遺跡地図等を基に弥生時代の遺跡をマッピングし、各国の形を割り出し、国土地理院の地形図に落とし込んだ。また、上古音を使い発音を再考し、倭人語(弥生の言葉)を使って意味も考えた。
1狗邪韓國:クヤ[奇因゛ku yau ]
狭義の任那は、任那地域に在った金官国(現代の慶尚南道金海市)を指す。
伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。
1世紀中頃に中国正史の『後漢書』の「其西北界拘邪韓國」、魏志の「其北岸狗邪韓國」で狗邪韓國(慶尚南道温金海市)と弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓國(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4,3世紀)以後になると従来の土器とは全く異なるる弥生式土器が急増し、これは後の狗邪韓國(金官國)と繋がる倭人が進出した続果と見られる。
図1
上古音では「kug ŋiagクグ ニヤグ」、従来の読み方では「くや」
[奇ku]不思議なる変化[因゛yau]いよいよ、更に。意味は「韓地方のいよいよ不思議な国」といった意味だろう。
伽耶(かや)国と音が似ているので狗邪韓国と特定する。
對馬まで1千里の測り始めである「倭の北岸」は鎮海湾と推測する。
ちなみに、任那はユマ仮名ではミマナ[実増成miu mau na]で、 物をどんどん集積して行く共同域という意味。
「増mau]は倭人を象徴する音でもある。倭人天族の出身はヤマイト[因゛増親充yau mau iu tou]であり、意味は山の仲間。アマ[天真a ma]であれ、ヤマ[因゛増yau mau]であれ、マ(ma,mau)は自分たちの仲間であるという象徴的な言葉となったようだ。
沖縄の南の端ヤエヤマ(八重山)、ケラマ(慶良問)、琉球はイルタマ、カケロマ、奄美、天草。彼ら天族の存在を示す地名が対馬暖流に沿って一列に並んでいる。
2對馬國:ツマ[積増tu mau ]
魏志倭人伝では「對海國」だが對馬(対馬)で異論はないだろう。
上古音では「tuəd mag トゥアド マーグ」、従来の読み方では「つしま」
[積tu]積み上げる[増mau ]増加する
意味は「積み上がったといういことで島をあらわす」のだろう。
もう一つの解釈としては、プタツ[震゜垂積pu ta tu]、つまり「ふたつ」が省略されて[つ」だけになった。漢字の對馬の對(対)は二つを表すので「プタ」が省略されたのだろう。
本来は「斯馬國」と同じ「斯」が使われ「對斯馬」であったかも知れない。倭人語の収集には足りているので「斯」が省略されて「對馬」になったのかも知れないとも思う。各国の名称はたびたび省略されているように思う。「對海國」とされているのも「馬」は何回も使われ倭人語収集では足りているので、違う文字「海」を使って別の意図(面積を距離とする等の暗号)を表すことにしたのかも知れない。
3一支國:イキ[緒岐yiu ki ]
一支は壱岐。これも異論はないだろう。
上古音では「・iet kieg イエット キエグ]、従来の読み方は「いき」
[緒yiu]始まり・糸口[岐ki]際立つ。「海を渡る始まりの際立っている島」という意味はだろう。
魏志倭人伝では「一支」の「支」を「大」に替えて「一大国」としている。
明らかに間違っている。對馬を對海と記載しているのと同じく、明らかに間違った字を使うことにより、「對馬」と同じく別のことを示唆している。
「瀚海」を渡って壱岐に着くことになっているが、瀚海という名の海は無い。瀚海も特別な意味を持つと私は考えた。詳しくは「女王国への1万2千里」に書いた。
倭人伝に各国名、人名を沢山記載している理由は、倭人語を収集し残す為だと思っている。「馬」も「支」も各国名や人名・官職名に何回も使われているので、倭人語の収集には支障が無いので文字を入れ替えてメッセージとしたのだろう。對海の「海」・一大の「大」・瀚海の「瀚」。どれも倭人語ではない。
4末盧国國:ムラ[醸躍mu ra]
佐賀県唐津市が該当する。
柏崎遺跡群、宇木汲田遺跡、菜畑遺跡などがある。
唐津東松浦地方で、弥生文化の中心は、松浦川、宇木川、半田川流域である。
図2
上古音では[ muat hlag ムア ラグ]、従来の読み方は「まつろ」
ユマ仮名の意味は[醸mu]醸す・増殖・発展[躍ra]最大動作・躍動する。「発展している国」という意味だろう。
松浦川が流れ、「ムラ」は「浦」に対応すると思う。音の類似により末盧国と特定する。
松浦郡は末盧国の末を「まつ」と読んで松浦郡としたのだろう。
魏志では「濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之(人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えない。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深浅は関係なしに潜ってそれらを取っている。)」と紹介している。
地形を見ると山がちで、川沿いにわずかの田はあるが、漁の方が主体となるだろう。また、港としての中継地であったかもしれない。隣の国(伊都國)は山を隔てたところにあり、道が整っているとは思えない弥生時代に、山を徒歩で行くより、舟で海沿いを行く方が合理的だったろう。
魏誌倭人伝では「東南陸行五百里到伊都國」とあるが、伊都國は末盧国の北東にあり
1百里から2百里位の距離にあり、倭人伝の位置関係とは異なる。これは、「海」「大」「瀚」の字が暗号となっていると考えている。詳しくは「女王國への1万2千里と真実の距離、邪馬壹國の地図」の記事に私の見解はまとめてある。
5伊都國:イタ[親垂iu ta]
糸島市及び福岡市西区が該当する。
今宿五郎江遺跡、平原遺跡、三雲南小路遺跡等がある。
図3
上古音では[・Iər tag イア タグ]、従来の読み方は「いと」
ユマ仮名の意味は[親iu]親しみ[垂ta]溢れる、「親しみ溢れる国」という意味だろう。
筑前国怡土(いと)郡との発音の類似により伊都国と特定する。
伊都の「都」は上古音ではtagだが中古音ではto、現代音ではtuと発音する。
よって、伊都は「いと」が一般的だが、「いた」と読む方が正しいと思う。
弥生時代は海が入り込んで島状だったかも知れない。
池田秀穂は「日本曙史話」の中で、イト「親充iu tou」として「仲間の国」としているが、イタ「親しみ溢れる国」であっても特に大きく意味は違わないと考える。
6奴國(女王國):ナ[成na ]
福岡市博多区席田地区、福岡空港地区が該当する。
席田遺跡がある。
図4
席田村(むしろだ)は、福岡県筑紫郡にあった村。旧・筑前国。福岡市へ編入され、現在は博多区・東区、糟屋郡志免町の一部となっている。
福岡空港の滑走路の真下には、上牟田遺跡、席田平尾遺跡・下月隈遺跡が福岡県の遺跡地図に載っている(下図赤△)。が、調査されていないようだ。戦前から空港として利用され、今は福岡空港の真下にあることから、発掘調査は今後ともされないだろう。年代不明、遺物不明であるが、その周りの席田地区には沢山の弥生遺跡が発掘されている。
御笠川とその東側の小高い山に囲まれた福岡空港のある席田地区は、席田郡という他の郡と比べ非常に小さな郡であった。なにか特別な郡なのだろうと以前から思っていた。そのサイズ感は女王國にふさわしいと考える。魏志には「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」と書いてあり、伊都國・奴国(女王国)・不彌国の位置関係もピッタリである。
図5 福岡空港付近の遺跡地図。
席田はユマ仮名に当てはめると、ウムチロタ[美醸育移垂u mu tiu ro ta]。
[醸u mu]生む[育移tiu ro]育てて行く・知らせる、という意味から、政治するという意味になった。知ろす、知ろしめすの語源。[垂ta]溢れる。
席田は「政治が行われる地」との意味に取れる。
[成na]は秩序整然という意味がある。
藁(わら)で編んだむしろ(蓆、莚)は当時高貴な人が座る場所だったはずだ。卑弥呼が座るにふさわしいと思う。
6奴国(女王国)としたのは、魏志の説明で奴国まで1万2千里に対応したものである。奴国全体は29番目に記載された奴国であり、6奴国(女王国)は29奴国に含まれると考えている。
例えば、日本国の天皇の皇居があるのはどこかと問われれば、千代田とは言わないで、東京と答えるだろう。邪馬壹国と日本国を対比すると次のようになるだろう。
邪馬壹国:日本国
奴国:東京都
女王国(席田):皇居(千代田)
邪馬壹国の女王国はどこか書こうとしたら、席田と書いても通じないので、奴国としたのだろう。結局は二つの奴国が記載され、これが混乱の基だと思う。わざと混乱するように書いたのかも知れない。その理由は、本当の距離をぼかしたかったのだろうと思っている。
7不彌國:プミ[震゜実pu miu ]
宇美町、糟谷町、福岡市東区が該当する。
江辻遺跡等がある。
図6
南側に福岡県糟屋郡宇美町宇美があり、宇美川が流れている。
宇美町自体には遺跡が少ない。中心部は粕屋町のあたりだろう。
福岡市東区も含むと思われるが、点在する島だったかも知れない。
遺跡の状況から宇美町まで大きく海が入り込んでいたように思う。
上古音では[pIuəg mier ピウッグ ミアー ]、従来の読み方は「ふみ」
[震゜pu]第二[実miu]身。奴国の分身という意味だろう。
発音の類似性から不彌国と特定する。
8投馬國:トマ[保増to mau ]
南さつま市と日置市が該当する。
松木薗遺跡、下小路遺跡、入来遺跡などがある。
図7
吾田(アダ・アタ・阿多)は鹿児島県西部の古い呼び名である。
古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言った。
阿多のタと[保増to mau ]のトとの類似性から投馬国と推定する。
上古音では(dug magドゥグ マーグ)
ユマ仮名の[保to]は戸の意味。イタルマ(沖縄)、カケロマ等の南西諸島への玄関口。又は、トマリ(泊)から船の係留所とか宿の意味などが考えられる。[増mau]は倭人の存在を示すと考えられる。従来の読み方は「とうま」である。
当初薩摩の語感から投馬国になると思っていたが、薩摩という言葉は702年(大宝2年)に日向国から分離したのが薩摩の始まりであるとのことで、日向国以前には阿多(吾田)と呼ばれていたとのことである。
魏志倭人伝には「南至投馬國水行二十日」と書かれていて、奴国から舟で20日の所にある邪馬壹国の飛び地であると考えた。また、陸路の記載が無いのは、奴国との間には女王に属さない狗奴国(熊本)があり、陸路では行けなかったであろう。南西諸島、更には中国との交易に欠かせない地だったのではないだろうか。土地の状況を見ると、平地で水田と言うよりも交易が中心だったのではないかと思っている。もしかすると造船もあったのかもと想像している。
倭人伝には「五萬餘戸」との記載があり、交易等に従事して人口密度が高かったのか、それとも、もっと広い範囲を指すのかは検討中である。