倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

日本あけぼの史

2023-12-28 13:36:08 | 日々記
 池田秀穂の作成した年表に従って古代の年表を作成した。中国等の記録で年代を確定できるところは記入し、確定できないところは【???】とした。ユマ仮名は[]で示し、その意味を記載した。

【1世紀】 三輪(大和地方)は一世紀には国家として形をなしていた。
【130頃】倭人天族(あまぞく)の海上組織であるアマカド(天威戸)が五島列島に成立した。初代の長はユパレ(神武)。
 ※[結晴゜舞yu pa rai]運気の張り出す始め。
【180】倭国大乱(後漢の桓帝・霊帝の時世146-189)
【220】(魏建国)
【240】帯方郡から魏の使者来訪、卑弥呼に親魏倭王の印綬を与えた。
【265】(西晋建国)
【???】箸墓古墳(モモソヒメのもの称されている)。
【313】(高句麗が楽浪帯方二郡を陥れる)
【???】行燈山古墳(崇神陵と称されている)
【316】(匈奴が西晋を滅亡させ五胡十六国時代始まる)
【???】渋谷向山古墳(景行陵と称されている)
【317】(江南に東晋建国)
【???】大田茶臼山古墳(継体陵と称されている)
【346】(百済建国)
【356】(新羅建国)
【360頃】天の大君の第16代、アオタ(景行)即位。
 ※[天大垂a o ta]大いなる力の発揮者。追加称号はオチロワケ[大育移]別。オチロとは育てる意味、政治を天・国の二つに分けたという諡。
【???】アオタ(景行)の命令により、三輪を占領すべくイツセは総司令官、イサチ(垂仁)は副司令官として着任し、イニエ(崇神)及び巫女モモソヒメを帯同して迎(武庫・神戸)へ向かう。
 ※三輪のことを倭人天族はミマ(美山)と言った。倭人天族の関係する地域にはマが付くことが多い。沖縄の南の端ヤエヤマ(八重山)、ケラマ(慶良問)、琉球はイルタマ、奄美のカケロマ、奄美、天草。彼らの存在を示す地名が対馬暖流に沿って一列に並んでいる。
 ※倭人天族にあってはミマナ(任那)もパカタル(博多)も、どこ迄も根拠地であり、国ではなかった。始めは三輪(美山)を陸の拠点としての機能を果すというのが当初の天の大君であるアオタ(景行)の意志であった。
 ※イツセ(五瀬)はアオタ(景行)のおじ。
 ※イサチ(垂仁)はアオタ(景行)の御子。
 ※イサチ[親爽育iu sa tiu]親しみある慈悲深い御方。
 ※イニエ(崇神)はサニベ(斎和部)の長・神官、アオタ(景行)のいとこ。
 ※イニエ[親和重iu niu yai]親しみあり、丸く治める重厚な御方。
 ※ミマナ[実増成miu mau na]物をどんどん集積して行く共同域。任那。
 ※パカタル[晴゜威垂活pa ka ta ru]威風辺りを払う。博多。
【365頃】イツセ(五瀬)急死。イニエ(崇神)が引き継ぎ、三輪(美山・ヤマト)占領、東征成る。(国譲りの神話のモデル)。
【???】イニエ(崇神)は全軍を引連れパシの墓(箸墓)に祭壇を設けモモソに舞わせ、三輪全土に荒ぶる運気を静めるパシの神祇(しんぎ)を行う。
 ※パシ[晴゜静pa si]霊気を鎮める。
【???】イニエ(崇神)はユパレ(神武)を天の大君及び国の大君の共通の初代とし、イニエ自身は国の大君の第16代を宣言。初代ユパレとイニエの間の15代は三輪の王を持って祀ることにした。
【???】モモソは天照の神託を受けた(弓前文書の委細心得)。イニエ(崇神)は神託をアオタ(景行)へ伝達した。
【???】イニエ(崇神)は伊勢湾の奥にある水門(みずのと)を熱(アツ)の泊となし、東への根拠地とした。
【???】諏訪神社の創建。信濃の諏訪湖の辺にピナカタの珠(タケミナカタの神)を鎮め東国鎮護の要とした。
【???】イニエ(崇神)から伝達されて来た天照の神託をアオタ(景行)は受け取って、天族宗教の総元締のナカツユマ(中津弓前)の族長ナカツミ(中津身)に、この天照の神託は本物なのか確かめさせた。中津身は神祇に基きコヤネ(天児屋根)を介して宇宙の最高神カムロミタカミムツ大霊(タカミムスビの神)の神意を伺って貰った。答は明快だった。「確(しか)あり」。神託は太陽系の主、アオピルメムチチ(天照大御神)の御心そのものだった。
 ※神託の内容というのは、今まで山人(やまと)は海を以って本拠としているが、将来は大八洲(本州・日本列島)を本拠としなくてはならない。そのための布石を置いておくことだった。
【???】アオタ(景行)の大倭国(天威戸、美山威戸)建国宣言
 ※大八洲を以て山人の国とし、その中に二つの国を建国する。
 ※アマカド(天威戸)の国は、日野の泊(出雲)、安芸の泊(広島)以西の国土と、大八洲、三韓の海。アオタ(景行)はアマカド(天威戸)の大王となる。
 ※ミマカド(美山威戸)の国は、アマカド(天威戸)の国以東の大八洲の全国土。イニエ(崇神)はミマカド(美山威戸)の大王となる。
【???】アオタ(景行)は五王家を設立
  倭王 :ミマナ(任那)の長。[実増成mi ma na]
  筑紫王:パカタル(博多)の長。[晴゜威垂活pa ka ta ru]
  出雲王:ピノィ(日野)の長・イツユム(厳結生)の王。[日乃pi noi]
  安芸王:アキ(安城・安芸・広島)の長
  久米王:イルタマ(奄美琉球)の長
【360頃~400頃の間】神託の実行(創建順)
 ①出雲大社の創建:出雲王は出雲の国珠を全国の国珠の長コトチロノチ(事代主)とするため、アオナツムヂ(大国主命・天地変化の力)の御珠代を奉じた。
 ②大和(おおやまと)神社の創建:アマカド(天威戸)のホフリ(穂司)は国のサニベ(斎和部)として、山人の珠を鎮める地を卜し、鎮めた。
 ③大神(おおみわ)神社の創建:三輪山の麓に祭壇を設け、国の大君自らが三輪の神に向い、美山威戸の国は改めて大神を美山(みま)の国珠として祀り、大物の力を与う可く天地変化の力アオナツムヂ(大国主)の神託を奏上した
 ④伊勢神宮の創建:笠縫をイツサ(厳爽)の地となし、国のサニベ達は東なるワタツウミの入りたる、天のサニベと渡会(わたら)いてイツサの地をえらびウカノタマ(生母珠)を鎮めた(伊勢外宮)。又日毎海より昇る天照のアラタマ(新珠)も鎮めて(伊勢内宮)共に祀った。
 ⑤鹿島神宮・香取神宮の創建:ナカツユマ(中津弓前)の族は天の力ピカツチ(御雷・鹿島神宮)、大地の力プツツムノツチ(布土・香取神宮)のミタマシロ(御珠代)をそれぞれ奉じて、東に至り鎮めた。
【???】大比古を関東に遣わす。美山威戸の東の根拠地サノタマベ(爽玉部)を設営すベく、大比古を長とする部隊も中津弓前に同行した。
【???】天照の分霊を畿内北辺に分奉した。
【???】誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん)の築造開始
 ※国の大君イニエ(崇神)はミマカド(美山威戸)の威風を大八洲の人々に誇示するため、又山人(やまと)の大運気を保つため、三輪の箸墓古墳の数倍に当るパシ[晴゜静pa si]塚の築造を開始した。
 ※誉田御廟山古墳は応神天皇陵と称されている。大阪府羽曳野市誉田。425m。
 ※大和纏向(まきむく)・柳本の地に眠る三代古墳。時間的に疑問のある景行、崇神、モモソの墳墓と称せられる由縁は、三輪の王達を国の大君と仕立てたイニエ(崇神)の大いなる意志によるものである。美山実現の三大立役者であったからだ。
【369】アオタ(景行)の九州巡行。全九州を平定。
 ※那珂川の岸辺、パカタル(博多)に祓戸の神を祀り禊した。後の博多の住吉神社である。祓祝詞のいう筑紫の日向橘覆戸(ひむかたちばなのをど)のこと。
 ※アオタ(景行)の御子・日本武は架空だが、諏訪の水辺に陸の拠点(諏訪神社)をつくり、中津弓前がピタチ(常陸)の地に至った大比古の一連の伝承を東征にたとえたもの。
【385】ウカタ(成務)第17代天の大君、出雲安芸巡行。
 ※[美威垂u ka ta]元気溢れる御方。
 ※国土となった本州を父アオタ(景行)の偉業に倣って巡行するため上陸し禊(みそぎ)した処が長門の住吉神社。
【???】イサチ(垂仁)第17代国の大君、出雲水軍と協力して越を占領。
 ※[親爽育iu sa tiu]親しみある慈悲深い御方。
【???】伊勢神宮を国の大君の管轄下におく
【???】東海以東を美山威戸の管轄下とする
 ※イサチ(垂仁)は、笠縫に祀れる天照の新珠を伊勢内宮に捧持し納めた。これ以降、伊勢外宮内宮とも国の大君の管轄となり、志摩以東の東海又丹後半島以東の日本海は美山威戸の管轄下となった。
【???】ナカタ(仲哀)第18代天の大君、ミマナ(任那)巡行?
【391】(広開土王碑文。391年に倭が海を渡って百済・新羅などを臣民としたと読み取れる字や、倭軍と高句麗軍が交戦した記載があった。)
【398】(北魏建国)
【???】ポムタ(応神)第19代天・国の大王。「賛」と称す。難波に遷都。天威戸、美山威戸の大王を兼ねる。
 ※[穂゜醸垂po mu ta]溢れ出る弥栄の御方。
【???】美山威戸のパシ[晴゜静]、誉田御廟山古墳完成
 ※応神天皇陵とされるが、イニエ(崇神)が築造開始したものである。
【413】ポムタ(応神・賛)、東晋に遣使する。
【420】(宋建国)
【421】ポムタ(応神)、宋に遣使し安東将軍の称号を受ける
【425】ポムタ(応神)、宋に遣使する
【430】ポムタ(応神)、宋に遣使する
【???】オホサキ(仁徳・珍)第19代天・国の大王。天威戸美山威戸の大王を兼ねる。
 ※[大爽岐o sa ki]大きな墳墓を造られた御方。
【438】オホサキ(仁徳)、宋に遣使する
【???】ミツパ(反正)第21代美山威戸大王
 ※[実積晴゜miu tu pa]覇気満々。
【443】イザホ(履中・済)天威戸大王
 ※[親陜゛穂゜iu dzau po]ほんとに気さくな親しみ易い、相手に心を許させるお方。
【451】イザホ(履中)、済宋に遣使する。宋より都督将軍の称号を受ける
【???】天威戸の[晴゜静]大仙古墳完成(仁徳陵と称されている)
【462】アナポ(安康・興)安東将軍の称号を受ける
 ※[会成火゜au na po]焔に出会われた御方。
【470】ウカタケ(雄略・武)天威戸美山威戸の大王を兼ねる
 ※オパツツェウカタケ[大晴゜積瀬美威垂異o pa tu su tsai u ka ta kai]危地に元気一ぱい大発進粉砕したお方。
【471】稲荷山古墳出土の鉄剣銘にワカタケル大王とあり
【478】ウカタケ(雄略)、宋に上表文を送る
【479】ウカタケ(雄略)、宋より安東大将軍の称号を受ける
【479】(斉建国)
【496】ウカタケ(雄略)没し天の大王家断絶
 ※ウカタケ(雄略)を最後に、倭国は混乱と衰亡へと向かって行く。それから三代目、武烈天皇の時には収拾がつかなくなった。
【???】ヲケイ(顕宗)第24代国の大君。
 ※オケイ(仁賢)の弟。
 ※[覆異親wo kai iu]敬うべき親しい御方に連れそった御方。
【???】オケイ(仁賢)第25代国の大君
 ※ヲケイ(顕宗)の兄。
 ※[崇異親ou kai iu]敬うべき御方は友達だった。
【???】ウカサキ(武烈)第26代国の大君。
【527~528】磐井の乱。ウカサキ(武烈)と皇太子は筑紫王に殺される。国の大王家断絶。
 ※オホパツツェウカサキ[大晴゜積瀬美威爽岐o pa tu su tsai u ka sa ki]危地に元気いっぱい大発進、墓地に入ってしまわれた御方。
【???】オポト(継体)と安芸王は、物部の援軍を得て、築紫王一族を誅殺。
【???】越王オポト(継体)が第27代ミマカド美山威戸の大王となる。
 ※[崇穂゜保ou po to]敬うべき深慮遠謀の御方。
【 同 】安芸王は築紫王を兼ね、空位だった天威戸の大王となる
【540】第28代国の大王カナピ(安閑)没す。
【540】倭王ピロニパ(欽明)第29代国の大王となる
【???】大倭改め日本と号す


【589】(隋建国)
【607】聖徳太子中津身(なかつみ)の可多祜(かたのこ)・弓前和(ゆまに)の値成(あてな)を召す
【608】弓前値成(ゆまあてな)、古事記原文作る
【610】弓前値成、弓前文書(ゆまもんじょ)を作り弓前初代を名乗る
【618】(唐建国)
【620】聖徳太子、蘇我馬子、天皇紀・国記等を作る。(推古天皇の代)
【622】聖徳太子没す。(推古天皇の代)
【645】中臣鎌子、中津身となる。(孝徳天皇の代)
【645】乙巳の変。中大兄・中臣鎌足ら宮中で蘇我入鹿暗殺
【663】白村江の戦いで大敗。百済滅ぶ。(天智天皇の代)
【???】天威戸は筑紫太宰となる
【668】高句麗滅ぶ
【669】鎌足没・藤原姓を賜る。(天智天皇の代)
【682】藤原不比等、中津身となる。
【712】太安万侶、古事記を撰上(元明天皇)
【720】不比等没。舎人親皇ら日本書紀撰上(元正天皇)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。