9斯馬國:シマ[静増si mau ]
佐賀県武雄市、大町町、江北町、白石町、嬉野市、鹿島市が該当する。
椛島山遺跡、茂手遺跡、納手遺跡、釈迦寺遺跡などがある。
図8
肥前国杵島(きしま)郡は、古くは肥前国風土記、延喜式などに見えて、和名抄では「岐志万」と記してある。
魏志倭人伝に書かれた遠絶地の最初に記載されているのは9斯馬國である。私は遠絶地は築紫平野あると思っていた。水田に適した平地がある西の端。そこに杵島という地名を見つけた。9斯馬国の次は10已百支国であり、私流の読み方では「イオキ」、今までの読み方では「しおき」という。小城(おぎ)市の発音に近い。杵島郡・小城市と築紫平野の西の端から順番に並んでいることで、私はここが遠絶地の9斯馬國、10已百支国であると確信をもった。
斯馬国は杵島とくらべて「き」が無いが、これを補えば「支斯馬」であると思う。倭人語の収集の観点から、繰り返し使われる「支」は省略しても構わないと判断されたのではないか。
よって、杵島の地名から斯馬国はであると特定した。
上古音では[sieg magシエグ マーグ]、従来の読み方は「しま」
[静si ]まばらな所[増 mau ]増加する
[増 mau ]は2對馬で説明したとおり、倭人の存在を象徴する音であるので、この場合、倭人(天族)のまばらな所(だった)という意味となるだろう。
10已百支國:イオキ[厳覆岐yi wo ki ]
小城市及び佐賀市のうち嘉瀬川の西側が該当する。
土生遺跡、布施ヶ里遺跡、生立ヶ里遺跡、七ヶ瀬遺跡(佐賀市大和町)などがある。
図9
七ヶ瀬遺跡では佐賀県内で初めて「三種の神器」がセットで発見されたというので、重要な所だったのだろう。
三日月町一帯はは肥前国小城(おぎ)郡甕調郷であった。甕調は「美加豆支」、「美加都岐」と記しているものもある。みかづき、又は、みかつきと読むのであろう。
小城は古くは「をき」と読んだ。小城の地名は、肥前国風土記にある土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦(とりで))に由来するといわれている。
「をき」の地名と「オギ」の類似からを已百支国と特定した。
iwoki⇒woki⇒oki⇒ogiのような変化があったのだろう。
上古音は(diəg pak kiegディグ パク キエグ)。従来の読み方は「しおき」
発音は素直にユマ仮名を当てはめることはできないと思うが、他の文字との関係を勘案して、どうにか成り立つのではないかと思う。ディパキ、イパキ、イオキ。
[厳yi]鎮座。存在を表す[覆wo]覆う[岐 ki]際立つ。
存在、居場所を土で覆った砦を作り、際立っていた、という意味であろうか。
11伊邪國:イヤ[親因゛iu yau ]
旧佐賀郡に属す範囲で、嘉瀬川と城原川に挟まれる地域である。現在の佐賀市、神埼市が含まれる。
広範囲に遺跡があるが弥生後期の大きな遺跡は無いようだ。放置されることなく使われ続けて遺跡が破壊されているのかも知れない。
図10
類似の地名が見当たらず、国名の根拠を特定の地名に求めるのは無理なようだ。
場所的には、ここが伊邪国にならないと、後が続かない。
上古音では(・Iər ŋiagイア ニヤグ))、従来の読み方は「いや」
[親iu]親しみ [因゛yau]いよいよ、更に、益々
(奴国)と益々親しい国、となるだろうか。
12都支國:タキ[垂岐ta ki]
多久市が該当する。
茶園原西畑遺跡、他、多久遺跡群を構成する遺跡がある。旧石器時代から弥生時代の石器が多数出土していて、サヌカイトという刃物への加工に適した石が取れる。鬼の鼻山北麓一帯に40カ所以上ある。
図11
旧地名は肥前国小城郡多久(たく)村。多久郷は古くは高来(たかく)郷といった。
発音の類似から、都支国とした。「都」は上古音ではtagだが中古音ではto、現代音ではtuと発音する。もっとも一般的な伊都国の読み方は「いとこく」だが、卑弥呼の時代は上古音が使われている時代であり、「都」はタと読みべきだと結論した。
上古音では(tag kiegタグ キエグ )、従来の読み方は「とき」
[垂ta]溢れる[岐ki]際立つ
際立ったもの(サヌカイト)が沢山産出するところ、という意味になるか。
9斯馬国、10已百支国、11伊邪国と並んでいたが、その列からちょっとだけ外れていた12都支国をちょっと戻ってここで記載したのだろう。
佐賀県武雄市、大町町、江北町、白石町、嬉野市、鹿島市が該当する。
椛島山遺跡、茂手遺跡、納手遺跡、釈迦寺遺跡などがある。
図8
肥前国杵島(きしま)郡は、古くは肥前国風土記、延喜式などに見えて、和名抄では「岐志万」と記してある。
魏志倭人伝に書かれた遠絶地の最初に記載されているのは9斯馬國である。私は遠絶地は築紫平野あると思っていた。水田に適した平地がある西の端。そこに杵島という地名を見つけた。9斯馬国の次は10已百支国であり、私流の読み方では「イオキ」、今までの読み方では「しおき」という。小城(おぎ)市の発音に近い。杵島郡・小城市と築紫平野の西の端から順番に並んでいることで、私はここが遠絶地の9斯馬國、10已百支国であると確信をもった。
斯馬国は杵島とくらべて「き」が無いが、これを補えば「支斯馬」であると思う。倭人語の収集の観点から、繰り返し使われる「支」は省略しても構わないと判断されたのではないか。
よって、杵島の地名から斯馬国はであると特定した。
上古音では[sieg magシエグ マーグ]、従来の読み方は「しま」
[静si ]まばらな所[増 mau ]増加する
[増 mau ]は2對馬で説明したとおり、倭人の存在を象徴する音であるので、この場合、倭人(天族)のまばらな所(だった)という意味となるだろう。
10已百支國:イオキ[厳覆岐yi wo ki ]
小城市及び佐賀市のうち嘉瀬川の西側が該当する。
土生遺跡、布施ヶ里遺跡、生立ヶ里遺跡、七ヶ瀬遺跡(佐賀市大和町)などがある。
図9
七ヶ瀬遺跡では佐賀県内で初めて「三種の神器」がセットで発見されたというので、重要な所だったのだろう。
三日月町一帯はは肥前国小城(おぎ)郡甕調郷であった。甕調は「美加豆支」、「美加都岐」と記しているものもある。みかづき、又は、みかつきと読むのであろう。
小城は古くは「をき」と読んだ。小城の地名は、肥前国風土記にある土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦(とりで))に由来するといわれている。
「をき」の地名と「オギ」の類似からを已百支国と特定した。
iwoki⇒woki⇒oki⇒ogiのような変化があったのだろう。
上古音は(diəg pak kiegディグ パク キエグ)。従来の読み方は「しおき」
発音は素直にユマ仮名を当てはめることはできないと思うが、他の文字との関係を勘案して、どうにか成り立つのではないかと思う。ディパキ、イパキ、イオキ。
[厳yi]鎮座。存在を表す[覆wo]覆う[岐 ki]際立つ。
存在、居場所を土で覆った砦を作り、際立っていた、という意味であろうか。
11伊邪國:イヤ[親因゛iu yau ]
旧佐賀郡に属す範囲で、嘉瀬川と城原川に挟まれる地域である。現在の佐賀市、神埼市が含まれる。
広範囲に遺跡があるが弥生後期の大きな遺跡は無いようだ。放置されることなく使われ続けて遺跡が破壊されているのかも知れない。
図10
類似の地名が見当たらず、国名の根拠を特定の地名に求めるのは無理なようだ。
場所的には、ここが伊邪国にならないと、後が続かない。
上古音では(・Iər ŋiagイア ニヤグ))、従来の読み方は「いや」
[親iu]親しみ [因゛yau]いよいよ、更に、益々
(奴国)と益々親しい国、となるだろうか。
12都支國:タキ[垂岐ta ki]
多久市が該当する。
茶園原西畑遺跡、他、多久遺跡群を構成する遺跡がある。旧石器時代から弥生時代の石器が多数出土していて、サヌカイトという刃物への加工に適した石が取れる。鬼の鼻山北麓一帯に40カ所以上ある。
図11
旧地名は肥前国小城郡多久(たく)村。多久郷は古くは高来(たかく)郷といった。
発音の類似から、都支国とした。「都」は上古音ではtagだが中古音ではto、現代音ではtuと発音する。もっとも一般的な伊都国の読み方は「いとこく」だが、卑弥呼の時代は上古音が使われている時代であり、「都」はタと読みべきだと結論した。
上古音では(tag kiegタグ キエグ )、従来の読み方は「とき」
[垂ta]溢れる[岐ki]際立つ
際立ったもの(サヌカイト)が沢山産出するところ、という意味になるか。
9斯馬国、10已百支国、11伊邪国と並んでいたが、その列からちょっとだけ外れていた12都支国をちょっと戻ってここで記載したのだろう。