伴わない長唄だけの曲。全体の構成は、西行の道行、遊女との出会いと西行の身の上話、遊女の身の上話、普賢菩薩の現出と4部分に分かれ、それぞれ、謡曲風で荘重な曲調、くせのないさらりと運んだ曲調、詠嘆的な華やかな二上り、大薩摩(おおざつま)とそれに続く三味線の技巧を尽くした神秘的かつ荘重な本調子と、趣(おもむき)に変化をもたせている。 [ 執筆者:茂手木潔子 ]

★時雨亭(しぐれてい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
京都・高台寺(こうだいじ)境内の高台に建つ2階建ての茶室。土間廊下で傘(からかさ)亭とつながれている。傘亭が比較的閉鎖的であるのに対し、時雨亭の階上は開放的に構成され、「くど」構えを備えている。 [ 執筆者:中村昌生 ]

★時雨煮(しぐれに) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
ハマグリの香りを残す佃煮(つくだに)風の煮方をいうのであるが、いまはハマグリ以外の材料を用いても時雨煮といっている。三重県桑名は江戸時代からハマグリが名物であり、「その手は桑名の焼きはまぐり」という俗語が古くから使われている。いまでも、桑名、四日市のハマグリの時雨煮はこの地方の名物になっているが、往年のようにはこの近くの海でハマグリがとれなくなった。しかし独特の調理技術で優秀品がつくられている。 [ 執筆者:多田鉄之助 ]

★時雨の炬燵(しぐれのこたつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)、歌舞伎(かぶき)劇。本名題(ほんなだい)『天網島(てんのあみじま)時雨炬燵』。近松門左衛門作の『心中天網島』を1778年(安永7)に近松半二(はんじ)が改作した『心中紙屋治兵衛』を、後世さらに改めたもの。近松原作の中巻にあたる「紙屋内」の場面で、治兵衛の舅(しゅうと)五左衛門が娘おさんを連れ去るのを、治兵衛の恋人小春に添わせる好意のためとするほか、いくつかの改変がある。近年、近松の原作が尊重されるまでは、もっぱらこの改作が上演されてきた。 [ 執筆者:松井俊諭 ]

★時雨(しぐれ)の方言  http://p.tl/gsMx
時雨を意味する方言には次のような例がある。
 ・しまけ - 兵庫県加古郡
 ・そばえ(戯) - 島根県石見地方
 ・はこびあめ(運び雨) - 宮城県仙台市ほか
逆に一部の地域では、別の気象現象を時雨と呼ぶ例がある。
 ・雷 - 常陸地方
 ・霙 - しぶれ。大分県速見郡
 ・夕立 - 上総地方


★蝉時雨(せみしぐれ)http://p.tl/5027
多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語。夏の季語。
藤沢周平の時代小説。⇒蝉しぐれ  http://p.tl/j-s8
グレープの楽曲。
五木ひろしのシングル。⇒蝉時雨 (五木ひろしの曲)
日本のロックバンド。⇒蝉時雨 (ロックバンド)
NOAのアダルトゲーム⇒蝉時雨 (ゲーム)

★季語(きご)http://p.tl/48kC
連歌、俳諧、俳句において用いられる特定の季節を表す言葉を言う。
「雪」(冬)、「月」(秋)、「花」(春)などのもの。
流派、結社によっては、題詠の題としたり、一句の主題となっている言葉を「季題」(きだい)と言い、単に季節を表すだけの「季語」と区別することもあるが、両者の境は曖昧であり互いを同義に用いることも多い+(詳細は後述)。
「季語」「季題」いずれも近代以降に成立した言い方であり、古くは「季の詞(きのことば)」「季の題」「四季の詞」あるいは単に「季(き)」「季節」などと呼ばれた。
以下では特に説明のない限り「季語」で統一して解説する。

★季語一覧(きご いちらん) http://p.tl/J3sm

●大和三山(やまとさんざん)

2013年04月27日 11時54分49秒 | 色んな情報
●大和三山(やまとさんざん)
★やまと-さんざん 【大和三山】
奈良盆地南部の畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・天香久山(あまのかぐやま)の総称。藤原京址を囲むように三角形をなして位置する。

★大和三山  国指定文化財等データベース
名称: 大和三山: やまとさんざん
 香具山  かぐやま
 畝傍山  うねびやま
 耳成山  みみなしやま
種別: 名勝
種別2:
都道府県: 奈良県
市区町村: 橿原市
管理団体:
指定年月日: 2005.07.14(平成17.07.14)
指定基準: 名3,名10,名11
特別指定年月日:
追加指定年月日:
解説文: 大和三山は奈良盆地の南部に位置し、香具山(152.4m)、畝傍山(199.2m)、耳成山(139.7m)の3つの独立小丘陵から成る。香具山は多武峰から北西に延びる支稜線が浸食により切り離され、独立丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山はそれぞれ沖積盆地底に位置する円錐形のいわゆる死火山である。
3つの山は古来、有力氏族の祖神や産土神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる山として神聖視され、その頂部や麓に『日本書紀』に記す天香具山社、『延喜式』の式内社である畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきた。
また、高市皇子(654~696)の香具山宮や推古天皇(554~628)の耳梨行宮など皇宮の造営地ともされ、特に『万葉集』の「藤原宮の御井の歌」と呼ばれる有名な長歌からは、694年に持統天皇(645~702)が造営した藤原宮は大和三山に囲まれた平地に位置したことが知られる。『続日本紀』に記す和銅元年(708)の「平城遷都詔」によると、平城宮では「叶四禽図、三山作鎮」土地が選地の条件とされたことから、藤原宮の造営に当たっても東・西・北の三方にそれぞれ香具山・畝傍山・耳成山が位置する立地条件が宮都を営む上での重要な条件とされたことが想定できる。
大和三山を詠んだ和歌は多く、特に『万葉集』には中大兄皇子や柿本人麻呂の和歌をはじめ、持統天皇の「春過ぎて夏来るらし 白たへの衣ほしたり 天の香具山」など有名な和歌が多数収められている。『万葉集』のみならず『古今和歌集』や『新古今和歌集』など後続の勅撰和歌集にも大和三山を詠った和歌が数多く見られ、大和三山は重要な歌枕として、その観賞上の地位を確立していった。
さらに近世においては、『大和名所図会』などの地誌、案内記をはじめ、本居宣長の『菅笠日記』などの紀行文においても紹介され、万葉世界を代表する名所として広く知れわたるようになった。
明治維新に伴い、大和三山の一部は御料地として帝室林野局の管理下に置かれたが、第2次世界大戦後、多くの区域は国有林野として農林水産省の管理下に置かれた。アカマツからアラカシ、ヒノキ、リョウブなどが優占する林相へと遷移しており、全体として良好な森林の景観が維持されている。
以上のように、大和三山は日本古来の神々が鎮座する山として神聖視されるとともに、古代宮都の造営に際して精神上又は景観上の重要な意義をもち、歌枕に関わる名所としても遍く知られた。その地形と樹叢がもつ観賞上の価値、名所的・学術的価値はともに高い。

★大和三山(やまとさんざん)『ウィキペディア)』 http://p.tl/gWCE
奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺にそびえる3体の山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風土保存区域に指定[1]、各山も歴史的風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7月14日、国の名勝に指定された

★大和国(やまとのくに)http://p.tl/oJcM
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。

★飛鳥(あすか)http://p.tl/q7d9
現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥あたりと大阪府羽曳野市及び太子町あたりを指す地域名。2つの飛鳥を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「近つ飛鳥」「河内飛鳥」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」とよばれる。この場合の「近つ」、「遠つ」は都があった難波宮(大阪市中央区)からみてちかいかとおいかによる(なお、遠つ飛鳥と近つ飛鳥を逆に解する説もある)。
 
現在では単に「飛鳥」といった場合には、大阪府の飛鳥(河内飛鳥)ではなく奈良県の飛鳥(大和飛鳥)を指すのが一般的である。したがって、ここでは奈良県の大和飛鳥について記述し、大阪の飛鳥は「河内飛鳥」の項目に記す。

★河内飛鳥(かわちあすか)http://p.tl/wsfC
現在の大阪府南河内地区の羽曳野市東部・太子町辺りを指す地域の通称。
 
この辺りには古墳時代から飛鳥時代にかけての歴史的遺構・史跡が数多く残されている。
・名称について
大和国(奈良県)の飛鳥と区別するために、「河内」を冠される。また、「近つ飛鳥」とも呼ばれる。この場合の「近つ」は、大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)と比較し、都があった難波宮や難波津(大阪市中央区)から見て、近いか遠いかによる説が通説となっているものの、推古天皇が崇峻5年(592年)に即位して都が大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)に移されたころに、大和朝廷を支えた有力豪族である蘇我氏が元々の地盤である河内地方から大和国の飛鳥に移住したことから、河内国の飛鳥地方が後から「近つ飛鳥」と呼ばれるようになったという説・主張もある

★天香久山 http://p.tl/t9un(あまのかぐやま、あめのかぐやま)または香具山(かぐやま)
奈良県橿原市にある山。畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4メートルと三山の中では標高は2番目である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
 
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。

★畝傍山(うねびやま)http://p.tl/qpsR
奈良盆地南部に位置する山である。かつては「畝火山」、「雲根火山」、「宇禰縻夜摩」とも記され、「慈明寺山」、「御峯山」などと呼ばれることもあった。万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれた。天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。ただし、山頂にある三等三角点の標高は198.49メートルである。歴史的風土特別保存地区にも指定されている。

★耳成山(みみなしやま)http://p.tl/3e9C
奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山[1]。山の標高は139.6メートルだが、山頂にある三角点の標高は139.2メートルである。大和三山の一つで、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。
 
山の南部には耳成山公園(5,222平方メートル)が整備され、市民の憩いの場であり春には桜の名所となっている

★万葉集では「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」(中大兄皇子、巻1-13)と歌われている。大和三山(の神)が神代に恋争いをしたという歌である。この歌の「畝火ををし」を「畝火雄々し」と解釈し畝傍山の神は男神であるという説と、「畝火を愛し」と解釈して畝傍山は女神であるという説とがある。この歌は、中大兄皇子と弟の大海人皇子の額田王をめぐっての恋争いを大和三山に託したものという説もある。
 
飛鳥時代の持統天皇の頃には三山周辺に大規模な条坊制を取り入れた藤原京が整備され三山に囲まれた中心部に大極殿などの宮城が置かれていた。
 
2007年(平成19年)1月、世界遺産の暫定リスト「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の1つとしてと登録された。

★藤原京(ふじわらきょう)http://p.tl/deEC
飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。
また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある。
この都城は、周礼が説く思想を表していたとされている。

★飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) http://p.tl/Yyfy
現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される遺跡群の総称。
主に飛鳥時代を中心に、この地域に多くの天皇(大王)の宮が置かれ、併せて関連施設遺跡も多数あることから、後世の宮都や首都にならって飛鳥京と呼ばれている。飛鳥古京(あすかこきょう)や「倭京」、「古京」などの表記(『日本書紀』)もみられる。
 
律令国家成立期以後の新益京(藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは一般にはみなされておらず、また、発掘調査などによって考古学的な成果においても全体像を明らかにするにいたっていないため、地理的な範囲など「飛鳥京」が指し示すものの実態は必ずしも明確ではない。そのためか、歴史学や考古学の文脈においても、飛鳥時代における飛鳥周辺地域を指すのに「飛鳥京」という名称がつねに用いられているわけではない。その点において藤原京以降の「京」とは意を異にする。

★平城京(へいじょうきょう)http://p.tl/Qx0U
奈良時代の日本の首都。所謂「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城等を模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。
藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
 
810年(弘仁元年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。

★平安京(へいあんきょう)http://p.tl/kZCU
794年(延暦13年)に桓武天皇により定められた日本の首都で、平安城ともいい現在の京都市中心部に位置した。1869年(明治2年)に政府が東京に移転して実質的には首都機能を失ったが、その位置づけについては争いがある(詳細は東京奠都を参照)。


★藤原宮(新益京=藤原京) http://p.tl/Fhq6

★藤原京CG再現プロジェクト  http://p.tl/200C

★藤原京の「条坊制」 (PDF)  http://p.tl/wHFp