倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

女王國への1万2千里と真実の距離、邪馬壹國の地図

2024-10-25 10:42:34 | 邪馬壹国
Ⅰ邪馬壹国の地図

 私は遺跡地図や地形図を使って弥生時代の集落や墓、散布地などをマッピングすることにより、邪馬壹国各国の場所を特定した。特定の根拠を順次説明することにしたい。
 地図は國土地理院のものを使用した。
図1

図2

Ⅱ後漢書と魏志倭人伝の検証
 
 魏志倭人伝の前に魏志以前に書かれた後漢書に何と書いてあるか確認しよう。


倭在韓東南大海中
(省略)
其大倭王居邪馬臺國。
樂浪郡徼去其國萬二千里、
去其西北界拘邪韓國七千餘里。


 ここから読み取れることは、
 倭の王は邪馬臺国に居る。
 楽浪郡から邪馬臺国までは1万2千里。
 楽浪郡から邪馬臺国の西北の境界である拘邪韓国までは7千里である。

 拘邪韓国からの5千里の道筋は記載していないということを指摘したい。
 また、楽浪郡の南側が分割されてのちに帯方郡となった。

 それでは、魏志倭人伝の内容をここでは距離等に絞って検討する。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。(省略)、方可四百餘里、(省略)。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
東南至奴國百里、(省略)。
東行至不彌國百里、(省略)。
(省略)
自郡至女王國萬二千餘里。

 帯方郡から狗邪韓国の北岸まで7千里。(残りは5千里)
 對海国まで1千里。4百里四方。
 一大国まで1千里。3百里四方。
 末盧国まで1千里。
 伊都国まで5百里。
 奴国まで1百里。
 不彌国まで1百里。

 足し算をしてみよう。
 1千×3+5百+1百=3千6百で奴国に到達。
 1千4百足りない。
 對海国と一大国の面積の数字を倍にしたら7百×2=1千4百。
 丁度5千里となる。
 不彌国までの1百里を足す必要はない。
 つまり、奴国が第一義的に女王国である。

 何故面積の数字を倍にして距離と扱うのか。
 それが可能な根拠は何か。
 對海国と一大国という記載だ。
 いずれも對馬国と一支国とすべきところを字を変えている。
 わざと間違えているのだ。
 これは、普通に読んではいけないという事。
 そしてこの文章は「女王國萬二千餘里」を解説する文章である。
 1万2千里が導き出せなければまったく意味が無い。
 だから「方」という本来は面積で使うものを距離に換算するような謎かけともいえるものを採用したのだろう。


 後漢書には「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里」
 一方、魏志では「自郡至女王國萬二千餘里」となっている。
 後漢書では邪馬臺国まで1万2千里なのに、何故、魏志では女王国まで1万2千里なのか。
 邪馬臺国と女王国は同一なのか。
 これは違うと言いたい。
 後漢書での楽浪郡(帯方郡)から邪馬臺国までの距離は、邪馬臺国の中心部までの距離というとだ。
 例えば、日本国と韓国との距離は何キロ?という問いが出されたら、普通、日本の首都東京と韓国の首都ソウルの距離をもって答えるだろう。まさか釜山港と対馬の距離を答えることは無いだろう。
 ところが、例えば日本から船で釜山港に入ったら、もう韓国までの距離は出せない。なぜなら、釜山は既に韓国だから。釜山とソウルの距離なら距離を出すのは可能である。


 同じことが「自郡至女王國萬二千餘里」についても言える。
 魏誌には狗邪韓国の岸、倭(邪馬壹国)の一番北の岸からの道筋を書いている。
 狗邪韓国は邪馬壹国の国内なのだ。だから、女王国までの距離は出せても邪馬壹国までの距離・道筋は示せない。
 例えば対馬から日本国の首都、東京までの道筋は言える。しかし、対馬から日本国までの道筋は示すことが不可能だ。なぜなら対馬は日本国内だから。
 ここが決定的に今までの邪馬台国論と違うところだ。
 邪馬壹国は伊都国などと同列の国ではない。全ての構成国の総称のなのだ。日本国は全ての都道府県で構成されているので混乱は無い。しかし、かつては、駿河国、相模国などが日本国を構成していた。同じ国という字を使っていても、まったく立場は異なる。中国から日本国に来ることは出来るが、駿河国から日本国に来ることはできない。なぜなら、既に駿河国は日本国内なのだから。


 ここで、魏志倭人伝の記載を地図化してみよう。


図3

 帯方郡から狗邪韓国まではおおよその航路を7等分し、1本を1千里として7本で示した。
 倭の北岸から對馬国までの方向は書いていないので、對馬国から1千里の半円を書いた。
 半円とほぼ交わる鎮海湾が測り始め即ち「始度」とされた地点であろう。
 「度」は度量衡の度で、長さの基準をいう。渡る。超えるという意味をあり、海を渡る意味もかけているのだろう。
 對海国は對馬国で対馬、一大国は一支国で壱岐というのは論争は無いだろう。


 對馬国から南へ「瀚海」という海を渡ると1千里で一支国に着く
 対馬と壱岐に先ほどと同じ1千里の線を引く。
 以上で狗邪韓国の岸(倭の北岸)から壱岐までは2千里である。
 
 次に壱岐から海を渡って1千里で末盧国に着くという。
 方向が書かれていないので、壱岐を中心に1千里の半円を書いてみた。
 さて、末盧国はどこだというのだろう。
 末盧国から東南へ陸行で5百里で伊都国に着く。
 とりあえず1千里の半円と交わるところから1千里の半分の線を東南の方向で引いてみた。
 いったい、伊都国はどこだ言うのだろう。
 壱岐から1千里にこだわらず、唐津や松浦から線を引いても、東南へ5百里なので、一般的に伊都国と言われている糸島とか怡土郡には全く着けない。方向が違う。距離も5百里も行かないで九州に上陸できる。
 ところが、壱岐から東南へ5百里の線を引っ張ると、ピッタリ糸島あたりとなる。
 
 再度魏志倭人伝の記述を見てみよう。


又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。


 魏志ではたくさんの倭人語を収集し、漢字で記載しているが、「瀚海」は倭人語ではない。對海国の「海」、一大国の「大」も倭人語ではない。倭人語ではないものをあえて使っている。
 更に末盧国は草木が盛んに茂り、前を歩く人の姿も見えない。そういう状態で、わざわざ舟を下りて、東南へ陸を歩いて5百里も歩くというのだ。
 結論として「瀚海」もあり得ない「陸行」もあり得ない
 だから壱岐から末盧国までの海を渡って1千里はあり得ないということになるのではないか。
 壱岐を中心にした1千里の半円、陸地と交わった地点から東南へ陸行。いずれもあり得ない。末盧国までの距離は架空の距離だと断ずるほかない。
 よって、壱岐から一海、東南へ5百里で伊都国に到達する、ということになるだろう。


図4







 一支国から東南へ5百里の線を引っ張ると糸島に到達する。
 5百里の線を5等分して、伊都国から東南と東に線を引っ張る。

図5

 黄色い線は遺跡地図や地形図を基に各国を示す線だが、これは別に説明する。


 伊都国から東南及び東に引いた1百里の線。
 ほぼ東にあるのが不彌国、その南側にあるのが東南にある奴国である。
 赤い線は1百里では足りないので、1百里の5分の3、60里を付け足したものである。
 切り捨てれば1百里となる。1万2千里の行程から、許される程度のの誤差ではないか。
 私は6奴国は女王国の事で、席田地区、今は福岡県博多区に属していて、福岡空港がある御笠川と高台に囲まれた地域だと考えている。二つ目の29奴国の一部分ともいえる。
 7不彌国は宇美町というよりは、専ら糟谷町あたりが不彌国の中心地だと思う。


 以上のことから、
 狗邪韓国から對馬国まで1千里
 對馬国から一支国まで1千里
 一支国から伊都国まで5百里
 伊都国から女王国まで1百里
 狗邪韓国から女王国までの本当の距離は2千6百里ではないかと思う。


 對馬国の方4百里、一支国の方3百里、一支国から瀚海を渡って末盧国へ行く1千里。
 これらは全て魏志の「自郡至女王國萬二千餘里」を導き出す方便だった。
 何故その必要があったのか。
 それは、後漢書の「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里。」という歴史的記述を否定しないためだと思う。
 後漢書の記述は、楽浪郡から狗邪韓国までの7千里に、当時の倭人が言うままに5千里を足して1万2千里としたのだろう。
 この1万2千里のうち、狗邪韓国から5千里の道順距離を出す為に、魏志倭人伝の作者である陳寿が知恵を絞ったのだ。
 本来は島の面積であるものを、字を違えて「對海國」「一大國」として面積の一辺を2倍に計算する。存在しない「瀚海」、どこだか確定できない末盧国、しかも前も見えないような草木が茂った道を歩く伊都国への行程を加える。
 あたかも舟と陸路の行程で1万2千里を出せるようにしながら、実際にはもっと短いのだということを暗示していたのだろう。




 次に投馬国及び詳細を書かれなかった国の検討をしよう。


南至投馬國水行二十日(省略)
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月(省略)
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次(省略)次有邪馬國次有(省略)次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王


 南に舟で20日で投馬国に着く。
 魏志倭人伝は邪馬壹国の紹介をしている。
 当然、投馬国は邪馬壹国の構成国である。
 陸行と書いていないので、舟でしか行けない飛び地なのだ。
 女王に属していない狗奴国を通りぬけることができなかったのもあるだろう。また、山がちな陸路を歩くより舟だけで行った方が効率よく行けたのだろう。
 投馬国は南西諸島への玄関口であったと思う。


 「南至邪馬壹國女王之所都」
 南に行けば邪馬壹国の女王の「都」する所。
 この「都」とは何か。
 辞書を引くと①天子の居城の有る所。②にぎやかな大きなまち。③みやびやか。美しい。③統べる。まとめる。「都督」④すべて。ことごとく。「都度」「都合」
 今までは、①から、天子の居城がある所という意味で「都」は女王卑弥呼が居る所と解釈して、「都」は女王国である、と解釈してきたのではないだろうか。
 しかし、「③統べる。」という意味から女王が統治している所という意味にも取れるのではないか。また「④すべて。ことごとく。」という意味から、邪馬壹国の全ての国々という意味にも取れるのではないか。
 ③と④を合わせて、「女王に属するすべての国々」と訳すのが本当ではないか。
 「邪馬壹国の女王に属するすべての国々」は南に舟なら10日、徒歩なら1カ月の所にあるということだ。


 「自女王國以北其戸數道里可得略載」
 女王国以北の対馬国、一支国、伊都国、不彌国については、距離も戸数とか概略が書いてある。
 狗邪韓国については戸数や概略も書いていないが、「始度」とあるように測り始める出発点である。
 末盧国に付いては、女王国の北側とは言えないが、架空の距離が記載され、概略も書いてある。
 投馬国は女王国の北ではなく、行程は日数であって里数ではないので、女王国以北の国には入らない。


 「其餘旁國遠絶不可得詳」
 以上の国以外は遠いし、詳細を書けばとんでもなく長くなるので詳細の記述は控えたのだろう。「以下詳細省略」ということだろう。この文章に続き、各国が羅列されている。




 「(省略)此女王境界所盡」
 各国の羅列のあとに、ここまでが女王の境界なのだ、と言っている。
 これら羅列された国々が、舟なら10日、歩きなら1カ月の範囲にあるという事。


 「其南有狗奴國(省略)不屬女王」
 そして、境界の南側には狗奴国があって、女王に属していない。


 ではこれを地図に落としてみよう。


図6

邪馬壹国は、狗邪韓国、対馬国、一支国、投馬国のほかは、福岡平野と築紫平野にある。
①は航路10日
②は陸路1カ月。
 旅行で行くわけではない。道具を運んだり、米を運ぶために陸路を行ったはずだ。直線的に進んだとは思えない。しかも、道が整備されているわけでも、旅館があるわけでもない。食事の用意も自前かも知れない。距離にして200キロ前後だと思う。馬も車もない時代、1日10キロ程度でも成り立つのではないか。
③は狗奴国(熊本)と邪馬国(みやま市・大牟田市等)の間の境界。
④は①から続いて投馬国へ向かう航路20日。


 以上、全ての国について地図に落とし込み、倭人伝の記述と比較してみた。
 矛盾があるだろうか?
 ポイントは邪馬壹国は日本国と同じく全体の総称。
 狗邪韓国、対馬国・・・奴国は邪馬壹国の構成国
 女王国は奴国の一部ともいえる席田。東京都の皇居みたいなことだと思う。
 1万2千里を出す為の方便が使われている。実際の距離は狗邪韓国までは7千里だが狗邪韓国の岸から女王国までは5千里もなくて2千6百里。
 投馬国は飛び地。
 狗奴国との国境までは舟なら10日、徒歩なら1カ月。




 国であるならば、近接する位置にあるはずだ。構成国の国々が飛び飛びに存在するはずがない。魏志に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いてあるように、牛も馬もないので車もないだろう。そのような弥生時代に、飛び飛びの地であれば関係性は保てないだろう。
 構成国を論ずる場合にはある程度の順序で書かれるだろう。例えば南から順、北から順など。
 邪馬壹国各国を論ずるなら、遺跡と地形図を照らし合わせて考えるべきだ。白地図ではイメージが湧かない。山の上は縄文時代石器時代の遺跡はあるが、弥生時代の遺跡はほとんどない。弥生時代は平地で農業、米作りする時代だ。これも遺跡地図をマッピングすることにより気づいた。
 米作りには平地が必要だ。手がかかる。集団で行動する必要がある。米は貯蔵できるのでその管理も必要だ。一方縄文時代のように、木の実を食べたり、狩をするには山中のほうが暮らしやすい。少人数の方が効率がよい。
 築紫平野や福岡平野にたくさんの遺跡がある。地形や遺跡の存在により地域を分けてみると、もしここに百か国あったら、同じ河川を使うこともあるだろうし、物理的に山や川に隔てられていなければ、争いが起きても不思議じゃないと感じる。倭国大乱があっておかしくない。後30国程度になったのも不思議ではない。
 
 邪馬壹国があまりにスケールが小さくで意外だろうか。
 じっくり地図を見ていると、そんなに狭いわけではないと気づく。
 弥生文化は九州北部だけじゃなく全国にあった。当然奈良や出雲にもあった。
 それらが全部統一王朝のもとで統治されることは可能であろうか。
 道も整わず、馬や車もない。通信もない。海や川を渡るに舟があっても上陸したら徒歩。
 それぞれの地域で弥生文化が緩くつながっていたのではないか。
 ただ、物理的に中国に近い邪馬壹国が国として中国と外交を行い、記録されたということだろう。


図7 弥生時代の遺跡

 邪馬台国論が100あったとしよう。
 そのうち一つが正しいとしよう。
 すると、過去の邪馬台国論は間違っていると指摘するのは99%正しい。
 これから出て来る邪馬台国論が間違いだと指摘するのは99%正しい。
 そんな中でする邪馬台国論。
 過去の自分の思っていた見解とも違っていた。
 人は納得しないだろう。邪馬台国論には利害もある。
 自分が思っていた疑問は全て解決し、自分を納得させるものが出来た。
 満足である。


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