倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

邪馬壹国のその後

2024-10-01 15:22:08 | 邪馬壹国

 邪馬壹(壱)と邪馬臺(台)と邪馬台について思っていることを書きたいと思う。
 邪馬壹(壱)と記載されているのは魏志倭人伝のみ。魏誌より先に書かれた「後漢書」を始め、魏志以後の歴史書は邪馬臺(台)と記載されている。
 中国語の時代ごとの発音を比べてみよう。
壹(壱):上古音 ・iet(ィェッ)
     中古音 iĕt(イェッ)
     現代音 i(イ)
臺(台):上古音 də(ダー)
     中古音 dɒi(ドイ)
     現代音 tái(タイ)


 上古音は周代・漢代、中古音は南北朝(439~589)後期から隋・唐・五代・宋初だという。よって、卑弥呼の時代は上古音になる。
 邪馬臺(台)はヤマダーと発音していたことになる。
 時代によって読み方を変えていたとしたら、ヤマドイ、ヤマタイと読んでいたことになる。今、邪馬台国と書いてヤマタイコクと読むのは現代音で読んでることになる。
 外国である中国が、ヤマダとかヤマドイとかヤマタイと読むのは構わない。発音の構造も違い自国では発音しやすいように発音するのが普通だろう。翻訳ソフトで今の発音を聞くと、「シーマータイコー」と発音しているようだ。
 日本の研究者がヤマタイと読んだのはおそらく壹(壱)の現代音がイなので、魏志倭人伝の邪馬壹(壱)はヤマイとしか読めなかったのではないだろうか。それでは、全くヤマトにつながらない。そこで、壹(壱)の字は間違えて書いたものだとして、他の文献では臺(台)が使われているので邪馬臺(台)をヤマタイと読めば、まだヤマトにつながる発音になると考えたのではないだろうか。さらに壹(壱)と臺(台)の違いを指摘されないように台の字を使って邪馬台国としてヤマタイコクと読むようにしたのではないか。
 私はヤマタイコクと読むのは構わないと思う。時代によってはやりの読み方があるから。壹(壱)與を台与と変えるのも同一性により良いと思う。ところが台与の読み方をトヨまたは壱与としてイヨと読むのは同一性、統一性に欠けて、変だと思う。邪馬台国をヤマタイコクと読むなら台与はタイヨと読むべきだ。
 私は、魏志倭人伝では倭人語の収集に重きを置いていると思う。各国の名、人名など倭人語の発音を沢山の漢字を当てて記載している。その一貫として、後漢書に書かれている邪馬臺(台)を変更して邪馬壹(壱)と書いているのは臺(台)də(ダー)よりも壹(壱)・iet(ィェッ)の方が発音として近いと感じたからではないだろうか。
 現代音ではt音が抜けているが、上古音の(壱)・iet(ィェッ)にはt音がある。ヤマトの発音につながるt音がある。
 邪馬壹(壱)はヤマィェッ、もうちょっと日本語っぽく読めばヤマイット。It is a penをカタカナで書けばイット イズ ア ペンなので妥当だと思う。日本語は全て開口音の母音で終わるので子音だけのtに対するカタカナは無い。ッで代用しているが、実際はツもtuだから子音を表しているとは言えない。日本語で書くならヤマイットでいいのではないか。壹(壱)與はイットヨ。そしてヤマイットはヤマトになり、イットヨはトヨにつながるのだ、としたら同一性、統一性があり納得できるのではないかと思う。


 池田秀穂の「日本曙史話」及び「弥生の言葉と思想が伝承された家」に基づき、自分なりにまとめてみた。
 倭人天族は五島列島を本拠として活動していた。そして、そこをヤマイト[因゛増親充yau mou iu tou]と呼んでいた。山の仲間という意味だ。
 彼等は海上物流に乗り出し、力をつけていった。博多や任那に拠点を作り、朝鮮の洛東江などの農民を日本各地に移民させて、米作りを進めていった。
 博多を中心に開拓が進むと、中国に朝貢し「漢委奴国王印」を貰った。何のために外交に乗り出したのか、それは、米作りの移民を円滑にするためだったに違いない。勝手に外国人を連れて来たら戦争になってしまうだろう。
 北九州を中心に始めた米作りを日本各地にも広めていった。
 米作りが盛んになった北九州では収量も増え、人口も増えていった。人が増えると争いが起こる。北九州で倭国大乱が始まった。水利争いだということだ。
 争いが続いては商売あがったりの天族としては、大乱を収める必要があった。最先端の彼等は軍事力を行使して、大乱を収めた。30地域ほどある邪馬壹国を作り、女王をたてた。
 邪馬壹国とは彼等のふるさとヤマイトと同じだ。おそらく魏の使いはイトの間に若干の間を見出し、ヤマイットと聞き取ったのではないだろうか。
 彼等は邪馬壹国を成立に大いにかかわったが、邪馬壹国ではない。魏志倭人伝に大倭として記載されている組織だ。(自分達で大倭と称しているわけでは無いが、ここでは大倭としてく。)
 倭人伝には次のように記されている。


國國有市交易有無使大倭監之。自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史。王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
国々には市場があって、人々は物資を交換している。大倭にこれを監督させている。
女王国の北には、特に「一大率」を設置し、諸国を検察させ、国々は畏れ憚っている。常に伊都国に置かれており、中国の「刺史」のようである。
王が使節を、洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。


 この文章を読むと、大倭が経済、軍事、警察、外交に大きくかかわっていることが分かる。
 国家の経済・警察・外交を担っているとしたら、ほとんどの国の機能を大倭が握っていることになるのではないか。女王卑弥呼は巫女であり神のお告げを聞いて争い事を納める裁判官のような立場だということだ。
 しかし、大倭は国ではない。現代で考えればアマゾンのようなものか。経済力で他を圧倒するが、国ではなく、各国と商売している。拠点はあるが領土・領民はない。社員はいる。
 中国と外交を行うには国と国でなければならないのだろう。
 私は、その外交の際に、大倭はきっと古墳作りのノウハウを得たに違いないと想像している。なぜなら、魏との外交以後すぐに弥生時代から古墳時代に移行しているから。
 高層ビルを作るのと同じで、誰もが高層ビルを作れるわけではない。そのノウハウが必要だ。大倭が古墳作りのノウハウを得て、日本の古墳作りを請け負って莫大な利益を上げていったのだろう。
 
 時代は進み、大倭のマネをして、大倭の利益を脅かすものが出てきた。三輪国だ。
 三輪国は大倭から武器や鉄器を買って、高い利ザヤで他に転売し、儲けていった。古墳作りもできるようになって、更に、利益を増やしていった。
 大倭にとって、最初はいいお客さんだったの三輪国は、自分たちの利益を横取りする、自分達の商圏を脅かす存在になり始めた。
 三輪国の商圏を得るべく、大倭は決意した。始めは交渉だったが最後は圧倒的な軍事力で征服した。そして、三輪国の王位を譲ってもらう形をとった。
 これが古事記の国譲りのモデル、天つ神と国つ神のモデルである。
 崇神の東征は、神武の前半生として書かれ、崇神については後半生のみが古事記には書かれている。


 王位を譲られた崇神は、それまでの三輪の王を先祖として祀った。例えば、M&Aで社長交代したようなものだ。縁もゆかりもない人が第○代の社長となったようなもの。
 但し、崇神は初代だけは変更した。自分達大倭の創始者をである神武を初代にした。古事記の神武以後の欠史八代などは三輪の王のことだろう。
 国ではなく、総合物流商事とでもいうべき大倭は、二つの国となった。西の国(天のおおきみ)、東の国(国のおおきみ)。


 西の国は九州で朝鮮・外交を担当していたが、白村江の戦いに敗れ朝鮮の権益を失い、存在価値がなくなった。西の国は、東の国に統一された。


 弓前値成は文字が無い倭人に口伝で伝えられて来た倭人天族の哲学と言うべきものを、漢字と漢字を基にした特殊文字を使って文字に書き起こした。また、それについての後継者が知るべきこと、秘文とすること書いた。これが弓前文書の神文と委細心得である。秘文とされた弓前文書は平成になり池田秀穂が公開した。
 委細心得には日本国成立の秘話が書かれている。その中に自分たちは元「山人島々在」、山人の島々に居た。と書かれている。ふるさとであるヤマイトを山人と表記している。このころにはヤマトと言っていたのだろう。


 古事記の編纂に当たり、西の国は無かったことにされた。東西の国は、万世一系の天皇の国となった。

 後に大倭の字を変えて大和にして、ヤマトと読むようになった。ふるさとの地名を使い続けているのだ。




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