ヤマトとはどんな意味を持つ言葉でしょう。
ヤマトの語源は「ヤゥマゥイゥユトゥ」です。
ユマ仮名では「因゛増親結充yau mau iu you tou」と書きます。
倭人は文字を持たなかったので倭人の言葉は口誦で伝えられてきました。七世紀の始め、弓前値成(ゆま あてな)という人が、帰化人が漢字の音を使って日本語を表記しているのにヒントを得て、倭人語を文字化しました。値成は倭人語の意味に近い漢字を選び、漢字の音を無視して倭人語の音を当てました。簡単に言うと訓読みのようなものです。ただ、倭人語の意味を表しきれない場合は漢字を利用した特殊文字も使いました。池田秀穂は弓前漢字仮名と命名しました。しかし、特殊文字を使うため、外字を作らない限り、パソコン等では書けないのです。そこで、一般のパソコンで使えるように私が改変したものがユマ仮名です。例えば(垂゛da)のように濁点を使っているのは複数形を示し、(晴゜pa)のように半濁点がついているのは弓前冠という特殊な冠がついていることを意味します。
倭人語は一音一音に意味があります。
ヤゥ(因゛yau)は「いよいよ」とか「益々」という意味
マゥ(増mau)は「増殖するもの」
イゥ(親iu)は「親しい」
ユ(結yu)は「関係する」とか「つながる」
トゥ(充tou)は「充実している」「富む」
以下、二重母音を意味する小さなウは省略する場合があります。
ヤマ(因゛増yau mau)は「いよいよ増えて盛り上がったところ」。つまり「山」のことです。
最初は彼等の住む島々のことを意味していました。九州等に活動範囲を広げるとヤマ(因゛増)は普通の高い山を意味し、それまでの島は小さな山、チヤマ(少因゛増tsi yau mau)となり、発音が変化しチマ、そして島(しま)となりました。イゥユトゥ(親結充iu yu tou)は直訳では親しみ・つながり・富む。この場合は「仲間」を意味します。
彼等は自分たちのことをアマ(天真a ma)と呼び自分たちの住んでいる所を「ヤマト(ヤゥマゥイゥユトゥ・ヤマユットウ)」と呼んでいました。ヤマトとは仲間たちの暮らす島々という意味になります。池田秀穂は五島列島のことだと断定しています。
天族は黄海、東支那海の海人(あま)でした。出雲族は朝鮮と日本本土を結ぶ、日本海の物流海人でした。天族は朝鮮にミマナ(実増成mi mau na)(任那・物をどんどん集積して行く共同域)、九州ではパカタル(晴゜威垂活pa ka ta ru)(博多・威風辺りを払う)に前進拠点を作って、活動を広げて行きました。
彼等は人々に農機具、籾を貸し与え、年々収穫に応じてその歩合を徴収しました。た。おそらく日本各地に残る「訪来神」とは彼らのことだと思います。取り立てが過酷だったのか恐ろしい顔の面が今も伝わっています。のちには古墳作りも請け負うようになって行きました。
彼らはパカタル(晴゜威垂活)を拠点に奴国(成na)(秩序が出来上がった(国))を作り外交を行い、漢委奴国王の金印を貰って(57年)活動しました。
更に天族は組織を固め資本を蓄積し、日本本土に侵出して行きました。瀬戸内は勿論、南海迄は完全に組織下に収めました。その資金力をバックに次々と新しい根拠地を造り、武装集団を配してその商圏を確たるものにしていったのです。
しかし日本海の商圏は大昔から、辰韓の地にある海人と出雲族のものでした。天族は様々な手段、おだてや脅しを試みて商圏を手に入れようとしました。最後は圧倒的な武力で出雲族の商圏を手に入れたのです。これが出雲神話の国譲りの台本です。
天族は南朝鮮と大八洲を結ぶ対馬暖流の制海権を握る一大海上国家が成立させました。二世紀初頭のことだといいます。
しかし天族は国という観念はなかったようです。天族の言葉でクニ(哈和xu niu)とは食料確保の秩序体を意味しました。
二世紀後半、倭国大乱が起きました。
大乱後、卑弥呼(生年不明~247年頃)を連邦国家の王としました。女王は奴国のパカタル(博多)に在りました。卑弥呼は巫女であり、軍隊を指揮したわけではなく、神のお告げを伝え争いを裁く裁判官の役目でした。実質は天族が取り仕切ったのです。魏志倭人伝に出て来る「大倭」です。
邪馬壹国は連邦国というべきで、どこかの地域に邪馬壹国があるわけではありません。全体を指して邪馬壹国なのです。日本国は都道府県の集合体です。日本という都道府県があるわけではないのと同じです。
「大倭」は伊都国(イト親充iu tou)(仲間の(国))に首都機能を置き、諸国を管理監督して畏れられました。また、女王の外交を担いました。
彼等は連邦国のことをヤマト(ヤゥマゥイゥユットゥ)と言いました。自分たちの故郷の呼び方です。
邪馬壹は中国上古音で次のようになります。
邪 ŋiăg(ンィァ)
馬 măg(マァ)
壹 ・iet(ィェッ)
ヤマイット、ヤマィユット、ヤマユットゥ、ヤマイットゥ、ヤマイッツ、ヤマイェット、ヤマイエッツ。どのように聞こえたのでしょう。
壹は上古音では・iet(ィェッ)、中古音ではiĕt(イェッ)、中世音になるとiəi(イィ)、現代音ではi(イ)というように、上古音・中古音で存在した【t音】が無くなっています。「壹」を「台」の字に替えて使ったのは、「壹」はイとしか読めなかったからなのではないでしょうか。ヤマイではヤマトと程遠い。t音が入らないと困る。よって、他の文献に見られる臺の字も使わず、壹と臺の「豆」と「至」の違いに気付きづらいように意図的に「台」の字に替えて使ったのではないか、と想像しています。
私は邪馬壹・邪馬臺・邪摩堆・邪馬台・邪馬壱も全て「ヤマト」とか、「邪馬ト」とか、又は、カッコ書きで邪馬壹(ヤマト)、邪馬臺(ヤマト)、邪馬台(ヤマト)などと表記したら良いと思います。時代による発音の変化があったり、文字が異なったとしても、「ヤマト」ということは異論がないのですから。
壹與・台與もトヨとした方がいいと思います。イヨ又はトヨという両論併記の読み方になっていますが、邪馬台国をヤマタイと読むのなら、タイヨでなければおかしいと思います。日本語の発音を表す漢字が、同じ文章中で違う発音をするとは考えられません。邪馬壹・邪馬臺・邪馬台はヤマト、壹與・臺與・台與はトヨと表記、発音を統一するのが良いと思っています。
表記方法について考えると、例えばイタリアはイタリヤとされていました。イギリスはエゲレス。バイオリンはヴァイオリン。時代によって表記の変化は許されます。日本はジャパンとかジャポンとが言われています。現地の発音に必ずしも従わなくても、認識さえ異ならなければ構わないと思います。
それでは、邪馬台国(ヤマト連邦)と大和朝廷はどう関係するのでしょうか。
二世紀初頭に成立させた一大海上国家の組織を天族はアマカド(天威戸)と称しました。その首長をアオキミ(天大貴実a o kiu miu)(大王・大君・ああ偉大なるお方)といいます。天族に国という意識は低く海上物流商事として経済活動をしていました。
ところが、近畿のお客さんであったはずの三輪の国が勢力を増し、天族の利益を損なうようになりました。
アマカド創立以来240年、アマカドの大君となったアオタは、三輪の国を征服しクニカドを作ろうと考えました。
アオタはイツセに三輪国征服を命じました。イツセ急死後はイニエが司令官を引き継いで三輪の国を占領しました。365年頃のことであるといいます。
勝者は歴史を創ること出来るようです。
イニエは、代々の三輪の国の王をヤマトの「国の大君」として祀ることにしました。三輪の国を征服して奪ったのではなく、王位を譲られて即位する形をとったのです。 但し、三輪の国の初代の大君をアマカドの創始者であるユパレにしてしまいました。だから三輪の国は、最初からヤマトのもの、大和朝廷だったことになったのです。
ユパレ(結晴゜舞yu pa rai)(運気の張り出す始め)は神武、アオタ(天大垂a o ta)(大いなる力の発揮者)は景行、イニエ(親和重iu niu yai)(親しみあり、丸く治める重厚な御方)は崇神のことです。崇神は実在の天皇、その前は疑わしいという研究がなされています。けれど、崇神がいた時代より古い時代の遺跡があるので、大和朝廷はずっと邪馬台国の時代から近畿に有ったと論争になっているようです。実は三輪の国があったのです。戦争の結果、三輪国の創立者を占領者天族の創立者であるユパレ(神武)に取り換えてしまったというのが本当のことのようです。
アマカドの大君アオタ(景行)は、大八州全てはヤマトの国であり、それを東西に分け、九州中心の西をアマカドの国、近畿中心の東をミマカドの国にすることを宣言しました。アオタは天の大王となり、イニエは国の大王となりました。
西のアマカドはその後どうなったか。
白村江の戦い(663年)で敗れたアマカドの国は朝鮮半島の権益を失い、存在理由がなくなってしまいました。そして、強大になっていた大和朝廷に一本化されたのです。
権力者は歴史を創ることが出来るようです。国の歴史をまとめるにあたって、最初から大和朝廷だけが存在し、二王朝制は存在しなかったように物語は作られました。それが古事記(712年)であり、日本書紀(720年)です。出雲の国譲りの話は神々の時代、崇神の三輪の国占領は神武東征のこととされました。アマカドは大宰府のことだったことになり二王朝制は存在しなかったことになりました。天の大王だったアオタ(景行)は国の大王のイニエ(崇神)の後に即位したとされるなど天・国の大王の統一が図られ、万世一系の天皇が誕生したのです。
弓前値成は7世紀初頭(610年頃)に書いた弓前文書の委細心得の文章の中で、「山人島々在」、つまり、自分たちの祖先は山人の島々にいたと表記しています。弓前文書が書かれた頃はまだ「大和」という表記は無かったと思われます。
その後、誰が考えたか知りませんが、大倭の倭は良い文字ではないとして和に取替えて大和とし、ヤマトと読むことにしました。
ところで、原書「弥生の言葉と思想が伝承された家」及び「日本曙史話」では、ヤマトについて「因゛増親充」という表記もあります。今まで述べてきた「因゛増親結充」の「結」がありません。どちらが間違いだろうか、と考えていましたが、きっと時代の流れによる変遷ではないかと思うようになりました。
五島列島を拠点としていたころは、因゛増親充yau mau iu touであり、直訳では山の仲間。当時の山は島のことでしたので、意味は、仲間の島々。仲間のいる島々という意味になると思います。
九州の邪馬壹國の頃は、因゛増親結充yau mau iu yu tou。「結yu」というのは「つながり」の意味があります。いくつもの国(仲間)がつながっているということで、連邦国の意味になるでしょう。
近畿の大和朝廷の頃は、ヤマトya ma toとなって、言葉の意味はさほど関係なく、故郷の慣れ親しんだ名称だったのではないでしょうか。
yau mau iu tou⇒yau mau iu yu tou⇒ ya ma to
時代とともに発音は変遷し、言葉の由来はあっても、特に意味があるわけでは無くなります。人や物の名前と同じく、由来があっても意味が問われることは無く、人や物を判別する記号の様なもの、固有名詞です。発音が変わっても、意味が変わっても、表記が変わっても、ヤマトはヤマトです。
ヤマトの語源は「ヤゥマゥイゥユトゥ」です。
ユマ仮名では「因゛増親結充yau mau iu you tou」と書きます。
倭人は文字を持たなかったので倭人の言葉は口誦で伝えられてきました。七世紀の始め、弓前値成(ゆま あてな)という人が、帰化人が漢字の音を使って日本語を表記しているのにヒントを得て、倭人語を文字化しました。値成は倭人語の意味に近い漢字を選び、漢字の音を無視して倭人語の音を当てました。簡単に言うと訓読みのようなものです。ただ、倭人語の意味を表しきれない場合は漢字を利用した特殊文字も使いました。池田秀穂は弓前漢字仮名と命名しました。しかし、特殊文字を使うため、外字を作らない限り、パソコン等では書けないのです。そこで、一般のパソコンで使えるように私が改変したものがユマ仮名です。例えば(垂゛da)のように濁点を使っているのは複数形を示し、(晴゜pa)のように半濁点がついているのは弓前冠という特殊な冠がついていることを意味します。
倭人語は一音一音に意味があります。
ヤゥ(因゛yau)は「いよいよ」とか「益々」という意味
マゥ(増mau)は「増殖するもの」
イゥ(親iu)は「親しい」
ユ(結yu)は「関係する」とか「つながる」
トゥ(充tou)は「充実している」「富む」
以下、二重母音を意味する小さなウは省略する場合があります。
ヤマ(因゛増yau mau)は「いよいよ増えて盛り上がったところ」。つまり「山」のことです。
最初は彼等の住む島々のことを意味していました。九州等に活動範囲を広げるとヤマ(因゛増)は普通の高い山を意味し、それまでの島は小さな山、チヤマ(少因゛増tsi yau mau)となり、発音が変化しチマ、そして島(しま)となりました。イゥユトゥ(親結充iu yu tou)は直訳では親しみ・つながり・富む。この場合は「仲間」を意味します。
彼等は自分たちのことをアマ(天真a ma)と呼び自分たちの住んでいる所を「ヤマト(ヤゥマゥイゥユトゥ・ヤマユットウ)」と呼んでいました。ヤマトとは仲間たちの暮らす島々という意味になります。池田秀穂は五島列島のことだと断定しています。
天族は黄海、東支那海の海人(あま)でした。出雲族は朝鮮と日本本土を結ぶ、日本海の物流海人でした。天族は朝鮮にミマナ(実増成mi mau na)(任那・物をどんどん集積して行く共同域)、九州ではパカタル(晴゜威垂活pa ka ta ru)(博多・威風辺りを払う)に前進拠点を作って、活動を広げて行きました。
彼等は人々に農機具、籾を貸し与え、年々収穫に応じてその歩合を徴収しました。た。おそらく日本各地に残る「訪来神」とは彼らのことだと思います。取り立てが過酷だったのか恐ろしい顔の面が今も伝わっています。のちには古墳作りも請け負うようになって行きました。
彼らはパカタル(晴゜威垂活)を拠点に奴国(成na)(秩序が出来上がった(国))を作り外交を行い、漢委奴国王の金印を貰って(57年)活動しました。
更に天族は組織を固め資本を蓄積し、日本本土に侵出して行きました。瀬戸内は勿論、南海迄は完全に組織下に収めました。その資金力をバックに次々と新しい根拠地を造り、武装集団を配してその商圏を確たるものにしていったのです。
しかし日本海の商圏は大昔から、辰韓の地にある海人と出雲族のものでした。天族は様々な手段、おだてや脅しを試みて商圏を手に入れようとしました。最後は圧倒的な武力で出雲族の商圏を手に入れたのです。これが出雲神話の国譲りの台本です。
天族は南朝鮮と大八洲を結ぶ対馬暖流の制海権を握る一大海上国家が成立させました。二世紀初頭のことだといいます。
しかし天族は国という観念はなかったようです。天族の言葉でクニ(哈和xu niu)とは食料確保の秩序体を意味しました。
二世紀後半、倭国大乱が起きました。
大乱後、卑弥呼(生年不明~247年頃)を連邦国家の王としました。女王は奴国のパカタル(博多)に在りました。卑弥呼は巫女であり、軍隊を指揮したわけではなく、神のお告げを伝え争いを裁く裁判官の役目でした。実質は天族が取り仕切ったのです。魏志倭人伝に出て来る「大倭」です。
邪馬壹国は連邦国というべきで、どこかの地域に邪馬壹国があるわけではありません。全体を指して邪馬壹国なのです。日本国は都道府県の集合体です。日本という都道府県があるわけではないのと同じです。
「大倭」は伊都国(イト親充iu tou)(仲間の(国))に首都機能を置き、諸国を管理監督して畏れられました。また、女王の外交を担いました。
彼等は連邦国のことをヤマト(ヤゥマゥイゥユットゥ)と言いました。自分たちの故郷の呼び方です。
邪馬壹は中国上古音で次のようになります。
邪 ŋiăg(ンィァ)
馬 măg(マァ)
壹 ・iet(ィェッ)
ヤマイット、ヤマィユット、ヤマユットゥ、ヤマイットゥ、ヤマイッツ、ヤマイェット、ヤマイエッツ。どのように聞こえたのでしょう。
壹は上古音では・iet(ィェッ)、中古音ではiĕt(イェッ)、中世音になるとiəi(イィ)、現代音ではi(イ)というように、上古音・中古音で存在した【t音】が無くなっています。「壹」を「台」の字に替えて使ったのは、「壹」はイとしか読めなかったからなのではないでしょうか。ヤマイではヤマトと程遠い。t音が入らないと困る。よって、他の文献に見られる臺の字も使わず、壹と臺の「豆」と「至」の違いに気付きづらいように意図的に「台」の字に替えて使ったのではないか、と想像しています。
私は邪馬壹・邪馬臺・邪摩堆・邪馬台・邪馬壱も全て「ヤマト」とか、「邪馬ト」とか、又は、カッコ書きで邪馬壹(ヤマト)、邪馬臺(ヤマト)、邪馬台(ヤマト)などと表記したら良いと思います。時代による発音の変化があったり、文字が異なったとしても、「ヤマト」ということは異論がないのですから。
壹與・台與もトヨとした方がいいと思います。イヨ又はトヨという両論併記の読み方になっていますが、邪馬台国をヤマタイと読むのなら、タイヨでなければおかしいと思います。日本語の発音を表す漢字が、同じ文章中で違う発音をするとは考えられません。邪馬壹・邪馬臺・邪馬台はヤマト、壹與・臺與・台與はトヨと表記、発音を統一するのが良いと思っています。
表記方法について考えると、例えばイタリアはイタリヤとされていました。イギリスはエゲレス。バイオリンはヴァイオリン。時代によって表記の変化は許されます。日本はジャパンとかジャポンとが言われています。現地の発音に必ずしも従わなくても、認識さえ異ならなければ構わないと思います。
それでは、邪馬台国(ヤマト連邦)と大和朝廷はどう関係するのでしょうか。
二世紀初頭に成立させた一大海上国家の組織を天族はアマカド(天威戸)と称しました。その首長をアオキミ(天大貴実a o kiu miu)(大王・大君・ああ偉大なるお方)といいます。天族に国という意識は低く海上物流商事として経済活動をしていました。
ところが、近畿のお客さんであったはずの三輪の国が勢力を増し、天族の利益を損なうようになりました。
アマカド創立以来240年、アマカドの大君となったアオタは、三輪の国を征服しクニカドを作ろうと考えました。
アオタはイツセに三輪国征服を命じました。イツセ急死後はイニエが司令官を引き継いで三輪の国を占領しました。365年頃のことであるといいます。
勝者は歴史を創ること出来るようです。
イニエは、代々の三輪の国の王をヤマトの「国の大君」として祀ることにしました。三輪の国を征服して奪ったのではなく、王位を譲られて即位する形をとったのです。 但し、三輪の国の初代の大君をアマカドの創始者であるユパレにしてしまいました。だから三輪の国は、最初からヤマトのもの、大和朝廷だったことになったのです。
ユパレ(結晴゜舞yu pa rai)(運気の張り出す始め)は神武、アオタ(天大垂a o ta)(大いなる力の発揮者)は景行、イニエ(親和重iu niu yai)(親しみあり、丸く治める重厚な御方)は崇神のことです。崇神は実在の天皇、その前は疑わしいという研究がなされています。けれど、崇神がいた時代より古い時代の遺跡があるので、大和朝廷はずっと邪馬台国の時代から近畿に有ったと論争になっているようです。実は三輪の国があったのです。戦争の結果、三輪国の創立者を占領者天族の創立者であるユパレ(神武)に取り換えてしまったというのが本当のことのようです。
アマカドの大君アオタ(景行)は、大八州全てはヤマトの国であり、それを東西に分け、九州中心の西をアマカドの国、近畿中心の東をミマカドの国にすることを宣言しました。アオタは天の大王となり、イニエは国の大王となりました。
西のアマカドはその後どうなったか。
白村江の戦い(663年)で敗れたアマカドの国は朝鮮半島の権益を失い、存在理由がなくなってしまいました。そして、強大になっていた大和朝廷に一本化されたのです。
権力者は歴史を創ることが出来るようです。国の歴史をまとめるにあたって、最初から大和朝廷だけが存在し、二王朝制は存在しなかったように物語は作られました。それが古事記(712年)であり、日本書紀(720年)です。出雲の国譲りの話は神々の時代、崇神の三輪の国占領は神武東征のこととされました。アマカドは大宰府のことだったことになり二王朝制は存在しなかったことになりました。天の大王だったアオタ(景行)は国の大王のイニエ(崇神)の後に即位したとされるなど天・国の大王の統一が図られ、万世一系の天皇が誕生したのです。
弓前値成は7世紀初頭(610年頃)に書いた弓前文書の委細心得の文章の中で、「山人島々在」、つまり、自分たちの祖先は山人の島々にいたと表記しています。弓前文書が書かれた頃はまだ「大和」という表記は無かったと思われます。
その後、誰が考えたか知りませんが、大倭の倭は良い文字ではないとして和に取替えて大和とし、ヤマトと読むことにしました。
ところで、原書「弥生の言葉と思想が伝承された家」及び「日本曙史話」では、ヤマトについて「因゛増親充」という表記もあります。今まで述べてきた「因゛増親結充」の「結」がありません。どちらが間違いだろうか、と考えていましたが、きっと時代の流れによる変遷ではないかと思うようになりました。
五島列島を拠点としていたころは、因゛増親充yau mau iu touであり、直訳では山の仲間。当時の山は島のことでしたので、意味は、仲間の島々。仲間のいる島々という意味になると思います。
九州の邪馬壹國の頃は、因゛増親結充yau mau iu yu tou。「結yu」というのは「つながり」の意味があります。いくつもの国(仲間)がつながっているということで、連邦国の意味になるでしょう。
近畿の大和朝廷の頃は、ヤマトya ma toとなって、言葉の意味はさほど関係なく、故郷の慣れ親しんだ名称だったのではないでしょうか。
yau mau iu tou⇒yau mau iu yu tou⇒ ya ma to
時代とともに発音は変遷し、言葉の由来はあっても、特に意味があるわけでは無くなります。人や物の名前と同じく、由来があっても意味が問われることは無く、人や物を判別する記号の様なもの、固有名詞です。発音が変わっても、意味が変わっても、表記が変わっても、ヤマトはヤマトです。